かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

ゼロ年代における政治と文学--ひぐらしのなく頃に/ひぐらしのなく頃に解

* 原作ゲームの特異性

 
周知の通り本作の原作ゲームはかなり特異なスタイルを取っています。本作の原作ゲームは見かけ上は典型的な美少女ゲームインターフェイスを踏襲しています。「美少女ゲーム」というジャンルの起源は1980年代に遡りますが、いわゆる「葉鍵」以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。こうした典型的な美少女ゲームにおいてプレイヤーは「トゥルーエンド」を目指し、何度も同じ時間を繰り返す事になります。
 
ところが本作の原作ゲーム「ひぐらしのなく頃に」では、選択肢によるシナリオ分岐が発生しません。その代わりに昭和58年6月の雛見沢村という同一の場所と時間を舞台に異なる物語が何度も反復されることになります。そしてそのほとんどの結末が惨劇で終わるわけですが、これは典型的な美少女ゲームにおける数々のバッドエンドに相当します。すなわち本作は選択肢によるシナリオ分岐こそ生じないものの、その物語の中に美少女ゲームの構造を内在させていると言えます。
 

* プレイヤーの隠喩としての羽生

 
本作中盤において、これまで繰り返されてきた物語は本作の真の主人公といえる少女、古手梨花の繰り返してきた平行世界だった事が判明します。そして本作終盤では梨花の随伴者であるオヤシロさま=羽入が物語へと介入することになります。
 
この羽入というキャラクターは原作ゲームにおけるプレイヤーの隠喩です。選択肢によるシナリオ分岐が生じない本作の原作ゲームにおいてプレイヤーは繰り返される惨劇をただ眺める事しかできません。すなわち、これまで梨花が繰り返してきた平行世界において生じる惨劇をただただ傍観する事しかできなかった羽入はプレイヤーのアバターとして機能します。
 
そして本作の最終章「祭囃し編」において、ついに羽入=プレイヤーはゲーム世界へと降り立ち、物語内のキャラクターだけでは解決不可能であった事態を見事に解決します。ここに本作のゲームとしてのカタルシスがあります。
 

* ゲーム的リアリズム環境分析的読解

 
この点、東浩紀氏は本作は一方で「小説のようなゲーム」であり、かつ他方で「ゲームのような小説」でもあるといいます。つまりこの作品は単純にゲームとしては大きく退化した上で再び、ゲーム的リアリズムの作品内への再導入を試みる「ゲームのような小説のようなゲーム」とでも呼ばれる作品です。
 
こうした制作手法を東氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。「ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食する境界線上で発生する、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を読み取る想像力をいいます。 
 
そして、このような「ある作品が受容される環境」を現実と作品の間に挟み込む読解技法として、東氏は「環境分析的読解」を提唱し、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させます。
 
この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていくことになります。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていくわけです。 では本作の構造的主題とは何でしょうか?
 

* 世界をやり直す欲望

 
この点、そもそも美少女ゲームとはゲームを通じプレイヤーが擬似的に「父になる」という欲望を叶えるメディアです。こうした美少女ゲームにおける欲望をより純化したものが、ゲーム的リアリズムを駆動させる「世界をやり直す」という欲望です。そして、本作はこの「世界をやり直す」という欲望を真正面から無邪気なまでに肯定します。これが本作における構造的主題といえます。
 
こうした本作の構造的主題を現実逃避を夢想するイノセントな想像力として片付けることは容易いでしょう。けれども本作が描き出すような一見して荒唐無稽な奇跡への祈りこそが、むしろこの現実を生きていくための処方箋として機能することもまた確かです。
 
たとえば認知行動療法には「シナリオ法」という技法があります。これは認知の歪み(自動思考)を適正化する為の技法の一つで、全てが破滅に向かっていくというシナリオと奇跡が起きて全てが好転するという二つの極端なシナリオの両方を考えてみることで、その中間にある現実的なシナリオが見えてくるというものです。
 
こうした意味で奇跡への祈りは決して無駄ではない。たとえこの世界が救いなき世界であったとしても、次の世界はきっと素晴らしい世界なのかもしれない。そして、この世界で積み重ねた努力は、きっと次の世界につなぐ事ができるかもしれない。だから人は時としてこうした御伽噺に救われるのです。
 

* ゼロ年代的想像力における政治と文学の再統合

 
また本作はゼロ年代的想像力における「政治と文学」の一つの回答でもあります。 この点、ゼロ年代前期においては、経済成長神話の崩壊に伴う社会的自己実現への信頼低下を背景に他者性なき母性的承認を希求するセカイ系的想像力が一世を風靡しました。これに対して、ゼロ年代中期においては、米同時多発テロ新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢を背景に様々なセカイが決断主義的に正義を奪い合うバトルロワイヤル系想像力が台頭しました。
 
こうしてセカイ系において一旦切断された「政治(正義と悪の記述法)」と「文学(ナルシシズムの記述法)」はバトルロワイヤル系の台頭により再統合を求められることになります。この点、本作は「昭和58年6月」というバトルロワイヤル状況(政治)にゲーム的リアリズム(文学)によって介入します。ここで「政治と文学」は様々な物語(シュミラークル)を生成するシステム(データベース)をハッキングする欲望のもとに再統合される事になります。
 
そういった意味で本作は、物語(シュミラークル)とシステム(データベース)から成るポストモダン的二層構造における実存の在り処を照らし出した作品と言えます。本作がゼロ年代的創造力を体現する代表作の一つに数えられるのは故なきことではないでしょう。