* コンステレーションと物語
(「化物語(下)」より)「宇宙って、ほとんどが真空で、その中にまばらに銀河、星々の集まりがあるって配置なのよね。--なんとなく確率的には、真空に均等に星がばらけてそうに思えるけれど、実際にはそんなことはなく、星々は塊となって、偏って存在しているの。それを図に描いたものが宇宙地図--ふふ。星も人間同様、寂しがり屋ってことなのかしらね」(「終物語(下)」より)
「コンステレーション」という言葉は一般的には「星座」を意味しています。ここでいう「コン」とは「ともに」という意味であり「ステラ(ステレーション)」とは「星」という意味です。ここから転じて「コンステレーション」とは「布置」や「めぐり合わせ」といった意味でも用いられます。
分析心理学を創始したスイスの精神科医カール・グスタフ・ユングは20世紀初めに言語連想検査を通じて人のこころの中に感情に色づけられた一つのかたまりを発見し、これを「コンプレックス」と名づけ、この状態を「コンプレックスがコンステレートしている」と表現しました。ところがその後、ユングはコンプレックスよりもさらに奥深い精神領域に人の精神の基礎となる「アーキタイプ(元型)」を見出し、1940年ごろから「元型がコンステレートしている」という表現が多くなります。
そして1950年代になるとユングの論文の中には「コンステレーション」という言葉が「シンクロニシティ」という言葉と関連して頻出するようになります。このシンクロニシティというのは因果論的には説明できないけれども共時的なものとして把握できる現象をいいます。
ここでユングは例えば多くの人がUFOを目撃したというような共時的な現象というのは、ある種の元型的なものが多くの人の心の中でコンステレートしているからであるという観点から、こういった意味でのコンステレーションを読み出すことが一つの文化や時代の理解に役立つのではないかと主張しました。
こうしたことからユング派の心理療法ではコンステレーションが非常に重視されるようになりました。ユングは個人が過去に抑圧したり切り捨ててきたものを再統合していくプロセスを「自己実現の過程」と呼んでいます。そして、クライエントを援助していく上ではこうした自己実現の過程において現れるコンステレーションを読み出していく事が重要となります。
この点、ユング派の分析家でもある臨床心理学者、河合隼雄氏は世界を一つのコンステレーションとして共時的に読み切った例として曼荼羅や箱庭療法の作品を挙げた上で、こうしたコンステレーションを通時的に展開していくと、それは「物語」になるといいます。
実際に夜空の星座にそれぞれの「物語」があるように、人がそのこころの中に生じたコンステレーションという「めぐり合わせ」はときとして「物語」として生じてくるということです。
* 物語を物語る物語
この点、ライトノベル的リアリズムの文体を駆使して「UFO」ならぬ「怪異」というメタファーによる「コンステレーション」から「物語」を紡ぎ上げていく過程を鮮烈に言語化した物語として、いわば「物語を物語る物語」として、西尾維新氏の「物語シリーズ」を挙げることができるでしょう。
同シリーズの大まかなあらすじというのは、主人公である私立直江津高校3年生、阿良々木暦が春休みに瀕死の吸血鬼、キスショットを助けたことで「吸血鬼もどきの人間」となって、様々な怪異絡みの事件と遭遇する中で人間的に成長していくというものです。
同シリーズは「化物語」「傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」からなる「ファーストシーズン」と「猫物語(白)」「傾物語」「花物語」「囮物語」「鬼物語」「恋物語」からなる「セカンドシーズン」を経て「憑物語」「暦物語」「終物語」「続・終物語」からなる「ファイナルシーズン」において、ひとまずの区切りを迎えることになります。
*「終わり」へと向かうコンステレーション--憑物語
大学受験まであと1ヶ月となった2月13日、阿良々木は鏡に映らなくなってしまった自分に気づきます。阿良ヶ木の相談を受けた怪異の専門家である影縫余弦と彼女が使役する憑喪神の怪異である斧乃木余接は検証の結果、阿良ヶ木が昨年の春休みにキスショットの眷属となって以降、これまで幾度となく吸血鬼の力に頼ってきた代償として、いまやキスショットの眷属としてではなく「生まれついて」の吸血鬼となりかけていると結論します。
これ以上の吸血鬼化の進行を回避する方策はただ一つ。吸血鬼の力にこれ以上頼らないこと。影縫たちに今後二度と吸血鬼の力を使わないと約束する阿良ヶ木でしたが、その矢先に彼の後輩と妹たち、神原駿河、阿良ヶ木火憐、阿良ヶ木月火が何者かに誘拐されたという知らせが入ります。
こうして北白蛇神社にて阿良ヶ木は誘拐犯である人形使い、手折正弦と対峙します。彼は余接の「製作者」の一人でもあります。阿良ヶ木は余接の力を借りて正弦を倒し、なんとか事態を収束させますが、その一方で余接でこの事件の「黒幕」の正体を示唆しています。こうして「終わり」へと向かうコンステレーションが大きく描き出されていく事になります。
*「終わり」へと向かうもうひとつのコンステレーション--暦物語
ファイナルシーズンは当初「憑物語」「終物語」「続・終物語」の三部作構想だったようですが、シリーズの長期化に鑑み、この辺りで一度これまでのシリーズを振り返ろうという意図で執筆されたのが全12話からなる本作です。
この点、第1話から第9話ではもっぱら日常の中で生起する様々な不思議な出来事が語られます。花壇に祀られた奇妙な石。屋上においてある花束。鬼のような模様を浮かび上がらせる砂場。未来の結婚相手を水面に映す風呂。不吉なおまじないの噂。空手道場の庭に突然現れた大樹。茶道部のお菓子を食べる幽霊。山頂に建立された神社。消えたドーナツ。これらの出来事は一見、怪異絡みのようで、最終的には怪異とは無関係な出来事として説明がつけられます。
けれども後に「終物語」で明らかになるように、こうした「説明不可能なことに説明をつけてしまう」という非怪異的な対処法こそが、むしろ怪異への真っ当な対処法であるともいえます。そういう意味では本作で語られる非怪異的な出来事達の中にも「終わり」へと向かうもう一つのコンステレーションを見出す事ができるでしょう。
*「終わり」へと向かう二つの「始まり」--終物語⑴
前作のラストからファイナルシーズンの物語はその「終わり」に向けて大きく動き出すことになりますが、本作は上中下の3巻構成となっており、まずは上巻と中巻で「終わり」へと向かう二つの「始まり」の物語が語られることになります。
まず上巻のあらすじはこうです。10月下旬、阿良々木は神原経由で直江津高校に転校してきたばかりの1年生女子である忍野扇と出会います。そして扇は阿良ヶ木に直江津高校には「隠し教室」があるといい、果たして阿良ヶ木と扇はその「隠し教室」の中に閉じ込められてしまいます。これは何らかの怪異現象ではないかという扇の語りに導かれて、阿良ヶ木は2年前に起きたある事件を想起します。
2年前に阿良ヶ木が所属していた1年3組の学級委員長であった老倉育は病的な数学マニアであり、本人は世界史上最も美しいといわれる数式に倣い自身を「オイラー」と呼ばれたがっていましたが、彼女の意に反してクラスでのあだ名は「ハウマッチ(おいくら)」でした。そして老倉は自分が「オイラー」と呼ばれないのは阿良ヶ木が自分より数学の出来が良いせいだと思い込み、彼を蛇蝎のごとく嫌っていました。
2年前の7月15日、老倉は数学の試験で起きたカンニング疑惑の犯人を探す秘密学級会を開催し、阿良ヶ木は議長に指名されます。議論は紛糾し最終的に「多数決」で犯人は老倉ということにされてしまい、結果、彼女は不登校になってしまいます。
この話を阿良ヶ木から聞いた扇は事件の真犯人を見事に特定してしまいます。そしてその翌日、2年ぶりに登校してきた老倉との再会をきっかけに、阿良ヶ木はこれまで完全に忘却していた自らの過去と向き合うことになります。
ところが阿良ヶ木が神原と待ち合わせた学習塾跡に謎の鎧武者が現れ、応戦した神原を鎧武者はエナジードレイン(対象の体力や精神力を奪う怪異現象)で圧倒します。たちまち窮地に陥った阿良ヶ木たちでしたが、突然発生した火災と余接の登場で辛くも命拾いします。その後、忍、伊豆湖と再会した阿良ヶ木はその鎧武者の正体が400年の時を経て復活した忍の最初の眷属「初代怪異殺し」であることを知ります。
現代に蘇った初代怪異殺しはかつての主人である忍とヨリを戻すことを熱望しますが、その一方で、忍は言を左右に彼との再会を頑なに拒絶します。そんな忍の煮え切らない態度を神原は「きみはただの人見知りだ」と真っ向から非難します。そして阿良ヶ木は忍の心中を理解しつつも、あえて憎まれ役を務めてくれた神原に報いるため初代怪異殺しとの決闘に赴きます。
*「終わり」の「終わり」--終物語⑵
この一見して関連性のなさそうな二つの物語は「忍野扇」という存在を語る上で実は密接に関連しています。すでにセカンドシーズンの頃から数々の伏線が露骨に張られているように、この「忍野扇」という存在こそがファイナルシーズンの真のラスボスとなります。
この点、阿良ヶ木はあるところでは「忍野扇さえいなければ」と述べ、別のところでは「忍野扇がいてくれたから、今がある」とも述べています。このような意味で阿良ヶ木にとって彼女は極めて両義的な存在として位置付けられています。
こうして、いわば「終わり」の「終わり」となる下巻でいよいよ阿良ヶ木は扇と「対決」することになります。そして、この「対決」は彼がこれまで目を背け続けてきたものそのものとの「対決」であるといえます。
* あなたはあの日失った正しさをずっと追い求めている--終物語⑶
「僕はあのときまで、正しさみたいなものを信じていた--世の中には正しいことがあって、それができるかできないか、なんだって。だけど、間違ったことでも、酷いことでも、馬鹿げたことでも、多くの人がそれを肯定すれば、正しくなってしまえることを、僕は知った」(「終物語(上)」より)
この点、本作を駆動する大きなテーマの一つが「正しさ」です。この点、幼少期から中学に至るまでの阿良ヶ木は警察官を職業とする両親の教育によって普遍的な「正しさ」を曇りなく信奉する少年でしたが、あの高校1年の秘密学級会で「多数決」により「正しさ」が捏造される瞬間に直面したことが契機となり、以降の彼はよく知られる「友達はいらない。人間強度が下がるから」という台詞に象徴される厨二病的ニヒリズムに陥ります。
「あなたはあの日失った正しさをずっと追い求めている--失った正しさを取り戻すために、あなたがこの教室を作ったのですよ」(「終物語(上)」より)
もっとも、こうした阿良ヶ木の厨二病的ニヒリズムもあの春休みにキスショットと邂逅して以降、数多くの出会いの中でずいぶんと揺らいではきましたが、やはり彼の中ではかつて抑圧した自らの「正しさ」とは折り合いをつける事は出来ずにいました。けれども本作ではいよいよ「正しさ」の方から彼に「対決」を迫ってくる事になります。
「間違いを正し続けていけば--ミスを一つずつ潰していけば、いつかはそれは、真っ白な正しさになるんだろうか。どちらかと言えば真っ黒な正しさになりそうだけど、とにかく、煎じ詰めれば、僕が知りたいのはそういうことだ。」(「終物語(下)」より)「そして私もまた、間違いを正すタイプの正しさを追い求める者です--ルール違反をした者に退場を命じるのが、私の役割です」(「終物語(下)」より)
* 幸せになろうとしないことは卑怯だよ--終物語⑷
「私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。自分がどうして幸せなのか、考えようとしない奴」「自力で沸騰したと思っている水が嫌い、自然に巡ってくると思っている季節が嫌い。自ら昇ってきたと思っている太陽が嫌い--嫌い、嫌い、き、き、嫌い--嫌いだ。お前が嫌いだ」(「終物語(上)」より)
そして同作を規定する大きなテーマのもう一つが「幸せ」です。この点、上巻では阿良ヶ木と老倉の意外な関係と老倉の苛烈な過去が詳らかにされます。いわゆる「親ガチャ」に恵まれなかった人生の歩み手であった老倉はかつてやっとの思いで発したSOSに当時の阿良ヶ木が全く気付かなかったことから「阿良ヶ木のせいで私の人生はめちゃくちゃになった」という論理を作り上げ、自分の心を辛うじて守っていました。
「わかっているわよ。お前のせいじゃない、私が悪いってことは--親のせいでもない。お母さんの言ったことが正しいんだ、生まれたのが私じゃなきゃあ、もっとまっとうな人生だった。私が悪い。私が悪い。私が悪い」「だけどさあ、お前のせいにでもしなきゃ、やってられないんだ、阿良ヶ木。申し訳ないけど、私の悪者になってよ。もう駄目なんだよ、追いつかないんだよ、親を悪者にしているだけじゃあ」「どうしてうまくいかないんだろう。私、ちゃんとやっているのに、努力しているし、頑張っているし……そりゃ性格とか頭とか、色々おかしいところはあるけど……。ここまでの罰を受けるような悪いこと、何もしてないじゃん。教えてよ、阿良ヶ木。お前、今幸せなんでしょう?それに少しでも私が貢献しているって言うなら、そう思ってくれるなら、教えてよ。どうして私は幸せになれないの」「だってさあ、私の脆さで幸せになんかなったら、ぐしゃって潰れちゃうわよ。目も身も、潰れちゃうよ。幸せの重みに耐えられない。今更幸せになるより、ぬるーい不幸に足首まで浸かって、適当に凌いでいきたい。靴をずぶ濡れにして生きていきたい。実際にそうしてきたし……うん。今更幸せになんてなりたくない。手遅れなんだよ」(「終物語(上)」より)
このような老倉の処世観に対する本作からの間接的な応答となるのが、中巻における阿良ヶ木に対する余接の次のような言葉となります。
「言い訳のようにも聞こえるけどね。(略)幸せにならないから勘弁してください、幸せになろうとなんかしないから、どうか許してください、どうか見逃してくださいと言っているようにも。僕達はこんなに不幸なんだから責めるなよ可哀想だろって主張しているようにも。ねえ鬼いちゃん、ひょっとしてあなた、不幸や不遇に甘んじていることを、『頑張っている』と思っちゃってるんじゃないの?」「そういういうのを世間では『何もしていない』って言うんだよ--不断の怠けだ。不幸なくらいで許されると思うな。終わったくらいでリタイヤせずに、ハッピーエンドを目指すべきだ。」「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」(「終物語(中)」より)
そして、このような阿良ヶ木の「幸せ」に背を向け続ける「卑怯」な態度が「間違いを正す」存在としての「正しさ」を生み出す事になりました。
こうした「正しさ」との「対決」を経て阿良ヶ木が手にしたのは「幸せ」なるための答えでした。それはおそらく皆が知っているけれども知らないふりをしている極めてシンプルな答えであったといえます。結局のところ、人は知っていることしか知らないということなのでしょう。
ここで一つの「物語」が終わり、新たな「物語」が幕を開けます。いわば本作はさまざまなコンステレーションの「めぐり合わせ」の中で「正しさ」と和解して「幸せ」に向きあっていく自己実現の物語を物語る物語であったといえます。
* ささやかな救済としての「終わり」の「続き」--続・終物語
臨床心理士の岩宮恵子氏は思春期の子どもにとって「鏡」とは鏡の「こちら側」をそのまま映すだけのものではなく、その「向こう側」の何かを見せるものであると述べています。すなわち境界性を内包している思春期の身体は、この世の日常とは違う位相に開かれやすく、そのとき「鏡」は違う位相への通路となり、そして鏡の中の「向こう側」の自分、つまり位相の違う別の世界の自分が「こちら側」の自分よりもリアリティを持つことが十分に考えられるということです。
「終わり」の「続き」となる本作で阿良ヶ木は「鏡の国」に迷い込みます。そこはいわば裏が表になった世界であり、いわば切り捨てられた「向こう側」を「こちら側」に引き戻した世界でした。そして、この世界では本作では多くのキャラクターの「裏側」が現れます。これまでの読者であればお馴染みの「裏側」もあれば、初めて見る「裏側」もあるでしょう。
いわば彼女は「向こう側」を引き戻すことで、ほんの少しだけ「選ばなかった未来」を生きる事ができたといえます。そしてそれはやはり「めぐり合わせ」の中でかつて切り捨てた「正しさ」と「幸せ」を救い上げていく自己実現の過程であったともいえるでしょう。こうした意味で本作は語り残した老倉育のささやかな救済の物語であったようにも思えます。