かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自分の言葉を創り出すということ--三宅香帆『「好き」を言語化する技術』

*「好き」を言葉にするということ

 
この世界はさまざまなコンテンツで満ち溢れています。小説、映画、漫画、絵画、写真、音楽、舞台、ドラマ、アニメ、ゲーム、イラスト等々。こうしたコンテンツが日々いたるところで間断なく生み出され、多くの人たちを魅了しています。そして時にある人にとってあるコンテンツとの出会いが大袈裟ではなくその人の一生を左右するような決定的な出来事になることだってあります。
 
けれどもそのコンテンツが「好き」であるという熱烈な想いや愛をいざ誰かに語ろうとしたり、あるいはSNSやブログに書こうとした時、どうしても「感動した」とか「面白かった」とか「凄かった」とか「考えされられた」などといった月並みな感想以上の気の利いた言葉が出てこなくて困ったことはないでしょうか。
 
またある程度はそのコンテンツの「好き」について語れる(書ける)まとまった言葉を持っていたとしても、そのコンテンツをよく知らない人に対して自分の「好き」を「どこから」「どこまでを」「どのように」語れば(書けば)いいのか困ったことはないでしょうか。
 
こうした「好き」を語ろう(書こう)とする時にしばし直面してしまうさまざまなお困り事を解決するための知恵を詰め込んだ一冊として本書『「好き」を言語化する技術』を取り上げてみたいと思います。
 
本書には「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」というサブタイトルがついています(本書は2023年に公刊された「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない--自分の言葉でつくるオタク文章術」を携書化したものです)。このサブタイトルが示すように本書はあらゆるコンテンツを「推し」と呼び、このようなあらゆる「推し」を語る(書く)時に使うことができるさまざまな技術を公開していきます。
 

* 推しを語るとは自分自身を語るということ

「推し」について語る(書く)上で一番重要なこと。それは「自分の言葉」をつくることであると本書はいいます。このように言われると「自分の言葉?普通にみんなできてることじゃないの?」と思われるかもしれませんが「自分の言葉」をつくるという営みは案外難しいものです。とりわけ現代はSNSを通して「他人の言葉が自分に流れ込みやすい時代」であり、日々生成される莫大な量の「他人の言葉」によって「自分の言葉」はどんどん上書きされてしまいます。
 
例えば面白い映画を観た後に他人の感想を読むと自分の感想を忘れてしまい「他人の言葉」があたかも最初から「自分の言葉」だったかのような錯覚を覚えるという経験はよくあることでしょう。人間とは「他人の言葉」にどうしても影響を受けてしまう生き物です。
 
こうした中で「他人の言葉」に惑わされない「自分の言葉」をつくるためにはある種の技術が必要となります。そして本書はこのような技術を会得する上で必要なものは語彙力や観察力や分析力でもない「ちょっとしたコツ」であり、そのような「ちょっとしたコツ」さえ知っていれば「自分の言葉」は誰にでも作れるといいます。
 
本書は「推し」について「自分の言葉」で発信するメリットとして「推しへの解像度が上がる」「たくさんの人に推しを知ってもらえる」「推しについてのもやもやを言語化できる」という点の他に「推しを好きになった自分への理解が深まる」という点をあげ「きっと推しを語ることであなた自身の「好き」がどこからきたのか、わかるはずです。推しを語ることは、あなたの自身の人生を語ることでもある」と述べています。すなわち「推しを語る」ための「自分の言葉」をつくる営みとは、他ならない「自分自身を語る」という営みへまっすぐにつながっているということです。
 

* 自分だけの感情を出発点にする

 
子どもの頃に学校で読書感想文という課題が出された時、先生から「本を読んで自分の感じたありのままの感想を書けばいい」などといったアドバイスを受けたことがないでしょうか?どうも日本の小中学校では「本を読んで感じた通りに、その感情を書けば、それがいい読書感想文になる」と先生も生徒も信じているようなふしがありますが、本書はこうした「ありのまま」感想文信仰に対して異議を申し立て「技術を駆使してこそ、いい感想文を書けるようになる」と主張します。逆に言えば「書く技術さえ理解すれば、いい感想やいい文章は書けるようになる」ということです。
 
まず本書は推しを語るときに一番大切なこととして「自分だけの感情」をあげます。ここでいう「自分だけの感情」とは「他人や周囲が言っていることではなく、自分オリジナルの感想を言葉にすること」です。しかし「自分オリジナルの感想を言葉にすること」は案外難しいものです。なぜなら人間はどうしても世の中に既にある「ありきたりな言葉」を使ってしまう生き物だからです。このような「ありきたりな言葉」をフランス語では「クリシェ cliché」といいますが、まずこのクリシェを禁止したその先に「自分だけの感想」が存在すると本書はいいます。
 
次に本書は推しを語る文章の核が「自分だけの感情」だとすれば、その核を包むものとして「文章の工夫」があるとして、ここで大切なものは「読解力」でも「観察力」でもなく「妄想力」であるといいます。つまり、何かの推しに対して「よかった」という感想を持ったとき、その「よかった」という理由について「昔見たものや昔好きだった推しを引っ張り出しつつ、自分の妄想を広げていく」ことで「感想のネタ」を探していくということです。
 
この点「妄想」はあくまで「妄想」であり、客観的に合っているかはひとまずはどうでもよく、とにかく妄想を広げていくことが重要となります(もちろん実際の感想を書くにあたって「この作品は◯◯という点であの作品のマネをしている」などと自身の「妄想」を根拠なく「事実」であるかのように書いてしまう行為はNGです)。
 
以上のように本書は第1章「推しを語ることは、自分の人生を語ること」で推しの魅力を伝えるために重要なものとして「自分の感情」と「文章の工夫」と「妄想力」の3点をあげています。そして第2章「推しを語る前の準備」ではこの3点を身につけていくための具体的な方法論が紹介されています。
 

* 相手との情報格差を埋める

 
第3章「推しの素晴らしさをしゃべる」では実際に誰かに推しを語るときのポイントとして「相手との情報格差を埋める」という点があげられています。例えば「推しのアイドルのライブが最高だった!」という想いをその推しのことをよく知らない人に伝えたい場合だと、まず相手に「そもそも推しはどういう経歴で、どういう人なのか、いつもどんなライブをやっているのかを伝える」という「相手との情報格差を埋める」ためのフェーズ①があり、その次に相手に「今日のライブのどこが(いつもと違って)最高だったのか」という「相手に伝えたいことを伝える」ためのフェーズ②がくるということです。
 
ここでフェーズ①をスキップしてしまいますと相手を「なんのこっちゃ」とポカンとさせてしまう失敗につながってしまいます。それゆえにまずはフェーズ①をていねいに伝える必要があるということです。そしてこうした「相手との情報格差を埋める」フェーズ①を経て「相手に伝えたいことを伝える」フェーズ②の段階で必要なのは「注釈」をつけてしゃべるということです。ここでいう「注釈」とは分かりづらい単語について「これはこういう意味です」という説明のことをいいます。すなわち、ここでもやはり「相手との情報格差を埋める」という意識が必要であるということです。
 
第4章「推しの素晴らしさをSNSで発信する」と第5章「推しの素晴らしさを文章に書く」ではSNSやブログといった媒体で推しについて書くときのポイントが述べられています。もちろんやはり、ここでも「他人の言葉」と「自分の言葉」を峻別するため、第1章で述べられている「自分の感情」と「文章の工夫」と「妄想力」という3点が重要となることは言うまでもないでしょう。
 
第6章「推しの素晴らしさを書いた例文を読む」では最果タヒ氏、三浦しをん氏、阿部公彦氏のテクストが「プロの推し語り文」の例として取り上げられています。当たり前のことですが推し語りを上達させるために必要なものとは自身にとってのお手本となる推し語りです。もちろんこれは「他人の言葉」を単純に真似ることとはまったく異なります。ここで学ぶべきものは、その人の「意見そのもの」ではなく、その人の文体や構成や切り口といった「文章の型」というべきものです。そして、こうした学びの過程を経ることで本書がいうような「最初から個性をだそうと考えるよりも、自分の好きな発信を模倣していくなかで、なぜかお手本と違ってしまうところが個性になる」という瞬間が生じるのではないでしょうか。
 

* 自分の言葉を創り出すということ

 
本書は「推し」を語る(書く)ためのさまざまな技術を「えっ、そこからですか?」というくらいに本当に初歩の初歩からていねいに説明していきます。それゆえにに本書は推し語りの初心者にとってとても親切な本であることは言うまでもなく、推し語りのベテラン(?)にとってもあまりに自明すぎるが故に軽視しがちな推し語りの基礎あるいは原点を再確認ないし再発見できる本となっています。
 
本書が幾度も強調するように「自分の言葉」で推しを語るとは他ならない自分自身を語るということです。例えば本書は第2章において推しに対して生じた感情を「共感」と「驚き」に大別した上で、その感情が生じた理由を深く掘り下げていく「感情を言語化=細分化する」という手法を提案していますが、このような推しに対する様々な「共感」と「驚き」を積み上げていくうちに、自分がおおむねどのようなものに対して「共感」を懐いたり「驚き」を感じるのかが自ずとわかってくるのではないでしょうか。そしてそこからさらに自分はなぜそこに「共感」を懐いたり「驚き」を感じるのかという、より大きな問いを開くことができるでしょう。
 
すなわち、推しを語るとは推しという鏡を通じて自己を再発見するという過程であるといえます。そして、このような再発見された自己から見晴るかした世界はこれまでとはまた異なる色彩と輝きを見せることになるのではないでしょうか。こうした意味で『「好き」を言語化する技術』とは「自己を再発見する技術」であり「世界を再発見する技術」でもあるといえるのではないでしょうか。