* 〈意味がある無意味〉と〈意味がない無意味〉
本書の核心となるキーワードは〈意味がない無意味〉です。その対概念となるのは〈意味がある無意味〉です。
〈意味がある無意味〉とは意味の多義性の源泉となります。我々は何についても何かしらの意味を見出してしまう。例えばトマトであれiPhoneであれ人生であれ、様々な見方次第で対象の意味は無限に生じます。
つまり、あらゆる対象は「意味が無限に過剰な多義的なもの」であり、我々が対象についてどれだけ語り倒そうが対象の意味を完璧に把握することは不可能であり「意味の残滓」は常に残るわけです。
* ラカン的構図
こうした〈意味がある無意味〉の典型例として本書が念頭に置くのはラカン派精神分析理論です。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは、その独創的な理論により精神分析のみならず現代思想史にも絶大なインパクトを与えたことで知られています。
この「現実界」が本書のいう〈意味がある無意味〉に当たります。
* 〈意味のある無意味〉の限界性
まず「ラカン的構図」の中心にある〈意味のある無意味〉だけに囚われてしまった時、人は無限に増殖される意味の中で一歩も動けなくなります。
例えば亡き恋人との思い出にとらわれて新しい出会いに踏み切れない人というのはまさに〈意味がある無意味〉に取り憑かれた人です。
これならまだ美しい話なのかもしれませんが、問題はとんでもないものに〈意味がある無意味〉を見出してしまう場合です。
例えばカルト思想、ブラック企業、DV配偶者。こうしたものからなかなか抜け出せない縁が切れないという事例などを考えてみればわかるように〈意味がある無意味〉への執着は時に悲劇をもたらします。
そこまでいかなくても、例えば「一流大学を出て一流企業に入り、それなりの家庭を持つことこそが人生の幸福である」という昭和的なロールモデルに〈意味がある無意味〉を見出してしまい、そのプロセスのどこかで挫折した時、多くの場合、〈意味がある無意味〉は「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。
要するいまや〈意味がある無意味〉の哲学だけではかなり苦しいということです。
あらゆる状況や価値観が夥しく出現しては目まぐるしく流転していく現代社会においていまや、何かしらの特定の対象に〈意味がある無意味〉を見出し人生全てを預けてしまう如き態度は、相当にリスクを伴う生き方と言わざるを得ない。
こうしたことから現代においては〈意味がある無意味〉を相対化させるための哲学が要請されているわけです。
* 「否定神学システム」と「郵便的誤配」
ラカンはあらゆる意味が現実界を巡っていることの必然性を「手紙は常に宛先に届く」と表現しました。これに対して、ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者、ジャック・デリダは「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」と応答しています。
そして、東氏はある時期のデリダの著作の読解を通じて、単数的穴である「現実界」ではなく、複数的他者の交差する「端的な現実」におけるコミュニケーションの誤配(すれ違い)の中に超越性を見出すことでラカン的否定神学システムの乗り越えを試みます。
* ゼロ年代のフランス現代思想
例えば、千葉氏が師事したカトリーヌ・マラブーは脳神経に物質的な変化や障害が起きれば、その「可塑性(外因的変化)」によって精神は変容を強いられるといい、ラカンの「現実界」とは別に「物質界」を位置付けます。
また「思弁的実在論」の論者として有名なカンタン・メイヤスーは、カント的な認識論(つまりはラカン的否定神学システム)を「相関主義」といい、この相関主義の外部にある「思考不可能な実在」が非合理的な「信仰主義」の拠点となるとする。
そして、メイヤスーは「思考不可能な実在」とは別に「思考不可能ではない実在(物質的世界)」を措定し、この世界のあり方に必然性はなく、全くの偶然性で別様の世界に変化する可能性もあるし、このまま世界が維持されるとしてもそれは偶然の結果に過ぎないという思弁的な結論を導き出す。
* 特異点としての〈意味がない無意味〉
氏はここで「意味過剰から非意味的切断へ」というテーマを強調する。つまり無限に展開する意味のネットワークを非意味的に切断することで有限の意味を切り出していく。
この「非意味的切断」が本書のいう〈意味がない無意味〉に相当します。
つまり〈意味がある無意味〉とは意味の世界のリミットを成すブラックホールのような穴です。この穴に向かって「意味の雨」が延々と降り続けている。あるいはこの穴の周りを空回りするようにして我々は日々「意味」を生産し続けている。
これに対して〈意味がない無意味〉とは〈意味がある無意味〉から生じる「意味の増殖」を止める端的な無意味です。いわばブラックホールの蓋のようなものです。
こうして〈意味がない無意識〉により事物の意味を有限化することで「これはこうだからこうする」という「行為」が可能となる。
そして「行為」とは「身体」によってなされます。すなわち、穴に向かって無限に降り注ぐ「意味の雨」を「身体」で跳ね返すということです。こうして本書は〈意味がない無意味〉の基点に「身体」を位置付けます(ここでいう「身体」とは肉体の他、物質、集合、形態を含む広義の「body」の事です)。
また「身体」とは「現実」とも言い換えられます(「現実界」ではない「端的な現実」)。ドゥルーズは潜在性と現実性のうち潜在性にプライオリティを見出していましたが、本書はこの構図を反転させエネルゲイア的現実にプライオリティを見出しているわけです。
* 「わからなさ」を「わかる」ということ
こうした観点から本書ではフランシス・ベーコンの絵画、森村泰昌のセルフポートレイトからギャル男、ラーメン、プロレスに至るまで様々な対象が縦横に論じられ、そこでは「頭空っぽ性」「パラマウンド」「不気味ではないもの」といった斬新な概念が提出されます。
本書の示すパラダイムシフトは「自己肯定」とか「他者理解」などといった我々の日常実践とも密接に関係しているでしょう。我々は無限に連関する意味の世界に縛られて生きていると言えます。けれど、もしもこの無限連関を自在に切断できたとすれば、そこにあるのは「わからなさ」を「わかる」という自由ではないでしょうか。