* ドゥルーズ哲学の枢要部
20世紀を代表する哲学者の1人であるジル・ドゥルーズは1925年、フランスはパリ17区に生まれました。高校最終学年の哲学の授業で「これこそ自分のやるべきことだ」という天啓に打たれたドゥルーズはソルボンヌ大学で哲学を学び1948年には教授資格試験に合格し、その後高校教師を経て1957年よりソルボンヌ大学で哲学者としてのキャリアをスタートさせ、1960年代にはこれまでの哲学史研究を覆す画期的著作を次々と発表し、1968年にはそれまでの研究の集大成となる最初の主著『差異と反復』を公刊します。
そして1972年には精神分析家で政治活動家のフェリックス・ガタリと共同署名で出版した『アンチ・オイディプス』により「ポストモダニズム」や「ポスト構造主義」と呼ばれる現代思想の潮流を担う哲学者としてその名は世界的に知られることになりました。今日でもドゥルーズの著作は世界中で読者を獲得し続けており、専門的な研究も盛んに行われており、専門誌があり、専門の国際会議があり、毎年山のように研究論文が書かれています。
ドゥルーズの仕事は哲学にとどまらず、精神分析、文学、絵画、映画といった諸領域を変幻自在に横断するものであり、そこではさまざまな革新的な概念が創出される一方で、こうした領域横断性がドゥルーズ哲学の枢要部をかえって分かり辛くしているという面も確かにあります。では、そのようなドゥルーズ哲学の枢要部にある「原理」とはいったい何なのでしょうか。このようなもっとも基本的かつ極めて重要な問いを真正面から論じ切った一冊が2013年に公刊され今年文庫化された本書『ドゥルーズの哲学原理』です。
* 政治的ドゥルーズと非政治的ドゥルーズ
先述のように今日においてドゥルーズの思想は世界中で多くの研究者を魅了していますが、その中で書かれた研究書の多くがドゥルーズに新しい〈政治〉を見出そうとする傾向にあります。このようなドゥルーズ像を本書は〈政治的ドゥルーズ〉と呼び、この方面においてもっとも成功した仕事としてアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』(2000)を挙げています。グローバル環境下において生成される新たな市民運動のあり方を「マルチチュード」として論じた同書は世界中で多くの読者を獲得し、現在のドゥルーズ研究を支配する〈政治的ドゥルーズ〉を強く後押ししているといえるでしょう。
しかしながら他方で、ドゥルーズの中に〈政治〉を見出すことなど全くの誤りとする論者もいます。そのような〈非政治的ドゥルーズ〉の像を強く打ち出す代表的な論者として本書はスラヴォイ・ジジェク、アラン・バティヴ、ピーター・ホルワードの名を挙げています。そして本書もドゥルーズを〈政治〉から「いったんは」切り離す立場を取っています。確かにドゥルーズの思想は「生成変化」とか「革命的になること」などというような世界の変革に直結するかのような概念に彩られていますが、同時にドゥルーズは意志とか能動性といったものを徹底的に疑い、受動性に重きを置く哲学者でもあります。
これら二つの傾向は少しも対立しないどころか、彼の一つの思想を組み上げています。それは端的にいえば何らかの力が受容されることで生成変化が起こるという思想です。換言すればドゥルーズは「変わる」(=生成変化)ということについて徹底的に考えましたが「変える」(=変革)ということは考えていないということです。そこに見出されるのはヘラクレイトス的な流転の思想であり、現在のドゥルーズの読者の多くが好むような革命的な介入の思想ではありません。それゆえに〈非政治的ドゥルーズ〉の像を打ち出すジジェクらの主張には強い根拠があると本書はいいます。
つまり現在広く受容されている〈政治的ドゥルーズ〉とは「ガタリ化」されたドゥルーズに他ならないということです。事実『アンチ・オイディプス』をはじめとするドゥルーズとガタリの共同署名による一連の著作で現れる様々な概念(領土化/脱-領土化/再領土化、コード化/脱コード化、欲望する諸機械、連接/接続/離接、原国家、集団的言表行為、分裂分析、スズメバチと蘭の愛等々)はどれもガタリに由来しており、これらの著作はドゥルーズではなく、いわば「ドゥルーズ=ガタリ」と呼ぶべき別の著者の手によるものであるといえるでしょう。すなわち、ドゥルーズの中に何らかの政治的思想を読み取りたい論者はこのようなドゥルーズとドゥルーズ=ガタリの区別を無自覚的に、あるいは意図的に混同しているといえるでしょう。
* 自由間接話法という謎
こうしたことから本書はドゥルーズとドゥルーズ=ガタリという二つの著者を「いったんは」切り離します。ではドゥルーズ=ガタリではない「ドゥルーズの思想」とはいったい何なのでしょうか。この点、ドゥルーズの著作というのはほとんどはベルクソンやスピノザやニーチェやプルーストといった特定の哲学者や作家を対象としたモノグラフであり、そこで解説されているのは「ドゥルーズの思想」ではなく、あくまで対象である哲学者や作家の思想です。ドゥルーズは常に何らかの具体的な対象から出発しひたすら解釈します。にもかかわらずそれは読者によって「ドゥルーズの思想」として読まれています。ではこの「ドゥルーズの思想」はどこに見出されるのでしょうか。
本書は「第Ⅰ章 自由間接話法的ヴィジョン--方法」においてこの問いを解く鍵をドゥルーズにおける「自由間接話法」の恒常的な使用に見出しています。ここでいう「自由間接話法 discours indirect libre」とは「直接話法 discours direct」と「間接話法 discours indirect」の間の中間的な性質を持つ話法をいいます。まず直接話法とは例えば「彼は言った。『間違っている』」というように語られた内容を伝達者がそのまま伝える話法をいいます。次に間接話法とは「彼はそれは間違いだと述べた」というように語られた内容を伝達者が自らの語りのうちに組み込む話法をいいます。
これに対して自由間接話法とは語られた内容が伝達者の語りに組み込まれたことを指し示す印が無いままに描写に組み込まれてしまう話法をいいます。上の例でいえば「それは間違いだ」という文が引用符なしで本文に現れることになります。「それは間違いだ」と判断しているのはあくまで「彼」であって語り手ではないにもかかわらず、引用符や「彼は・・・述べた」いうような印を用いないまま語られる側の判断がそこにまるで語り手の判断であるかのように現れます。そして、こうした自由間接話法を「自然に」導入するための条件は一般化できないと本書はいいます。
なぜドゥルーズはこうした自由間接話法を恒常的に使用するのでしょうか。この点、哲学者が打ち出す何らかの理論や概念はある「問題」に対する応答として打ち出されるものです。だが、このような「問題」をその哲学者自身が語り尽くしているとは限りません。そこで哲学研究の使命とは哲学者に思考を強いた何らかの「問題」、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問題へと遡り、その問題が位置付けられている「思考のイメージ」を明らかにすることであるとドゥルーズは考え、それを実践したと本書はいいます。
そしてこの「思考のイメージ」に到達するために導入された方法がいま問題にしている自由間接話法の多用に他なりません。「思考のイメージ」に到達することは論述対象となっている哲学者が語っていることだけを論じているのでは実現しません。論述対象となる思考が定位している平面に論述そのものが定位しなければなりません。その時、論じる者と論じられる者の区別は限りなく曖昧になり、それをあえて曖昧にすることでひといきに論述対象の「思考のイメージ」へと遡ることが可能となるということです。
* 問いの発見と概念の創造
ではこのようにして哲学を研究する人物からいかにしてその人物の「思想」を取り出すことができるのでしょうか。この点、ドゥルーズは晩年の著作である『哲学とは何か』(1991)において「哲学とは、概念を創造することを本領とする学問分野である」というよく知られる哲学の定義を打ち出しています。そしてドゥルーズは哲学における「概念」を複数の「合成要素」の「共立」として定義します。
例えば近代哲学を創始したルネ・デカルトが示す「コギト」という概念は「私は疑う je doute」「私は考える je pense」「私は存在する je suis」という三つの合成要素が「自我 je」において合致するものであるといえます。このような複数の要素の組み合わせである概念が位置する「思考のイメージ」に相当する場所をドゥルーズは同書では「内在平面」と呼んでいます。ここでいう「内在平面」とは概念同士の関係のみによって規定された諸概念のネットワークを位置付けるひとつの論理空間のことをいいます。
そしてドゥルーズは概念は内在平面との関係において相対的であると同時に絶対的であるといいます。つまり概念というのは内在平面において実は互いに一致しない断片のような合成要素を無理矢理に凝縮することによって成立しているということです。換言すれば、このような凝縮をたらしめているものこそが、それが位置している思考のイメージ=内在平面に他なりません。例えばすべてを疑い、絶対的な開始を求めるデカルトの思考のイメージ=内在平面こそが「私は疑う」「私は考える」「私は存在する 」という全く別個の断片的言表をコギトの合成要素たらしめているということです。
それゆえにある概念について新たな合成要素を追加したならばそれを取り巻く全てが変化してしまいます。例えば近代哲学を確立したイマヌエル・カントはデカルトのコギト概念に時間という要素が欠落していることを批判し、コギト概念に時間の要素を付け加え、デカルト的コギトによっては実現され得ない一つの問題を構築することで、自我の中に亀裂を発見し、ドゥルーズのいうところの「ひび割れたコギト」という概念を、さらには新たな時間の概念を創造しました。つまりここでカントはデカルトが扱っていた問いを批判することによって新たな問いの発見と概念の創造を行なっていることになります。そしてドゥルーズによればそれこそが問いを発見する唯一のやり方であり、概念を創造する唯一のやり方なのであるということです。
先住のようにドゥルーズの著作というのはほとんどは特定の哲学者や作家を対象としたモノグラフであり、そこで解説されているのはあくまで対象である哲学者や作家の思想です。にもかかわらず、そのようなテクストのなかに読み手がなぜか「ドゥルーズの思想」のようなものを見出してしまうのは、ドゥルーズがこうしたやり方で本を書いたからに他なりません。すなわち、自由間接話法的ヴィジョンによって思考のイメージ=内在平面に迫り、そこにある問題を切り開く。そうすることで問題の立て方そのものへの批判に向かい、新たな問いを発見し、概念を創造する。こうしたことが行われていたからに他ならないということです。
* 出発点としてのヒューム哲学
では、以上のような方法をもってドゥルーズはいかなる問いを批判し、自らの諸概念を創造していったのでしょうか。本書は「第Ⅱ章 超越論的経験論--原理」において、いよいよドゥルーズ哲学の枢要部に迫ります。まず本書はドゥルーズの最初の著作が18世紀の哲学者ディヴィッド・ヒュームを論じた『経験論と主体性』(1953)であることに注目します。
一般的な理解だとドゥルーズはベルクソン主義者、スピノザ主義者として知られており、この若書きといえるヒューム論はドゥルーズの著作の中ではどちらかといえば傍流に属するとみなされています。しかし本書はこの著作にドゥルーズ哲学を規定するある重要な問いを見出します。
よく知られるようにヒュームは経験論という哲学を説きました。経験論とはその名の通り、人間の知性や認識の基礎を経験に求める哲学です。この経験論が標的にしたのは大陸系の合理論哲学です。合理論哲学では例えばコギトのような経験から乖離した原理が哲学の基礎に据えられています。経験論哲学はそこを批判し、経験世界に立脚して哲学を構築することを主張します。
ドゥルーズは同書においてヒューム哲学の根本にある問いを極めて簡潔な一文で説明しています。「ヒュームが取り組むことになる問いはこうなる--精神はどのようにして一つの人間的自然に生成するのか?」ということです。同じ問いは「精神はどのようにして一つの主体へと生成するのか?」とも言い換えられています。
この点、ヒュームによれば人の「精神」とは互いに関連を持たないバラバラな観念の集合にすぎず、従って精神はその状態ではいかなる認識も持っていません。この精神が何らかの認識を持つのは、そうしたバラバラな諸観念を関係づけ、連合させる時です。例えば我々が毎朝、太陽が昇るのを見るとき、その知覚は「今朝太陽が昇った」「昨日も太陽が昇った」「その前も太陽が昇った」といったバラバラな諸観念を形成しますが、そのバラバラな諸観念が或る時に連合され「明日も太陽が昇るだろう」という認識が成立します。
すなわち、認識とはこのように我々がいまだ経験したことのないものを肯定する=信じるという事態を指しています。つまり認識とは所与の経験を越え出ているということです。諸観念が連合されることでこうした信念が発生し、所与の経験を超出することで認識が成立します。換言すれば、それは「精神」が一つの「主体」へと生成することに他なりません。
ここに見出されるのは合理論のように主体を所与の前提とせず、それを構成されたものとして捉える視点、その発生を問う視点です。そして発生について問うことは変化について問うことであり、変化の条件を問うことでもあります。すなわち、ドゥルーズがヒュームに見出しているのは哲学がそれまで前提としてきた諸観念の変化の可能性を問う哲学に他なりません。
* カント哲学の革新性と難点
このようなヒュームの哲学は哲学史的にはイマヌエル・カントの超越論哲学を準備したものとして語られます。これもよく知られている通りヒュームの哲学はカントをして「私を独断論のまどろみから解放してくれた」と言わしめました。しかしカントはその上でヒュームの連合説を批判します。
カントによれば現象のなかに主観によって看取しうる一定の法則性がそもそも存在していなければ観念連合自体が生じ得ないことになります。つまり、先述した人が当たり前のように「明日も太陽は昇るだろう」と認識しているという例でいうと「太陽が毎朝昇る」という法則があるからこそ、人は明日も太陽が昇ると認識できているということです。
ドゥルーズはこのカントによるヒューム批判を受け入れつつも、カント哲学の前段階にヒューム哲学を位置付けるのではなく、両者をそれぞれの問いに応じて別の平面に位置付け、それら二つの平面を併置してみせます。まずカント的平面における問いは「所与はいかにして存在しうるか?」あるいは「いかにして何らかのものが1個の主体(主観)に与えられるのか?」です。これに対してヒューム的平面における問いは「いかにして主体は所与の中で構成されるのか?」です。
このようにカントはヒュームを批判して新たな問いを発見しました。それは確かに哲学史において決定的な一歩であったといえるでしょう。しかしその一方でカントには問いかけをやめてしまった問いがあり、それはいうまでもなく主体の生成へと向かう問いに他ならないと本書はいいます。どういうことでしょうか。
先述のようにヒュームは人間の知性や認識の基礎を経験に求めました。これに対してカントはこのような経験そのものを可能とする条件を問います。このようなカントの問いは経験に先立つ「超越論的(先験的)」と呼ばれる領域を切り開くことになります。これについてドゥルーズは『カントの批判哲学』(1963)において「超越論的とは、経験が必然的に我々のア・プリオリな表象に従う際の原理を指す」と定義しています。
ドゥルーズはカントによる超越論的なものの発見を高く評価します。しかしそれと同時にカントによる超越論哲学の運用の欠点を明らかにします。例えばドゥルーズは主著『差異と反復』においてカントは「超越論的と呼ばれる諸構造を、心理学的な意識の経験的諸行為を引き写すことによって描いている」と批判しています。
つまり経験的領野を基礎付けるはずの超越論的領野に経験的領野を「引き写す」ように人が経験的に知っている「自我」が見出されてしまっているということです。さらにカントはこのような自我(カントのいう超越論的統覚)を「そういうものがあるとしか考えられない」という仕方で想定するだけで、その発生を問うていません。
その一方でドゥルーズがヒュームに見出していたものとは、まさしくこの発生の視点です。先述のようにヒュームにはカントが問うことをやめてしまった発生の問いを見出すことができます。こうしたことからドゥルーズはカント的な超越論哲学の可能性を引き継ぐとともに、そこで喪われた発生の問いをヒューム的な経験論哲学によって補完します。これが超越論哲学と経験論哲学を総合し、いわば「発生を問う超越論哲学」を構想する「超越論的経験論 L'empirisme transcendantal」と呼ばれるものです。
* 超越論的経験論から観る哲学史
このような観点から見るとドゥルーズの思想は驚くべき一貫性をもって現れてきます。本書のいう「超越論的経験論」のプロジェクトは1953年に公刊された初の著作である『経験論と主体性』で既に描かれており、1968年に公刊された最初の主著となる『差異と反復』では超越論的経験論こそが超越論的なものを描き出すための唯一の手段であると明言されており、その翌年に公刊されたもう一つの主著である『意味の論理学』でも自我を前提としない超越論的領野を描き出す試みが行われ、そこからさらに20年以上の歳月を経た晩年の1991年に公刊された『哲学とは何か』においてもドゥルーズは超越論的なものと経験論的なものの関係を執拗なまでに論じています。
以上の事実から「超越論的経験論」こそがドゥルーズの哲学原理であると、断定することが許されるであろうと本書はいいます。ここから本書はドゥルーズのテクストに即して超越論的経験論の起源に他者性の不在としての「無人島」を置き、超越論的経験論が扱う基本要素として「特異性=出来事」を位置付け、さらには超越論的な原理そのものが発生する様を描き出します。
そして「第Ⅲ章 思考と主体性--実践」ではその実践としての思考と行為の問題が取り上げられ「第Ⅳ章 構造から機械へ--転回」では自身の構築した哲学の限界を打ち破るものとしてガタリとの協働作業が位置付けられ、さらに「第Ⅴ章 欲望と権力」ではドゥルーズ=ガタリにおける欲望から社会を考察する哲学の根底にある「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためであるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」という問いが検証されることになります。
このように本書は「超越論的経験論」という視座から一貫してドゥルーズの著作とドゥルーズ=ガタリの著作を読み解いていきます。その内容は相当に高度であるにもかかわらず極めて明晰な文体で書かれている本書はドゥルーズ(=ガタリ)に入門するうえでまたとない一冊であるともいえます。
本書はドゥルーズ(=ガタリ)独自の用語には必ず解説を入れており、読者に前提知識がなくとも途中で挫折しないための教育的な配慮がなされています。また各章の冒頭では必ず前章で論じた内容を簡明に要約してから議論を進めているので、仮にどこかの章の理解が不十分でもひとまず最後まで通読できる構成になっています(個人的な肌感覚ですが本書の読解難易度は國分氏の代表作である『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』と同程度と思われます)。
もちろんドゥルーズ(=ガタリ)についてある程度の知識を持っている読者にとっても本書は刺激に満ちた一冊になるでしょう。おそらく本書を読み進めていくにつれてこれまでの知識がつぎつぎにつながっていき、点が線となりやがては面になっていくかのような高揚感を覚えるのではないでしょうか。さらにはそればかりではなく、本書が稀代の哲学史家ドゥルーズとともに提示する「超越論的経験論」という視座はデカルト以降の近代哲学史を辿っていく上でも明確な道標ともなるでしょう。こうした意味で本書はドゥルーズ(=ガタリ)のほとんど決定的ともいえる(再)入門書である同時に、近代哲学史に極めて斬新な視座から(再)入門できる一冊であるともいえるでしょう。
