かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

現代美学がひらく「美味しい」の世界--源河亨『「美味しい」とは何か』

*「美味しい」とは人それぞれ、なのか

 
雑誌やテレビやSNSなどで「美味しい」と話題のお店の料理をそのお店に行って実際に食べてみたらあまり美味しくなかったという経験はないでしょうか。なぜそういうことが起きるのでしょうか。もちろん常識的に考えれば何を「美味しい」と思うかは人それぞれだし、それはしかたがないというほとんどあきらめにも似た結論を出して終わりでしょう。しかしそこからさらに深く考え出すと色々な疑問が浮かんできます。
 
雑誌やテレビやSNSでは「美味しい」と評価されているのであれば自分の美味しくないという評価は間違いなのか?逆に雑誌やテレビやSNSの方が正しい評価ができてないのではないか?みんなが「美味しい」というから何となく「美味しい」と見做してしまっているのではないのか?それは料理という事物そのものを食べているのではなく事物に関する情報を食べているではないのか?そもそも評価に正しいとか間違いなどというものが存在しうるのか?等々。
 
日常生活でこういった細かいところまで考えることはめったにないでしょう。しかしそこをあえて粘り強く考えるのが美学という学問です。美学とは我々が何かに評価を下す際に用いる「センス」を考察対象とする学問であり、その目的は「何かを美しいと評価するとき、私たちは何をしているのか」といった問題を考察することにあります。
 
その評価は正しいのか、その評価の基準は何なのか、なぜ他人と評価が食い違ったりするのだろうか。美学ではこうした問題を粘り強く考えることで人が評価を下す仕組みはどうなっているのか、そこで使われている「センス」とは何なのかを明らかにしていきます。そして、普段人々が日常的に行っている評価である「美味しい」の考察を通じて美学的な思考を涵養する一冊が本書『「美味しい」とは何か』です。
 

*「食」から入門する現代美学

従来のほとんどの美学書では絵画や音楽、彫刻といった芸術作品の鑑賞が例となっており、飲食物を扱っている本は多くありません。これはもちろん歴史的な事情があります。というのも「食」に関わる味覚や嗅覚は生命維持と結びついた動物的な感覚であり、絵画や音楽といった視覚的、聴覚的な芸術鑑賞と並び立つものではないとされてきたからです。そしてこうした芸術の経験こそが美学が真に探求すべきものと考えられていました。
 
けれどもこうした考えは根拠薄弱な独断であるか、過去の時代的な偏見にすぎません。本書の第1章では知覚に関する現代の科学を参照しつつ「食」も美学の研究対象となるものだとする主張を展開します。こうしたことで「食」における「美味しい」という最も馴染み深い評価の例を使って人の評価の仕組みを考察することが可能となります。
 
また従来の美学書はプラトンやカントやバウムガルデンなどといった過去の有名な哲学者の研究のみに依拠するものが多いのに対して、本書は全体を通じて哲学のみならず、生理学、心理学、脳科学言語学など現代のさまざまな分野の研究を参照します。
 
こうした方針を採用する理由として本書は過去の哲学を参照した美学書はすでにたくさんあり、良書も多いので今更もう一冊増やす必要はない、という理由の他にさまざまなな分野と美学との接続を目論んでいるという理由を挙げています。
 
すなわち、伝統的な美学で問われていた問題に対して現代のさまざまな研究を利用してアプローチすることで、伝統的な美学と現代の他の研究分野を橋渡しすることができるようになり、美学を介してさまざまな分野の研究者が互いの研究を参照できるようになり、それぞれの分野に良い影響が与えられるはずだということです。こうした意味で本書は「食」という身近な話題から現代美学の世界へ入門できる一冊であるといえます。
 

* センスに客観性はあるのか

 
本書は先述のように第1章で飲食に関する経験が美学の探求にふさわしいものであることが示したのち、第2章と第3章では「美味しさ」という「評価」は主観的なものかという問題を取り上げます。
 
人の行う判断には記述的判断と評価的判断があります。前者は「あのトマトは赤い」といった対象のあり方を単に記述しただけのもので、後者は「あのトマトは美味しい」といった対象を「評価」するものです。ここでいう「評価」とはある物事の価値を捉える心の働きのことをいいます。そしてこうした「評価」を下すために必要な価値を見抜く力が「センス」と呼ばれます。そしてこのような「センス」を考える上で避けて通れないのが「センスに客観性はあるのか」という問題です。
 
この問題についてセンスとは個人の主観的な好みの問題にすぎないと考える立場を本書は「主観主義」と呼びます。この立場によると評価に正解/不正解はありません。これに対してセンスには正しいものと間違ったものがあると主張する立場を本書は「客観主義」といいます。
 
両者の争点となるのはその正誤(正しい/間違い)を問えるのかどうかです。ここでいう正誤(正しい/間違い)が問えるかどうかとは、ある評価的判断における対象への性質帰属(ある対象がある性質を持つと述べること)と実際に対象が持っている性質が一致しているかどうかを問えるかどうかということです。
 
主観主義は評価は性質帰属ではなく、そのため正誤を問えるものではないと主張します。これに対して客観主義によれば評価も性質帰属であり、判断が対象に帰属させる性質と、対象が実際に持つ性質が一致してるかどうかで評価の正誤が問えるものと主張します。では「あのトマトは美味しい」というような評価は性質帰属といえるのでしょうか。
 
この点、ある文化圏で「美味しい」とされる食べ物が別の文化圏では「美味しくない」と言われることはよくあることであり、人類共通の美味しさに関する標準などというものは設定できないでしょう。標準が設定できないのであればその標準と一致しているかも判定できません。そうであれば一致によって評価の正誤を設定することもできません。そこから食に関する評価的判断は性質帰属ではなく、正誤を問えるものではないという主観主義が導かれることになります。
 
つまり主観主義からすれば「美味しい(美味しくない)」という「評価」は個人的な「好き嫌い」の態度表明であり「センス」とはこの好き嫌いを言い換えたものでしかなく、結局のところは何を「美味しい」と思うかは人それぞれという、あのあきらめにも似た常識的な結論に帰着します。
 

* 主観主義と客観主義の両立を探る

 
その一方で何かを食べるにあたりレビューサイトやグルメガイドなどの「他人の評価」を参考にする人はたくさんいますが、こうした消費行動は評価の客観性を前提としているように思われます。例えば「このラーメンは美味しい」というレビューを目にした人がその店に行った時、その人はそのレビューを客観的に「正しい」と信じているからこそ自分も食べに行っているといえます。
 
ところが「このラーメンは美味しい」というレビューを目にしてその店に行き、実際にラーメンを食べたところ全く美味しくなかったとすれば、最初に参考にした「このラーメンは美味しい」というレビューは客観的に「間違っている」と思いたくもなるでしょう。このような消費行動からは食に関する評価的判断は性質帰属であり、正誤が問えるという客観主義が導かれるはずです。
 
ここで本書は主観主義と客観主義どちらを支持すべきかという二者択一的な問題設定を退けて、主観主義と客観主義を両立させる第三の道を提示します。
 
まず第一に本書は主観主義を支持する文化的相対性を再考します。先述のようにある文化圏で美味しいとされる食べ物が別の文化圏で美味しくないというされることはよくあることです。けれどそれは裏を返せば、ある文化圏に限っていえば客観的に美味しいとされる食べ物が存在することを意味しています。そしてこのような相対性と客観性の両立を本書は「傾向性」の論理から説明します。
 
ここでいう「傾向性」とは「もしXという条件が満たされたらYという出来事が起こる」と特徴づけられる事物の持つ潜在性のことを指しています。つまり、ある食べ物が「◯◯という文化圏において」という条件が満たされることで「美味しい」という出来事が顕在化するのであれば、その食べ物は「◯◯という文化圏において美味しい」という傾向性があるということです。こうした観点から言えば「センス」が見抜く価値とはまさにこの「傾向性」であるということになります。
 
次に第二に本書は評価用語の差異に注目します。この点「美味しい」「まずい」という言葉はその意味があまり特定されてなく、情報量が少なく、それゆえにかなり広範囲に使えます。こうした言葉を本書は「薄い用語」と呼びます。これに対して「こってり」「すっきり」「まろやか」「みずみずしい」「ガツンとくる」といった言葉は意味がかなり特定されており情報量が多く、そのため当てはまる範囲が限定されています。こうした言葉を本書は「分厚い用語」と呼びます。
 
このような「薄い用語/分厚い用語」の差異は記述的要素の差異として捉えられます。つまり「薄い用語」は完全に評価的ですが「分厚い用語」は評価的な要素と記述的な要素の両方を持っているということです。それゆえに「分厚い用語」はその適用範囲が限定されていることから、その適用の正誤を、すなわちセンスの良し悪しを問うことができるということになります。
 

* 現代美学がひらく「美味しい」の世界

 
続いて本書の第4章では知識に関する問題を取り上げられます。「このワインはどこ産の何年もので……」みたいな話を自慢げにひけらかす人にうんざりしてくると「ごちゃごちゃいわないで、味を純粋に楽しめばいいじゃないか」とも思えてくることもあるでしょう。このように知識は純粋な味わいを損ねるものにも思えてきます。確かに知識がなくても食事を楽しむことができます。けれど本書は知識があることで楽しみが増えることを明らかにしていきます。
 
そして第5章では味や美味しさの言語化を取り上げられます。「筆舌に尽くしがたい味」と言われることがあるように、自分が感じた味を言葉にするのは難しいものです。しかし本章の前半では、言語化を試みることで味の経験がより豊かになると主張します。そして後半では味を言葉にするときに使われる比喩を取り上げられます。特によくいう「優しい味」とはどういう意味で「優しい」のかが検討されます。
 
最後の第6章では料理が芸術なのかどうかが検討されます。美学においては「芸術とは何か」という大きな論点がありますが、ここでは料理を例としてこの論点が検討されることになります。そして本書は料理は音楽やダンスといった問題なく芸術と認められるものと重要な共通点が多くあり、それゆえに料理は芸術と認められるという主張を展開します。
 
こうした本書の提示する美学的思考は「美味しいは人それぞれ」というあきらめにも似た常識的な感想のその先にある世界を開きます。例えば雑誌やテレビやSNSなどで「美味しい」と話題のお店の料理を実際に食べてみて美味しくなかったとき、雑誌やテレビやSNSなどでいわれている「美味しい」とはいかなる条件で「美味しい」といわれているのかという「傾向性」から読み直してみると、この失敗(?)を次につなげることもできるでしょう。
 
また「美味しい」と話題のお店の料理を食べてみて実際美味しかった時も、その「美味しい」は具体的にはどのように「美味しい」のか、どのような「分厚い用語」で記述するのが妥当なのかを考えてみることで、自身の感じた「美味しい」の解像度を高めることもできるでしょう。こうした意味で本書は何かと敷居の高いイメージのある美学の世界への入門書であると同時に日々の「美味しい」と出会い直すための一冊であるといえるでしょう。