かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

ライトノベルのリズムとノイズ--西尾維新『忍物語』『宵物語』『余物語』『扇物語』『死物語』

* ライトノベルの成立条件

 
文芸批評家の柄谷行人氏は『日本近代文学の起源』(1980)において日本文学における「一つの認識論的布置」としての「風景の発見」は明治20年代に起きた「言文一致」という運動によって生まれた新たな文体によって可能になったといいます。すなわち、柄谷氏によれば「書き言葉」を「話し言葉」に近づける「言文一致」の過程で、日本語という言語は従来支配的な「書き言葉」であった漢字の形象性が後退した結果、抽象的思考を可能とする音声言語として「透明」になり、この「透明」な言葉こそが事物をあたかもありのままに描き出したかのような「風景」として立ち上げることになったということです。
 
もっともこのような「風景」を立ち上げる「透明」な言葉はある特定の想像力の環境のもとで用いられています。例えば東浩紀氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において、1990年代以降の文芸市場において存在感を現わし始めたライトノベルを「キャラクターのデータベース」というメタ物語的な環境において制作される「キャラクター小説」であるとして、ポストモダン状況が加速する現代の文学的想像力においては近代文学が依拠する「自然主義的リアリズム(現実の写生)」とライトノベルが依拠する「まんが・アニメ的リアリズム(虚構の写生)」という「想像力の二環境化」が進行しているといい、近代文学の文体が「透明」な言葉であるという柄谷氏の比喩を拡張し、ライトノベルの文体は、不透明な存在であるキャラクターを透明に描こうとする両義性を抱えた「半透明」の言葉であると述べます。
 
そして、こうした「半透明」の言葉を縦横無尽に駆使するライトノベル作品として西尾維新氏の〈物語〉シリーズを挙げることができるでしょう。本シリーズ全体の大まかなあらすじは主人公である私立直江津高校3年生、阿良ヶ木暦が春休みに瀕死の吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを助けたことで「吸血鬼もどきの人間」となって様々な怪異絡みの事件と遭遇する中で人間的に成長していくというものです。
 
2006年に公刊された『化物語』を起点とする本シリーズは当初「メディアミックス不可能な小説」を謳っていましたが、実際にはその後、本シリーズは、アニメ、ゲーム、映画、漫画、スマートフォンアプリといった様々なメディアミックス展開を経ることで幅広い支持を獲得し、その絶大な人気は『化物語』の公刊から18年が経過した現在においても変わることはありません。
 
このような華々しいメディアミックス展開を経由した現在からみると忘れがちですが、本シリーズはそもそもライトノベルとしては異端の位置にありました。この点、世間一般でいう「いわゆるライトノベル」とは特定のライトノベル系レーベルから出版され、作中でキャラクターを中心とするイラストレーションを多用する作品を指しています。ところが本シリーズは当時、どちらかといえば一般文芸レーベルと見做されていた講談社BOXから出版されており、何より「いわゆるライトノベル」における最大の特徴であるキャラクターのイラストも扉絵等を除きほとんど使用されていません。
 
こうした点からいえば本シリーズは「いわゆるライトノベル」から外れた作品であるといえます。したがって本シリーズがライトノベルと呼ばれる理由をメディアミックス展開以前に求めるとすれば、それはまさしく本シリーズの持つ「文体」にあるといえそうです。
 
先に述べたようにライトノベルの本質は「キャラクター小説」であり、その制作においては「いかに魅力的な物語を生み出すか」という課題と同じくらいに「いかに魅力的なキャラクターを生み出すか」が重要な課題だとなります。ここでいう「キャラクター」とは「まんが・アニメ的リアリズム」を規定する想像力の環境=仮想的なデータベースを参照して構成される人物類型であり、東氏の定義でいえば「様々な物語や状況の中で外面化する潜在的な行動様式の束」をいいます。
 
この点「いわゆるライトノベル」では登場人物をキャラクター化するにあたってはイラストによる助けを多いに借りる事になるわけですが、本シリーズはイラストをほとんど用いない代わりに莫大な量の「会話劇」を投入する事で登場人物をキャラクター化していきます。なお実際に作者の西尾氏にとって本シリーズの執筆は「活字だけでライトノベルは実現できるのか」という実験的意味合いもあったそうです。
 
それゆえに本シリーズにおいてはライトノベル特有の文体である「半透明」な言葉が極めて濃厚に充溢しています。すなわち、本シリーズにおけるキャラクターはイラスト(=イメージ)以前に文体(=言語)によって成立しているといえます。こうした意味で本シリーズはライトノベルの成立条件が極めて純度の高い形で現れている作品といえるでしょう。
 
本シリーズは『化物語』『傷物語』『偽物語』『猫物語(黒)』からなる「ファーストシーズン」(2006〜2010)と『猫物語(白)』『傾物語』『花物語』『囮物語』『鬼物語』『恋物語』からなる「セカンドシーズン」(2010〜2011)を経て『憑物語』『暦物語』『終物語』『続・終物語』からなる「ファイナルシーズン」(2012〜2014)において、ひとまずの区切りを迎えることになりますが、その後『愚物語』『業物語』『撫物語」『結物語』からなる「オフシーズン」(2015〜2017)が公刊されました。今回はそのさらなる続編であるところの『忍物語』『宵物語』『余物語』『扇物語』『死物語』からなる「モンスターシーズン」(2017〜2021)を取り上げてみたいと思います。
 

* 小説におけるリズム--忍物語

本巻収録の第一話「しのぶマスタード」のあらすじは次のようなものです。どうにか無事に直江津高校を卒業し、国立曲直瀬大学に進学した阿良ヶ木はある日、怪異の専門家の元締めである臥煙伊豆湖直江津総合病院へと呼び出され、ベットの上に横たわる人間の木乃伊を見せられます。その木乃伊はもともと直江津高校に通う女子生徒で、吸血鬼に血を吸われたことが原因で木乃伊になったらしく、阿良ヶ木は女子生徒を襲う吸血鬼の正体を突き止めようと奔走することになりますが、その過程で一連の事件の容疑者として阿良ヶ木のパートナーである吸血鬼、忍野忍(旧キスショット)の旧知である吸血鬼、デストピアヴィルトゥオーゾ・スーサイドマスターが浮かび上がってきます。
 
本作においてもやはりストーリーの本筋とはあまり関係のないところで大量の会話劇が繰り広げられています。先述の通り、これらの会話劇=キャラクター描写こそが本作をライトノベル=キャラクター小説として成立させていることになりますが、その一方で、これらの会話劇は小説という作品を駆動させる一つの「リズム」を形成しているともいえるでしょう。
 
この点、千葉雅也氏は近著『センスの哲学』(2024)において小説や絵画や音楽といった創作物を鑑賞ないし創作する上で「意味」の手前にある「強度=リズム」に注目しています。ここで同書のいう「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられており、このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが千葉氏のいうリズム経験です。
 
通常、小説などの物語では通常、宝物とか勝利とか愛とか謎といったものを追い求めるようなストーリーが展開されます。つまり物語とはなんらかの「1=存在」を求める「0=不在(欠如)」を起点にして進行するということです。つまり物語への没入するとはそこに「欠如」という大問題を見て、その「ビート」にシンクロすることで起きるといえます。
 
こうしたことから小説では「欠如を埋める」ための物語が展開されることになり、この「欠如を埋める」ことをいかに面白く行うかを追求していけば娯楽性の強い作品になります。これに対して「欠如を埋める」ことに直結しない、その脇にあるようなディテールを細かく追求していけば文学性の強い作品になりますが、その分、娯楽作品としての面白さは分かりにくくなるでしょう。
 
この点、本作もやはり、まずは主人公(阿良ヶ木)が謎(木乃伊化した女子生徒)を解く=欠如を埋めるという「ビート」がその基調を成しています。けれどもそこには同時にキャラクター同士の賑やかしい機知に富んだ会話劇という「うねり」が折り重なってきます。
 
そして本作においてこのような「ビート」のもたらす娯楽性と「うねり」のもたらす文学性という二つのリズムが相反することなく、むしろ相補的あるいは円環的に絡み合いながら、より高次元でひとつのリズムを創り上げているように思えます。こうした意味で、もとより本シリーズの大きな特徴であるライトノベルにおける娯楽性と文学性の並立は、本作においてますます円熟の域に入ったともいえるでしょう。
 

* サスペンス=いないいないばあ--宵物語

本巻収録の第二話「まよいスネイル」では直江津高校の一学年下の後輩、日傘星雨から、とある小学生女児誘拐事件に関する相談を受けた阿良々木は忍、八九寺真宵斧乃木余接ら怪異トリオと共に事件の真相解明へと乗り出します。
 
今回も物語の軸はやはり阿良ヶ木が怪異がらみの謎を解く「欠如を埋める」という展開になっています。こうした物語展開は一般に「サスペンス」と呼ばれます。ここでいう「サスペンス」とは英語で「宙吊り」を意味しており、このような「サスペンス(宙吊り)」においては、その一方で「謎の提示=0」から「謎の解決=1」へという「ビート」が強調されることになりますが、他方ではこの「謎の提示=0」と「謎の解決=1」のあいだで生じる緊張状態が複雑な「うねり」を生み出すことになります。
 
ところで、このような「サスペンス」におけるリズムの二層構造を千葉氏は「いないいないばあ」という子どもの遊びを一つの原理として説明しています。ここでいう「いないいないばあ」という遊びにおける「いないいない(何かが隠された状態)」から「ばあ(何かが露わにされる状態)」への転換とは、子どもの根本的な「不安(0)」と「安心(1)」の交代を表しています。
 
この点、精神分析を創始したジークムント・フロイトは「快原理の彼岸」という論文において、子どもが糸巻きを投げて遠くに転がっていった時に「おーおーおーお(いないいない)」といい、それから糸を引っ張って手元に戻す時に「いた(ばあ)」という反復動作に注目し、このような遊びによって子どもは母の欠如の埋め合わせをしていると解釈しました。
 
すなわち「いないいないばあ」における0と1のビートには母(他者)の欠如がもたらす寂しさが表れているといえます。けれども、やがて子どもはこのような0と1のビートからなる存在論的なリズムがもたらす寂しさを複雑なうねりをなす生成変化のリズムに上書きすることで乗り越えていきます。つまるところ人生もまた「サスペンス=いないいないばあ」ということなのであり、こうした意味で「娘」の「母」からの「自立」を描き出した本作もまた「サスペンス=いないいないばあ」の物語であったともいえます。
 

* 反復されるアンチセンス--余物語

本巻収録の第四話「よつぎバディ」では大学1年生の夏休みの直前に阿良々木は家住羽衣准教授に呼び出され、彼女から自分の3歳の娘を虐待していると打ち明けられ、しかももう3日間帰宅していないので自宅で檻に閉じ込めている娘の様子を見てきてほしいという奇妙な依頼を受けます。そして余接とともに家住准教授の家を訪れた阿良ヶ木はそこで何とも不可解な光景を目にすることになります。
 
前作に続きまたも母と娘の関係が一つのストーリーの軸をなしています。思えば本シリーズにおいて「母娘関係」という「問題」は『化物語』以降、幾度となく反復されています。この点、小説のみならずあらゆる芸術は「意味=メッセージ」の論理的前提として、何かしらの「問題」を抱え込んでいます。換言すればこのような「問題」に対する「解答」が創作物における「意味=メッセージ」ということになります。そしてある作品が人を深く惹きつけるのはその「意味=メッセージ」という「解答」が「正しい」からではなく、むしろ「問題」そのものの複雑さに様々な角度から光が当てられているからです。
 
さらに、このような「問題」がさまざまに変奏され、幾度となく反復されていくということは、その根本に何かしらの特異的な拘りがあることを意味しており、この特異的な拘りこそが作品に特異的な「強度=リズム」を与えているいうことです。このような「問題」を規定する特異的な拘りを千葉氏は時として「センス」を台無しにしてしまう「アンチセンス」と呼び、芸術における「センス」とはこうした「アンチセンス」という陰影を帯びてこそ、本当の意味で「センス」と呼べるものとなるのではないかといいます。
 
そして、こうした観点から振り返ってみると、本シーズンの幕開けとなった『忍物語』にしてもやはり、忍とスーサイドマスターの「母娘関係」を描いたものとして読めるでしょう。そしてこの「母娘関係」という「問題」は本シーズン全体において反復されていくことになります。
 

* 小説におけるノイズ--扇物語

本巻収録の第六話「おおぎライト」では阿良々木は大学でできた唯一の友人である食飼命日子から、心当たりもないのに彼氏から繰り返し謝罪をされるという相談を持ちかけられます。そして阿良ヶ木も恋人の戦場ヶ原ひたぎから、謝罪とともに別れ話を切り出されます。異変を感じ取った阿良ヶ木は自身の分身である忍野扇に助言を求めます。
 
本作では以上のような阿良ヶ木が謎を解決する「物語パート」と謝罪をめぐる「独白パート」が交互に出現する構成となっています。この独白パートの語り手は当初不明でしたが、後々に本シリーズを代表するキャラクターであることが明らかになります。
 
そして、ここでもやはり「母娘関係」が語られることになります。先述の『センスの哲学』におけるリズムの枠組みに照らしてみれば「物語パート」は「0から1」へというビートに駆動されており「独白パート」は複雑な生成変化のうねりに駆動されているといえます。しかしながら本作において二つのリズムは相補的に絡み合うことなく完全に自立的に作動しており、物語パートからみれば、独白パートはいわば「ノイズ」であるともいえるでしょう。
 
この点、本年のベストセラーとなった『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)において文芸評論家の三宅香帆氏は近代以降の日本社会における「労働」と「読書」の関連性を俯瞰した上で、現代における「読書」は「ノイズ」になったと論じています。そして同書において三宅氏は読書が「ノイズ」になってしまう事象を「文脈(コンテクスト)」という観点から理解しています。すなわち、一冊の本の中にはさまざまな「文脈」が収められていますが、このような「文脈」を読み解く余裕がなければ、それは単なる「ノイズ」になってしまうということです。
 
こうした「文脈」という観点からいえば本作の独白パートは本作単体という「文脈」だけでいえば端的に「ノイズ」になります。けれどもモンスターシーズン全体で反復される「母娘関係」という「問題=文脈」から本作を俯瞰するのであれば、まさに独白パートの方が「メイン」であり、物語パートの方がむしろ「ノイズ」になってしまうという極めてアクロバティックな構成となっているといえるでしょう。
 

* 母殺しの諸相--死物語⑴

上巻収録の第八話「しのぶスーサイド」では大学2年生の2月、阿良々木はスーサイドマスターの身に何かが起きているという忍のインスピレーションと専門家の1人である影縫余弦の誘いにより、ヨーロッパの中心にあるかつてアセロラ王国(仮)に赴きます。そしてアセロラ王国(仮)周辺で起きていたのは、不死身の怪異のみを対象とした伝染病「アンチ吸血鬼ウイルス」の蔓延でした。
 
2021年夏に公刊された本作は新型コロナウィルスが席巻する世界を極めて批評的に描き出しています。当時はデルタ株が猛威を振るい、4回目の緊急事態宣言下で東京オリンピックが開催され、コロナワクチンの接種がようやく拡大し始めた時期だったと記憶していますが、この時点でアフターコロナの様相をかなり的確に予見した本作はある意味で文学史上においても特筆すべき作品であるといえるでしょう。
 
本作では忍とスーサイドマスターの「母娘関係」における「母殺し」が描かれます。そもそも日本の文学において「母娘関係」は近年において光が当て始められたテーマです。この点、三宅氏は近著『娘が母を殺すには?』(2024)において小説や漫画といった様々なフィクションの読解を通じて、複雑になりがちな「母娘関係」における「母殺し=母の規範の無効化」を達成するための方法を論じています。
 
もっとも本作の場合、現在の忍とスーサイドマスターとは母娘関係というよりも盟友関係にあります。それゆえに本作で描き出される「母殺し」とは「娘」が「母」の規範を無効化するための「母殺し」ではなく、むしろ「娘」が「母」の死を自らのものとして引き受けるための「母殺し」であるといえます。こうした意味で本作は「母殺し」がもつ多面的な位相を「問題」として描き出した作品であるといえるでしょう。
 

* ライトノベルのリズムとノイズ--死物語⑵

下巻収録の最終話「なでこアラウンド」では専門家見習いにして漫画家志望の中学生、千石撫子は臥煙の指示により貝木泥舟斧乃木余接と共に、臥煙の仇敵である蛇遣い洗人迂路子を調査すべく、西表島に飛行機で向かいます。しかし途中で飛行機は墜落し、無人島らしき砂浜で目覚めた撫子は、島での一人サバイバル生活を強いられることになります。
 
実はすでに『宵物語』『余物語』『扇物語』においても、それぞれ第三話「まよいスネイク」、第五話「よつぎバディ」、第七話「おおぎフライト」という撫子に光を当てた物語が描かれています。そして、これら一連の物語のひとまずの完結編となるのが、やはりまたしても「母娘関係」が主題となる本作です。
 
本作の主人公である千石撫子というキャラクターはもともと『化物語』における5人のヒロインのうちの1人として登場しましたが、原作における扱いは他のヒロインと比べると不遇であり、当初はそのまま表舞台からフェイドアウトしてもおかしくない存在でした。ところがアニメ化をきっかけに予想外のブレイクを果たしてしまい、これを受けて原作サイドでもそのキャラクターが深掘りされることになります。
 
こうした経緯から撫子はセカンドシーズンの『囮物語』と『恋物語』においてメインヒロインを(というか「ラスボス」を)務めたのち、ファイナルシーズンではストーリー展開の都合上、再びフェイドアウトを余儀なくされるものの、オフシーズンの『撫物語』で見事返り咲き、このモンスターシーズンではもはや第二の主人公といえるまでに成長することになります。
 
本作はそのほぼ半分以上が撫子の独り語りによって占められています。もし本作を一般的なエンタメ小説として読むのであれば、本作は物語の展開にとっては余計な「ノイズ」に満ちた小説ということになるでしょう。しかしながら本作を「ライトノベル=キャラクター小説」として読むのであれば、本作は「半透明」の言葉が紡ぎ出す「リズム」に満ちた小説であるといえます。
 
そして『化物語』からここまで本シリーズを追ってきて、千石撫子という「キャラクター=文脈」を理解している読者であれば、おそらく多くの読者は後者の観点から本作を読み解くのではないでしょうか。こうした意味で本作は「ライトノベル=キャラクター小説」における「リズム」を「ノイズ」と紙一重のところで追求した「純文学」ならぬ「純ライトノベル」といえるのではないでしょうか。