* 全共闘世代のバイブル
戦後の日本文学史はまず終戦直後に登場した第一次・第二次からなる「戦後派」と呼ばれる作家達が現れるところから始まります。この「戦後派」と呼ばれる作家達の特色は、例えば戦場とか投獄といった極限的な状況を舞台として人間や社会における理想や真理の探求が従来の文学的常識を覆すような極めて斬新な方法で遂行された点にあります。こうして一躍、世の脚光を浴びてたちまち当時の文壇を制圧してしまった「戦後派」は、ここからさらに進んで気宇壮大で広い社会的視野を持った「大きな小説」を志向するようになり、彼らの多くは共産主義や社会主義の理想から政府や既存の社会体制を批判する「反体制文学」を推進しました。
当時は「政治と文学」が曲がりなりにも接続を果たしていた時代でした。この点、1960年代において「戦後派」の正統後継者として登場した若手作家達の一人に柴田翔氏の名が挙げられます。1964年に第51回芥川賞を受賞した本作「されどわれらが日々-」は全共闘世代を中心とした当時の若年層のバイブルとなった柴田氏の代表作であり、その発行部数は186万部を記録して1971年には映画にもなった作品です。
* 六全協から全共闘へ
本作は1950年代の学生運動を題材とした青春群像劇です。よく知られるように日本共産党は1955年の第六回全国協議会(いわゆる六全協)において、それまで分裂していた主流派(所感派)と国際派を統一する形で従来の武装闘争路線からの転換をはかりましたが、この六全協の決定によって多くの急進的な学生活動家が党の無謬性神話の崩壊に失望したといわれています。
ここから共産党とは一線を画した「新左翼」と呼ばれる政治運動が生じ、1957年には永続革命論を提唱したレフ・トロツキーの思想を継承した「革共同(革命的共産主義者同盟)」が、1958年には大衆に開かれた国民運動を標榜する「ブント(共産主義者同盟)」が結成され、これらの組織は60年安保闘争において大きな役割を果たすことになります。
その後、新左翼の運動は大きな政治的争点がないまま1960年代半ばまで一時停滞することになりますが、1960年代後半のベトナム反戦運動以降、徐々にその勢力を盛り返していきます。そして1968年に起きた日大不正経理問題や東大医局問題などを契機に新左翼の諸セクトに属する学生はノンセクトの学生と共に「全共闘(全学共闘会議)」を結成し当局に対する抗議運動として大学キャンパスを占拠することになります。
こうした意味で本作はある面ではいわば「全共闘世代のルーツ」を描いた作品であり、本作が当時の若年層から支持された理由の一つもやはりまた、この辺りにもあるようにも思えます。
* 古書に導かれた物語
本作の序盤のあらすじはこうです。語り手である東京大学英文学専攻の大学院生の大橋文夫は冷たい雨の降る秋のある日、アルバイトの帰りにたまたま立ち寄った古本屋でつい先月か先々月に完結したばかりのH全集が売られていることに気がつきました。そのうちの真新しい一冊を手に取って眺めているうちに眼前にあるその一揃が自分の存在にからみついてきて、自分の意に反するようなことを無理やりやらされるような重苦しい気持ちで文夫はH全集を購入する羽目になります。
その数日後、彼の婚約者である佐伯節子が文夫の下宿を訪ねてきます。文夫は1歳下で遠縁の親戚に当たる節子とは幼少時より従兄妹同士のような付き合いがありました。高校卒業後に東京女子大に入学し歴研部員となった彼女は当時学生の中でも最左翼として知られていた東大駒場の歴研とも交流し、実際の学生運動にも関わりを持っていました。
節子は文夫の本棚にあったH全集の一冊を手に取り何気にめくっているうちに、ひょうたん形の珍しい蔵書印に目を留め、暫くこの本を貸してほしいと文夫に申し出ます。翌週、佐伯家を訪れた文夫は節子からH全集と同じひょうたん形の蔵書印が押された薄い本を見せられます。節子はその薄い本は駒場の歴研部員であった佐野という共産党員の学生から借りたものだといいます。佐野は節子が大学1年の時、党の地下軍事組織に参加して以来、その行方がわからなくなっていました。
節子は佐野の消息を知るべく彼の駒場での同級生であったAという人物に手紙を出し、Aからの返信には佐野は昨年の春に佐野は一年遅れで大学を卒業してS電鉄に就職するもその後の消息は不明であることと、佐野と同じO高校の同窓に文夫と同じ研究室の助手を務める曾根という人物がいることが記されていました。そして節子からの依頼で文夫は曾根に佐野の消息を尋ねたところ、果たして佐野は睡眠薬で自殺していたことが判明します。
* ある革命家の末路
佐野は死ぬ前に長い手紙を曾根に出していました。その手紙によると高校2年の時に入党した佐野は高校生活動家の中ではリーダー的存在でしたが、1952年のメーデーの時に皇居前広場で尻込みする下級生を激しくアジりながらも警棒を握りしめた警官の凄まじい形相を見た瞬間に突然激しい恐怖に襲われ、その場から一目散に逃げてしまって以降、この出来事は彼の中でトラウマとなっていました。
その後、しばらく受験勉強に逃避していた佐野でしたが東大に入学した後には再び党の活動に献身的に関わり始め、やがて当時の共産党主流派の武装闘争路線に従い山村工作隊として東北地方に潜伏し武装蜂起の時を待つことになります。山村での10ヶ月の潜伏生活は佐野にとっては、やがて武装蜂起になった時、どうしたら自分は逃げ出せずに済むかという自己の問題に向き合った10ヶ月でもありました。けれども結局、あの六全協の決定により、蜂起の時を佐野が迎えることはありませんでした。
そして六全協の決定を受けた時、不覚にも奇妙な安堵感を覚えてしまった佐野は「革命を恐れる党員」である自身に絶望し、党を離れてS電鉄に就職します。その後、革命家としてはともかくも一般的な社会人としては比較的有能だった彼は会社でたちまち頭角を現してゆき、副社長の姪とお見合いをするまでになります。ところがその席で副社長と姪の些細なやりとりを目にしたことがきっかけとなり、佐野は死の観念に取り憑かれてしまい遂に睡眠薬自殺を図ることになるわけです。
* ニヒリズムという病
革命に挫折した革命家であるところの佐野が最後にたどりついた境地は「生きるとは無意味なことだ」というニヒリズムでした。そして政治活動とはまったく無縁の学生生活を過ごしてきた文夫もまた、このニヒリズムに取り憑かれていました。
高校時代の文夫は東大合格を目標として受験勉強に精を出していましたが、しかしそれは「目の前に目標があり、その要求にあわせて自分の頭脳を訓練すること」「自分の若い頭脳が、機械のように正確に動作するそのことを楽しんだ」からであり、言うなれば彼は受験勉強というプロセスそのものにある種の快楽を見出していたわけです。そしていざ合格という目標を果たした途端に彼は「月並みの喜び」とともに「あの確かな世界は終り、そこには不確かな、茫漠とした世界が拡がっていた」と感じてしまいます。
その後、文夫はその空虚の赴くままに何人かの女子学生と関係を持つことになりましたが、結局、どのような交歓も情事も彼の空虚を支えることにはなりませんでした。やがて2年生になった文夫は同じ演劇サークルに所属する梶井優子という独特の性愛観を持つ女性となし崩し的に関係を持つようになりますが、その後、妊娠が判明した彼女は堕胎手術の後に自殺してしまいます。
ところが文夫は優子から速達で送られてきた遺書を読み終えた時、不謹慎なことに「期待にふるえた」といいます。これは何とも理解し難い心理ですが、要するに彼はやがて襲ってくるであろう「悔恨」とか「自己嫌悪」とか「罪の意識」などといったものとの「闘い」の中にかつての大学受験の時のような「確かな世界」を「期待」していたわけです。
しかしながら「悔恨」も「自己嫌悪」も「罪の意識」も彼を襲うことはありませんでした。こうして文夫は「自分の空虚さは一時的、状況的なものではなく、自分と空虚は同義である」ことを悟ります。そしてその後、文夫はこの空虚を克服すべく、それまでの女性関係を清算して学業に身を投じ、大学院への進学時に幼馴染の節子と婚約することになります。
* それでもせめて、生きたと言える日々を
その一方で、節子もやはり佐野や文夫とは違った経緯により自らのうちにニヒリズムを抱え込んでいました。かつて節子は学生時代に駒場の歴研に出入りするうちに、当時の歴研キャップにして理論的支柱であった野瀬という男性に憧れて彼の押しかけ弟子となり、やがて2人だけで会う機会も多くなりました。そして佐野から地下潜行の話を聞いた時、野瀬もまた自分の前からいなくなると直感した節子は、これまで自分は彼の思想や行動を尊敬しているだけではない気持ちに「つまり彼を愛してしまっていること」に気づきます。
やがて翌年夏、あの六全協の決定を受けた多くの学生活動家同様に節子もまた党の無謬性神話の崩壊と共に自身の自我が崩壊していくような経験に直面することになります。そして夏が過ぎて秋となり、次々と大学を離れた学生たちが戻ってくる中、節子は野瀬との再会を心待ちにしていましたが、肝心の野瀬からは何の連絡もなく、意を決して駒場の歴研を訪ねた節子に対して偶然その場に居合わせた野瀬は「君と会うのがこわかった」と言います。
野瀬は今回の党の決定がどういう意味を持っているのかも、これからどうすればいいのかも何も判らないとうなだれ、さらには今回ばかりではなくこれまでも自分は何一つ判っておらず、ただ皆が言っていることをそのまま反復していただけであったと自身の苦悩を告白します。こうした野瀬の無様な姿を目の当たりにした節子は彼に対してかつてない親近感を覚える反面で、これまで彼に対して抱いていた畏敬の念が自分の中で急速に醒めていくことを淋しく感じていました。
その後、節子は学生活動を辞めて大学に閉じ籠り、卒業時に文夫と婚約します。節子は文夫の「正確な優しさ」に満ち足りた気持ちを覚えつつも、どこか物足りなさを感じていました。そしてある日、節子は窓際でタバコを吸っている文夫のニヒリズムに取り憑かれた横顔を見て以来、文夫との関係に漠然とした疑問を抱き始め、その疑問はあのH全集を目にした時に決定的なものになりました。
やがて節子は過去に囚われたままで未来に進もうとしない文夫に失望を深めていく一方で、かつて野瀬と過ごした幼くも純粋な日々の中に「眼くるめくような官能の歓び」を見出していたことに気付きます。そしてこうした経験がこれからの文夫との生活では決して起こり得ないだろうと悟った彼女は衝動的な自殺未遂を図ります。
その後、何とか九死に一生を得た節子は「せめて、生きたと言える日々を自分がまた持つ事ができないものか、どうか、もう一度試してみたい」という想いから、文夫との婚約を解消して東北の小さな町のミッションスクールで英語教師になるべく一人旅立っていきました。
* 理想の時代における実存文学
戦後社会学の泰斗である見田宗介氏は戦後日本を「プレ経済成長期」「経済成長期」「ポスト経済成長期」の3期に区分して、1945年から1960年までの「プレ経済成長期」を「理想の時代」と呼んでいます。ここでいう「理想の時代」とは文字通り、人々がそれぞれの立場からそれぞれの「理想」を求めて生きていた時代です。
この点、当時の「理想主義」を支配していた「大文字の理想」である「アメリカン・デモクラシー」と「ソビエト・コミュニズム」は互いに対立しながらも共に保守派権力における「現実主義」と対峙することになりました。けれどもその一方で「理想主義」の対極にあるはずの「現実主義」にしても、やはりまた「豊かな暮らし」とか「明るい未来」などといった「小文字の理想」を追求していました。そして、こういった色とりどりの「理想」が戦後日本の、しばし奇跡とも称される経済復興の駆動力となったことは疑いないでしょう。
こうした意味で本作は「理想の時代」における「ニヒリズム」への向き合い方を真摯に問うた作品であるといえます。本作において佐野が「(理想主義的な)大文字の理想」に挫折しニヒリズムに陥り、文夫が「(現実主義的な)小文字の理想」に過剰に同一化してニヒリズムをコントロールしようとする中で「(理想主義的な)大文字の理想」に失望する一方で「(現実主義的な)小文字の理想」にも馴染めなかった節子は誰のものでもない自分だけの「ひとつきりの理想」を探求する旅に出ることでニヒリズムを振り落とそうとするのでした。
本作は文夫の視点で読むか節子の視点で読むかでずいぶんと印象が異なると思います。おそらく文夫の視点で読む本作は従来の日本文学ではよくありがちな「挫折文学」の系譜へと送り返されることになるでしょう。けれども節子の視点で読む本作は未規定な主体が果てしなく無限に広がる未来へと自己を投企していく過程を瑞々しい文体で描き出すまごう事なき「実存文学」といえるのではないでしょうか。