かぐらかのん

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現代文学のリアリズムと思春期における異界体験--化物語(西尾維新)

* 自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム

 
日本は明治期に「言文一致体」を導入し近代文学の歴史を開きました。柄谷行人氏は「日本近代文学の起源(1980)」において「言文一致体」の導入により言語は近代以前の歴史的意味の充溢した「不透明」なものから「透明」なものとなり、ここから「風景」や「内面」といった近代的現実の発見を可能にしたといいます。
 
以降、長らくのあいだ文学とは風景や内面といった近代的現実を写生する知的営為であると見做されてきました。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった現代的虚構を写生しようとする新たな文学観が台頭し始めます。
 
この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」において、このような「現実の写生」と「虚構の写生」という二つの文学観を「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で対置させました。
 
こうした「まんが・アニメ的リアリズム」という文学観に支えられた小説の代表格が、1990年代以降の文芸市場において急速に存在感を見せ始めた「ライトノベル」と呼ばれる作品群です。大塚氏はこのような「ライトノベル」と呼ばれる作品群を近代文学における「私小説」との対比から「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義しました。
 
このような柄谷氏と大塚氏の議論を踏まえた上で、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において「ライトノベル=キャラクター小説」は従来の近代文学の文体と異なった文体によって描かれていると指摘しています。
 
まず「現実」を写生する近代文学において言語は「不透明」なものから「透明」なものとなりましたが「虚構」を写生するライトノベルにおいて言語は再び「透明」ではなくなります。けれどもそれは近代以前の「不透明」への回帰を意味しません。なぜならば「まんが・アニメ的リアリズム」とは既に「自然主義的リアリズム」を経由したところで成立しており、そこには大塚氏が「アトムの命題」と呼ぶ漫画表現における記号的-身体的な両義性が抱え込まれているからです。
 
こうしたことから、東氏はライトノベルの文章が当たり前の風景を描写してもそれはどことなく嘘くさく感じられ、逆に全くの幻想的な世界を描いたとしてもどこか「リアル」なものに感じられてしまうのは、おそらくその記号的-身体的な両義性のためであると述べ、ライトノベルの文体はいわば「不透明」な表現でありながらも現実に対して「透明」であろうとする矛盾を抱えた「半透明」な言葉になるといいます。
 
「半透明」な言葉は自然主義的な「日常」と〈超〉自然主義的=まんが・アニメ的な「非日常」を煩雑な世界観設定や時代考証といった中間項を介在させる事なく直結させることを可能にします。例えばゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」というジャンルはまさにこのような「半透明」な言葉に支えられた想像力といえるでしょう。
 

* ライトノベルの成立条件

 
そして本作はこうしたライトノベルが切り開いた文学観を限界まで突き詰めた作品といえます。周知の通り、本作は西尾維新氏の「〈物語〉シリーズ」における第一作目にあたり、ゼロ年代におけるライトノベルを代表する作品の一つに位置づけられています。
 
本作は当初「メディアミックス不可能な小説」を謳っていましたが、実際にはその後「〈物語〉シリーズ」は、アニメ、ゲーム、映画、漫画、スマートフォンアプリといった様々なメディアミックス展開を経ることで幅広い支持を獲得し、その絶大な人気は今もなお変わることはありません。
 
このような華々しいメディアミックス展開を経由した現在からみると忘れがちですが、本作はそもそも「ライトノベル」としては異端の位置にありました。この点、世間一般でいう「いわゆるライトノベル」とは特定のライトノベル系レーベルから出版され、作中で萌え絵的なイラストレーションを多用する作品を指しています。ところが本作は当時、どちらかといえば一般文芸レーベルと見做されていた講談社BOXから出版されており、何より「いわゆるライトノベル」における最大の特徴であるイラストも扉絵等を除きほとんど使用されていません。
 
こうした点からいえば本作は「いわゆるライトノベル」から外れた作品になるはずです。したがって本作が「ライトノベル」と呼ばれる理由をメディアミックス展開以前に求めるとすれば、それはまさしく本作の持つ「文体」にあるといえそうです。なお実際に作者の西尾氏にとって本作の執筆は「活字だけでライトノベルは実現できるのか」という実験的意味合いもあったそうです。
 
先に述べたようにライトノベルの本質は「キャラクター小説」であり、その制作においては「いかに魅力的な物語を生み出すか」という課題と同じくらいに「いかに魅力的なキャラクターを生み出すか」が重要な課題だとなります。ここでいう「キャラクター」とは「まんが・アニメ的リアリズム」を規定する想像力の環境=仮想的なデータベースを参照して構成される人物類型であり、東氏の定義で言えば「様々な物語や状況の中で外面化する潜在的な行動様式の束」をいいます。
 
この点「いわゆるライトノベル」では登場人物をキャラクター化するにあたってはイラストによる助けを多いに借りる事になるわけですが、本作はイラストをほとんど用いない代わりに莫大な量の「会話劇」を投入する事で登場人物をキャラクター化していきます。
 
ここではライトノベル特有の文体である「半透明」な言葉が極めて濃厚に充溢しています。すなわち本作のキャラクターはイラスト以前に言語によって成立しているといえます。こうした意味で本作はライトノベルの成立条件が極めて純度の高い形で現れている作品といえるでしょう。
 

* ゲーム的リアリズム

 
本作のあらすじは基本的には、主人公の阿良ヶ木暦が5人の少女たちとの交流の中で超自然的存在である「怪異」と関わり、彼女たちの抱えるトラブルを解決していくというものです。
 
このあらすじだけでわかるように、本作ではいわゆる「美少女ゲーム」の構造が導入されています。実際、作中で阿良ヶ木は美少女ゲームを念頭においた台詞を発しています。もちろん実際の美少女ゲームはヒロイン全員が各ルートにおいて攻略可能なマルチエンドシステムとなっていますが、小説である本作は当然ながらひとつの結末しかありません。ここから本作は物語の素朴な読解とは別の水準での読解を可能とします。
 
この点、東氏は前掲書においてライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なる文学観を見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力に取り憑かれた別のリアリズムを召喚します。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目するリアリズムを氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。
 
ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食する境界線上で発生する、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写し取る文学観をいいます。 そして時に、こうした複数の物語はメディアミックスや二次創作といった形で具現化することになります。
 
そして、このような「ある作品が受容される環境」を現実と作品の間に挟み込む読解技法として、東氏は「環境分析的読解」を提唱し、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させます。
 
この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていくことになります。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていくわけです。 
 
そこで本作を「美少女ゲーム」という構造から読解した時、阿良ヶ木=プレイヤーには特定のヒロインとのルート以外のいわば幽霊的なルートが常に取り憑いています。こうした幽霊的なルートについては作中において幾度となく言及が繰り返されています。そして物語の後半において阿良ヶ木はこの切り捨てられた未来に対してどう責任を取るのかという問題を背負わされることになります。
 
すなわち、本作は自然主義的読解のレベルにおいては「ある少女を救った物語」ということになりますが、環境分析的読解のレベルにおいては「ある少女を救わなかった物語」といえます。こうしたことから本作は物語的には極めて美少女ゲーム的な作品でありながらも構造的にはある種の美少女ゲーム批評として読める作品でもあります。そしてその主題の二重性からは誰かを助けるという事は誰かを助けない事であるというゼロ年代中盤以降のポスト・セカイ系的な思潮との共鳴を聴くこともできるでしょう。
 

* 思春期における異界体験

 
その一方で本作は言うまでもなく、普通に読んでも優れた「物語」を持っています。本書に登場する様々な「怪異」は我々がしばしこの現実の中で遭遇する異界体験のメタファーとしても読めるでしょう。人は通常、その成長過程で世界を「見えるもの」だけで囲い込み「見えないもの」を切り捨てていきます。けれどもその一方で「見えないもの」はしばし「異界」との遭遇とも呼びうる体験として回帰してきます。
 
この点、思春期は「異界」に最も接近する時期であるといわれます。本作はこうした思春期における「異界」との遭遇を「怪異」として描くある種の寓話ともいえます。
 
本作に現れる様々な「怪異」を敢えて分析心理学的な用語で分類すれば、おそらく戦場ヶ原ひたぎの蟹はグレート・マザー、八九寺真宵の蝸牛はトリック・スター、神原駿河の猿はコンプレックス、千石撫子の蛇はペルソナとアニマ、羽川翼の猫は影という風に、それぞれ関連付けることができるでしょう。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏は心理療法の現場においてしばし顕在化する「見えないもの」の位相を〈たましい〉という名で呼んでいます。ここでいう〈たましい〉とは身体と精神を統合する超越論的な場を指しています。そして氏は〈たましい〉は〈だまし〉として現れるといいます。「異界=怪異」との遭遇はまさに〈だまし=たましい〉との遭遇であるといえるでしょう。
 
人は世界に棲まう上で自らの生の物語を必要とします。そして「異界=怪異」との遭遇は、その生の物語を紡ぎ直す契機ともなります。だからこそ作中の有名な台詞にあるように人は結局最後は、勝手に一人で助かることしかできないんだと思います。本作は心理療法の現場においても言語化が難しいといわれる異界体験を見事なまでに「物語」として描き出した作品であると言えるでしょう。