かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

50年目のアンチ・オイディプス

 

* 二人で書くということ

 
「(ジル・ドゥルーズ)2年半ほど前のことになりますが、私はフェリックスと出会いました。フェリックスは、私が自分よりも先を行っていると感じていたし、何かを期待していた。私には精神分析家のような責任もなければ、精神分析を受ける人のような罪悪意識とか、条件づけもなかったからです。私には特定の場所などありはしなかったし、おかげで身軽でもあったわけです。そして精神分析というのは、みじめなものであるだけに、なかなか面白いと思っていたのです。」
 
「(フェリックス・ガタリ)68年5月はジルにとってもぼくにとってもたいへんな衝撃だった。同じような思いをした人は他にも大勢いたけどね。ぼくたちはふたりはお互い面識がなかったけれども、いま考えてみると『アンチ・オイディプス』は、やはり68年5月の帰結なんだ。ぼくに必要だったのは、ぼくが身をもって体験した4つの生の様態を、統合というのではなく、継ぎ合わせることだった。僕には目印になるものがいくつもあった。たとえば分裂病を基準にして神経症を解釈する必要性がそうだ。」
 
ジル・ドゥルーズ「記号と事件」より)

 

1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた「欲望」の奔流を原理的に考察して1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こした「アンチ・オイディプス--資本主義と分裂症(1972)」が公刊されてから今年で50年が経ちました。
周知の通り同書はフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ精神分析家、フェリックス・ガタリの共著となっています。両者は1969年春ごろから文通を始めて、同年の6月に共通の友人の紹介で直接の対面を果たしています。まずコンタクトを取ったのはガタリの方で、共同作業を提案したのはドゥルーズだったそうです。こうして孤独でいることを好むドゥルーズと仲間とのつながりを大切にするガタリという対照的な性格を持つ二人からなる多産なコラボレーションが始まりました。
 
この点、両者の役割分担については(ガタリの証言によれば)同書の最終的な仕上げ作業と全体のおおまかな方向づけはドゥルーズが行い(ドゥルーズの証言によれば)ガタリは同書における特異な概念の多くを提案したとされています。もっとも、AO の執筆作業は単純な「分担執筆」には還元できない極めて複雑なプロセスにより成立しています。
 
伝え聞くところによれば、二人は基本的に毎週火曜日午後にドゥルーズの家でディスカッションを開催していたそうですが、ここで提出された問題や概念については、各自それぞれがテクストを書いた後に、これを交換し合って補足を入れ合って、時には新たな概念から裁断し直したりもして、互いのテクストを循環させていくような作業を幾度となく繰り返していたそうです。こうした意味で、いわば「アンチ・オイディプス」という本はドゥルーズガタリという二人の著者の「あいだ」から産み出された自律的なテクスト群から成り立っているともいえるでしょう。
 

* 精神分析への挑戦状

 
よく知られるように「アンチ・オイディプス」の主旋律を成すのはその極めて激越なまでの精神分析批判です。この点、精神分析創始者ジークムント・フロイトは19世紀末、当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めて、幼児期の性生活の中核には、異性の親に愛着を持つ一方で同性の親に対する憎悪を抱くという「エディプス・コンプレックス」なる心的葛藤があることを発見しました。
 
この一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのがフランス現代思想史における構造主義の代表的論客として知られる精神分析ジャック・ラカンです。ラカン理論の最も大きな特徴は人の精神活動を「想像界(イメージ領域)」「象徴界(言語領域)」「現実界(外部)」という三つの位相によって把握する点にあります。そして、ラカンエディプス・コンプレックスを「象徴界」という「シニフィアンの構造」を統御するシニフィアンである〈父の名〉の導入として捉え、この〈父の名〉が正常に導入されているか否かを基準として、人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかへと鑑別しました。
 
これに対して「アンチ・オイディプス(以下AO)」はフロイトラカンが提示するエディプス・コンプレックスに規定された「神経症=いわゆる正常」という構図を真正面から批判します。この点、同書においてドゥルーズ=ガタリは「欲望機械」という奇妙な概念を提示します。つまりAOで「欲望」とは自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「機械」に宿る非主体的な力の作用として捉えられています。
 
これら「欲望機械」は、それぞれ相互に連結して作動する一方、同時にその連結に必然性はなくたちまち断絶し、別のものへと向かい新たな連結を作りだします。こうした矛盾した二面性からなるプロセスをドゥルーズ=ガタリは「結びつきの不在によって結びつく」「現に区別されているかぎりで一緒に作動する」といった両義的な表現で定式化しています。
 

* 構造の破壊者としての欲望機械

 
ところで、この「欲望機械」なる概念はガタリが提示した「機械-対象 a 」という概念に由来します。ガタリは「機械と構造(1969)」という論文において「構造」を重視する50年代ラカンを批判しつつ「構造を超えるもの」としての60年代ラカンが提出した「対象 a 」に注目しました。
 
ただし、この時点でのラカンのいう「対象 a 」は「構造」それ自体を変革する契機は存在しません。ここでいう「対象 a 」はいわば「構造」を安定させるための装置に過ぎません。これに対して、ガタリのいう「機械-対象 a 」は「構造」という名の因果の連関を多様多彩な形へと切断して「構造」に規定された「一般性」に回収不能な個々の「特異性」を切り出す機能を担います。すなわち「機械-対象 a 」はいわば「構造」を脱構築していく装置ということになります。
 
すなわち、ドゥルーズ=ガタリから言わせれば「欲望」とは本来的に「こうあるべき」という「コード(規則)」に囚われない多様多彩な「脱コード的」な性格を持っているということです。ここからドゥルーズ=ガタリは「欲望は本質的に革命的である」という基本的テーゼを打ち出しました。
 

* 特異点としての分裂症者

 
こうした本来的に脱コード的ないし革命的な欲望に対して、これを規制して秩序化する社会様式をドゥルーズ=ガタリは「原始共同体」「専制君主国家」「近代資本主義」という三段階に区分します。そして、これらの社会様式を欲望の側から見た場合、それぞれの特質は「コード化」「超コード化」「脱コード化」にあるといいます。
 
すなわち、近代資本主義というシステムは外部の多様多彩な脱コード的な欲望によって駆動しつつも、これらの欲望を「代理-表象」として整流して内部に還流させることでシステムを安定させようとする「公理系(パラノイア)」として作動していることになる。
 
こうした意味において、幼児の多様多彩な欲望を「父ー母ー子」のオイディプス三角形へと整流する精神分析とは、システムの安全装置以外の何物でもなく、AOではラディカルな批判が浴びせられることになります。
 
そしてAOはシステムを内破するモデルを「分裂症(スキゾフレニア)」に求めました。資本主義システムが排除する分裂症はまさにシステムの外部に在ります。すなわち、この世界を分裂症の側からみるということは欲望における本来的な外部性を奪還するということに他ならなりません。こうしたことからドゥルーズ=ガタリ精神分析オルタナティブとして、いわば「神経症の精神病化」を目論む「分裂分析」を提唱しました。
 

* ツリーからリゾーム

 
AOにおいてドゥルーズ=ガタリが目指したのはいわば千の欲望の表出であり、これはやがて同書の続編として公刊された「千のプラトー(1980)」において「リゾーム(根茎)」という概念へ昇華されることになります。
リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。この点「ツリー(樹木)」は1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えています。これに対して、リゾームには全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなります。
 
こうしたリゾームという言葉によって、ドゥルーズ=ガタリは、旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生のなかに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくのでした。
 

* 50年目のアンチ・オイディプス

 
オイディプスの首を切り飛ばし、千の欲望を表出せよ!こうしたドゥルーズ=ガタリの激越なメッセージは1970年代という革命の夢が潰えた時代においてはある種の解毒剤の役割を果たしました。こうしてAOはフランス内外で熱狂的な反響を呼び起こし、日本でも1980年代における「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる思想的流行以降、ドゥルーズ=ガタリの名は国内批評シーンに少なからぬ影響力を行使しています。
 
そしてその核心にあるのは精神分析的欲望=神経症的欲望から解放された「別の仕方での欲望」の肯定です。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代の宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代の思想をリードした言説はまさにこうした色とりどりな欲望の開放の中に位置づけることができるでしょう。
 
そしてAOの公刊から50年が経過した現在、あの「68年5月」は遠い記憶となり、今やオイディプス的価値観は加速するポストモダン化の中で完全に失墜し、いまや切り飛ばそうにももはやその首自体が無いという状況のようにも見えます。では今日においてAOを読むのはもはや単なる懐古趣味かといえば、もちろんそうではありません。
 

* 管理社会とダブルシステム

 
確かに現代においてオイディプスは完全に過去のものとなったといえるでしょう。けれどその一方で、現代という時代はオイディプスよりも「さらに悪いもの」が出現した時代ともいえます。そして、こうした時代の到来をドゥルーズはすでに30年以上前に「管理社会」という名でこの上なく的確に予言していました。この管理社会においては、人々を命令と懲罰で従属させる「規律権力」よりも、人々の生活環境に恒常的に介入する「生政治(環境管理型権力)」が優位となり、様々なアーキテクチャによる統制の下、個人はデータベース化され、あたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくことになります。
 
もっともその一方で管理社会とは、端的にいえばかつてのオイディプスアーキテクチャとして回帰してきた社会であり、ここでもまた「欲望」をいかに奪還するかというかつてAOが提出した問題がそのまま反復される事になります。
 
この点、気鋭のドゥルーズ研究者として知られる千葉雅也氏は今年の読書界で大きな反響を呼んだ新書「現代思想入門(2022)」でAOを始めとする現代思想を学ぶ今日的意義について、我々の生きる社会の「単純化できない現実」の難しさを以前より「高い解像度」で捉える点にあると述べています。
まず氏は我々が生きる現代社会においては様々な領域で「きちんとする/ちゃんとしなければならない」という「秩序化」と、世界の細やかな多様性がブルドーザーで均されてしまうかのような「単純化」が進行しているといいます。こうした現代社会における大きな傾向はかつてドゥルーズが予言した管理社会の全面化といえます。
 
その上で氏はこうした「秩序化=単純化」が加速する時代的傾向に対して現代思想とは「秩序化=単純化」からの逸脱に注目する営みであるとします。もちろんこれは単純な無秩序な世界を手放しで称揚するようなものではありません。要するに一方で「秩序を作る思想」はそれはそれで必要だけれども、他方で「秩序から逃れる思想」も必要だという「ダブルシステム」の思考こそが重要であるということです。そして、こうした「ダブルシステム」という観点から再びAOを読み直すとき、我々はそこにかつてとはまた異なる新たなる輝きを発見することもできるのではないでしょうか。