* 垂直と水平のあいだとしての「斜め」
20世紀を代表する哲学者の1人であるマルティン・ハイデガーはその主著『存在と時間』(1927)において現存在としての人間の意味を時間性のなかにみようとする思考を展開し、大陸哲学に巨大なインパクトをもたらしました。ハイデガーによれば人は「現存在(世界内存在)」として世界の中に投げ込まれており、そこで遭遇する他者である「共存在」に「気遣い」を行いながら関係することになります。そして、こうした「気遣い」における二通りのあり方がハイデガーが「非本来的」「本来的」と呼んでいる「現存在」のあり方に対応しています。
この点、ハイデガーのいう「非本来的」なあり方とは、もっぱら常識的で世俗的な「平均的日常性」を生きる態度です。例えば家族、恋人、友人といった「世人」と面白可笑しく「空談」することで、あるいは美味しいものを食べたり、旅行したりして「好奇心」を満たすことで、我々はやがて到来する「死」から目を背け「生」の安寧を得ています。これはハイデガーに言わせれば「頽落」と呼ばれる「非本来的」なあり方です。
これに対してハイデガーのいう「本来的」なあり方とは、己が時間との関係の中で本来的な将来としての「死へと関わる存在」であることを了解する「先駆的覚悟性」と呼ばれる態度です。そしてハイデガーによれば、この「先駆的覚悟性」の中でこれまで共同体の中で歴史的に継承されてきたものが伝承されるという「遺産の伝承」が生じるとされています。
こうしたハイデガー哲学は精神病理学の世界にも大きな影響をもたらしました。とりわけ精神病理学者ルートヴィヒ・ビンスワンガーが展開したハイデガー哲学を基盤とする統合失調症論は長らく精神病理学の思考を強力に規定し続けてきました。
ビンスワンガーによれば人間とは本質的に「思い上がる存在」であるとされます。我々が生きる生の空間には自身を理想の極みに導こうとする「垂直方向」と、自身の経験や視野を広げていこうとする「水平方向」という二つの方向があり、通常ではこの二つの方向が「人間学的均衡 Anthropologische Proportion」と呼ばれる適度なバランスを保ちながら拡大・縮小を繰り返していますが、時に人間は己の「水平方向」の広がり具合に不釣り合いなまでに「垂直方向」が肥大化することがあります。
このような「垂直方向」の肥大化をビンスワンガーは「思い上がり Verstiegenheit=奇矯な理想形成」と呼びます。しかし「水平方向」への均衡を欠いた「垂直方向」への「思い上がり」は、あたかも蝋の翼で太陽に接近しようとしたイカロスの如く最終的には墜落=挫折してしまう運命にあります。
こうしたビンスワンガーにおける「思い上がり」という空間的モチーフは統合失調症患者の発症状況の綿密な観察によって得られたものでした。この点、ビンスワンガーは統合失調症を人間学的視座から徹底的に究明しようとする中で、病者は病前から世界の中の事物のもとに安心して逗留することができておらず、その状況に勝利するか敗北してしまうかという、いわば二項対立的な危機に陥っていると考え、このような統合失調症の基本障害を「自然な経験の非一貫性」と呼んでいます。
この危機的状況において病者が勝利するための選択が「思い上がり」という墜落=挫折を運命づけられた理想形成です。病者は世界の「水平方向」において安らいで住まうことができておらず「垂直方向」において文字通り命懸けの跳躍を行いますが、その跳躍は破滅的な急降下へと帰着しまい、病者は自らが高く掲げた理想と矛盾したり理想を拒否したりするような側面に晒され、己の主体としての座を他者に明け渡してしまうことになります。すなわち、統合失調症という病理はビンスワンガーのいうところの「人間学的均衡」が崩れ「水平方向」が痩せ細る一方で「垂直方向」が過剰に肥大化してしまっている状態にあるということです。
このように人の「心」とは「垂直方向」と「水平方向」という二つのベクトルから構成される空間論として把握できます。そして、このような空間論の観点から「垂直方向」と「水平方向」のあいだにある「斜め」という境域に光をあてる精神病理学を構想する一冊が本書『斜め論--空間の病理学』です。
* 垂直方向への異議申し立てとしての水平方向
一般的に「心」の成長や成熟は「高みを目指す」とか「深みが出た」といった言葉で表現されますが、従来の哲学や精神病理学の言説においても「心」をこのような「高さ」や「深さ」といった「垂直方向」から捉える傾向にありました。
例えば近代哲学の完成者といわれるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは精神の発展を自己意識が低次から高次へと段階的に「上昇」していくプロセスとして捉えました。また精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは意識の平面の「下」に「無意識」と呼ばれる広大で豊かな領域があることを解明しました。
前者は「心」を「高さ」との関係から把握するものであり、後者は「心」を「深さ」との関係から把握するものであるといえるでしょう。そして、こうした観点からいえば先述したハイデガー哲学とは「心」を「高さ(=獲得されるべき本来性)」と「深さ(=あらゆる経験の限界としての死)」との関係から捉えるものであったといえるでしょう。こうしてみると20世紀とは総じて心が「高さ」と「深さ」との関係から捉えられた「垂直方向」の時代であったといえます。
これに対して本書は「心」を「水平方向」から捉える言説や実践に注目します。ここでいう「水平方向」の言説や実践は20世紀における「垂直方向」の言説や実践があまりにも思弁的で、肝心の治療に使い辛いものになってしまったという実際的な問題に加えて、より本質的には「垂直方向」の言説や実践があまりに権威主義的=垂直的であったことへの異議申し立てとして登場しました。
例えば第一章で取り上げられるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは「垂直方向」としての「高所」や「深層」を特権化する思考から逃れていく「水平方向」としての「表面」を重視する思考を展開しました。あるいは第二章で検討する日本の精神科医、中井久夫氏は大学病院の医局講座制に象徴される「垂直方向」のヒエラルキーを痛烈に批判する一方で、統合失調症の患者がその寛解過程のなかで「水平方向」において他者との関係を創り直していくところに注目しました。
*「一度限り決定的に」から「そのたびごとに=その後」へ
また本書はこのような垂直方向から水平方向への空間論的転換を「一度限り決定的に une fois pour toutes」から「そのたびごとに pour toutes les fois=その後」への時間論的転換としても論じています。
前者の「一度限り決定的に」なされる反復は、たとえばキリストの受難のような唯一の始まりをもつ反復をいいます。それはプラトン主義的なイデアのように、ひとたびイデアが成立してしまえば、その後はイデアという〈一〉に〈他〉が回収されてしまい、オリジナルたるイデアを裏切るような事柄が起こりえなくなってしまうような反復です。
要するに「一度限り決定的に」とは、一度限りの決定的な出来事が生じ、その出来事によってその後のすべてが決定づけられ、一旦それが起きてしまえばもはやそれを修復・訂正することは不可能となってしまうような反復を指しています。
これに対して「そのたびごとに」なされる反復は、ときにオリジナルたるイデアを裏切ることがありえ、反復されるその度ごとに新たなものが創造される可能性を持っています。そして「そのたびごとに」とは「一度限りで決定的な」出来事の「その後」をどのように生き延びていくかに注目します。
このような「一度限り決定的に」から「その後」への移行として、第三章では上野千鶴子氏と信田さよ子氏が全共闘運動の批判を背景として、それぞれフェミニズムと依存症臨床のなかで「死ぬための思想」から「生き延びるための思想」へと移行していく過程を描き出していきます。そして第四章では全共闘運動全盛期における精神医学(医療)に対する患者=当事者からの異議申し立てと現代における当事者研究のあり方が比較検討されることになります。
* 斜め横断性からの「ちょっとした垂直性」
第五章ではフランスにおいてラボルド病院を中心に展開された制度論的精神療法が取り上げられ、時にその実践のなかで精神分析家、フェリックス・ガタリが提唱した「斜め横断性」と呼ばれるスローガンに本書は注目します。
よく観察するならば第一章から第四章で取り上げる水平方向の実践には必ずといっていいほど「ちょっとした垂直性」が花開く可能性が含まれており、それらはこの意味において「斜め」の実践であると言いうると本書はいいます。
すなわち、水平方向の実践とは垂直方向を拒絶することによって人々を集団のなかに「平準化」するものとはほど遠く、むしろ人々が集団のなかにあることによってはじめて「ちょっとした垂直性」を立てることを可能にするものなのであるということです。
第六章では「垂直方向」の特権化の震源地であると目されるハイデガーの哲学が検討されます。本書の考えによるとハイデガーの「気遣い」論には、横のつながりにおいて問題となる他者への依存を否定的なものとしてのみ捉え、その肯定的な側面を等閑視する「依存忘却」と名指すべき特徴があるとされます。そして、そのような「依存忘却」を克服するならば、むしろハイデガーの哲学は水平方向の、そして「斜め」の実践のための哲学として読解できる可能性があると本書はいいます。
この第五章と第六章でも論じられるように、本書は垂直方向はダメで水平方向が良いというような単純な二項対立で「心」を捉えていません。もちろん精神医学(医療)はもとより、より一般的な権力による監視や支配が垂直的に押し付けられるようにしてなされることは批判されなければならないでしょう。しかし「出る杭は打たれる」という諺が示すように水平的な横並びの中でお互いの顔色を伺いながら生活することもまた監視や支配につながりうることもまた確かでしょう。
つまり水平方向には「ちょっとした垂直性」の可能性をともなった「斜め」に向かうことを可能にするものだけでなく、むしろ人びとを横並びにしてしまうような「平準化」と呼ぶべきものもあるということです。それゆえに日々の(臨床)実践においては、垂直性を批判することによって実現された水平方向がいつのまにか人間を平準化するものとなっていないかという絶えざる問い直しが必要となってくるのであると本書はいいます。
* 現代思想における「斜め」の空間
ここまで見てきたように本書は現代の精神病理学の展開を「垂直方向から水平方向/斜めへ」というパースペクティブから把握しようとする一冊です。そして本書が展開する議論からゼロ年代以降の日本における(精神病理学という学問とも事実上深く関連している)現代思想(批評)シーンの言説を振り返ってみると、そこにもまた「垂直方向から水平方向/斜めへ」という空間論的なモチーフを発見することができます。
例えば宇野常寛氏は『ゼロ年代の想像力』(2008)においてポストモダン状況の帰結としての「決断主義」(=垂直)を克服する処方箋を日常の「中」に内在(=水平)することで超越(=斜め)する想像力に求め、國分功一郎氏は『暇と退屈の倫理学』(2011)においてハイデガーの称揚する自由としての「決断」(=垂直)を退ける一方で彼が貶める頽落的な「気晴らし」(=水平)から「動物になる」(=斜め)という回路にひとつの倫理を見出し、千葉雅也氏は『勉強の哲学』(2017)において「アイロニー」(=垂直)から「ユーモア」(=水平)への折り返しによって切り出された「享楽(的こだわり)」にさらにアイロニー(=斜め)を入れるという「勉強の三角形」を「深い勉強」の技法として提示しています。
現代とはいわば「斜め」の時代であるともいえるでしょう。こうした意味で本書の議論は精神病理学という領域に留まらず、ケアや教育、あるいは研究や創作やビジネスといったさまざまな領域における思考とコミュニケーションを「斜め」という視点から問い直すものであるように思えます。
