かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

思春期における異界体験と自己実現の逆説--猫物語(白)/傾物語/花物語/囮物語/鬼物語/恋物語(西尾維新)

 

* 思春期における異界体験

 
人は通常その発達過程で世界を「見えるもの」だけで囲い込み「見えないもの」を切り捨てていきます。けれどもその一方で切り捨てられた「見えないもの」はしばし「異界」とも呼びうる体験として回帰してきます。とりわけ10代の「思春期」と呼ばれる時期はこうした「異界」へ最も接近する時期であるといわれています。
 
この点、西尾維新氏の〈物語〉シリーズに登場する様々な「怪異」とは、ある意味で、思春期における「異界」のメタファーでもあります。そして同シリーズの「セカンドシーズン」を構成する「猫物語(白)」「傾物語」「花物語」「囮物語」「鬼物語」「恋物語」という作品群では、羽川翼八九寺真宵神原駿河千石撫子忍野忍戦場ヶ原ひたぎといった〈物語〉シリーズのヒロイン達にとっての「異界=怪異」に焦点が当てられることになります。
 
人は世界に棲まう上で自らの生を基礎付ける「物語」を必要とします。そして「異界=怪異」との遭遇は、しばし生の「物語」を紡ぎ直す重要な契機ともなります。こうした意味で同シリーズは心理療法の現場においても言語化が極めて難しいとされる異界体験を見事なまでに「物語」として描き出しているとも言えるでしょう。
 

* 影の諸相--猫物語(白)

人は一つの統合された人格として生きている時、そこには必ず「生きられなかった反面」が生じるといいます。これはスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングのいうところの「影」の元型です。本作はどこまでも白く白無垢に、白々しく生きてきた少女がこれまで切り離し続けてきた自身の「影」と向き合い「影」を取り戻していく物語です。
 
ユングは「影」について「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくる全てのこと--例えば性格の劣等な傾向やその他の両立し難い傾向--を人格化したものである」と述べています。この点、影の顕現例としては、自我と影が入れ替わる「二重人格」や、影を外界に映し出す「投影の機制」や、ある人の影をその人の家族が背負う「影の肩代わり」などが挙げられます。
 
そして、本作において羽川翼から三たび「ストレスの化身」として切り離されたブラック羽川が「二重人格」に相当するのであれば、今回新たに「嫉妬の化身」として切り離された苛虎は「投影の機制」に相当するでしょう。そしておそらくは「(娘に対する)無関心の化身」たる羽川の両親もまた、長きにわたり羽川の「影の肩代わり」の役割を強いられていたのではないでしょうか。
 
誰もが自身の「影」と向き合うのは辛い経験です。しかし時として人生はそういう試練を--無理であり、無茶だけれども、決して無駄ではない試練を--要求してくるのです。そして「影」の統合においては、本作で羽川がブラック羽川に宛てた長文の手紙のように、これまで目を逸らしてきたものを丁寧に言語化することで浄化していく作業が必要となるでしょう。
 

* トリックスターは世界を救う--傾物語

本作は「元人間の吸血鬼もどき」である阿良ヶ木暦とそのパートナーである「元吸血鬼の人間もどき」である忍野忍のツーマンセルが「世界の滅亡」の危機に立ち向かいます。そしてこの物語の鍵を握るのが元「迷い牛」の怪異である幽霊少女、八九寺真宵です。
 
阿良ヶ木にとっての八九寺はユングのいう「トリックスター」に相当する存在です。トリックスターとはしばし神話や伝承に登場する道化的役回りを担う存在で、あちらとこちらの境界に出没し、既存の秩序を破壊し新しい秩序を創造する役目を担います。
 
トリックスターは限りなく悪に近い側面と限りなく英雄に近い側面という両義性を持っています。トリックスターの働きは「影」の元型が持つ逆説的な性質を最も端的に表しています。
 
この点、これまでのシリーズで阿良ヶ木と八九寺のコミュニケーションのそのほとんどは本編の流れとあまり関係がなさそうな無駄な雑談ばかりで埋め尽くされています。けれどもその無駄な雑談が実は何気に世界を滅亡から救っていたのでした。
 
そして現実においても革新的な発見や創造は一見して無駄な雑談の中からもたらされることが多いでしょう。我々の日常の中にもしばしトリックスターが出没します。そして人はトリックスターの助けによって物語を「傾」けることができるのです。
 

* 影との対峙--花物語

とある事情から左手に「悪魔」の力を宿していた神原駿河は、ある日不意に「絶対に願いを叶えてくれる」という「悪魔様」の噂を耳にします。
 
もしかしてその「悪魔様」とは、左手に「悪魔」を宿した自分の事ではないかと疑った神原であったが、果たして「悪魔様」の正体はかつての「宿敵」である少女、沼地蠟花でした。
 
共に中学バスケのスタープレイヤーとして脚光を浴びた2人はそのプレイスタイルも性格も生い立ちもまったく真逆の存在です。こうした意味で神原にとって沼地は「生きられなかった半面=あり得た姿」としての「影」であるともいえます。
 
羽川翼にとってのブラック羽川、阿良ヶ木暦にとっての八九寺真宵がそうであったように、この物語シリーズではユング心理学でいうところの「影」の元型というべき存在がしばし登場します。そして「影」の元型との向き合い方は人それぞれです。
 
例えば羽川は「影」を迎え入れる道を選びました。あるいは阿良ヶ木は「影」に振り回される道を選びました。そして神原は「影」を真っ向から対峙/退治する道を選んだわけです。
 

* ペルソナとアニムス--囮物語

本作からはユングのいう「ペルソナ」と「アニムス」を想起させます。ここでいう「ペルソナ」とは古典劇において役者が用いた仮面のように、人がこの世界を生きていく上で自ずとその人に期待される社会的役割をいいます。
 
いわば人は外界に向けた「仮面=ペルソナ」を必要とします。その際たるものが「男性」とか「女性」といった「性」に関する「ペルソナ」でしょう。けれどもその一方で「ペルソナ」としての「性」が確立する過程で切り捨てられ無意識化に沈められた「もう一つの性」が、男性における「アニマ」であり、女性における「アニムス」です。
 
この点、千石撫子はほぼ無自覚に「かわいい」という自身のペルソナを強固に作り上げ、そこに一体化しているといえます。これは男性側から見れば、いわゆる「アニマ女性」と呼ばれる存在となります。アニマ女性は「自我」というものをほとんど持たないため男性のアニマの投影を引き受けやすい存在となります。実際に自分のことを「撫子」と呼ぶ彼女にはほとんど「自我」というものが見受けられません。
 
やがて千石は小さな頃から密かに思慕してした「暦お兄ちゃん」に恋人がいる事を知ってしまい、これを契機に彼女のアニムスが活性化することになります。そして、そのアニムスの像は「クチナワ」という蛇神の怪異の「妄想」として顕現化することになります。
 
その一方で千石は忍から「かわいい」のペルソナを指摘されて動揺したところで、さらに阿良ヶ木の妹である月火からペルソナの具現物というべき「前髪」を切られてしまいます。ペルソナを喪い混乱した千石は「妄想」を「暴走」させ、ついにクチナワ=アニムスへの一体化を果たすことになります。
 
この点、多くの場合「自我」は「影」を媒介にしてアニムスと接触することが多いといわれます。千石にとっても、自身のアニムスを活性化させるきっかけは果たして戦場ヶ原という「影」であったといえるでしょう。
 

* 太母の両義性--鬼物語

我々人間は、その無意識の深層に自分自身の母親の像を超えた「母性」のイメージを持っています。それらは外界に投影され、各民族の神話に登場する女神をはじめとした様々な母性像として我々に受け継がれています。ユングはそれらの母性像が人類に共通のパターンを持つことに注目し「太母(グレートマザー)」というべき元型が人間の無意識の深層に存在すると考えました。
 
この点「母性」は「包摂する」「養い育てる」肯定的な面と「呑み込む」という否定的な面を併せ持っています。一般的には母性の肯定的な面ばかりが強調される傾向にあるため、その補償作用として、昔話や伝説などでは母性の否定的な面が多く保存されています。
 
例えばヨーロッパの昔話によく出てくる人喰いや魔女、我が国の山姥などがその典型といえます。もっとも一人の女神が肯定・否定の両面を兼ね備える例もあります。例えば鬼子母神(訶梨帝母)ははじめ幼児を取って食べる暴虐な性格の持ち主でしたが、後にお釈迦様に諭されて改心して安産・子育ての神になります。
 
そして西洋人が自我を確立していく過程にはこうした「母性」との対決があり、内面的な母親殺しが行われるとされます。その一方で、日本人の場合、母親殺しを避けての自立を試みる傾向にあるといわれます。こうした意味で阿良ヶ木と忍の邂逅を描いた「傷物語」は極めて日本人的な、自我と太母の奇妙な和解の物語として読めるでしょう
 
そして本作では忍の最初の眷属である「初代怪異殺し」のエピソードが語られることになります。400年前、偶然の成り行きから忍は日本の一村落の「神」となりますが、結果として忍が怪異の本分を逸脱し「神」を偽ったことが原因で村は滅んでしまいます。
 
いわば忍は村落にとっての豊穣の神であったと同時に死の神でもありました。そして「初代怪異殺し」はついに忍と和解できず精神を崩壊させることになります。ここで忍が語る「昔話」もまた、まさしく母性の両義性を表す寓意を如実に表しているといえます。
 

* アニムスとロゴス--恋物語

囮物語」の続きとなる本作の語り手を務める貝木泥舟なる人物は、かつて戦場ヶ原ひたぎの家庭を崩壊させ、さらに阿良ヶ木達が住む町の中学生相手に大規模詐欺を仕掛けた事で彼らから目の敵にされている「詐欺師」です。ところが本作で戦場ヶ原は貝木に蛇神と一体化した千石撫子を「騙す」ことを依頼します。
 
戦場ヶ原と貝木の関係は端的にいえば「被害者」と「加害者」の関係になります。けれども戦場ヶ原の貝木に対する感情はあまりにも複雑で、単なる「被害者/加害者」という関係では割り切れないものがあります。
 
この点、女性の無意識内に宿る男性的な面である「アニムス」は「力の段階」「行為の段階」「言葉の段階」「意味の段階」と四つに分けることができます。その中で、現代においてアニムスが女性にとって大きな意義を持つのは「言葉の段階」と「意味の段階」で示される「ロゴスの原理」であるとされます。
 
こうした観点からすれば、悪徳宗教団体に入れ込んだ母親との確執を契機に戦場ヶ原が行き当たった怪異「おもし蟹」はあるいは母性とアニムスの葛藤から生じた病であったともいえます。そして、当時の戦場ヶ原にとって「詐欺」というある意味で究極的な「ロゴスの原理」を体現する「師」であった貝木は、まさに彼女のアニムスの投影を引き受ける存在として機能していました。
 
そして、このような現象を人はしばし「恋」と呼びます。もちろん、このような「恋」など「詐欺」以外の何者でも無いのかもしれません。けれども、ある意味で「恋」の本質は「詐欺」と紙一重だったりする面もあるのではないでしょうか。
 

* コンステレーション--恋物語

 
こうして戦場ヶ原の依頼を受けた貝木は「神」となった千石と接触をはかることになります。そして千石にとって貝木との邂逅は「コンステレーション」というしかない奇妙なめぐりあわせとなります。
 
この点、ユングによれば「自我と影」や「ペルソナとアニマ・アニムス」などといった人の精神において様々に相対立する葛藤というのは、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考えました。ここでユングのいう「自己」とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力であり、こうした再統合の過程を、ユングは「自己実現(個性化)」に至る過程と呼んでいます
 
そして、ユングは、ある個人の「自我」が自らの「自己」と対決すべき時期が到来した時、そこで生じている内的現実に呼応するような「めぐりあわせ」というべき外的現実が起きるといいます。そこでユングは、このような内的現実と外的現実を「自己実現」に向けた一つの「コンステレーション共時的布置)」として把握することを重視することになります。
 
このようにユングは、心がその全体性の回復へ向け、相補性と共時性の原理により螺旋の円環を描く様相を「自己実現の過程」として捉えています。このユング的な自己実現はこれまで目を背けてきた諸々と対決していく荊の道であると同時に、日々生起する様々な困難の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出す道標ともなります。そして、このような「自己」の元型は時として「自我」の導き手としての「老賢者」のイメージとして顕現することになります。
 

* 自己実現の逆説--恋物語

 
幼い時から長らくの間、千石の阿良ヶ木に対する「恋」は徹底して閉じた彼女の世界の中で自己完結していました。こうした意味で、その「恋」の終焉は長らく幼いままだった彼女の「自我」が自らの「自己」と対決すべき時期の到来を告げています。そして、ここで貝木は図らずも千石の「自己実現」にとっての「老賢者」の役割を果たすことになります。
 
一度は千石を「騙す」ことに失敗し、窮地に追い詰められた貝木は千石がこれまでひた隠しにひた隠していたある「くだらないもの」を暴露します。そして半狂乱となった彼女に向けて貝木は次のような言葉を述べて渾身の「詐欺」を仕掛けます。
 
「千石。俺は金が好きだ(…)なぜかと言えば、金はすべての代わりになるからだ。ありとあらゆるものの代用品になる、オールマイティーカードだからだ。物も買える、生命も買える、人も買える、心も買える、幸せも買える、夢も買える--とても大切なもので、そしてその上で、かけがえのないものではないから、好きだ」
 
「逆にいうと、俺はな、かけがえのないものが嫌いだ。『これ』がなきゃ生きていけいないとか、『あれ』だけが生きる理由だとか、『それ』こそは自分の生まれてきた目的だ--とか、そういう希少価値に腹が立って仕方がない。阿良ヶ木に振られたら、お前に価値は無くなるのか?お前のやりたいことはそれだけだったのか?お前の人生はそれだけだったのか?」
 
「あのな、千石(…)阿良ヶ木と付き合うなんてかったるいことは、代わりにどっかの馬鹿がやってくれるってよ。だからお前は、そんなかったるいことは終わりにして、他のかったるいことことをやればいい。やりたいこともしたいことも、他にいくらでもあるだろ。あっただろ。違うか?」
 
「すべてを投げ出すほどに辛かったか?本当にそうか?制服を着たい高校はなかったか?好きな月刊誌の最新号を読みたくなかったか?ドラマの続きが、映画の公開が、楽しみじゃなかったか?なあ、千石。お前にとって、阿良ヶ木以外のことは、どうでもいいくだらないことだったのか?両親の、あの善良な一般市民のことは好きじゃなかったのか?お前の中の優先順位で、阿良ヶ木以外は全部ゴミか?」
 
(「恋物語」より)

 

ここで貝木の開陳する「かけがえのないもの〈ではないから〉、好きだ」というアクロバティックな倫理はある意味で自己実現の逆説を示しています。自己実現とはたったひとつの「かけがえのないもの」の獲得によって成されるのではなく、むしろ日常に溢れる様々な一見すると「くだらないこと」や「ゴミ」のような何かと何かのコラージュのあいだに見出されるということです。
 
そして、千石は貝木の「騙されたと思って、チャレンジしてみな」という言葉に「わかった。騙されてあげる」と答え、彼女なりの自己実現の道を歩み始めることになります。果たしてここに「詐欺師」こと貝木泥舟は見事、千石撫子を「騙す」ことに成功するのでした。
 

* うそと真実の物語--恋物語

 
ユング派の分析家でもある臨床心理学者、河合隼雄氏の名言に「うそは常備薬、真実は劇薬」というものがあります。この言葉は極めて示唆に富んでいます。
 
通常、我々は「うそ」を吐くことは「悪」であり「真実」を明らかにすることこそが「正義」であると思いこみがちです。しかし時として人は「うそ」を吐く「詐欺師」をあえて演じなければならない時があるのではないでしょうか。
 
人を殺す「真実」があれば人を救う「うそ」もあります。あるいはオブジェクトレベルにおける「うそ」はメタレベルにおいて「真実」になることだってあるでしょう。そしてまた時に「うそ」に「騙されてあげる」ことで開けてくる「真実」があるのではないでしょうか。そういった意味でも本作はセカンドシーズンの最後を飾るに相応しい自己実現の寓話を語った「うそ」と「真実」の「物語」であったといえるでしょう。