かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

日常における意味の彼岸--映画『リンダリンダリンダ』

* 映画の持つ「直接的な力」

 
映画批評家の三浦哲哉氏はその著作『映画とは何か』(2014)において「映像が動く。ただそれだけのことにただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか」という問いを立て、映画の持つ「直接的な力」を論じています。
この点、フランス最大の映画批評家と呼ばれたアンドレ・バザンは映画の使命とは世界を在りのままにうつすことであると考えました。映画のカメラは人間のできあいの知性を仲介させることなく、いわば直接的に世界そのものの姿を切り出すことができます。スクリーンに映るイメージは、映画作家がしかるべくそれを差し出す場合には手垢にまみれた意味を拭い取られ、現実よりも現実的な仕方で我々のまなざしに与えられることになります。パザンはこのように映画をリアリズムの芸術として定式化しました。
 
しかしながら今日において人がこのような素朴なリアリズムを受け入れることは難しくなっています。例えばかつて映画の記録媒体はフィルムであり、その限りで映画のイメージは現実の証拠となりうると考えられました。光と影のかたちの痕跡が指紋のようにフィルムに定着したものが技術的定義としての映画ですが、現在の記録媒体はデジタルデータであり、デジタル化されたイメージは後からコンピュータ上でいくらでも加工することができます。
 
そもそもリアリズムとは「イメージの悪しき自然化」であるという批判があります。こうした批判はとくに1960年代後半の政治の季節から盛んになされるようになりました。映画には確かに「自然」に見える側面もあります。しかし実際のところ映画はフレームの選択から始まり、幾重にわたる人為的な操作によって成り立っています。あらゆる映像は作為であり、作り手の価値観、無意識下の政治的信条が反映されていないということはありえません。それゆえに映画を「自然」の透明な写しとして受け入れるということは、実はその下に潜む意味や価値を無批判に許容することを意味するともいえます。
 
こうしたリアリズム批判にはそれぞれもっともな面もあるでしょう。しかし果たしてそれでかつてバザンが探り当てようとした映画の力のすべてが無価値になってしまったといえるのでしょうか。こうした観点から同書は映画の持つ「直接的な力」をリアリズム(現実主義)ではなく「自動性 automaticité,automatisme」という概念から再定義しようとします。
 
ここでいう「自動性」とは何より映画を映画たらしめる基礎的な要素であり、観客が映画に感情移入する起点となります。こうした「自動性」という概念から同書は主観と客観という区別それ自体を、あるいは世界のまとまりそれ自体の認識を、そのつど「再開」させる映画の力を詳らかにするための議論を展開していきます。
 
「リアリズム」から「自動性」の美学へ。このように視点を変えることにより、世界の認識装置としての映画の力をそれとして把握することができるだろうと本書はいい、その結論部においてそれまでの議論を要約するかたちで、映画のカメラが切り出す自動運動は「全体性を欠き、断片的で、一つの意味に繋ぎ止められていない」けれども、それゆえに「私たちが自明視している認識の諸前提にラディカルな動揺を与えることができる」と述べています。
 
こうした意味において映画の持つ「直接的な力」をすぐれて体現した日本映画として公開20周年を記念して先日から4Kデジタルリマスター版のリバイバル上映が始まった本作『リンダリンダリンダ』を取り上げることができるのではないでしょうか。
 

* ゼロ年代青春映画の金字塔

本作のあらすじは次のようなものです。とある地方都市の高校で学園祭を数日後に控えたある日、軽音部所属の女子高生バンドでギター担当のケガをきっかけとしてメンバー同士が対立するトラブルが発生し、彼女たちの学園祭ライブへの出演は暗礁に乗り上げてしまいます。
 
けれども学園祭のステージに立つことを諦めきれない立花恵、山田響子、白河望の3人は、あと数日でできそうな楽曲を部室で物色していたところ、ジッタリン・ジンと間違えてたまたま見つけたブルーハーツの曲をカバーすることになり、さらにこれもたまたま目の前を通りかかった韓国人留学生のソンをボーカルとして引き込みます。このようにして生まれた急造バンドは後に韓国語で「青い心(=BLUE HEARTS)」を意味する「パーランマウム」と命名されることになります。
 
もともとキーボードが担当だった恵が急遽ギターを担当することになったこともあり、当初その演奏はかなりお粗末なものでしたが、練習を重ねるにつれて次第に上達を見せていくことになります。その一方でライブ本番前までの数日間、4人は練習の合間に買い食いをしたり、夜中の学校に忍び込んだり、皆でご飯を食べたり、恋バナで盛り上がったりして互いの仲を深めていくことになります。
 
こうして学園祭ライブ当日を迎えることになりますが、4人は前日の夜通しの練習がたたり、当日スタジオでの練習中に眠り込んでしまい、起きた時はすでに開演時刻は過ぎており、土砂降りの中でずぶ濡れになりながら学校に急行します。残り時間ギリギリで到着した彼女たちは雨を逃れて集まってきた生徒たちが溢れ返る体育館でブルーハーツの代表曲である「リンダリンダ」と「終わらない歌」を熱唱し、オーディエンスの大歓声に包まれたところでこの映画は幕を降ろします。
 
ゼロ年代青春映画の金字塔」との呼び声も高い本作はひらたくいえば「女子高生がブルーハーツコピーバンドをする」という、ただそれだけの物語ですが、公開されてから今日まで世界中で高い評価を獲得し、公開20周年を迎えた今年6月には4Kデジタルリマスター版が『リンダリンダリンダ 4K』としてトライベッカ映画祭や上海国際映画祭でプレミア上映され、今年8月22日からは先述のように日本国内におけるリバイバル上映が開始されています。
 
ではなぜ「女子高生がブルーハーツコピーバンドをする」という、ただそれだけの物語が今日に至るまでここまで愛されているのでしょうか。
 

* 終わりなき日常から終わりある日常へ

 
この点、宇野常寛氏はそのデビュー作『ゼロ年代の想像力』(2008)で本作を極めて高く評価しています。同書の問題設定を改めて確認しておきましょう。同書は1995年から2001年ごろまでこの国の文化空間で支配的だった「引きこもり/心理主義(傷ついた自己像の承認を求める態度)」に基づく「古い想像力」と2001年ごろから台頭した始めた「開き直り/決断主義(究極的には無根拠を承知であえて中心的な価値観を選び取る態度)」に基づく「現代の想像力」を峻別し、その上でこうした「決断主義」の超克こそが「ゼロ年代の想像力」の課題であるといいます。
ここから同書は「ポスト決断主義」というべき優れたアプローチを見せたいくつかの想像力を論じ、その可能性をさしあたり「(郊外型)中間共同体の再構成」「動員ゲーム=バトルロワイヤルからの離脱可能性」「決断主義的問題意識の解体」という3つに分類し、それぞれを宮藤官九郎木皿泉よしながふみという作家に代表させています。ここでは本作に最も関連性の高いと思われる「(郊外型)中間共同体の再構成」という宮藤官九郎的アプローチについて見てみましょう。
 
『池袋ウェストゲートパーク』(2000)や『木更津キャッツアイ』(2002)をはじめとするゼロ年代前半における宮藤作品の特徴として同書は「歴史や社会の仕組みに裏付けられているわけではない、一見、脆弱な共同体」が発生し「それがごく短期間だが確実に人間を支え、そして最後はきっちり消滅する」という点をあげており、ここには「社会や歴史が共同体を裏付けてくれない世の中(=ポストモダン状況下での郊外空間)」において「人々が積極的に選び取った共同体のもつ、意外と高い強度が描かれている」といい「それは永遠のものでもなければ、超越したものでもない、他愛のない日常の積み重ねであり、しかも一瞬で終わるもの」だけれども「こういった『終わりのある日常』の「中」にこそ、人を支えるものが発生する」という確信が宮藤氏の作品には溢れているといいます。
 
この点、同書は1995年以降のポストモダン状況の徹底を「コミュニティの層の多様化」と「アーキテクチャーの層の画一化」という観点から、都市論的には「郊外化」が決定的に進んだ世界として把握しています。ここでいう「郊外化」とは、ポストモダン状況の進行が都市計画として実現されることであり、具体的には地方都市に大型ショッピングセンターやチェーン店が連なり、都市の風景が画一化する現象を指しています。これらの「郊外化」は流通の地域格差を是正し人々の消費生活を決定的に多様にしましたが(コミュニティの層の多様化)、一方でそのハードウェアとなる街の風景を決定的に画一化することになります(アーキテクチャーの層の画一化)。
 
この「郊外的な空間」では歴史に裏付けられた共同体や価値観が個人の生きる意味を備給してくれるという近代的なモデルは失効することになります。いってみれば90年代の「引きこもり」的想像力は「郊外に生きる僕らには物語がない」という絶望を主張していた想像力であるといえます。これに対して、ゼロ年代前半の「決断主義」的想像力は「郊外に生きる僕らは物語を自分で作るしかない」という諦念のもとに自分で選択ないし設定した「生きる意味」を追求する想像力であるといえるでしょう。
 
この点、宮藤作品ではこうした「郊外的な空間」を「凝集性の高さがコミュニティを保証する場ではく、むしろ凝集性が低く流動性が高いからこそ「つながり」が自己目的化してコミュニティが成立する場として再起的に選択され」ることになり、そこでは「郊外化する世界=95年以降のポストモダン状況だからこそ成立しうる新しい中間共同体の可能性」が決断主義への処方箋として提示されることになります。
 
すなわち、それは「ポストモダン化/郊外化=終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」という図式をひっくり返した「ポストモダン化/郊外化=終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」という新たな「ポストモダン/郊外」像の提示であるといえます。こうしたことから同書は「普通」に生きるとは「つまらない日常を諦めて受け入れること」ではなく、むしろ「日常の中の豊かさをめいっぱい満喫すること」にあるといいます。
 

* 矢口フォーマットの臨界点

 
そして、同書はこのような郊外的な日常観をゼロ年代の日本映画における「学園青春」ブームにも見出しています。この「学園青春」ブームは矢口史靖氏が手掛けた『ウォーターボーイズ』(2001)に起因しており、同作のヒットは矢口氏自身による『スウィングガールズ』(2004)を筆頭に『恋は五・七・五』(2005)、『フラガール』(2006)、『うた魂♪』(2008)、『ブラブラバンバン』(2008)など多くの類似作品を生み出すことになります。
 
同書はこれらの作品群では⑴広義のクラブ活動を舞台として、⑵成績など社会的な達成は重視されず、⑶むしろ過程での連帯感が達成感につながるというフォーマットが共通しているとして、この「矢口フォーマット」が支持を集める理由を次のように分析しています。
 
まずこれらの映画の舞台となる「学園」とはこの島宇宙化の時代に残された数少ない共通体験であり、いってみれば単一のアーキテクチャーの上で異なる価値観を有するコミュニティ同士が衝突する決断主義的な動員ゲームが繰り広げられる現代社会のモデルがコンパクトにまとめられた縮図であるといえます。
 
そしてこうした「学園」を舞台に矢口映画が描き出すのは常に「結果」ではなく「過程」にあります。すなわち、そこで描かれる「青春の美しさ」とは「成功」や「社会的意義」といった「意味」に支えられていないということです。
 
ではなぜ矢口映画においては青春から「意味」が削ぎ落とされることになったのでしょうか。ここでも鍵となるのは「郊外的な空間」です。すなわち、郊外的な現代社会は国家や歴史や社会が「意味」を与えてくれない一方で、自分から手を伸ばせば自由に物語を掴み取ることができる世界であり、ロマンはむしろ日常の「中」にこそ存在すると同書はいいます。
 
こうしたことから矢口映画においては「郊外的な空間」で繰り広げられる日常の「中」からロマンを汲み取るという態度を前提としています。それゆえにその青春観に「意味」は求められず、そこには「ただ、つながり、楽しむだけでいい--そんな端的な祝福が世界を彩る」ことになります。そしてこうした「矢口フォーマット」のいわば臨界点に位置する作品こそが本作『リンダリンダリンダ』です。
 

* ブルーハーツからパーランマウム

 
本作のテーマは次にシーンにほぼ集約されています。恵が元々所属していたバンドのメンバーがブルーハーツコピーバンドで学園祭に出ることを決めた恵に対して「そんなことやって意味あんの?」という言葉を浴びせかけ、これに対して恵が「意味なんてないよ」と言い返すシーンです。
 
この売り言葉に買い言葉じみた短い会話は思いのほかに広い射程を持っています。「そんなことやって意味あんの?」という台詞が示すように、人はさまざまな事物や事象に「意味」を見出したがります。しかしその「意味」からはさらに「意味の意味」というべきメタレベルの意味が生じてしまいます。
 
そしてこうした意味の連鎖を辿って行っても我々は決して「真の意味」には辿りつけず、その意味の探求は永遠に「いわく言い難い謎のx」の周囲を空回りしていくしかありません。そこで人はときに特定の意味を無根拠に絶対化してしまいます。これが宇野氏のいう「決断主義」に他なりません。
 
その一方で「意味なんてないよ」という台詞が示すように、ある行為からあらゆる「意味」を蒸発させ、その行為を文字通りの「ただの行為」へと純化させた時に、そこには「意味の彼岸」というべき「非意味」の次元がひらけてくることになります。そしてそれはまさしく人の「生きる意味」ならぬ「生きる非意味」となります。これこそが宇野氏が「ロマン」という言葉で言い表そうとする当のものであるといえるでしょう。 
 
先に述べたように本作は端的に「女子高生がブルーハーツコピーバンドをする」という、ただそれだけを描いた映画です。恵がいうようにそこにはもとより「意味」はなく、さらには矢口映画で描かれるような「青春ドラマ」すらもまったく存在しません。
 
パーランマウムを襲うトラブルは「練習場所がない」とか「ライブ本番に寝坊」などといったあくまで日常の範疇に収まるありふれたものばかりです。けれどもそこに描かれている他愛もないやりとりの数々は、学校という場所に所属していたものなら誰もが目撃する類のものであり、それが特別なものではないからこそ魅力的に映ります。
 
こうしたことから本作は矢口フォーマットの方向性をより徹底させて昇華させた作品であり、本当に日常の中にロマンが存在するなら矢口的なドラマチックな「物語」すらいらないはずだという確信が画面の随所に現れていると同書はいいます。
 
そして何よりも本作が描く青春観を象徴するのはブルーハーツの楽曲に対するスタンスです。周知の通り第二次バンドブームの先駆けとなったブルーハーツというバンドの楽曲には当時のバブル経済下におけるある種の消費社会批判的なモチーフがあり、バブルが終焉したのちもそのモチーフは「自分たちは世の中の流れに乗れてないけど、その分真実が見えている」というカウンターカルチャー幻想の拠り所としてバンド・キッズを中心に長らく支持されてきました。
 
けれども本作に登場するブルーハーツの楽曲からはこういったカウンターカルチャー的な「意味」は徹底して剥奪されています。パーランマウムの4人がブルーハーツのナンバーを演奏するのは別に「自分たちは世の中の流れに乗れてないけど、その分真実が見えている」といった逆差別的ナルシシズムを抱えているからではありません(仮にそうであれば、例えば韓国人留学生であるソンが異国の地に暮らす疎外感を訴えるエピソードなどがブルーハーツを歌う理由として配置されるでしょう)。
 
この映画はそういった「意味」を一切排除することで成立しており、パーランマウムの4人はもはや「意味」をもたない「懐メロ」としてブルーハーツを「端的に、気持ちのいいもの」として歌い上げていきます。こうしたことから「『ブルーハーツからパーランマウムへ』の移行は、まさにゼロ年代の想像力の流れの一面を、端的に表現している」と同書はいいます。
 

* 日常における意味の彼岸

 
以上のように本作は「郊外的な空間」における「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」を「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」に読み替えることで日常の「中」から「ロマン=意味の彼岸」を汲み出していきます。そして、そのような魔法を可能としたものがまさに映画の持つ「直接的な力」であるといえるでしょう。
 
この点、三浦氏は『映画とは何か』においてバザンのリアリズム論を再考し、バザンが展開した議論とはむしろ「現実」に従属することのない「イメージ」の自律性こそを思考しようとしていたといいます。すなわち、映画のもたらす自動的な保存の力により「現実」に対してイメージとしての「想像的なもの」が自律するということです。そしてこうした「想像的なもの」は時間の中で移ろいゆく「現実」に可逆的に影響を及ぼす起点となります。そのような動的なヴィジョンをバザンは素描したと同書はいいます。
 
つまり映画における「自動性」には二つの局面があるということです。第一にはカメラが自動的に事物を記録するという局面です。第二にはイメージが自動的に保存されることでこの社会の中で自律的な領域を形成するという局面です。そしてこのようなイメージによって形成される自律的な領域をバザンは「神話」と呼びました。
 
このような観点からいえば本作が「自動性」として切り出す「イメージ=終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」とは、まさに三浦氏のいうところの「全体性を欠き、断片的で、一つの意味に繋ぎ止められていない」けれども、それゆえに「現実=終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」という「私たちが自明視している認識の諸前提にラディカルな動揺を与えることができる」ものとなっているといえるでしょう。
 
こうした意味で本作は「現実=終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」と「イメージ=終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」の往還運動によって、この日常における意味の彼岸としての--買い食いをしたり、夜中の学校に忍び込んだり、皆でご飯を食べたり、恋バナで盛り上がったりといった--ありふれたものに対する共感と、その瑞々しさや眩しさや愛おしさやかけがえのなさといったものに対する驚きを同時に喚起することに奇跡的なレベルで成功した映画であるといえるでしょう。それゆえに本作は公開から20年がたった今日でも「ゼロ年代青春映画の金字塔」という「神話」であり続け、世代や国境を超えて多くの人々を魅了しているのではないでしょうか。