かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

パラノ・ドライブとスキゾ・キッズ

 

* ニュー・アカデミズムの起爆剤としての「構造と力」

 
日本経済が空前のバブル景気へ向かいつつあった1983年9月、勁草書房という人文系出版社から一冊の本が出版されました。タイトルは「構造と力」。著者は浅田彰。当時、京都大学人文科学研究所助手のポストにあった弱冠26歳の青年が著したこの本はフランス現代思想を題材にした難解な思想書にもかかわらず15万部を超えるベストセラーとなり、世の中に「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる空前の現代思想ブームを巻き起こしました。
 
同書の「序に代えて《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み--千の否のあと大学の可能性を問う」では「サブタイトルを書きながら、はや投げ出したいような気分になってくるのを、どうしようもない」という文章から始まり、何事も要領良くこなす現代の大学生への違和感が表明され、いま大学という場で真に学ぶべき知とは何かが問われます。
 
続いて大学における「文・理学部中心/法・医学部中心」という歴史的変遷から「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)=虚学的/実学的=象牙の塔/現実主義」といった二者択一が提示され、ここで重要となるのは「感性によるスタイルの選択」だと述べられた後、あの有名な一文が現れます。
 
ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。このことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探求の道」に励んでみたり企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラけることによってそうして既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。
 
その上であえて言うのだが、評論家になるのも良くない。〈道〉を歩むのをやめたからといって〈通〉にならねばならぬという法はあるまい。自らは安全な「大所高所」に身を置いて、酒の肴に下界の事どもをあげつらうという態度には、知のダイナミズムなど求むべくもない。
 
要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身を晒しつつ、しかも、批判的姿勢は崩さぬことである。対象と深く関わり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。言ってしまえばシラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。
 
先ほどの文脈で言うとどうなるか。醒めた目で知を単なる手段とみなすことはまず退けられる。そもそも、あなたは目的そのものにシラケているはずだ。かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。そこで、あなたは「どうせ何にもならないけれど」と言いつつ知と戯れることができる。そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。
 
(「構造と力」より」)

 

* 構造主義ポスト構造主義

 
ここから氏は大学における知の二者択一から社会科学という学問分野それ自体に突きつけられた二者択一へとそのパースペクティヴを拡張した上で、これから同書において問おうとする「構造主義」と「ポスト構造主義」の見取り図をざっくりと素描していきます。
 
まず議論の出発点に氏は人間を「狂った生き物」とする考え方を置きます。すなわち、生の「方向=意味(サンス)」が予めプログラムされた動物や植物と異なり、過剰な「方向=意味」を抱え込んだ存在である人間は放っておいたらどこを向いて走り出すかわからない厄介な存在であるということです。
 
このような「方向=意味の過剰(生きた自然からのズレ)」はまず恣意性のカオスとして現れます。そこで自然の秩序を持たない人間は「恣意性の制限(ソシュール)」としての「文化」という秩序を構成する必要があります。これが構造主義のいうところの「象徴秩序(差異の共時的体系)」です。もっとも、ここで注意すべき点は時系列的にまずカオスがあって次に象徴秩序がくるというわけではなく、人間はつねに/すでに象徴秩序の中にいるのであり、恣意性のカオスはそこから論理的に遡行することで初めて見出されるということです。
 
次に氏は象徴秩序の類型としてレヴィ=ストロースの「冷たい社会」と「熱い社会」という理念型を導入します。この点「冷たい社会」とは近代以前のほとんどすべての社会であり、これらの社会で象徴秩序はトーテミスムなどを導入することでコスモス(自然の系列)とノモス(社会の系列)がメタフォリックに対応する二つの二元構造をとっています。この対応によって本来は恣意的なものに過ぎない各系列の文節化がある程度の安定性を得る事になります。とりわけコスモスは「聖なる天蓋」としてノモスを支え、その秩序を時代の激動から守る役割を果たします。
 
もちろん、そのような仕組みをとったからといって象徴秩序の中に過剰なカオスを回収し尽くすことは不可能です。そこで「冷たい社会」は周期的な祝祭における常軌を逸した蕩尽(ハレの時空)によってこの過剰な部分を処理することで日常における象徴的秩序の安定性を維持しています。
 
これに対して「熱い社会」とは、多くの「冷たい社会」を次々と呑み込み、その各々のコスモスーノモス構造を解体することによって成立した近代社会です。ドゥルーズ=ガタリに倣って言えば、近代社会とは象徴秩序を脱コード化することによって出現した社会です。
 
この点「冷たい社会」が「方向=意味の過剰」をスタティック(静態的)な「差異の体系(構造)」における高次元の象徴的意味のうちに結晶化させようとするのに対して「熱い社会」は「方向=意味の過剰」からなるダイナミック(動態的)な「差異化過程(力)」を一定方向に回路付けて、より速くより遠くまで加速し続ける運動の中に仮初の安定を得ようとします。
 
従って「冷たい社会」が定期的な祝祭を必要としたのに対して「熱い社会」はこうした祝祭を必要としません。「方向=意味の過剰」は一歩でも余計に進もう、余分な何かを生産しようとする日常の絶えざる前進そのものによって、形を変えて解消されることになります。端的にいえばこの日常そのものこそが世俗化された持続的な祝祭空間であるということです。
 

* 二者択一という問題設定そのものを疑うということ

 
もっとも、その一方で「差異化過程」においては「方向=意味の過剰」を一方向に回路づけるための「整流器(加速器/安全装置)」が必要となります。こうした意味での最も有効な「整流器(加速器/安全装置)」として同書は「教育機構」を挙げます。
 
この点「教育機構」の最高学府たる大学においては、一方で「応用科学」としての知がメノトミックな手段性の連鎖に組み込まれ、差異化過程の「加速器」として肥大化していき、他方で「純粋科学」としての知はメタフォリックな対応によって、差異化過程の「安全装置」の役割を果たすようになります。
 
換言すれば一方は「部分的社会工学」といった名の下で断片化・無意味化を余儀なくされ、他方は本来全体たりえぬものを全体と信じ、そのヴィジョンをマンダラの如く崇拝することで近代社会の宗教と化すということです。
 
こうして我々はあの「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)=虚学的/実学的=象牙の塔/現実主義」という不毛な二者択一へと連れ戻されることになります。そしてここで重要なのはやはりこの二者択一という問題設定そのものを疑うことであり、一方で断片と化すことを拒否しつつ、他方で虚構のマンダラを切り裂くことである、と同書は述べます。
 
そして絶対的な基準に同化してそこから近代批判を行う手もさりとて全てを異化し一般的な相対化に訴える手も先が見えている以上、残されているのは、ひとまず近代を常ならぬ恐るべきものとして引き受けた上でその内部で局所的な批判の運動を続ける困難な戦略であるとして氏は次のように述べます。
 
教会の説教壇の如き絶対の高みから大鉈を振るうのではなく、寿司屋のカウンターに魚の切身を並べるようにパラダイムの数々を陳列してみせるのでもない。恐るべき粘着力を持つ近代のドクサの中でそれと格闘し、一瞬の隙をついてそこから逃れ去る、あるいは、それ自体をズラすのである。始原なし目的なしの過程の一契機としての切断。それこそ、近代に絡め取られた知の唯一の可能性であり、大学の生み出しうる最大の事件であり、いま《知への漸進的横滑り》を開始しようとするあなたに先程来提案してきた「方法ならざる方法」なのである。
 
(「構造と力」より)
 

* パラノ・ドライブとスキゾ・キッズ

 
こうした観点から同書の第Ⅰ部においては構造主義とポスト・構造主義のパースペクティヴがより詳細に描き出され、第Ⅱ部においては構造主義のリミットとしてフランスの精神分析医、ジャック・ラカンが位置づけられ、その後いよいよポスト・構造主義の大本命としてドゥルーズ=ガタリが登場します。
 
この点、同書はドゥルーズ=ガタリの「コード化」「超コード化」「脱コード化」という三段階説に依拠した上で、浅田氏は脱コード化を極限まで推し進め「内部」から「外部」に出よと力説します。もっとも、ドゥルーズ=ガタリが言うところの「オイディプス的三角形」をはじめとする近代資本社会に実装された様々な「整流器(加速器/安全装置)」は「脱コード化」を促す過剰の奔出をなし崩し的に解消して、同書が「クラインの壺」と呼ぶ無限循環回路へと還流させていきます。腰を落ち着けたが最後「外部」は新たな「内部」になります。こうした「クラインの壺」の中でなお「外部」へ突き抜けようとするのであれば、重要なのは「常に外へ出続ける」というプロセスに他ならないということです。
 
こうして同書終盤で示された「パラノイアックな競争/スキゾフレニックな逃走」というコントラストは浅田氏の次著「逃走論(1984)」において「若者の生き方論」へと接続されました。同書において氏は(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する生き方をパラノイア(妄想症)に喩え「パラノ・ドライブ」と呼びます。これに対して多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する生き方をスキゾフレニー(分裂症)に喩え「スキゾ・キッズ」と呼びます。言うなれば「パラノ・ドライブ」とはこれまでの過去の全てを「統合化(積分)」し続ける生き方であり「スキゾ・キッズ」とは、いまここの現在をアドホックに「差異化(微分)」し続ける生き方のことです。
 
こうして氏は今こそ「パラノ・ドライブ」の外に出て「スキゾ・キッズ」の本領を発揮し、メディア・スペースで遊び戯れる時が来たと力説します。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。こうした考え方は消費化情報化社会が爛熟し、バブル景気へと突入しつつあった1980年代中盤の日本社会の気分と見事に同調することになりました。「パラノ/スキゾ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞し、浅田氏は自らその「逃走」を実践するかのようにマスメディアの寵児となっていきます。
 

* ポストモダンの現在地

 
それでは現代においても、この「パラノ/スキゾ」という構図は未だに妥当なものといえるのでしょうか。
 
この点、国内批評における主要な言説は1970年以降の日本社会では社会をまとめる「大きな物語」が徐々に機能しなくなりポストモダン状況が段階的に進行しているという立場をとっています。その段階は論者によって微妙に異なりますが、大きくいえば、まず1970年前後の「政治の季節」の終焉と共に「理想(マルクス主義に代表されるイデオロギー)」としての「大きな物語」が無効となり、以降は「虚構(浅田氏のいうところのスタイル)」としてのみ「大きな物語」が機能するようになります。
 
そして、こうした意味での「大きな物語」が未だに日本社会で曲がりなりにも機能していた1980年代においては「大きな物語」の凋落を語ることこそが絶対的な価値を持つという相対主義(という名の絶対主義)が台頭することになりました。そして浅田氏の提示した「パラノ/スキゾ」という構図もこうした(疑似的な)相対主義を顕揚する言説として受容されていきました。
 
ところがバブル崩壊や冷戦終焉を背景として日本社会における「大きな物語」の機能が著しく低下した1990年代においては(疑似的な)相対主義を顕揚した80年代的態度も大きく後退することになります。そして阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年という年を境に「大きな物語」の失墜はいよいよ明白なものとなり、もはや何が正しい価値なのかがわからない時代が幕を開けることになります。
 
この点、1995年における社会像の変化を東浩紀氏は「ツリーからデータベースへ」という転回から、大澤真幸氏は「第三者の審級の撤退から回帰へ」という観点から、宇野常寛氏は「ビック・ブラザーからリトル・ピープルへ」という変化からそれぞれ捉えます。
 
この三者の議論はそれぞれが対立する箇所も少なくない一方で、その核心においてはある種の連続性を見出す事もできます。すなわち、ここでは「大きな物語」なきポストモダンにおいて個人がその生を基礎付ける「小さな物語」を生成するシステムとして東氏は「データベース(大きな非物語)」を想定し、こうした物語を生成するシステムの作動原理として大澤氏は「第三者の審級の回帰(享楽の強制)」を想定し、さらに物語とシステムの共犯関係が生み出す病理現象を宇野氏は「リトル・ピープル(異なる物語同士の接続過剰)」と名指しているわけです。
 

* 複数化したパラノ・ドライブと倒錯的なスキゾ・キッズ

 
こうしてみると、確かに「大きな物語」が失墜した現代においては、いまや「大きな物語」を前提とした「パラノ/スキゾ」という構図は成立しないでしょう。けれどもその一方で「データベース」から生成される「第三者の審級の回帰」による「リトル・ピープル」の全面化という現代的状況はある面で「複数的なパラノ・ドライブ」であり、ここから「別の仕方で逃走するスキゾ・キッズ」の可能性を思弁することもできるのではないでしょうか。
 
この点、千葉雅也氏はドゥルーズ=ガタリは「神経症の精神病化」を誇張的に肯定しているものの、その背景にはドゥルーズが「ザッヘル=マゾッホ紹介(1967)」で展開した独自の倒錯論(急ぎすぎずにサディスティックでもあるマゾヒズム)が潜んでいるとして、この事実は「ポスト神経症的欲望」をいわば「精神病と倒錯のオーバーダブ」として捉える立場を示唆しているとしています。
すなわち、ドゥルーズ=ガタリの推進した「分裂分析」とは千葉氏によれば実は「分裂-マゾ分析」であり、彼らの理想化する「分裂症者」とは、セクシュアリティを規範化する「性別化のリアル」を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われるということです。そして、この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈するのであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば「性別化のリアル」の「否認的な排除」であり、彼らの狙いは「倒錯的な精神病」という折衷案であったことになります。それゆえに、彼らの称揚した「欲望」とは、アイロニーサディズム)とユーモア(マゾヒズム)の往還運動によってこの世界を「特殊な物語」によってコラージュしていく欲望であったといえます。
 
このような「倒錯的な精神病」という解釈を前提とすれば「スキゾ・キッズ」という主体概念もまた「大きな物語」からひたすら逃走するのではなく、むしろ「大きな物語」とは全く無関係に「特殊な物語」を生きる「倒錯的なスキゾ・キッズ」として捉え直すこともできるでしょう。そして、こうした「複数的なパラノ/倒錯的なスキゾ」というアクチュアルな構図から再び「構造と力」を読み直した時、おそらく我々は同書の中に、80年代的相対主義という文脈を遥かに超えた普遍的な批判力を見出すことができるのではないでしょうか。