* 嘘と真実の処方箋
臨床心理学者河合隼雄氏の名著として知られるエッセイ集『こころの処方箋』(1992)のなかに「うそは常備薬 真実は劇薬」というエッセイがあります。その要旨は以下のようなものです。
一般的に人々は適当な嘘を上手に混じえて人間関係を円滑にしていますが、そのような「常備薬」としての嘘もいつもいつも用いていると「中毒症状」が出てきてだんだん自動的に嘘をつくようになり、次第にその言葉は信用を失っていきます。そこで、そのような中毒症状が出ないようにするためには「ここぞとばかりに、真実を言う練習」をしなければいけませんが、真実は「劇薬」なので使い方を間違うと大変なことが起こることをよく知る必要があります。
もっとも、このように「常備薬」の使いすぎにもならず、さりとて「劇薬」を使いすぎず、ということになると、文字通りの「毒にも薬にもならない」ような無難な会話ということになりそうですが、ここで氏は嘘を嫌う欧米人の会話を参考にして嘘を言わないようにと心がけているうちに「うそではなくて何かよいこと」が言えるようになると述べます。
もちろんこの方法ばかりだと面白味にかけるので、氏は「時にはうそが入ったり、そして、ここぞというときのみ真実を言ったり、その匙加減こそが大切ということになるだろう」といい「いったい、自分は会話の際に、どのような処方箋をもって臨んでいるかを反省してみると面白いだろう」と述べています。
本エッセイは『こころの処方箋』を代表する名エッセイの一つであり、ここで説かれる日常的コミュニケーションの心構えが簡にして要を得たものであることはおおよそ間違いないでしょう。もっともその一方でこのエッセイの前提には「本来的には真実こそが善であり、嘘は必要悪である」という常識的な価値判断が置かれていることもまた確かでしょう。
もちろん同書は河合氏が述べるように「常識」を売り物にした本である以上、このような常識的な価値判断に立脚することは同書の趣旨からいってむしろ当然であるといえるでしょう。けれども、このような常識的な価値判断とは別に「真実=善/嘘=必要悪」という二項対立それ自体の自明性は問い直される必要があります。そして、こうした「嘘と真実」という問題を深く問い直した作品として昨年のアニメ化を契機として大きな反響を呼び、先日単行本第16巻にて原作が完結した『【推しの子】』をあげることができるでしょう。
* 推しの子に転生した兄妹の運命
「嘘は とびきりの愛なんだよ?」「どっちもほしい 星野アイは欲張りなんだ」(『推しの子』第1巻より)
本作の序盤のあらすじは次のようなものです。宮崎県の病院に勤務する産婦人科医、雨宮吾郎は、かつて研修医時代に自分に懐いていた難病患者で、12歳で亡くなった少女、天童寺さりなの影響から、彼女と同い年の星野アイというアイドルを熱狂的に推しています。そんな彼のもとに活動休止中のはずのアイが所属する事務所「苺プロ」の社長、斉藤壱護とともに唐突に現れます。
検査の結果、アイは双子を妊娠しており現在妊娠20週目であることが明らかになります。アイドルが妊娠というスキャンダルに頭を抱える斉藤をよそに、アイは子供は産んでなおかつ出産は公表せずにアイドルも続けると豪語します。そんなアイに吾郎は改めて強烈な魅力を感じ、主治医として、かつファンとして彼女の出産を全力で支えることを決意しますが、アイの出産予定日に吾郎はアイのストーカーらしき人物により殺害されてしまいます。
しかし次の瞬間、吾郎はなんとアイの息子、星野愛久愛海(アクア)として、双子の妹である星野瑠美衣(ルビー)とともにこの世に転生することになります。アクアは前世の記憶を完全に引き継いでおり、しかもルビーはかつての吾郎に懐いていた少女、さりながやはり前世の記憶を完全に引き継いで転生した姿でした。こうしてアクアとルビーの兄妹は互いの正体に気づかないまま「推しの子」としてアイドル活動を再開したアイを(熱狂的に)推しながら成長していきます。
やがてアイはブレイクを果たし、彼女の所属するグループ「B小町」の東京ドーム公演が決定します。しかしドーム公演当日、アイは自宅に押しかけてきたストーカーに刺殺されてしまいます。
目の前で推しでありかつ母であるアイを殺されたアクアは、ほどなく自死した犯人はかつての(吾郎だった頃の)自分を殺害した犯人と同一人物であり、その背後にはアイの妊娠や病院、転居先の住所などを教唆した黒幕がおり、その人物こそが自分とルビーの実父であると確信し、その人物への復讐を誓います。
いま述べたところまでが本作のプロローグ「幼年期」です。ここから本作は第二章「芸能界」、第三章「恋愛リアリティショー編」、第四章「ファーストステージ編」、第五章「2.5次元舞台編」、第六章「プライベート」、第七章「中堅編」、第八章「スキャンダル編」、第九章「映画編」、第十章「終劇によせて」と続き、最終章「星に夢に」へと至ります。そして、その結末は周知のようにかなりの賛否両論を呼ぶことになりましたが、少なくとも本作が「嘘と真実」というテーマを様々な角度から極めて深いレベルで描きだした作品であることは確かであるといえるでしょう。
* 演じることの嘘と真実
「この物語はフィクションである」「というかこの世の大抵はフィクションである」(『推しの子』第1巻より)
本作でアイはアイドルという役割を演じています。また吾郎とさりなにせよ、前世の記憶を引き継いだままその正体を隠してアクアとルビーという役割を演じているともいえます。また本作ではアイドル活動の他、ドラマ、映画、舞台、情報バラエティ、恋愛リアリティショーなどといった様々な芸能コンテンツを扱っており、そこでも登場人物たちは程度の差はあれ、それぞれに与えられた役割を演じています。つまり彼ら彼女らは「本当の自分」とは異なる姿である「嘘」を演じる存在であるともいえそうですが、果たしてそれは本当に「嘘」なんでしょうか。
この点、演出家の鴻上尚史氏はその著書『演劇入門』(2021)において「私達の人生は演劇そのものだ」と述べています。同書において氏は自身が中学生の時に演劇部に参加したときのエピソードを回想し「練習の前に、演劇を語ってくれた中学3年生の先輩は、とても賢そうに見えて、僕は単純に感動しました」が「その先輩が演技を始めた途端、印象はガラリと変わりました」「それは、魔法が解けた瞬間のようでした。『熱いトーク』という魔法が消えた後、現れた貧弱な身体は、これが、先輩の本来の姿だと感じられました」と述べる一方で、別の先輩の場合は全く逆で「演技に関する話は下手」なのに「先輩が、セリフを言いながら動き出した瞬間、ものすごく魅力的に感じたのです」「カッコよくてセクシーで、豊かな感情が伝わってくるようで、この人をもっと見ていたいと感じました」と述べます。
そして氏は演劇部における同一人物のそんな変化を目撃するうちに「どうも、演劇には人間を一皮剥く力があるんじゃないか。その人の隠れていた本質を引き出したり、拡大したり、あらわにする能力があるんじゃないか--そう考えて、僕はいきなり、演劇というメディアに夢中になりました」と述べます。
すなわち「演技」という一見「嘘」ともいえそうなフィクションの中にこそ「その人の隠れていた本質」という「真実」が宿るという逆説があるということです。本作の第一話冒頭における「この物語はフィクションである」「というかこの世の大抵はフィクションである」というモノローグからは、そういった「嘘と真実」をめぐる入り組んだ含意を読み取れるでしょう。
* 真実はコピーされ嘘になる
「鏡見て研究して ミリ単位で調律」「目の細め方口角全部打算 いつも一番喜んで貰える笑顔をやってる」「私は嘘で出来ているし」(『推しの子』第1巻より)
また鴻上氏は同書において「演劇」の定義として世界的に有名な演出家であるピーター・ブルックの「どこでもいい、なにもない空間--それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る。もうひとりの人間がそれを見つめる--演劇行為が成り立つには、これだけで足りるはずだ」という言葉を引いています。
つまり、このピーター・ブルックの定義によれば「演劇」とは一人の「横切る人(俳優)」と一人の「見る人(観客)」の「意識の共通性」において成立する行為であるということです。さらにこの「横切る人(俳優)」と「見る人(観客)」という異なる立場は想像力を拡大させることで一人の人間の中でも成立します。いずれにせよ先述した「演技」という一見「嘘」ともいえそうなフィクションの中にこそ「その人の隠れていた本質」という「真実」が宿るという演劇の逆説とは「横切る人(俳優)」の他に「見る人(観客)」の存在があって初めて成立するということです。
では、本作はこのような演劇の逆説をどのように描くのでしょうか。次のようなエピソードがあります。ブレイク前のアイはアイドルとしては優等生であるものの、芸能界で生き残るための絶対的な武器がなく、それゆえに伸び悩んでいました。ある日、気を紛らわすために何となくエゴサをしていたアイはファンの「アイの笑い方って良くも悪くもプロの笑顔なんだよな」「なんか人間臭さがないっていうか。。。イマイチ推しきれない」という書き込みを目にして「痛いところつくなぁ」とこぼします。その書き込みが指摘する通り、当時のアイは「鏡見て研究して ミリ単位で調律」「目の細め方口角全部打算」という計算ずくの笑顔しか出来ていませんでした。
ところがある販促イベントに出演したアイは、会場で並はずれたヲタ芸を打つ我が子(赤ちゃん時代のアクアとルビー)の姿を目のあたりにして思わず顔がほころび「個レス(特定のファンへのレスポンス)」を返します(ちなみにこの時アクアとルビーは社長夫人の斉藤ミヤコの子どもという設定で会場に来ています)。その後、自身にとっての想定外の笑顔に対して好意的なファンの書き込みを目にしたアイは「なるほど…コレがイイのね」「覚えちゃったぞ」と「自分の笑顔」をコピーしてしまいます。
先述したピーター・ブルックによる演劇の定義からいえば、これまでのアイはもっぱら「横切る人(俳優)」の立場だけでパフォーマンスをしていたといえますが、ここでアイは「見る人(観客)」の視点を獲得することになります。そして計算ずくの「嘘」の中に一瞬垣間見えた「真実」はコピーされることで再び「嘘」になります。しかしその「嘘」は嘘は嘘でも、これまでのようなただの嘘ではなく「真実」を宿した「嘘」であるともいえます。このような演劇的寓話が示すように「嘘と真実」の関係は単純な二項対立ではなく複雑な入れ子構造になっているといえるでしょう。
* 嘘というパルケマイア
「私は嘘吐き 考えるより先にその場に沿った事を言う 自分でも何が本心で 何が嘘なのかわからない 私は 昔から何かを愛するのが苦手だ」「母親になれば子供を愛せると思った」「私はまだ 子供達に愛してるって言った事がない」「その言葉を口にした時 もしそれが嘘だと気付いてしまったら… そう思うと怖いから」「だから私は今日も嘘を吐く 嘘が本当になる事を信じて」「その代償が いつか訪れるとしても」(『推しの子』第1巻より)
河合氏は先述の「うそは常備薬 真実は劇薬」というエッセイを「もちろん、薬のなかには毒薬という恐ろしいものもあるが、それについては各自でお考え頂きたい」という一文で結んでいます。すなわち「常備薬」であろうとも「劇薬」であろうともいずれにせよ「薬」とは時として「毒」にもなるということです。
ここで思い出されるテクストは「脱構築」で知られるフランスの哲学者ジャック・デリダの「プラトンのパルマケイアー」です。初期デリダによる「脱構築」の範例的実践の一つとして位置付けられるこの論文ではプラトン中期の対話篇『パイドロス』が取り上げられ、ここから「パロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)」の二項対立におけるパロール優位というプラトン以降の西洋哲学(形而上学)における伝統である「ロゴス中心主義(音声中心主義)」が脱構築されることになりますが、この論文で鍵となる言葉がそのタイトルに冠された「パルマケイアー」です。
この「パルマケイアー」というギリシア語は「薬を用いること」「毒を盛ること」という一見すると相反する意味を含んでいます。同論文でデリダは『パイドロス』冒頭部分に置かれた一見すると何気ないあるエピソードに注目します。ここではソクラテスがパイドロスという青年にギリシャ神話におけるボレアスという北風の神がオレイテュイアという乙女を攫ったというエピソードについて「彼女オレイテュイアがパルマケイアと遊んでいたとき、ボレアスという名の風が吹いて、彼女を近くの岩から突き落としたのである」と語っています。
ここで登場する「パルマケイア」とは、もともとはイリソス川のほとりにあった泉の名で、そこから泉の精を意味するようになりますが、実はその泉は水を飲むと死んでしまう恐ろしい泉だったとされています。すなわち、まさに薬が突如として毒に化けるかの如く、オレイテュイアは泉の精パルマケイアと戯れてしまったが故にボレアスに攫われてしまいます。そして同様にアイもまた「嘘」というパルマケイアと戯れてしまったが故にストーカーに殺されてしまいます。しかしその一方でこの「嘘」というパルマケイアこそが彼女の最期において、ひとつきりの確かな「真実」をもたらすことになります。
* 嘘と真実の円環
「ああ神様 きっと彼女は 暗闇に光を照らす為に生まれてきたんですね」(『推しの子』第16巻より)
本作はその全編に渡り「嘘」というパルマケイアに対して様々な角度から光を当てていきます。そもそも人は日常において「嘘」というパルマケイアを飼い慣らしながら生きているともいえるでしょう。例えば家庭では「親」や「子ども」として、学校では「教師」や「生徒」として、職場では「上司」や「同僚」や「部下」として、プライベートでは「友達」や「恋人」として、知らない人の前では「他者」として、我々は日常におけるさまざまな文脈に応じてさまざまな「役割としての自分」を演じています。そしてこのような「役割としての自分」はある意味では「嘘」であるともいえますが、ある意味では「真実」であるともいえるでしょう。
あるいは「嘘」によって初めて見える「真実」というのもあるかもしれません。最初は「嘘」だったものがその後に「真実」に書き換わることだってあるかもしれません。「嘘」によって守ることができる「真実」だってあるかもしれません。誰かにとっての「嘘」は誰かにとっての「真実」かもしれません。そもそもこの世界は「嘘」でしかないというこの現実こそが唯一無二の「真実」なのかもしれません。
このように「嘘と真実」とは極めて入り組んだ関係にあるといえます。そして、それゆえにだからこそ、人は「真実」を求めて今日も「嘘」を吐いて、この日常を生きているともいえるでしょう。こうした意味で本作は「真実=善/嘘=必要悪」という二項対立を脱構築したその先において、嘘と真実の円環から成り立っているこの世界の複雑さや猥雑さや豊穣さを、あるいはその美しさや素晴らしさやかけがえのなさを見事に描き切った物語であったといえるのではないでしょうか。