かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

恋する哲学原理--最果タヒ『恋の収穫期』

* 暴力としての思考

 
彼女はプティット・マドレーヌと呼ばれる小ぶりでふっくらしたお菓子を持ってこさせた。それはホタテ貝の筋の入った殻で型をとったようなかたちをしていた。そこで私は……機械的に、紅茶をひと匙すくって唇に運んだが、その中にマドレーヌのひとかけらが溶けて残っていた。だが、お菓子のかけらのまじったひと匙が口唇に触れたとたん、私は身震いした。なんだろう?私の中でなにか異常なことが起こっているのだ。なぜだが原因のわからない、唐突な、えもいわれぬ歓びが私の中に入り込んできていたのだ。
 

 

20世紀を代表する哲学者の1人であるジル・ドゥルーズは彼の名前をフランス哲学界に知らしめた最初期の著書である『ニーチェと哲学』(1962)において「思考することは、生の新たな可能性を発見し、発明することを意味するだろう」と述べています。つまり「思考」によって人の生き方が変わるということです。ではドゥルーズにとって「思考」とは何だったのでしょうか。
 
まずドゥルーズは『プルーストシーニュ』(1964)において、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を論じる中でプルーストの思考のイメージに迫ります。よく知られるように『失われた時を求めて』は紅茶に溶かした一片のマドレーヌの味によって主人公である「私」の記憶が想起されることで語られ始められます。主人公である「私」はマドレーヌの味というシーニュ(印)によって過去を想起した際に「なぜだが原因のわからない、唐突な、えもいわれぬ歓び」を感じますが、最初はそれが何であるかを理解できません。しかし彼は最終的にシーニュの読み取りかたを学び、この「歓び」の秘密を理解することになります。
 
ここで彼は過去を思い出すのではありません。シーニュを解読する術を習得しながら、最終的にある種の真理の「啓示」へと至ります。シーニュとの出会い。そしてその読み取り方の習得といった経験がプルーストの作品全体を支配しているというのがドゥルーズの主張です。ドゥルーズにとってプルーストの作品に描かれた経験が重要だったのは、それが「思考」なるものの新たな像を提示するものだったからです。
 
人にとってシーニュとは偶然の出会いの対象であり、出会おうと思って出会えるものではありません。そしてシーニュは受け取る者に対して強い働きかけを行います。それは一種の「暴力」であり「強制」であるとドゥルーズはいいます。この暴力ないし強制の働きによって人は思考し始め、やがては真理へと至ることになります。こうした意味で人は思考するのではなく、思考させられているともいえるでしょう。
 
ここで問われているのはまさに「思考」の発生の問いに他なりません。この点、ドゥルーズはそれを「暴力」や「強制」との「偶然の出会い」によって説明します。人はものを考えようと思って考えることはできず、何かに強制されて初めてものを考えるということです。
 
この論点はドゥルーズの最初の主著となる『差異と反復』(1968)で大きく展開されることになります。同書においてドゥルーズは「人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというより、むしろ何かショックを受けて思考するということ、これは「すべての人」のよく知るところである」と述べます。なぜそのように言えるのでしょうか。
 
ここでいう「事実」とはドゥルーズのいうところの「習慣 habitude」を指しています。ドゥルーズによればこの「習慣」は「反復」から「差異」を抜き取ることで形成されるものです。普段、人はこれまで形成してきた自身の「習慣」を生きています。なぜなら人は新しさにいちいち直面していては日常生活に支障をきたすからです。
 
こうしたことから「習慣」の生成をドゥルーズは「受動的総合」と呼び「受動的総合という至福が存在するのだ」とすら述べます。人間は基本的にこの「至福」の中に佇むことを望み、それゆえに思考に向かう積極的意志など持たないということです。
 
したがって人がものを考えることがあるとすれば、それはもう、仕方なく、やむをえず、強いられてのことでしかありえません。それゆえドゥルーズは思考とは非意志的なもの、強制的に引き起こされるものであり、また思考を強制的に引き起こすものとは「受動的総合という至福」を邪魔する限りにおいて「不法侵入」であり「暴力」であり「敵」であるとすら述べることになります。以上のようなドゥルーズが論じる「思考」の発生と、そこから立ち上がる新たな主体性を極めて高い解像度で描き出す作品として本作『恋の収穫期』を読んでみたいと思います。
 

* 軽井沢にやってきた未来人、希望としての恋

恋愛というものが存在するらしい、という話を、ホラーだと思って聞いていた。私の体育座りした膝の裏は汗でぴたりとくっついて、空気なんて一つも混ざっていない。関節がなくなり、最初から膝が曲がっていて、そして永遠に広がらないような気がしていた。隣に座っていた園田さんが、「産毛、そらないの?」と私の腕を見て言った。
 
(『恋の収穫期』より)

 

時は22世紀、少子高齢化の影響でいまや科学技術は東京に一極集中しており、それ以外の地方においてはインフラとしての科学はすでに崩壊しています。本作の舞台となる軽井沢もその例外ではありません。軽井沢にとっての東京は未来と等号で結ばれており、東京人とは未来人に他なりません。その軽井沢に住む本作の主人公、山科梢が通う高校に未来人=東京からの転校生がやってくるところから物語は始まります。
 
22世紀において東京の人間は体に電子機器を組み込んでおり、その機器類はインフラとしての科学が崩壊した地方では作動しません。それゆえに梢は東京からの転校生を「なぜこんな田舎に?」と訝しがります。そんな梢をよそに彼女の友人である日高光はまだ会ってもいない彼と「そう!付き合いたいんだよ!」と叫びます。
 
光は東京=未来に憧れており、卒業後は東京で就職することを望んでいますが、この時代において機械化されていない地方の人間が東京で暮らすことはかなりハードルが高いことから、光の志望は進路指導の教師をはじめとする周囲からは反対されています。そこで光は転校生と結婚して東京へ行くという計画を思い立ったわけです。
 
果たして先生に連れられてやってきた未来人、早見は「透明みたいに色白で、そして髪が生まれたての赤ん坊のものみたいにさらさら細く、遠目から見ればもはや液体、といった感じ」という美しい容姿の持ち主であり、彼は何をするでもなく、たちまちクラスの女子ほとんど全員を虜にしてしまいます。そんな中、彼は初対面のはずの梢になぜか妙な関心を寄せてきます。
 
東京にも未来人にも興味のない梢にすればそれは迷惑以外の何者でもなく、彼を目の前にした梢は5年前から剃り始めた産毛がちくちくするような感覚に襲われます。そんな梢の心中を全く察することなく早見は光を含むクラスの女子ほとんど全員からのアプローチを意にも介さず、まるで美少女ゲームを攻略するかのように梢との距離をどんどん縮めようとしますが、彼の意に反して梢の好感度はひたすら下がる一方です。なぜ自分に関心があるのかと問う梢に対して早見は「あなたが一番恋愛に関心があるとぼくのセンサーが判断したから」と答えます。
 
しかし早見は自分は東京で機械化に失敗した人間であり「機械が入っている人間は、みんなロボットに見える」ことを梢に打ち明けます。他方で梢は早見と話しているうちに彼は自分達と「仲良くなる方法がわからないんだな」と気づき、思いのほか不遇な未来人を慮り彼を励ますつもりでいきなり次のように熱く語り出します。
 
「私さ、恋をしたことないんだよね」
 
「何、急に」
 
「でさ、きいて!でさ!だから恋ってものはとてつもない力を秘めているんじゃいかって思う……というか、そういうものがあればなんだってできるっていうその期待で、この世の中に希望を抱いているのかもしれないの。まだ本当にこの世界のことを知らないけど、私は、絶望とかしたりせずに生きたくて、今のところなんとかなってて、それはやっぱいつか、誰かと恋に落ちるからじゃないかと思うんだ」
 
(『恋の収穫期』より)

 

* 超越論的なものとしての恋

 
私が好きになるまでが、早見くんのゲームなのだろうか。冗談って言ってたけどどこまで冗談?本当は彼のあの、私に全然本気じゃない感じ、ちょうどいいと思った。そうだよ、私は恋に恋してる。彼が、私に愛されることを望まないのは、ただ好かれるゲームを楽しみたいのは、むしろ気楽な恋ができるチャンスなのだ。私だって恋がしたい。でも誰のことも愛したくない。めんどうなんだ。
 
(『恋の収穫期』より)

 

この台詞にあるように梢はどこまでも「恋」と「愛」を峻別し、前者には興味はあるけれども後者はまったく興味がありません。さらに彼女は早見を「好き」ではない一方で彼を「特別」であるといい「私が夢見た恋はこれだったんだんだな」とさえ感じています。このような梢の態度は「恋」と「愛」を「恋愛」という名で一体的に捉える世間一般の常識的な感覚からすれば矛盾に満ちているようにも思えます。彼女はいったい何がしたいのでしょうか。
 
この問いにやや迂回して答えるならば、冒頭で述べた「思考」の発生を問うドゥルーズ哲学が補助線となるでしょう。ドゥルーズ哲学史的にはディヴィッド・ヒュームの経験論哲学とイマヌエル・カントの超越論哲学を総合した「超越論的経験論」を立ち上げたことで知られています。経験論哲学とはその名の通り、人間や知性や認識の基礎を経験に求める哲学です。これに対して超越論哲学とはこうした経験世界を基礎付ける条件としての超越論的(=先験的)原理を考究する哲学です。
 
もっともカントは自我や統覚といった超越論的原理を想定しただけで、それがなぜ発生するのかを問いませんでした。そこでドゥルーズはこうしたカント哲学の運用上の欠点を指摘し、経験から主体の発生を問うヒューム哲学の助けを借りて「発生を問う超越論哲学」としての「超越論的経験論」を構想することになります。
 
こうした「超越論的経験論」という視座から本作を眺めると非常に興味深い哲学的な布置が見えてきます。まず、未だ会ってもいない転校生に対して「もう、東京出身ってだけでときめいちゃうんだよ」など嘯く光はある一定の超越論的な(しかし幼い)法則性によって諸観念を連合させているカント的主体であるといえそうです。
 
これに対して、光が早見が来る前日までは好きだったらしい男子である飯島は「好きとかそういう言葉でかたどって、勝手にファンタジー世界に言ってしまうやつを信頼していない」「そこに相手がいて、相手と過ごす時間があって、それだけでいいんじゃないか」などといいます。こうした彼の言動は実際の経験を重んじるヒューム的主体を想起させるものがあります。
 
こうした布置を通してみると「恋」はしたいけれど「愛」は面倒で、その「恋」の相手を「好き」ではないけれど「特別」であるという、一見すると意味不明な梢の立ち位置も自ずと明らかになってきます。すなわち、ここで梢は実際の経験としての「愛」に先行する超越論的なものとしての「恋」を想定し、なおかつその発生について執拗に思考しているということです。こうしたことから、いわば彼女は「恋」についての超越論的経験論を立ち上げるドゥルーズ的主体であるといえるでしょう。
 
つまり梢にとって早見とは超越論的なものとしての「恋」の発生について「思考」を強いるシーニュに他なりません。この点『失われた時を求めて』においてマドレーヌの味というシーニュによって奇妙な「歓び」を感じた「私」がシーニュを解読する術を習得することで最終的に「歓び」をめぐるある種の真理の「啓示」へと至ったように、梢は早見というシーニュを解読する術を少しずつ習得することによって最終的に「恋」をめぐるある種の真理の「収穫期」を迎えることになります。
 

* 機械と「正常」

 
ぼくが、目に機械を埋め込んだのは7歳の時のことだ。
 
機械を肉体に埋め込んで、それを肉が、神経が拒絶することなどあたり前のことじゃないか。それなのに、熱に、痛みに、内側の骨の表面を削るようなごりごりとした音と感触に、24時間襲われるのは、拒絶した側の方だった。ぼくのクラスメイトは、幼馴染は、手に入れた体の新機能をよろこんで試して、校庭を飛び回っている。保健室の窓からそれを眺めながら、みんなまちがっている、と思うことが、ぼくのプライドを守るたったひとつの方法だった。
 
(『恋の収穫期』より)

 

では、このような哲学的布置において東京からの転校生である早見はどのような立ち位置にあるのでしょうか。先述のように東京の人間は通常、体の中に電子機器を組み込んでいますが、彼はその機械化に失敗しており、その結果、彼には体内に電子機器を組み込んだ人間が皆ロボットに見えています。
 
さらに東京の一般的な義務教育課程では機械化を前提としたカリキュラムが組まれており、早見は彼と同じように機械化に失敗した子どもたちが通う学校を勧められますが、結局その学校にも一度も行くことができず、ずっと孤独な時間を過ごしていました。
 
転機となったのは13歳の時、彼の家庭教師となった機械化に失敗した女性との出会いです。体内から機械を取り出したときに一瞬だけ「人」に見えた彼女に早見は仄かな好意を抱きます。しかし彼女はある思惑から早見に拒絶反応の痛みを消す麻薬を勧めたのちに程なくして家庭教師を辞めてしまいます。
 
早見は彼女が残したメモを手がかりに上野に麻薬の売買所に足繁く通うことになり、ある日ついに彼女と再会を果たしますが、その想いは「気持ち悪すぎる」と拒絶されることになります。そして彼女が去った後、1人残された早見はその場に居合わせた電話番の男から彼女が早見に近づいた真意を明かされると同時に、彼らの仲間がいるという軽井沢での生活を勧められます。こうした経緯から早見は梢たちの通う高校に転校してきたわけです。
 
このように東京では機械化した人間が「正常」であり、機械化に失敗した人間は「病気」であり「異常」とみなされています。けれども早見は「機械を肉体に埋め込んで、それを肉が、神経が拒絶することなどあたりまえのことじゃないか」「みんなまちがっている」と感じています。
 
このような早見の境遇を先ほど述べた布置と照らし合わせた時、彼はドゥルーズの思想的パートナーとして知られる精神分析家フェリックス・ガタリの立ち位置にあると考えてみたくもなります。
 
ガタリはまさに「機械」という鍵概念を手がかりに、いわゆる「正常」な欲望(神経症的欲望)とは別のしかたでの欲望(分裂症的欲望)から従来の精神分析理論を更新しようとしていました。そしてドゥルーズガタリのアイデアに触発されるかたちで自身の哲学を刷新していったように、梢もまた早見とのコミュニケーションに触発されるかたちで「恋」をめぐる思考を研ぎ澄ましていき、そこから最終的に新たな主体性を立ち上げていきます。
 

* 恋する哲学原理

 
「戦おうよ。いっしょに。私と恋をするんでしょう?それは、一緒に戦うってことだよ!」
 
(『恋の収穫期』より)

 

後年にドゥルーズは映画論である『シネマ1・2』(1983・1985)において映画史を「運動イメージ」から「時間イメージ」への変遷として把握した上でこの二つのイメージから主体性の再定義を行なっています。まず、ここでいう「運動イメージ」とは知覚が行動へとただちに「延長」されるイメージであり、換言すれば人が「何をなすべきか」が明らかなイメージです。ところが第二次世界大戦を境にこの「運動イメージ」になりかわり現れたものが「時間イメージ」です。ここでいう「時間イメージ」とは知覚が行動へとただちに「延長」されないイメージであり、換言すれば人が「何をなすべきか」が明らかではないイメージです。
 
そしてドゥルーズはこの二つのイメージをアンリ・ベルクソンの再認論に重ね合わせて論じます。この点、ベルクソンは二つの再認を区別しています。まず一つは「自動的あるいは習慣的再認」です。例えば牛が草を再認してそれを食べるように、あるいは労働者が工場を再認してそこで働くように「自動的あるいは習慣的再認」では知覚は習慣的な行動へと延長されることになります。
 
もう一つは「注意深い再認」です。これは人が出会った対象の再認になかなか成功しない場合のそれをいいます。この「注意深い再認」では知覚が何かに延長されることはありません。人は何度も対象に立ち返り、回想を繰り返し、そこから「いくつかの特徴」を引き出そうとして「あれはなんだったのか?あれだったか?いや、これだったか」と、引き出した特徴から得られるアイデンティフィケーションを消してはやり直すことになります。
 
この点、自動的再認は対象から反応や行動に延長されるものしか取り上げません。牛が再認するのは一つ一つの草ではなくどこまでも「草一般」です。このような自動的再認がもたらすイメージ(感覚運動的イメージ)には「いわゆる主体性」が表れています。それは知覚から行動への移行ないし延長としての主体性です。これをドゥルーズは知覚と行動の隔たりが生じるとたちまち主体性が現れると説明しています。換言すればここでいう主体性とはこの知覚と行動の隔たりを埋めるものにすぎず、そこでもたらすのは決まりきった延長に過ぎません。ドゥルーズはこのような主体性を「第一の主体性」と呼びます。
 
これに対して注意深い再認がもたらすのは対象の「いくつかの特徴」に過ぎませんが、この再認は対象の特徴を描写しては消し、消しては描写しという作業を強いることから、その都度対象へと、人はそこで対象の特異性と直面することになります。こうした光学的で音声的なイメージこそが「真に豊か」なものであるとドゥルーズは述べています。
 
注意深い再認がもたらすイメージ(回想イメージ)もまたやはり先の知覚と行動の隔たりを埋めようとします。そしてもしもこの隔たりを埋める作業が最終的に成功するなら、それによって自動的再認のもたらす感覚運動的な流れが回復することになります。ところが注意深い再認が単に回想に終わらず、何か潜在的なものを現働化させたとき、新たな知覚が生まれ、新しい主体性が発動することになります。
 
つまり「注意深い再認は、成功した時よりも失敗した時の方が、はるかに多くのことを我々に教える」ということです。この「第二の主体性」をドゥルーズは「物質に「付け加わる」」主体性と呼んでいます。つまり主体が自ら見出した客体に向かって主体性を発揮するのではなく、世界という物質の要請ないしは必然性に合致するようにして新たな主体性が発動するということです。
 
ここでドゥルーズが提示する二つの主体性は本作ではそれぞれ光と梢に割り振られています。まず東京=未来からきた人間というだけでまだ会ってすらいない早見と「そう!付き合いたいんだよ!」と叫ぶ光は知覚をただちに行動へ延長する「自動的再認」に規定された「いわゆる主体性」を生きています。これに対して早見の「いくつかの特徴」を描写しては消し、消しては描写することを繰り返す梢は「注意深い再認」に規定された「物質に付け加わる主体性」を生きているといえるでしょう。
 
そしてこの二つの主体性を切り分けるものが「思考」の有無です。決まり切った習慣を生きる「いわゆる主体性」には「思考」が発生していません。これに対してこれまでの習慣を打ち破るところから新たに生じる「物質に付け加わる主体性」とは「思考」が生み出したものに他なりません。すなわち「思考」とは人の生き方が変わる根源的な契機であるということです。こうした意味で本作は「恋」の発生を問う超越論的経験論的な視座から「生き方が変わる」とはどういうことかをリリカルな筆致で哲学する作品であるといえるでしょう。