かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

幻想から現実へ--海辺のカフカ(村上春樹)

 
 

* 近代教養小説的成熟と「別の仕方」での成熟

 
夏目漱石の中編に「坑夫」という作品があります。恋愛沙汰のゴタゴタの末、すっかり世の中が厭になって家出をした東京の世間知らずの学生が、怪しげな男の誘いのままに、半ば自殺するつもりで鉱山労働に身を投じるといったあらすじの小説です。
 
本作「海辺のカフカ」における主人公の少年、田村カフカはこの「坑夫」について次のような感想を述べています。
 
「この小説は一体何を言いたいんだろう。でもなんていうのかな、そういう『何を言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ。うまく説明できないけど」
 
カフカ少年は「坑夫」の主人公同様、家出の真っ最中です。もっとも彼の場合、恋愛沙汰のゴタゴタの末の家出ではなく、父から掛けられた「呪い」から逃れるための家出です。
 
東京の実家を出奔して四国高松までたどり着いたカフカは「甲村記念図書館」という地元の私立図書館に何とはなしに通うことになります。「甲村記念図書館」の司書である「大島さん」はカフカに今の自分を「坑夫」の主人公に重ねているのかと問い、カフカは「そんなことは考えもしなかった」と否定します。けれど本作は確かにわりと「現代版坑夫」のような趣きがあります。
 
大島さんが言うように「坑夫」という作品は例えば、漱石の代表作「三四郎」のようないわゆる近代教養小説とは随分と様相を異にした小説です。三四郎は目の前に立ち現れる壁について真面目に考えて、なんとかこの壁を乗り越えようとする能動的な主体です。これに対して「坑夫」の主人公は周囲で生じる出来事をただぐだぐだと受け入れていくだけの受動的な主体です。
 
確かに「坑夫」の主人公には近代教養小説的意味での成熟というカタルシスはありません。けれどもカフカは「人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないんじゃないかな」と言います。つまりここでは近代教養小説的成熟とは「別の仕方」での成熟の可能性が示唆されています。そして「坑夫」の主人公が事の成り行きから鉱山で働き出したように、カフカもやはり事の成り行きから甲村記念図書館で働くことになります。
 

* エディプス・コンプレックスの回帰としての「異界体験」

 
ところでカフカが父親からかけられた「呪い」とは「いつか父親を殺し、いつか母親と姉と交わる」というものです。一見してわかるようにこの「呪い」はギリシア悲劇のオイエディプス物語が下敷きとなっています。そして精神分析の始祖、ジークムント・フロイトはこのオイエディプス物語と同様の構造を幼児期の心的葛藤に見出して、これを「エデェプス・コンプレックス」と名付けました。
 
こうしたフロイト流「エデェプス・コンプレックス」の筋書きに従えば、子どもは父親からの「去勢の脅威」に屈して母親への近親相姦欲求を断念し、むしろ父親を理想化することになります。フロイトによれば男児の「正常な」発達過程とは、このような「エディプス・コンプレックスの克服」にあります。
 
ところがカフカは父親からの「いつか父親を殺し、いつか母親と姉と交わる」という父親の「呪い」をことごとくメタフォリカルなレベルで実現させていきます。これはかつて「(フロイトに言わせれば)克服」したはずのエディプス・コンプレックスが思春期における「異界体験」として回帰しているとも言えます。
 

* 思春期における性と暴力

 
我々は「こちら側」と「あちら側」の二つの位相が折り重なる多層的な現実を生きています。 「こちら側」とはこの端的な日常のことであり「あちら側」とはその日常の中に唐突に「不気味なもの」として現れる、いわば「異界」ともいうべき非日常です。
 
多くのこころの不調や逸脱行動は「こちら」への最適化の失敗に起因します。こうした時、問題を「こちら側」だけの視点で考えても解決しないことが多いわけでして、一旦は「こちら側」だけでなく「あちら側」の視点から考えないといけないこともあります。
 
そしてこのような意味での「異界」に最も接近する時期が心身の急激な変化の途上にある思春期です。思春期における「異界体験」は具体的には「性」や「暴力」といった形で現れます。カフカが父親から刷り込まれた「いつか父親を殺し、いつか母親と姉と交わる」という不吉な予言は来るべき思春期における「性と暴力」のメタファーとも言えます。
 
思春期における「性と暴力」はしばし子どもを圧倒してしまいます。こうした「性と暴力」への対峙は子どもの人格形成において極めて重要ではありますが、そのまま「あちら側」の非日常に魅入られてしまったりすると、今度は「こちら側」の日常に戻って来れなくなります。
 
そこで必要なのは「あちら側」への回路を開きつつも、なおかつ「こちら側」に折り返すということです。こうして「あちら側」の非日常と「こちら側」の日常という多層的な現実の中に自分を位置づけていく。この過程こそが自分なりの生の〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていくということです。
 

*「悪」に抗うための〈物語〉

 
ここでいう自分なりの生の〈物語〉とは、この世界の布置を自分なりに物語るということです。こうした意味で、かつてのような社会共通の〈物語〉が失墜した現代には様々な〈物語〉が溢れてかえっています。中には「カルト」とか「原理主義」などと呼ばれるとんでもない〈物語〉もあります。
 
こうした状況において村上氏は常に時代が産み出す「悪」に抗うための〈物語〉を提示しようとしてきました。ここでいう「悪」とは、かつては国家主義的なビッグ・ブラザーとして、いまは市場主義的なリトル・ピープルとして、個人の生を規定してきたシステムのことに他なりません。
 
もっとも「悪」の形の時代的変容に伴い村上氏の〈物語〉を支える倫理的作用点も変化します。放って置いても衰退しつつあったビッグ・ブラザーに対しては「やれやれ」と突き放しておけば良かったけれど、これに代わって台頭し始めたリトル・ピープルに対しては何らかの関わり合いを避けては通れない。こうして生じたのが周知の通り「デタッチメントからコミットメントへ」という転換だったわけです。
 

*「世界の終わり」からの帰還

 
本作終盤でカフカは村上氏の代表作である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を彷彿させる外部から隔絶した幻想的な世界を訪れます。
 
この点「世界の終わり」では幻想の中にとどまることで「責任」を取る「デタッチメント」の美学が貫かれました。これに対して本作では幻想にとどまることなく現実を生きることで「責任」を取る「コミットメント」の倫理が鮮明に打ち出されています。
 
こうしてみると本作は三四郎的成熟観=近代教養小説的成熟の影に隠れていた坑夫的成熟観=「別の仕方」での成熟を、ビッグ・ブラザーなき後のリトル・ピープルの時代における「コミットメント」の倫理へと洗練させた〈物語〉と言えます。
 
もっともこれは多様な読みを誘発する本作のひとつの読み方に過ぎません。本作も坑夫と同様に「そういう『何を言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残る」類の作品です。乱反射するプリズムの如く、本作は読み手によってはまったく違う〈物語〉を見せてくれるでしょう。夏の季節に相応しい読後感爽やかなこの怪作を読み終えた時、あなたはきっと、まさにあなただけの「海辺のカフカ」を発見しているのではないでしょうか。