かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

つながるはずのないものをつなげるということ--竜とそばかすの姫

* 公共性と普遍性

 
よく知られるように細田守氏は映画制作における「公共性」と「普遍性」への志向をしばし公言します。過去の発言をみるに、氏にとって「公共性」とは、いわゆる「アニメファン」を超えた幅広い層への訴求力を意味しており、一方で氏にとって「普遍性」とは、明るく楽しい娯楽性と映像史における革新性の両立を意味しているようです。
 
そして氏の作品を観れば、少なくとも細田映画の志向する「公共性」と「普遍性」とは誰も傷つかない「無難な作品」とは程遠いところにあることがわかるでしょう。だからこそ氏の新作が公開されるたびに様々な文脈で激しい賛否両論が巻き起こり、我々はその度に社会における公共性とは何か、人としての普遍性とは何かを考えさせられる事になります。
 

* インターネットの病理と希望

 
細田氏の代表作の一つ「サマーウォーズ(2009)」はソーシャルメディアが普及し始めたゼロ年代後半という時代における「公共性」と「普遍性」を志向した作品であるといえます。 
 
同作では近未来的な情報ネットワークと前近代的な大家族ネットワークという一見すると相反的な二つのネットワークの連関が産み出す力で、情報ネットワークの暴走の産み出す「悪」へと抗っていく構図が提示されました。
 
このような構図はゼロ年代初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの手による政治哲学書「帝国」が描き出したグローバル環境化における市民運動モデルとしての「マルチチュード」を容易に想起させます。 おそらく同作にはソーシャルメディアの普及した未来が産み出すある種の希望が託されていたのではないでしょうか。
 
そして今年公開の最新作「竜とそばかすの姫」は、端的に言えばサマーウォーズのアップデート版となります。あの頃は多分に未来予測的であったインターネットの病理が今回は現実認知的に描き出されます。
 
グローバル資本主義ポリティカル・コレクトネスを至上原理として戴く2010年代のインターネットは世界を共感と排除で切り分ける二分法的思考を加速させました。本作はこうしたインターネットの病理に焦点を当て、その上で「つながるはずのないものをつなげる」という、インターネットの原点にあるはずの希望を再び肯定しようとした物語といえます。
 

* 細田映画のベストアルバム

 
こうした「SW2.0」とも呼べる基本的構図の上に、本作では歴代細田映画を駆動させた様々な要素がこれでもかというくらいに投入されます。
 
例えば「時をかける少女(2006)」において真琴は偶然手に入れたタイムリープ能力で何度も同じ時間を繰り返しますが、本作の主人公、すずもまた現実世界で失った歌声をインターネット上の仮想世界〈U〉で取り戻します。ここには「世界を作り直す欲望」が引き継がれています。
 
また「おおかみこどもの雨と雪(2012)」では「おおかみおとこ」と結ばれ子をもうけた花は都会を離れ農村へ移り住み、周囲の支援を受けて2人の「おおかみこども」を育てあげる母へ成長します。こうした「異形の者との邂逅」「少女から母へ」「地域社会の絆」というモチーフは本作でもしっかりと反復されます。
 
あるいは「バケモノの子(2015)」の終盤で九太が、長らく疎遠だった父と向き合ったように、本作でもすずは終盤でやはり長らく溝ができていた父との対話を再開します。
 
そして「時かけ」以降から前作「未来のミライ(2018)」に至るまで、細田映画の中で徐々に前景化してきた「あちら側」と「こちら側」の「二層往還構造」は本作においては現実世界と〈U〉の世界という、全く別様のリアリズムで描き分けられる二つのアニメーションの往還へと昇華されました。
 
そういった意味で本作は細田映画のベストアルバム的集大成、あるいは幕の内弁当的詰め込みの上にさらに新たな境地を切り拓いた作品であるとも言えるでしょう。
 

* つながるはずのなものをつなげるということ

 
そして今回、もっとも賛否両論を呼んだのが終盤の展開です。それまでが映画的カタルシスにそれなりに満ちた展開だっただけに、終盤を駆動させる一見独特の倫理観は、多くの観客を当惑させました。けれど、いま改めて考えてみると、ここで提示される細田氏の倫理観は2010年代的な時代思潮と本質的な部分ではリンクしているようには思います。
 
「つながりこそが、ボクらの武器。」というキャッチフレーズを掲げたサマーウォーズから本作の間に横たわる2010年代とは、まさにその「つながり」の希望がやがて失望に変わっていった時間でした。それゆえに2010年代の現代思想サブカルチャーには「つながり」がもたらす共感と排除の病理を乗り越えたところで「つながるはずのないものをつなげる」ための想像力が要請されてきました。このような時代的潮流が本作終盤では極めて先鋭的な形で表出しているようにも思えます。
 
おそらく本作は綺麗にまとめようとすれば、それこそいくらでもやりようがあったはずだと思います。ただ、そうやって本作を綺麗にまとめてしまうと、ここまでの賛否両論は巻き起こらず、本作は夏休み娯楽大作に相応しい、文字通り一夏限りの「無難な作品」となったでしょう。
 
そういった意味で本作は、2020年代におけるつながりと個の関係性を問い直した作品であり、ここに細田映画の志向する公共性と普遍性を見ることができるでしょう。おそらく本作は記録に残り記憶に刺さる細田映画の代表作となるのではないでしょうか。