かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

生きづらさの格差--「JOKER(2019)」

 

DC COMICS DCコミックス - JOKER 2019 Half Face/ポスター 【公式/オフィシャル】
 

 

 

* 現代における「悪」の病理

 
「悪」の病理というものは時代によって遷移してきました。かつて「国民国家」というイデオロギーが機能していた時代の「悪」は、例えば共産主義者のような対立的イデオロギーであり、やがて「国民国家」というイデオロギーが機能しなくなり始めた時代の「悪」は、例えば革命集団の残党やカルト宗教のような狂信的ファンタジーでした。
 
そして「国民国家」というイデオロギーが完全に「資本主義」というシステムに呑み込まれた現代における「悪」は、このシステムの反作用として出現します。
 
世界がグローバリズムとネットワークによって常時接続された今、ヒトやモノやカネの流動化・情報化は日々加速し、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。
 
こうした「システムのコスト」を押し付けられた人がそのコストに耐えきれなかった時、そのコストは時に悲惨な形で無関係な人々にさらに転嫁される事になる。
 
これが現代における「悪」の病理です。それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としての原理主義者のテロリズムとして、国内レベルで見れば格差社会の反作用としての「無敵の人」による無差別殺人事件として噴出しています。
 
本作の舞台は70年代のゴッサムシティですが、そういった意味で本作は極めて現代的な「悪」が生成される過程を描き出した作品と言えます。
 
 

* あらすじ

 
後にジョーカーとなるのは、ゴッサム・シティでピエロ派遣業として働くアーサー・フレックという青年です。
 
アーサーは感情が高ぶると突発的に笑いが止まらなくなる疾患--おそらく「PBA(情動調節障害)」ではないかと言われています--もあり、社会生活において様々な困難を抱えている。
 
認知症の母親を介護しつつ道化を演じる日々。それでもアーサーはいつかコメディアンになり多くの人を笑顔にするという夢があった。
 
かたやゴッサム・シティは今や財政が破綻。街はゴミにまみれ、人心は荒廃していた。ある日、仕事中に路上でチンピラ達から暴行を受けたアーサーは、同僚から押し付けられるように小さな銃をもらう。ところが小児病棟をピエロとして慰安訪問中、子供たちの前でその銃を落としてしまう。
 
結果、アーサーは失職。悪い事はさらに重なり、失意の帰宅中に地下鉄内でナンパをしていた男達の前で笑いの発作を起こしたアーサーは勘違いから暴行を受け、思わず持っていた銃で全員を殺害する。
 
ところが偶然にも被害者が大企業に勤める富裕層のサラリーマンだった為、図らずもアーサーは貧困層のヒーローへ祭り上げられてしまう。
 
 

* 危機感と共感が入り混じる評価

 
周知の通り、本作は社会への悪影響が懸念される中で記録的な大ヒットとなり、全世界興行収入R指定作品史上初の10億ドルを突破。アメリカでは警戒態勢下で上映が行われた劇場もある一方、ホワイトハウスで上映会が行われ、トランプ大統領が本作を気にいっているという関係者の談話が伝えられています。
 
こうした状況が象徴するように、本作に対する評価は、いわば「ジョーカーに対する危機感」と「アーサーに対する共感」が入り混じったものとなっています。
 
本作では、障害、貧困、虐待などアーサーの直面する様々な「生きづらさ」に光が当てられる。本作に多くの共感が集まるのは、多くの人が大なり小なりの「生きづらさ」を感じて生きているからなのでしょう。
 
もちろん当たり前ですが「生きづらさ」を盾にすれば何をしても良いわけではない。けれども、こうした「生きづらさ」は、社会構造から不可避的に生じる「システムのコスト」という側面もまた確実にあるわけです。
 
要するに、本作の評価がこうも様々なのは、本作の描く「生きづらさ」の問題が、どこまでが個人的適応の問題でどこからが社会構造の問題なのかという認識の相違によるものであり、換言すればこの領域に関するコンセンサスが未だ形成されていない事を図らずも示しているわけです。
 
 

* 生きづらさの格差

 
ただ、より正確にいうと本作は「生きづらさそれ自体」というよりも「生きづらさの格差」を描いた物語なんだと思うんです。
 
例えば、アーサーの妄想の恋人は「黒人女性のシングルマザー」という属性を持っている。こうしたポリティカル・コレクトネス的な「弱者」が抱える「わかりやすい生きづらさ」は比較的、共感のまなざしが集まり、社会的包摂の対象となりやすい。
 
けれども一方でアーサーのような「わかりにくい生きづらさ」にそういった救いは無い。あるのはもっぱら嘲笑のまなざしと社会不適合者のレッテルだけです。
 
ここで「わかりやすい生きづらさ」と「わかりにくい生きづらさ」との間で「生きづらさの格差」が生じるわけです。
 
こうして「わかりにくい生きづらさ」には「生きづらさそれ自体」から生じる苦しみに加え「生きづらさの格差」から生じる苦しみも加わる。
 
こうした苦しみは社会学において「相対的剥奪」と呼ばれます。こうして「生きづらさ」を抱える人々の中でもクラスターの寸断が加速し「わかりにくい生きづらさ」を持つ人々はどんどん孤立に追い込まれていく事になります。
 
 

* 感動ポルノと自己責任

 
もっともこうした「わかりやすい生きづらさ」と「わかりにくい生きづらさ」というのは結局コインの裏表の関係なのかもしれません。
 
一方で「わかりやすい生きづらさ」持つ人々を感動ポルノ的に消費する事で「優しいわたし」に陶酔し、他方で「わかりにくい生きづらさ」を持つ人々を自己責任という名で切り捨てる事で「正しいわたし」に安心する。
 
両者に共通するのは、世界を「内部/外部」という形而上学的二項対立で切り分けて、自分が「内部=普通」の側にいると見做したい欲望です。
 
こうして見ると「わかりやすい生きづらさ」への共感のまなざしと「わかりにくい生きづらさ」への嘲笑のまなざしは、ある意味で同一の欲望が異なる回路を経由して出力されているだけであるとも言えます。
 
 

*「いま、ここ」の光と陰

 
ポスト・構造主義を代表するフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、かつての社会を「砲丸投げ」に例えるのであれば、現代社会は「サーフィン」に例えられると言います。
 
要するに重要なのは「過去」や「未来」という「ここではない、どこか」ではなく、あくまで「現在」という「いま、ここ」であり、我々に絶え間なく目前の波を乗りこなすスマートでフレキシブルな生き方が要求されている。
 
こうした「生き方のパラダイムシフト」はもちろん肯定すべき流れだと思います。けれども他面において、アーサーのようにいくら頑張っても「いま、ここ」への適応ができない人々も確実にいるわけです。
 
これは別に他人事ではない。何となく我々は自分は「普通」だとか思い込んでいたりもするわけですが、それはたまたまこれまで運良く環境の巡り合わせが良かっただけで、もしかして、ほんのちょっとした変化でたちまちアーサーと同様の境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。
 
そういう意味で、本作が描く「悲劇」は我々の日常と地続きの問題とも言えるわけです。
 
この点、アーサーはジョーカーという「悪」となり、こうした「悲劇」を「喜劇」だと笑い飛ばすことで突き抜けた。まさしく「本当の悪は笑顔の中にある」ということです。
 
社会の「ババ」を押し付けられた存在として、あるいはもはや何も失うものがない「最強の存在」として、多くの人にドミノ的に災厄をばら撒く「悪い冗談」として。こうした何重の意味においてジョーカーは文字通りの「ジョーカー」として君臨する。
 
けれど我々はジョーカーになることなくシステムに抗う道を見つけなければならない。
 
すなわち、現代において必要な想像力とは「システムのコスト」をいかに収束させずに緩やかに拡散させて行く戦略と「分かりにくい生きづらさ」に光を当てて包摂していくための物語なんだと思います。