かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「孤独」の価値を問い直す--宇野常寛『ラーメンと瞑想』

* 都市にはラーメンを食べて死ぬ自由があり、瞑想するための場所がある

 
ゼロ年代の想像力』(2008)で鮮烈なデビューを果たして以降、特撮やアニメーションのポップカルチャー批評で知られる批評家の宇野常寛氏は初の社会批評となる『遅いインターネット』(2020年)において現代の情報環境における民主主義の機能不全を是正するための処方箋として「日常」における「自分の物語」を創出する「遅いインターネット」というプロジェクトを提唱し、その続編である『砂漠と異人たち』(2022年)において今日のプラットフォームを支配する「相互評価のゲーム」の「時間的な外部」に立つ「遅いランナー」という主体概念を提示し、その具体的な実践である「事物とのコミュニケーション」が発生する場を「庭」という比喩で把握しています。
 
そして氏の近著『庭の話』(2024)ではこの「庭」の条件が検討されることになります。 同書によればまず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるけれども、完全に支配することはできない場所である必要があります。
 
そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」に(も)する場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると同書はいいます。
もちろんこのような「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ「場所」の複合体としての「都市」があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。
 
そして、共同体における「〜である」ことへの承認からも、市場における「〜する」ことへの評価からも共に切断された「自立」の回路を同書は事物を「制作」することに見出し、ここから「庭の条件」を機能させるための「人間の条件」が「制作」を軸として論じられることになります。
 
以上のような『庭の話』において展開された批評的な議論をある種の面白エッセイ的な読み物として語り直した一冊が本書『ラーメンと瞑想』です。
 
本書のテーマはそのタイトルの通りラーメンと瞑想です。その帯文には「都市にはラーメンを食べて死ぬ自由があり、瞑想するための場所がある」とあります。ラーメンと瞑想。この一見すると不可解な組み合わせから本書は一体何を語ろうとしているのでしょうか。
 

* 獣の世界と神の世界との往還

本書の主な登場人物は宇野氏、そして氏の旧知の編集者であるT氏です。宇野氏とT氏は4年くらい前から毎週水曜の朝に高田馬場から千駄ヶ谷周辺をランニングするという「朝活」を行なっているらしく、この「朝活」が本書の主な舞台であり、ここでキーワードとなるのが「ラーメン」と「瞑想」になります。
 
もともと宇野氏は高校時代に学生寮の食事が壊滅的にまずいという環境で過ごしたというトラウマから人並み以上に「食べる」ことに対するこだわりが強いらしく、いまも何かを食べる時はいま本当に「食べたいもの」とは何かを自身の身体に問いかけ、その結果浮かび上がった「食べたいもの」をその場でGoogleMapsに入力し検索をかけ「これだ」と思うものに巡り合うまで徹底的に調べあげた末に「ここ」なら賭けてもいいと思える店に飛び込み、出てきた料理に全神経を集中して全力で貪るといいます。
 
それゆえに氏は基本的に「孤食」を愛し、誰かと一緒に食事をするときもコミュニケーションよりも「食べる」ことを優先するそうです。とりわけ氏が尋常ならざる執着を見せるのが「ラーメン」です。小学4年生の当時住んでいた北海道帯広市で食べた味噌ラーメンに衝撃を受けて以来、氏はラーメンという食べ物をこよなく愛しており、氏によればラーメンとは「孤独を強いる食べ物」であり「塩分と油分と炭水化物で人間を圧倒する力」を発揮する「事物」であるといいます。
 
ここで氏のいう「孤独を強いる」とは、要するにラーメンは一般的に麺が伸びるのが早いので、誰かと一緒の時でもラーメンを食べるときは会話にかまけているヒマはなく、否応なく目前のラーメンに集中せざるを得ないということです。すなわち、ラーメンという食べ物はある意味で「人間から事物へ」「共同体から孤独へ」という「庭」の思想を端的に表している「事物」である、ともいえそうです。
 
そして本書のもう一つのキーワードである「瞑想」はT氏の提案によって「朝活」に取り入れられたものだそうです。宇野氏とT氏はランニングの折り返し地点で約30分間の瞑想を行っており、この瞑想が終了した時点で自己の身体に今一番欲しているものを問いかけ、その答えはラーメンであることもあるし、そうでないこともあるけれど、いずれにせよ「30分の瞑想を経て、雑念を払い精神をクリアにした僕たちの心身は全力でラーメン(もしくはラーメン的なもの)を受け入れる状態にチューニングされて」おり、あとはひたすらに残り5キロ前後の道のりをラーメン(的なもの)に向けて走ることになるといいます。
 
こうして「獣の世界への耽溺としてのラーメン的生活」と「神世界への接近としての瞑想的生活」から成る往還運動は、その中間にある「皮と仮面に支配された人間たちの世界」を相対化して「過去も未来も幻想も物語も演劇性」もない「永遠の現在の中を生きる」ことになる、と本書はいいます。こうした境地(?)は本編の随所において(唐突に登場しては)幾度もなく反復される次のようなフレーズに要約されています。
 
獣の世界に物語はなく
神の世界に幻想はなく
獣と神の世界には、過去も
未来も演劇性もなく
 
(『ラーメンと瞑想』より)

 

* ラーメンという瞑想

 
一見、本書は「ラーメン」と「瞑想」というまったく無関係なものを半ば強引なロジックで接続した本のようにも思えますが、案外そうとも言い切れず、むしろ宇野氏のラーメン(的なもの)に対する向き合い方は極めてマインドフルネスのそれに通じるものがあるともいえるでしょう。
 
例えばマインドフルネスのさまざまな練習法を紹介するジャン・チョーズン・ペイズ著『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門』(2016)には「食べるときは『食べること』に専念する」というレッスンがあります。
これは「食べたり飲んだりしているときに、ほかのことをしない」というシンプルなレッスンです。「きちんと座って、自分が口にするものをゆっくり楽しみます。五感のすべてを解放しましょう。食べ物の色合い、形、表面の様子などを眺め、口に入れて香りや味を味わいます。食べたり飲んだりするときに出る音も注意して聴きます」と同書はいいます。当然食べながら他人と喋ってはいけません。
 
そして同書は「この練習による気づき」として「自分がどれほど『ながら行為』をやっているかに気づきます」といい、そこから得られる「深い教訓」として「食べたり飲んだりする行為自体は、その人に収入も伴侶もノーベル賞ももたらしません。だから『価値がない』行為のように見えるのでしょう」「でも、私たちが毎日する仕事のなかで一番重要なことは、たった30分でも、『その瞬間に意識を置くこと』ではないでしょうか」「マインドフルに気持ちを込めながら食べれば、たとえひと口でも、食べることが豊かで多彩なものになります」といいます。
 
1970年にジョン・カバット・ジンが開発したマインドフルネスストレス低減法を起源に持つマインドフルネスはよく知られるように集中瞑想と洞察瞑想の実践により注意制御能力、身体知覚能力、情動調整能力といった心理スキルを活性化させ、究極的には自己概念(「私」というイメージ)を超出する俯瞰的な視点の獲得をめざすアプローチであり、今日においては精神医療からビジネスシーンに至るさまざまな分野で活用されています。
 
もっともマインドフルネスの実践とは結跏趺坐(本書に登場するT氏はこの座法を実践しています)のような狭義の瞑想のみならず、いま紹介した「食べるときは『食べること』に専念する」というレッスンのように、日常におけるあらゆる場面において「今、ここ」に意識を向けていく生活習慣の総体を指しています。
 
こうした意味で本書のいう「孤独を強いる食べ物」であるラーメンほど「食べるときは『食べること』に専念する」というマインドフルネスの実践に向いた食べ物はないのかもしれません。いうなれば「ラーメン(的なもの)」とは「瞑想(的なもの)」に通じており「瞑想(的なもの)」とは「ラーメン(的なもの)」に通じているともいえるでしょう。そして、このような「ラーメン(的なもの)=瞑想(的なもの)」を軸として宇野氏とT氏の「朝活」においてはハンナ・アーレント村上春樹クリストファー・ノーラン福田和也三島由紀夫、トーマス・エドワード・ロレンスといった固有名詞が(時として唐突に)召喚され、ハイコンテクストな(かつ早口気味の)会話劇が展開されることになります。
 

* 共同体と孤独の問題

 
ところで本書はラーメンを「孤独を強いる食べ物」と形容するように「孤独」で(も)あることに大きな価値を見出しています。例えば本書は「立ち食いそばの魅力」とは「その『放っておかれる』感じ」であるといいます。
 
本書によれば立ち食いそば屋というのは駅ビルの片隅や裏路裏で深夜まで営業していることが多く、客は自分の好きなタイミングで来店し、店員は客に関心を払わないし、客も他の客に関心を払わないため「そこは誰にも邪魔されず、言葉の最良の意味で放っておかれる場所」であり、それゆえに「そんな場所」だからこそ「人間は目の前のそばに純粋に集中できる」「そこには人間同士の出会いもなければ、対話もない。しかしそれゆえに事物とのコミュニケーションが、それも極めて純粋に存在する」といいます。
 
こうした「孤独」の持つ価値は宇野氏のいう「庭」の条件から導かれるものです。先述のように「庭」とは人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所を指しますが、氏によれば「庭」は「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」に(も)する場所でなければならないとされます。これは一見、常識に反する主張のように思えます。どういうことでしょうか。
 
今日におけるグローバル資本主義の全面化に対して批判的な言説はその左右を問わず多くの場合「共同体」への回帰を志向する傾向にあります。すなわち、個人がプラットフォームを通じてグローバル資本主義というゲームの奴隷と化している現状を打破すべく、個人と世界(正確にはグローバルな市場)とのあいだに個人を包摂する中間的な「共同体」を再構築しようとするものです。
 
けれども宇野氏は『庭の話』においてこうしたグローバル化の反作用としての共同体回帰に警鐘を鳴らします。それは畢竟「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」という格言が示すように本当に「孤独」な人間はまさにこうした「意識の高い人たち」が創る「共同体」に包摂されないからこそ「孤独」を強いられているからに他ならないからです。
 
この点、共同体回帰を唱導する言説は大きくいえば資本主義の「外部」として「共同体」における「贈与」のネットワークを高く評価するという価値判断に基づいています。けれどもこうした「共同体」における「贈与」のネットワークを徹底していくと、その「共同体」の内部で良好な人間関係を築いていないと生活必需品すら手に入らないというディストピアが帰結されることになるでしょう。
 

*「怪獣使いと少年」から考える

 
宇野氏は『庭の話』においてこうした共同体の暗部を示す寓話として1971年に放映された『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」というエピソードを取り上げています。そのあらすじ次のようなものです。
 
ある集落に地球から遠く離れたメイツ星という惑星から漂着した宇宙人がいました。彼は地域の共同体から受け入れられず身を隠しており、彼に寄り添うのは同じように共同体から迫害される身寄りのない少年しかいません。少年は身体を壊したメイツ星人のためになけなしのお金を持ってパン屋に行きますが、パン屋の主人は少年にパンを売ることで共同体内部での地位が脅かされることを恐れ、彼にパンを売りません。
 
ところがその後、打ちひしがれて帰路につく少年をパン屋の娘が追いかけてきて彼にパンを売ります。同情するならやめてほしいという少年に彼女は答えます。同情じゃない。自分はパン屋だからパンを売るのだと。
 
宇野氏はいいます。「さて、ここであらためて考えてほしい。たとえどれだけ固着しないためにサブシステムがはりめぐらされていたとしても共同体内の人間関係に依存した「贈与」経済と、国家等による再配分がなんらかのかたちで機能し、現金をもっていけば「誰でも」パンが買える資本主義経済、弱者に優しいのはどちらだろうか?」
 
ちなみにこの「怪獣使いと少年」の物語後半でこのメイツ星人は住民のリンチに遭い虐殺されてしまいます。共同体における「贈与」のネットワークはメイツ星人を決して救いません。そして実際のところ現実社会においても誰もがいつ何時メイツ星人のような立場になるかもしれません。それゆえに氏は「メイツ星人が自由にパンを買えて、虐殺されない社会こそが正義だと確信している」といいます。氏が「庭」の条件から「共同体」を排除する本質的な理由はまさにここにあります。
 
こうしたことから『庭の話』では一般的にネガティヴなものとして捉えられる「孤独」にポジティヴな側面を見出しています。同書は「『ひとり』だからこそ人間は純粋に事物に向き合うことができる」といい、それゆえに「人間を孤独にすること」こそが「もっとも重要な『庭の条件』」であると述べます。
 

*「孤独」の価値を問い直す

 
こうしてみると本書のテーマである「ラーメン」と「瞑想」とはともに『庭の話』で論じられた「孤独」の実践であるともいえるでしょう。もちろん本書は他者とのコミュニケーションを否定するものではありません(実際、宇野氏はT氏と2人で「朝活」をしているわけです)。ここで重要なのは他者とのコミュニケーションの外側において「事物」と向き合う豊かな「孤独」な時間を見出すところにあります。このような意味での「孤独」の本質は『庭の話』で取り上げられている「コレクティフ」という概念から刺し留めることができるでしょう。
 
精神分析家フェリックス・ガタリによる「制度論的精神療法」の実践で知られるラボルド病院を開設した精神科医ジャン・ウリはラボルドにおける実践のコンセプトを「コレクティフ」という概念から説明しています。この「コレクティフ」という概念はもともと実存主義を代表する思想家ジャン=ポール・サルトルが『弁証法的理性批判』(1960)で用いたものです。
 
例えば停留所でバスを待っている人々がいるとして、これはひとつの集団として考えることができますが、サルトルによれば彼らは決して革命の主体となることはありません。サルトルは単に群れているだけの集団ではなく、特定の目的を共有する組織化された集団こそが社会を牽引すると考え、前者の不十分な集団を「コレクティフ collectif」と呼び、後者の望ましい集団である「グループ groupe」から区別しています。
 
しかしウリはサルトルがその必要性を訴えた目的の共有と組織化というそれこそが人間を疏外しているとして、むしろ望ましい集団とは「グループ」ではなく「コレクティフ」であるべきだと考えました。こうしたことからウリの提唱する「コレクティフ」とは「構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながら、しかも全体の動きに無理に従わされていることがない状態」のことを指しています。
 
そして、こうしたウリのいう「コレクティフ」というコンセプトを発展的に継承した日本における実践例として宇野氏は東京都小金井市にある就労継続支援B型事業所「ムジナの庭」の取り組みを紹介しています。利用者のケアにも注力しているという同施設の特徴は庭の植物の世話や小物の製作といった同施設が「手仕事」と呼ぶ人間外の事物とのコミュニケーションを重視している点にあります。
 
「ムジナの庭」を主宰する鞍田愛希子氏は同施設の運営指針を「コンパニオンプランツ」という園芸用語で説明しています。「コンパニオンプランツ」とは例えば家庭菜園においてトマトの側にネギを植えて害虫を遠ざけようとするように、近くに2種類以上の植物を栽培することで結果的に良い影響を与え合うことを指しています。そして「ムジナの庭」においては施設の庭に生息する植物を生かした多岐にわたる「手仕事」がこの作物たちにあたります。
 
この点、氏は「ムジナの庭」をひとつの「生態系」として捉えているといいます。こうした施設ではある利用者がいなくなったり逆に新しい利用者が加わったりすると、全体の雰囲気やそれを生み出す利用者たちの関係性が一気に変わります。だからこそ氏は「手仕事」という人間外の事物とのコミュニケーションを重視します。
 
ここで重要となるのが「人間が一度人間外の事物を経由することで、他の人間に触れることだ」と宇野氏はいいます。すなわち、人間外の事物とのコミュニケーションの結果として「たまたま」人間間のコミュニケーションが発生するという機序によりはじめて人々がばらばらなままでたまたまつながるという「コレクティフ」が確保されるということです。
 
ばらばらなままでたまたまつながるということ。こうしてみると『庭の話』が打ち出す一見、非常識な「人間から事物へ」「共同体から孤独へ」というパラダイムシフトは哲学史的には「グループ(サルトル)からコレクティフ(ウリ)へ」というパラダイムシフトであり、それゆえに本書がユーモラスな筆致で描きだす「朝活」も「ラーメン(的なもの)=瞑想(的なもの)」という事物を軸としたある種の「コレクティフ」の実践であるともいえます。こうした意味で本書は面白エッセイとしても読み応えのある一冊であると同時に「孤独」の価値を問い直すことで「相互評価のゲーム」が蔓延するプラットフォーム時代における人間の実存を広範な哲学的射程から思考する一冊であるといえるでしょう。