かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

終わりなき日常と終わりある日常

 

* 終わりなき日常--特異点としての1995年

 
阪神大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年は奇しくも戦後50年を迎えた日本社会においてポストモダン状況がより一層加速した年としても位置付けられています。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定しました。ここでいう「大きな物語」とは社会全体を規定する宗教やイデオロギーといった共通の価値体系の事です。すなわち、消費化/情報化がとどまることなく加速する現代という時代は、こうした「大きな物語」が機能しなくなり、何が正しい価値なのかわからない時代であるということです。
 
そして、こうした日本社会の変化に対処するための「解答」をいち早くかつ鮮烈に提示して見せたのが当時、オウム真理教問題と援助交際問題を扱う気鋭の論客として知られていた社会学者、宮台真司氏です。氏は「終わりなき日常を生きろ--オウム完全克服マニュアル(1995)」においてオウムの病理とは「終わりなき日常」に耐えかねて「ハルマゲドンという非日常」を現実化しようとした点にあると分析し、この「終わりなき日常」を生きるための処方箋として「まったり革命」と呼ばれるものを唱導しました。
ここで宮台氏のいう「まったり革命」とは何でしょうか。それは端的に言えば、何が正しい価値なのかがわからなくなった現代において「生きる意味」とかを性急に求めたりせず、単に「楽しいこと」や「気持ちいいこと」を消費して「終わりなき日常」を「まったり」とやり過ごすことで快適に生きようという発想です。そして氏はこの「まったり革命」の範例的存在を「軽いノリで援助交際に興ずるコギャルたち」に見出します。
 

* まったり革命--その「解答」は果たして間違っていたのか?

 
ここでなぜコギャルなのかというと、当時の氏は、彼女たちが援助交際に「意味(物語)」を見出していないからだと主張しました。すなわち、援助交際心理的に抑圧する家父長制的な貞操観念や身体の商品化に対する抵抗感はいずれも、近代的共同性(大きな物語)の産物であるけれども、最初からそんな共同性など信じていないコギャルたちにとっては援助交際という行為も家父長制への反発などとといった「意味(物語)」によるものではなく、ただ単純に日常を楽しく生きるため自己を商品化して金銭を得ているだけにすぎないのであるという論理です。
 
2022年現在における平均的な倫理感覚からすれば、なかなか凄まじいとしか言いようのない論理ですが、もちろんやがて援助交際に興じた少女の多くが実際のところ大なり小なり心を病んでおり、自身の身体を商品化する自傷的なパフォーマンスという極めてありふれた「意味(物語)」を見出していたという現実が明らかになっていきました。要するに、後年において宮台氏も自ら認めるように、彼女たちは決して「まったり」と生きていたわけではなかったということです。
 
では、この宮台氏の「解答」は果たして完全に間違っていたのでしょうか?確かにその範例となる主体の選択は適切ではありませんでしたが、その前提にある「終わりなき日常」という世界観と「まったり革命」という処方箋自体の当否についてはまた別に検討を要する問題といえるでしょう。
 

* 物語批判から物語回帰へ

 
この点、現代を代表する批評家の一人である宇野常寛氏はそのデビュー作である「ゼロ年代の想像力(2008)」において、ゼロ年代後半の視点から90年代における宮台氏の主張を再検証し、その更新を試みる議論を展開しています。
同書において宇野氏は我が国におけるポストモダン状況は1970年代以降徐々に段階的に進行しているという立場を取ります。氏によれば、いわゆる「政治の季節」が終焉を迎える1968年から1970年代初頭が第一段階、消費社会の爛熟と相対主義が台頭した1980年代が第二段階、冷戦構造と経済成長が終焉した1995年前後が第三段階であり、さらに9.11と小泉政権が誕生してグローバル化の徹底段階に突入した2001年が第四段階ということになります。
 
まず1980年代は消費社会の爛熟とそれに伴う相対主義が台頭した時代でしたが、この相対主義というのは氏によれば、1970年代以前の「(マルクス主義に象徴されるような)大きな物語」の凋落を語ることそれ自体が絶対的な価値を帯びていた「相対主義という名の絶対主義」ということになります。
 
そして、このような(擬似的な)相対主義として表出していたポストモダン観は、当時「構造と力(1983)」で一世を風靡してニューアカデミズムブームを牽引した浅田彰氏の「シラケつつノリ、ノリつつシラケること」という言葉が象徴するように、やや能天気にも思える楽観的な多文化主義として受容されました。こうした「大きな物語」を相対化していく態度を「物語批判」と呼びます。
 
この点、ポストモダン状況が進行すると一般的には人々の世界像は「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」から「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」に移行することになりますが、1980年代当時の我が国においてはバブル経済前夜の好景気と米ソ冷戦構造を背景として、そのポストモダン観は「自由」という部分だけが過剰にクローズアップされ「冷たい(わかりにくい)」という部分は後景に退くことになります。
 
ところが1990年代に入るとバブル経済崩壊と冷戦終結により、いよいよ人々は本来的なポストモダン状況である「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」に直面することになります。こうして、これまでのように歴史や社会が「意味」を備給してくれない「大きな物語」なき時代が幕を開けることになります。
 
こうした「大きな物語」なき時代においては「物語批判」という1980年代的態度は大きく後退し、むしろ世の中は急速なまでの「物語回帰」を志向し始めます。こうした「物語回帰」という時代的傾向は当時のテレビドラマやJ-Popにおいて顕著に見られる「純愛」とか「家族」などといった単純素朴な「小さな物語」を無邪気に称揚する態度からも理解できるでしょう。
 

* 引きこもり/心理主義

 
そして阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年という年を境に、90年代前半に渦巻いていた喪失感はより徹底された絶望感として社会に広く共有されることになります。こうして「大きな物語」が失墜し、何が正しい価値なのかがわからない時代が幕を開けることになります。
 
こうした状況において氏は「〜する/〜した(設定)」という社会的自己実現アイデンティティに結びつけるのではなく「〜である/〜ではない(行為)」という自己像の承認をアイデンティティとする考え方が支配的となり、問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分自身を納得させる理由を考える」ことで解決が図られることになると述べます。氏はこのような90年代後半的態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。
 
それゆえに1990年代後半以降においては「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」や「セカイ系」と呼ばれる作品群に代表されるような、例えば過去の精神的外傷といった「設定」を根拠とした実存の承認をめぐる想像力が氾濫することになります。すなわち、ここには「あなたは〜という傷を持っているからこそ、美しい」という承認の構造があります。
 
こうして醸成された「引きこもり/心理主義」の進行という「95年問題」に対抗するための処方箋を氏は「95年の思想」と呼び、その一つに宮台氏の「まったり革命」を位置付けます(その他の「95年の思想」として氏は「劇場版エヴァンゲリオン(1997)」と小林よしのり氏の「脱正義論(1996)」を挙げています)。
 

* 開き直り/決断主義

 
宮台氏の「まったり革命」を含む「95年の思想」はいずれも90年代的な「引きこもり/心理主義」によって肯定される自己像を承認するための「小さな物語」という共同性に依存することなく、価値観の宙吊りに耐えながら(気にしないようにしながら)生きていくという、いわばある種のニーチェ主義というべき超人的な成熟モデルです。
 
けれども「95年の思想」はゼロ年代に向けてさらに先鋭化しつつあった「物語回帰」の潮流の前に夭折することになります。もっとも、ここでいう「物語回帰」とは70年代以前の「大きな物語」への回帰ではなく、むしろ逆に、究極的には無根拠であるにもかかわらず、それでもあえて選択されたごく私的な「小さな物語」へ回帰する態度です。このような態度を反映した先駆的な想像力として氏は「バトルロワイヤル(1999)」を挙げています。
 
この点、2001年前後から米同時多発テロ小泉政権が主導した新自由主義構造改革といった時代情勢を背景に「引きこもっていると殺される」という「サヴァイヴ感」が社会的に広く共有されることになり、その結果「たとえ無根拠でもあえて中心的な価値観を選び取る」「信じたいものを信じる」という態度が支配的になります。氏はこのようなゼロ年代的態度を「開き直り/決断主義」と呼びます。
 
こうしてゼロ年代においては、決断主義的に選択された「小さな物語」同士の動員ゲーム(バトルロワイヤル)の時代が幕を開けることになります。ここでは90年代的な「引きこもり/心理主義」のような「何もしないという選択」も、この動員ゲームの中では単に一つの決断主義的な選択であると見做されてしまいます。すなわち、現代とは誰もが決断主義者として生きていくことを余儀なくされる時代であるといえるでしょう。そして、氏はこうしたゼロ年代における決断主義的な想像力の範例として「DEATH NOTE(2003)」を位置付けています。
 

* 決断主義の克服へ向けて

 
以上のように1995年からの5年間はいわば社会像の変化の受容フェイズであり「旧来の社会像が信じられなくなった」ことを表現する想像力が支配的となりました。これに対して、2000年からの5年間はいわば新たな社会像の再構成フェイズであり「政治的(なゲーム)に勝利したものが無根拠なものを暫定的に正当化」することを表現する想像力が支配的となりました。これがゼロ年代を覆う決断主義的動員ゲーム(バトルロワイヤル)ともいうべき状況であり、この決定的な状況の克服こそが、現代の課題に他ならない、と氏はいいます。
 
この点「95年の思想」はある種の物語批判的なアプローチで強い「個」の確立を志向しました。けれども我々は結局のところ物語から自由ではあり得ません。たとえ「物語を何も選択しない」という立場をとったとしても、それは結局「『物語を何も選択しない』という物語の選択」でしてしか機能しないということです。結局のところ、我々は何らかの物語を何らかの形で選択させられてしまうということです。
 
こうしたことから氏は「95年の思想」において真に問われるべきであったのは「小さな物語」への「自由で慎重なアプローチ」が可能となる、その成立条件であったといいます。けれども「95年の思想」はいずれも大まかな方向性を指し示す段階にとどまり、氏のいう「自由で慎重なアプローチ」の成立条件の検討は、非常に甘いものになっていました。
 
すなわち、決断主義の克服に必要なのは「物語」からの自由の模索ではなく、むしろ「物語」から不自由な存在であるというこの現実を受け入れた上で、ここから如何にして決断主義に抗っていくかという模索であるということです。
 

*「郊外化」するポストモダン

 
そして、宇野氏は「95年の思想」が夭折した原因として、これらがいずれもポストモダン状況の持つ両義性を視界に入れていないものであったといいます。この点、宮台氏は95年以降のリアリティの変容を「現実が軽くなった」と表現していますが、宇野氏によれば、単一の強大なアーキテクチャーの上に無数の多様なコミュニティが乱立するポストモダン状況下においては、現実は単純に「軽く」なったのではなく「より軽くなっていく層(コミュニティ)」と「より重くなっていく層(アーキテクチャー)」へと二極分化しているということになります。
 
こうしたことから氏は「95年の思想」はもっぱら前者(コミュニティ)への対応に終始するばかりで、後者(アーキテクチャー)への対応という視点がほぼ欠如しているといいます。そこで氏は決断主義を克服してゼロ年代 における動員ゲーム(バトルロワイヤル)に何らかの批判力を持つものがあるとすれば、それは「95年の思想」が見失っていた「むしろ重くなった現実」を考える事でしかありえないといいます。
 
この点、氏はこのポストモダン状況において「むしろ重くなった現実」を都市論の観点から「郊外化」が決定的に進んだ世界として把握します。ここでいう「郊外化」とは、ポストモダン状況の進行が都市計画として実現されることであり、具体的には地方都市に大型ショッピングセンターやチェーン店が連なり、都市の風景が画一化する現象をいいます。
 
これらの「郊外化」によって、流通の地域格差を是正して人々の消費生活(コミュニティ)を決定的に多様にする一方で、そのハードウェアとなる街の風景(アーキテクチャー)を決定的に画一化することになったと氏はいいます。
 
そして、この郊外的空間では歴史に裏付けられた共同体や価値観が個人の生きる意味を備給してくれるという近代的モデルは失効します。こうした「郊外化」という文脈からすれば「郊外に生きる僕らには物語がない」という絶望に囚われた態度が「引きこもり/心理主義」であり、その前提を織り込み済みで「郊外に生きる僕らは物語を自分で作るしかない」という諦念に至った態度が「開き直り/決断主義」ということになります。
 

* ポスト決断主義としての「つながり」の思想

 
これに対して氏は「ポスト決断主義」へ向かうアプローチのひとつとして「郊外化」した世界における「中間共同体」の持つ可能性に注目します。
 
例えば氏がゼロ想で取り上げる「池袋ウェストゲートパーク(2000)」や「木更津キャッツアイ(2002)」といった宮藤官九郎作品では「池袋」や「木更津」といった郊外的空間(ポストモダン状況)が、その低い凝集性と高い流動性により個と個と連帯としての「つながり」が自己目的化したコミュニティが成立する場として再起的に選択されることになります。
 
そして、氏はこのような郊外的空間(ポストモダン状況)だからこそ成立しうる人々が自由に選び取る「中間共同体」における「つながり」の記憶が、例えそれが歴史から切断されていても、他の何者にも代え難い「物語」として機能することになり、その時「郊外=終わりなき(ゆえに絶望的な日常)日常」は「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」へ変貌することになるといいます。
 
また、やはり氏がゼロ想で言及する「ウォーターボーイズ(2001)」「スウィングガールズ(2004)」といった矢口史靖作品における青春観の特徴は「結果」よりも「過程」が重視されており、その構造が「成功」や「社会的意義」といった「意味」に支えられていないという点にあります。
 
すなわち、これらの作品もまた「学園」という名の郊外的空間(ポストモダン状況)から産み出される一見して他愛のない「つながり」の中で、瑞々しい「物語」を自在に紡ぎ出していく「青春」という名の特権的時期における「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」を描き出した想像力であるといえるでしょう。また、このような矢口的青春観は「涼宮ハルヒの憂鬱(2006)」「らき☆すた(2007)」といった京都アニメーション作品でも共有されています。
 
こうしたゼロ年代の想像力から、ポストモダン状況における「日常観」のラディカルな転換を観ることができるでしょう。いわば宮台氏の処方箋(終わりなき日常)は「大きな物語」なき世をまったりと(無物語的に)やり過ごそうという消極的日常観に基づくシナリオです。これに対して、宇野氏が宮藤作品や矢口作品の中から取り出してくる処方箋(終わりある日常)は画一的なアーキテクチャー(郊外的空間)から生成される多様なコミュニティ(つながり)の中に何者にも代え難い特異的な、その人だけの瑞やかな生の「物語」を見出していくという積極的日常観に基づくシナリオといえます。
 

*「つながり」よりもさらに深いところで手をつなぐということ

 
こうした「終わりある日常」という日常観を支える「つながり」の思想は間違いなくゼロ年代において模索された成熟の条件の一つの到達点であったといえます。けれども現代の想像力においては当然のことながら、さらに「その先」が問われることになります。
 
この点「つながり」の思想が広く支持を得た背景には言うまでもなくゼロ年代後半におけるソーシャルメディアの台頭があります。当時は多くの人が、ソーシャルメディアのよる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を見出していました。
 
けれども、実際にソーシャルメディアがもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう情報環境でした。こうした環境下では「つながり」は容易にクラスター化して、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動します。
 
そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちが世界を友と敵に斬り分けあった「動員と分断」の時代でもありました。要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に「つながり過剰」に対する絶望へと変わっていった10年であったともいえます。
 
こうしたことから、2010年代から今日においては、例えば東浩紀氏の「弱いつながり(2014)」や「観光客の哲学(2017)」、千葉雅也氏の「動きすぎてはいけない(2013)」や「現代思想入門(2022)」、そして宇野氏自身の「母性のディストピア(2017)」や「遅いインターネット(2020)」など、いずれも「切断と再接続」の契機を導入することで「つながり過剰」の内破を志向する言説が国内批評をリードすることになります。そしてまた、現代の想像力においても「つながり過剰」の中に回収されることのない「わからなさ」という他者性に光を当てていく優れた「物語」が広く支持を集めているように思えます。
 
「つながり」よりもさらに深いところで他者(性)と手をつなぐということ。こうした、いわばサイダーのように微細に泡立つ無数の「わからなさ」という他者性を引き受けていくような、そんな生き方の中にこそ、おそらくは2020年代における「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」を見出すことができるのではないでしょうか。