* こうの作品における表面と深層
2016年に公開された映画が大きな反響を呼んだ『この世界の片隅に』で知られるこうの史代氏は1995年に『街角花だより』でデビューした後、1997年から初期の代表作といえる『ぴっぴら帳』を7年に渡り長期連載し、四コマ漫画家としての地歩を固めることになります。氏によれば「とにかくかわいい女の子いっぱい出てきてきゃぴきゃぴしているだけで特に何も起こらない、ゆるーいマンガ」が描きたくて漫画家になったそうですが、確かに『ぴっぴら帳』が紡ぎ出すリズムは今でいうところのまんがタイムきらら的な「日常系」のリズムに極めて近いものを感じます。
そんなこうの氏にとって転機となったのは2004年に公刊した広島原爆とその後の被曝二世差別を扱った連作『夕凪の街 桜の国』です。同作は同年の第8回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞と、翌年の第9回手塚治虫文化賞をダブル受賞し、こうの氏にとっての出世作となりました。そして同作の延長線上にある『この世界の片隅に』はこれまでこうの氏が反復して描いてきたいわば日常系的幸福観というべきものが戦争という巨大な破壊からその心を守るための砦としていかに機能するかを描いた作品であったといえるでしょう。
この点、宇野常寛氏は戦後アニメーションの想像力を論じた『母性のディストピア』(2017)において『この世界の片隅に』の箇所で「こうののマンガには日常の他愛もないやりとりと、そこに付随するくすりとした笑いが基調にある。ヒロインはいずれも温厚で、スローテンポの、どこか抜けたところに親しみを感じさせる女性であり、そしてマンガは彼女の半径数メートルのミニマムな世界でのできごとをひたすら反復する」という一方で「だがときおり(数十回に一度、くらいの割合で)、その中に普段は表面化することのない情念やいつかこの日常を断絶させるであろう死の予感が顔を見せる」といい「しかし最後には--その過程でどれほどおぞましいものが顔を見せても--今時新聞の四コママンガでも採用しないようなずっこけた笑いが配置され、その世界は日常に回帰し登場人物たちを救済する」と述べています。
ここで宇野氏のいう「日常の他愛もないやりとりと、そこに付随するくすりとした笑い」とは、いわばこうの作品における「表面」であり「だがときおり(数十回に一度、くらいの割合で)、その中に普段は表面化することのない情念やいつかこの日常を断絶させるであろう死の予感」とは、いわばその「深層」であるといえるでしょう。そしてこのような「表面」と「深層」という二層構造を往還しつつ最後は「世界は日常に回帰し登場人物たちを救済する」という日常系的幸福観を確立したこうの作品として本作『長い道』を位置付けることができるでしょう。
* 賑やかしい実験作
本作の単行本には『Jour すてきな主婦たち』という雑誌に2001年から2004年まで連載されたエピソードを中心として同誌の増刊号や他誌に掲載されたエピソードや自費出版されたエピソードが収録されています。その大きなあらすじはこうです。浮気性で甲斐性なしの若者、老松荘介のもとにある日突然、父親からの手紙とともに天堂道という若い女性がやってきます。道は荘介の父親が酒席で意気投合した相手からもらった荘介の結婚相手でした。道はなぜか人名のあとに「どの」とつけて呼びかけ、常に「ですます口調」で喋る古風な女性ですが、派手で金持ちな女性が好きな荘介は道と結婚した後も変わらず女遊びを続けます。けれどもその一方で道と荘介はともに暮らすうちに2人のあいだには何ともいえない不思議な絆が芽生えていくのでした。
こうの氏は単行本のあとがきで「この『長い道』は、わたしにとって初めての非四こま誌のまんがのしごと」であり「分厚い雑誌の華やかな大作の谷間で、人気も反響もほとんどない代わり、縛りや制約もほとんどなく、好き勝手に描かせて頂いて、本当に楽しくて仕方なかった作品でした」と書いており、また西島大介氏との対談「片隅より愛を込めて(『ユリイカ』2016年11月号「特集=こうの史代」所収)」でも本作の連載中は「特に反響もないし、たぶん誰も読んでいないだろうと思っていた」ので「それで『あんたたちの見ていないところでこんなことやっちゃうよ!』という感じでいろいろ試してみたんです」と述べています。
このような氏の言葉が示す通り、本作は全くセリフの無い回や、筆で描かれた回が多数ある他に、フィンセント・ファン・ゴッホを想起するポスト印象派的なタッチで描かれた風景が挿入された回(夢枕)、作中におけるクロスワードパズルが物語のオチを読み解く鍵となる回(交差する言葉)、コマとコマのあいだにイラストが描かれた回(収縮)、板チョコレートのブロックをコマに見立てた回(甘い生活)などというように様々な実験的な表現で溢れています。いずれにせよ本作の「表面」は道と荘介という新婚夫婦が繰り広げる賑やかしくも微笑ましい日常の風景によって覆われています。
* 他者のわからなさ
けれどもその一方で、道にはかつて仄かに思慕していた竹林賢二という青年がおり、荘介は道が自分とは違う人生を歩んできた存在であるというごく当たり前の事実--すなわち他者性に--にしばしば直面させられることになります(道の竹林に対する思慕は本作の扉絵において既に最初から示唆されています)。このように本作における道というヒロインは結婚相手を親に決められたという点や結婚前から好きな相手がいるという点で『この世界の片隅に』のすずと共通点を持っています。
この点、こうの氏は先の対談で他者関係について「他人同士、特に男と女は絶対にわかりあえないという前提で描いてます。男の出番が少ないのはそのせいで、やっぱり女性を描くのに比べて粗も目立つだろうし、自分にはわかりえない人間をわかったように描くのもどうかと思ってしまうんですね」といい「何かを好きになる、愛するということ自体は素晴らしいと思うんです。好きなものがたくさんあるほうが絶対に人生得ですよね。なのに対象が人間の場合、愛する人が二人になったとたん急に不幸になってしまう。そういうところに興味があるというか、常に新鮮な感動を覚えるんです。その不思議さのようなものを解明したくて、三角関係なんかも結構描いてしまいますね」と述べています。そして結婚を機に執筆したという本作の「深層」もまた、こうしたこうの氏の他者観によって支えられています。
本作の中盤以降、道は竹林との交流のなかで自身の「幸せ」と向き合っていくことになります。そして最終話において竹林から結婚を報告する葉書を受け取り「なんかいい事でもあったのか?」と荘介から問われた道は穏やかな笑顔を湛えながら「ありましたよ」と静かに答え、その後二人はまた再び、まさにこの世界の片隅にある何でもない日常のなかへと回帰していきます。こうした意味で本作の描き出す結末もまた『この世界の片隅に』で提示される日常系的幸福観とまっすぐにつながっているといえるでしょう。
* 救済譚から逸脱する過剰性
このように本作は道というヒロインが自身の「幸せ」を掴んでいく過程を描いたある種の救済譚としても読めます。しかし、その一方で本作はこうした救済譚としての読み方から逸脱していく過剰性を抱えた作品であることもまた確かでしょう。
この点、檜垣立哉氏は「『長い道』から『夕凪の街 桜の国』へ--こうの史代試論(『ユリイカ』2016年11月号「特集=こうの史代」所収)」において「こうの史代のストーリーは、さまざまな部分で現実との齟齬や跳躍を含み込みつつも、傷が救いに転化する一瞬がある」と述べ、その原点を「ほとんどリアリティを欠いた」本作の物語に見出しています。
もちろん氏も本作に救済譚としての要素があることは否定してはおらず「道にとって、意識的か無意識的かはわからないが、荘介と住み始めるのは、竹林がいる街の近くであったからだろう。竹林が道に、結婚しましたという手紙を送ることにより、そして幸せな竹林の夫婦姿を道が垣間見ることで、いわばこのプロットは解消していく。最後の場面は荘介と道の和解にもみえる(だが、はじめからどこにも対立などない和解なのである)。それ以降、道と荘介とは、ひょっとしたら、それこそごく普通の夫婦として生活を送るのかもしれない。穿った見方を避ければ、そこに至る行程が『長い道』であったかもしれない」と述べています。
けれども同時に氏は「だが、それにしてはこの作品には断片的な逸脱があまりにおおく、なおかつそれらはあまりに魅力的なのである。たんに親から結婚を押し付けられた女性が浮気癖のある男と暮らし、あれやこれやの出来事があったがめでたしというストーリーはこうのの本領とは思えないし、この話はそうは描かれてもいない」と述べ、こうした救済譚的な解釈とは別のしかたでの解釈を提示します。そして、そこで氏が注目するのが道と荘介のあいだにある「性関係のなさ」です。
* 性関係のなさ
実のところこの夫婦の間にはただ一回しか性関係がありません。荘介の実家からの孫はできないのかという問いかけに対し、道は「はあ…セックスですか?していません」とほがらかに断言します。そして梅酒を作っている時に不覚にも酔っ払ってしまった二人が初めて性行為を行ったと思しき場面の後、道は「今後半年は絶対手を出さないで下さい。」と書いた紙を残して出ていき、荘介は慄然とします。けれども帰ってきた道は「……お互いちょっと軽率でしたね」とつぶやきながら「今後半年は絶対手を出さないで下さい。」と書かれた紙を「雑菌が入ってなければいいけど」と言いながら何事もなかったかのように梅酒の瓶に貼り付けます。
なぜこの夫婦には性関係がないのでしょうか。この点、檜垣氏は「こうの史代にとって、そうしたコミュニケーションが、世界を構成する可能性であるとは思えないからではないか」と述べ「この二人にとっては、まったく性の関係がないところで世界が成立している。したがって、この夫婦譚の随所に、荒唐無稽で非現実的な逸脱がはらまれることは、多くが漫画技法上のお遊びであるにせよ、やはり本質的であるようにおもえる」といいます。
そもそも道と荘介はとても仲の良い愛らしい夫婦です。しかし荘介と道の間には「性関係のなさ」という徹底したコミュニケーションの断絶があります。こうしたことから氏は「こうの史代の真骨頂は、どうして性的なコミュニケーションがないのに、この二人はほほえましい夫婦でありうるのかという、むしろ逆向きの問いを投げかけていることにあるようにおもえる」と述べます。すなわち、ここではむしろ「普通の夫婦」とは果たして何であるかが問われているということです。
* そして世界は日常に回帰する
ここでは細かい用語の説明は省きますが、要するにこの式が表しているものは男性(左側の式)にとってのパートナーは「女性そのもの」ではなく、女性(右側の式)にとってのパートナーもまた同様に「男性そのもの」ではなく、この男女という二つの性の関係性は、いかようにも記述不可能であるということです。これがよく知られたラカンの「性関係なるものはない」というテーゼです。
このようにラカンによれば「性関係のなさ」という「深層」こそが真実であり、その上に成り立つ「普通の夫婦」を範例とする異性間のコミュニケーションという「表面」とはいわば嘘でしかありません。そうであれば本作における道と荘介の夫婦譚は奇妙どころではなく、むしろ現実におけるこうした二層構造をラディカルに描き出しているといえるでしょう。
けれども、そうであるがゆえに本作は救済譚としての読みに開かれているともいえます。檜垣氏が指摘するように「それでもやはり『長い道』が救済譚にみえてしまうのは、まさに道と荘介が、その性的コミュニケーションのなさという、ある意味で絶対的な人間関係の傷、それ自身は繰り返すが、『他者と暮らす』ということの決定的な意味を突き万人に戻すような傷を背景としながら、この二人が日常を送りつづける姿を描くからにほかならない」ということです。
おそらく道は「性関係のなさ」という「深層」こそが真実であり「普通の夫婦」という「表面」など所詮は嘘に過ぎないという、この世界の現実をどこかで知っているんだと思えます。けれども同時に、彼女はそんな嘘と戯れ続ける日常のなかにこそ幸せの在り処があることも、またどこかで知っているようにも思えます。そして、それはまさしく「性関係のなさ」という「ある意味で絶対的な人間関係の傷」を抱えながら、それでも時に笑いながら時に泣きながら、あるいは時に歌いながら時に叫びながらも他者と寄り添い歩み続けていく、曲がりくねった果てしない『長い道』であるといえるのではないでしょうか。