* アソシエーションとは何か
戦後日本を代表する文芸評論家の1人である柄谷行人氏は後期の主著『世界史の構造』(2010)において「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」という3つの「交換」のあり方から社会や歴史を論じています。ここでいう「交換様式A(互酬)」とは北アメリカの北西岸に広がる「ポトラッチ」のように互いに贈与をし合う「交換」をいい「交換様式B(略取-再配分)」とは王と臣民の関係のように征服者が略取によって得た富をあらためて自分に従う側に再配分する「交換」をいい「交換様式C(商品交換)」とは近代市民社会に広く流布している貨幣を媒介とする「交換」をいいます。
この点、柄谷氏によればこれら3つの「交換」はそれぞれが持つ固有の権力に基づいた社会を構成することになります。すなわち、まず「交換様式A(互酬)」は「掟」に基づく「ネーション」を構成し、次に「交換様式B(略取-再配分)」は「暴力(武力)」に基づく「国家」を構成し、そして「交換様式C(商品交換)」は「貨幣」に基づく「資本」を構成します。そして近代社会においてはこれらの3つの「交換」が三位一体として一つの複合体を構成しており、このような「交換」の複合体を柄谷は「ボロメオの環」に準えています。
さらに柄谷氏は交換様式C(商品交換)が前面化した資本主義システムから抜け出ようとする運動として第4の交換様式D(氏はしばしこれをXと表現します)なるものを考えています。この新たにたてられた交換様式Dには交換様式Aと同じく互酬の原理が当てられており、このDに対応する社会構成体ないし運動体を氏は「アソシエーション」と呼びます。この「アソシエーション」とはネーションへの単純な回帰ではなく、それを否定しつつ、高次元において回復するものであり、そこにはネーションの枠組みを超えた「倫理」が現れると氏はいいます。
もっとも柄谷氏自身は具体的にこの「交換様式D」につきあいまいな規定しか明示しておらず、氏のいう「アソシエーション」とはいかなる実践を表すのかという問いはいまだに開かれています。そしてこのような「アソシエーション」のあり方を考えるうえで面白い想像力を提出する一冊として本年度の本屋大賞受賞作『カフネ』を取り上げてみたいと思います。
* 弟の死の真相を探る姉の物語
本作序盤のあらすじは次のようなものです。地元の法務局に供託官として勤める野宮薫子は結婚してから4年間続けていた不妊治療が上手くいかず、40歳を迎えた昨年には夫から突然離婚を切り出され、さらには先月には小さい頃から溺愛していた12歳年下の弟である春彦が自宅で急死するという相次ぐ不幸に打ちのめされ、いまやゴミ屋敷と化した自宅マンションで自堕落な生活を送っていました。
そんな4月のある日、薫子は弟の元恋人であるという小野寺せつなと会うことになります。春彦は生前に遺言書を作成しており、せつなも春彦の指定していた相続人の1人だったからです。待ち合わせ時間に20分も遅刻した上に尊大な態度で「相続とかめんどくさいし」などとにべもないせつなに激昂した薫子はこれまでの心労がたたりその場で卒倒してしまいます。
せつなに自宅マンションまで送り届けられた薫子は大慌てでゴミ屋敷を片付け始めますがもはや時すでに遅く、ふと頭に浮かんだ「むなしい」という文字とともにキッチンの前にへたり込んでしまいます。そんな薫子にせつなは「お姉さん、お昼は食べましたか?」と声をかけます。
混乱する薫子をよそにせつなは冷蔵庫から適当に見繕った食材から見事な一品を作り、その優しく心身に染み入るような味に薫子は感動を隠せず、ついこれまでの身の上話を打ち明けますが、その話を聞いたせつなはまだ20代の春彦がまるで自身の死を予測していたかのような遺言書の作成に疑問を呈します。
数日後、41歳の誕生日を迎えた薫子はお菓子やらおつまみやらアイスやらを爆買いして部屋で1人、チューハイのロング缶を片手にやけくそ気味に気勢を上げていたところ、死んだ春彦からの日付指定の宅配便の届き、さらにそこにせつなが現れます。
いま届いた謎のプレゼントを前に薫子は弟の死は自死ではないかと疑い始め、せつなに何か知らないかと縋るように問いただします。一方で数日前のゴミ屋敷が今やすっかりきれいに片付いていることに感心したせつなは薫子に自分の勤務先である家事代行サービス会社「カフネ」の活動を手伝わないかと提案し、その活動にはかつて春彦も携わっていたと打ち明けます。こうしたことから薫子は「カフネ」での活動に参加することになります。
こうして本作は弟の死の真相を探る姉の物語を軸に様々な人々の物語が絡まり合ってくることになります。これらひとつひとつの物語も現代社会における興味深い論点を提示するものとなっていますが、ここではこれらの物語をつなげていくキーワードであり本作のタイトルでもある「カフネ」に注目してみたいと思います。
* アソシエーションとしての「チケット」
せつなの勤めるカフネという会社では通常業務の家事代行サービスの他に毎週土曜日に「チケット」というボランティア活動をしており、その概要は以下のようなものです。同社では1年以上カフネのサービスを利用しているユーザーに2時間無料で家事代行を利用できるチケットを配布しています。しかしそのチケットは自分で利用できず、知り合いの中で家事代行業者を必要としている誰かにそのチケットを渡してもらうことになっています。
せつなによればこの「チケット」は例えば「シングルで子供を育てている人」「家族の介護をしている人」「体を壊したり心を壊したりして休養中の人」など「そんな毎日の家事までなかなか手の回らない人たちが対象」となり、チケットをもらって家事代行希望の連絡をくれた人がいたらカフネに登録してるハウスキーパーが食材を持って家に赴き、ボランティアで家をきれいにして食事を作ります。
そして自身もシングルマザーで苦労した経験からカフネを立ち上げた同社の社長である常盤斗季子はチケットを始めた理由を「援助が必要なレベルで生きるのが大変な人たち、それでもうまく助けを求められずにいる人たち」に「ほんの2、3日でも、いつもより部屋が過ごしやすくて、何も作らなくてもすでに美味しいご飯がある」という状況を提供することで「生きのびるために行動する気力」を持ってもらうことにあるといいます。
しかし続けて彼女は「こういう時、問題が二つあります」といいます。それは「これを届けたい人をどうやって見つけるか、そしてどうやって届けるか」ということであり、その解が先述した同社のユーザーを通じて家事代行を必要としてる誰かにチケットに渡してもらうものです。「そうすれば、押しつけにならず、必要としている人に手助けを届けられるじゃないかと考えました」と斗季子はいいます。そしてこのアイデアの発案者は春彦であったと薫子に伝えるのでした。
以上のようにカフネは基本的に有償で家事代行サービスを行う営利企業であり、柄谷氏のいう商品交換=資本の論理(交換様式C)のなかで動いています。しかしその一方で同社は「援助が必要なレベルで生きるのが大変な人たち、それでもうまく助けを求められずにいる人たち」が無償で自社サービスを利用できる「チケット」を配布しています。これはある種の「贈与」といえるでしょう。
けれどもせつなが「下心もちゃんとある活動なんです」というようにそれは純粋な「贈与」ではなく、そこには当然ながら利用者のリピートや企業ブランドの向上といったかたちでの見返りも期待されています。こうした意味で「チケット」は柄谷氏のいう互酬=アソシエーションの論理(交換様式D)で動いている活動であるといえるでしょう。
*「チケット」に仕掛けられた仕組み
もっともCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)が強調される昨今において、企業が自社の商品やサービスを社会的困窮層に無償で届けるという活動それ自体はそこまで珍しいものではないでしょう。本作における「チケット」のユニークさは次の2点にあります。
まず一つ目は先述のようにチケットの利用者の選択を自社ユーザーの手に委ねられるという点です。そして二つ目はチケットさえ持っていれば「誰でも」サービスを受けることができるという点です。
このことはつまり、もともと普通に家事代行を有料で依頼できるような層もチケットを無料で利用出来てしまうということを意味しています。実際、おそらくそのような層に属するであろう家に訪問した後、薫子はこうしたチケットの制度的な問題点に気づき釈然としない気持ちになります。
しかしもちろん斗季子はこうした問題点に自覚的であり、薫子の抱いた疑問を見晴るかすように「自分は有志の人たちの善意を搾取しているんじゃないか」という葛藤を今も抱きつつ、それでもなお現行の方針を堅持しているといいます。なぜなのでしょうか。彼女の説明を聞いてみましょう。
「今は長年ご愛顧いただいているユーザーさんにチケットをお渡しして『お知り合いの中で家事に関して困っていらっしゃる方がいらしたらお渡しください』とお願いしています。でも最初は『家事代行を頼む経済的余裕のない方』という条件があったんです」「でも、それを無くしたんですか?」「はい。そういった条件をつけたら、きっと本当に力になりたい人たちは逆にチケットを使いづらくなる、と言われたんです」春彦くんに。斗季子は、そっと続けた。「目的が『本当に切迫して困っている人だけを対象にして力になりたい』ということだったら条件を厳しくするべきだと思う。でも『切迫して困っている人をなるべくとりこぼさずに力になりたい』ということだったら、グレーな人たちも受け入れた方がいい。そうすれば困っている人もグレーの中に溶け込んで、助けを求めやすくなる。さり気なく、気安く、手を貸せるようになる、って」(『カフネ』より)
確かに「家事代行を頼む経済的余裕のない方」を条件にチケットを利用できるとすれば、その利用者は経済的に困窮している「社会的弱者」というスティグマを貼り付けられた上に「善意」の「贈与」を受けた「負い目」を持ってしまうことから、仮にチケットを受け取ったとしても、それを利用する心理的なハードルは格段に上がってしまうでしょう。
それゆえにカフネの「チケット」はそれさえ持っていれば「誰でも」サービスを受けられるという、いわばよくある「無料お試しクーポン券」のような体裁を取っているということです。換言すると「チケット」という制度はアソシエーションの論理(交換様式D)を資本の論理(交換様式C)で偽装することで「善意」の「贈与」がもたらす「負い目」を消去しようとしているといえるでしょう。
* 正義の倫理とケアの倫理
ここにはひとつの「倫理」があります。冒頭で述べたように柄谷氏によればアソシエーション(交換様式D)においてはネーション(交換様式A)を高次元で回復してものとしての「倫理」が現れるといいます。そして本作で現れる「倫理」とは「ケアの倫理」と呼ばれるものから捉えることができるでしょう。
「ケアの倫理 the cthics of care 」とはアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学、社会学といったさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方をいいます。
ギリガンは同書において「ケアの倫理」を「正義の倫理」に対置させています。ここでいう「正義の倫理」とは自由意志をもった自律的な主体を前提として、諸権利の競合から生じる道徳的問題を客観的で公正な原理に基づき形式的に優先順位をつけて解決しようとする思考様式です。
これに対して「ケアの倫理」とは関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提として、個々人の責任の衝突から生じる道徳問題をその人その人が置かれた具体的・個別的な語りのなかに文脈づけることで解決しようとする思考様式です。
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものと見做されてきた子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や、彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになります。
換言すれば「ケアの倫理」とは互いにケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになります。
確かに「ケアの倫理」は「正義の倫理」のようにディレンマを一刀両断に解決できるような明瞭さはありません。しかしそのディレンマが現れてくるその文脈においてあらゆる重要なことに目を凝らし、しっかりと対応するという道、決断というより熟考することにむしろギリガンは道徳的な価値を見出しています。
そして、ギリガンはこのような新たに獲得した視座から既存の視座を補い、拡張し融合することで人間の発達に対する理解に変化をもたらし、人間の生に対する見方をより実り豊かなものとなる将来を思い描けるようになると述べて同書を締め括っています。
* アソシエーションの論理とケアの倫理
こうした観点から先ほどの斗季子の台詞を読み直してみると「チケット」という制度の目的を「本当に切迫して困っている人だけを対象にして力になりたい」と設定するか「切迫して困っている人をなるべくとりこぼさずに力になりたい」と設定するかの相違は、まさに正義の倫理とケアの倫理の相違として理解できるでしょう。
つまり、もともと普通に家事代行を有料で依頼できるような層もチケットを無料で利用出来てしまう「チケット」の制度的な問題点とは、むしろ正義の倫理のようにディレンマを一刀両断に解決「しない」ケアの倫理から生じるものといえます。
それでもなお「自分は有志の人たちの善意を搾取しているんじゃないか」という葛藤を抱えつつも、彼女は「本当に力になりたい人たち」という「具体的他者のニーズへの応答」としてケアの倫理を選択します。そしてその倫理は先述した通り、アソシエーションの論理を資本の論理に偽装する形で、善意を偽善に見せかけるかたちで、実践されることになります。
柄谷氏は資本主義システムにおけるある種の「外部」としてアソシエーションを描き出しました。一見するとこの構図は論理的にも倫理的にも理路整然とした一貫性と美しさがあります。しかしながら--薫子が一瞬抱いた疑念がまさにそうだったように--あくまで「贈与」のネットワークを基盤とするアソシエーションの実践は(おそらくほとんど無自覚のうちに)しばし「救いたい人間」と「救いたくない人間」を選別してしまいます。そしてそこには、よく言われるように「真の弱者は救いたい姿をしていない」という問題があります。
その一方で資本主義システムは「(対価さえ払えば)誰でも」商品やサービスを入手することができるという、ただその1点に限ればアソシエーションよりも「真の弱者」に優しいシステムであると言わざるを得ないでしょう。
こうしたなかでカフネ--ポルトガル語で愛する人の髪にそっと指を通す仕草--は資本主義システムの「外部」を創り出すというアソシエーションの論理にまっすぐに向き合ったがゆえに、まさにこの「(対価さえ払えば)誰でも」という資本主義システムが持つ(数少ない、しかし重要な)美点を利用して、アソシエーションの論理が抱え込む隘路を(もちろん一定の制約と限界はありつつも)抜けていこうと試みます。こうした意味で本作はアソシエーションの論理とケアの倫理をアクロバティックに接続する想像力を提示する物語として読めるのではないでしょうか。