かぐらかのん

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正義に狂うということ--劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語

 

 

 

* 傑作か?問題作か?

 
魔法少女まどか☆マギカ」。周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが生み出した現代アニメーションの総決算。
 
2011年、あの東日本大震災の翌月に放映されたTV版最終話は大きな社会的反響を呼び起こし、最終回放映後には特集記事が世に溢れかえり、同年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。「まどかの物語」はまさしく記録と記憶の両方に残る作品となりました。
 
本作はその正統な続編となる完全新作劇場版であり、公開前から大きな注目を集めていました。果たして本作は期待に違わず大ヒットを成し遂げ、深夜アニメ劇場版としては史上初の興行収入20億円を突破した。
 
映画としてみれば本作は紛れもない圧倒的傑作と言うべきでしょう。アニメ史に残る絢爛豪華な映像空間とサービス精神に満ちたシナリオ展開で、本作は観客をフルコースで歓待した。
 
ところが同時に本作の結末は多くの人に困惑をもたらす事になります。
 
 

* あらすじ

 
鹿目まどか美樹さやか巴マミ佐倉杏子、そして暁美ほむらは5人組の魔法少女ユニット「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」として人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」退治に明け暮れていた。
 
見滝原で繰り広げられる多忙で騒がしくも、ある意味で幸せな日々。しかしほむらはこうした日々に徐々に違和感を覚え始める。
 
「私たちの戦いって、これで良かったんだっけ?」
 
(本作より)

 

 
真相を見極めるべく調査に乗り出すほむら。結果、この見滝原は「魔女の結界」の内部にある偽りの閉鎖空間であり、しかもそれを創り出したのは他でもなく、魔女となったほむら自身であったことが判明。そしてそこには効率的な感情エネルギーの収集方法の確立を目論むキュゥべえインキュベーターの思惑が関与していた。
 
かつて、ほむらとの会話の中で「魔女」と「円環の理」の存在を知ったインキュベーターはその存在を検証するべく、外部の干渉を遮断するフィールド内にほむらのソウルジェムを隔離して、その経過を観測していたのであった。
 
インキュベーターの目的は「円環の理」の制御である。キュゥべえは、ほむらに対して「円環の理」に救済を求めるよう促す。しかしインキュベーターの思惑に激昂したほむらは「円環の理」の救済を拒絶。ただ魔女としての破滅を選ぶ。
 
しかしその時、まどか、さやか、マミ、杏子、なぎさがほむらを救うべく動きだす。かつて魔女であったさやかとなぎさは「円環の理」の記憶と力を秘かに預かっていた。結果、干渉遮断フィールドは破壊され、インキュベーターの企みは失敗に終わる。
 
こうして「円環の理」の記憶と力はまどかに戻る。そして今まさに、ほむらは「円環の理」に導かれる----はずであった。
 
ところが物語はここから反転する。まどかが、ほむらのソウルジェムに手を差し伸べたその瞬間、ほむらは不敵な笑みを浮かべる。
 
「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた」
 
(本作より)

 

 
あろうことか、ほむらは「円環の理」からまどかの人間としての記録を切り離してしまう。
 
そして、ほむらのソウルジェムはダークオーブへと変貌する。こうして「悪魔」となったほむらは世界を改変する。状況理解に苦しむキュゥべえに対してほむらは高らかに宣明する。
 
「あなたに理解できるはずもないわね、インキュベーター
 
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの----愛よ」
 
「たしかに今の私は魔女ですらない。あの神にも等しく聖なるものを貶めて蝕んでしまったんだもの」
 
「そんな真似ができる存在は----もう悪魔とでも呼ぶしかないんじゃないかしら」
 
(本作より)

 

 

* まどか奪還計画

 
本作のキーパーソンであるほむらの行動原理は解り辛いところがあり、一見、支離滅裂ですらあります。
 
ただ、ほむらの「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた」という言葉を文字通り受け取るのであれば、ほむらはかなり以前から「まどか奪還」の計画を周到に準備していたと解釈したいところです(直前までほむらはこの記憶を喪失していたという理解です)。
 
つまり、ほむらは本作以前のどこかの時点で魔女化の際に生じる莫大なエネルギーを使って「円環の理」からまどかの記憶部分を切り離すというアイデアを思いついていた。
 
そこで「円環の理」に回収される前に魔女化を可能とする装置を開発させるべく、キュゥべえにそれとなく「魔女」と「円環の理」の存在を示唆しておいた(これが前作ラストです)。その後、果たしてキュゥべえは干渉遮断フィールドを完成させる。
 
もちろんほむらは魔女化後、干渉遮断フィールドを脱出する必要がある。そこでほむらは自らの結界に魔法少女達を召喚する(ただ、さやか達が円環の理の記憶を密かに預かっていなかった場合はどうするつもりだったのかという疑問はやはりあるわけでして、この辺は一種の賭けだったのかもしれません)。
 
結果、皆の力で干渉遮断フィールドは破壊され、ほむらは現実世界への脱出に成功する(この辺りでほむらの記憶は完全に戻る)。こうして、ほむらは満を持して「円環の理」と接触し、まどかの記憶部分を切り離す。
 
そしてその後は仕上げとして悪魔化のパフォーマンスでキュゥべえにトラウマを植え付け、以後「円環の理」に絶対に手出し出来ないようにした。
 
この解釈を取る場合、本作のほむらの行動原理の支離滅裂さもある程度は説明可能となります。このようにもし本作の筋書きが全ては初めからほむらの目論見通りであったとすれば、恐るべき周到さです。まさしく文字通りの、悪魔の所業としか言いようがないでしょう。
 
 

* ほむらの「愛」をどう読み解くか

 
もちろん上記のようにほむらの意図を解釈したところで、それでも普通に観る限りは本作が後味の悪い結末である事は変わりないでしょう。
 
本作の結末はいまでも賛否両論が分かれており「最悪のハッピーエンド」「メリーバッドエンド」などと両義的な評価が多く見られます。果たして本作は一体、何を示そうとしたのでしょうか?
 
ほむらはまどかが崇高な願いによって作りあげた秩序を自らの狂った欲望で破壊したわけです。そしてこれを事もあろうに、ほむらは「愛」などと嘯く。こんなものが愛であってたまるか。わけがわからないよ。
 
本作をコンスタンティヴ(事実確認的)に読解する限り、おそらくはこういう感想になるのではないでしょうか。
 
しかし本作をコンスタンティヴとは別の水準で、つまりパフォーマティヴ(行為遂行的)に読解した時、そこにはまた別の側面が見えて来るのではないでしょうか。
 
 

* 正義に狂うということ

 
ここで本作を理解する補助線となるのがフランスの哲学者、ジャック・デリダの「脱構築」の理論です。
 
デリダハイデガーの「解体」の概念をモチーフとして、様々な形而上学的二項対立の欺瞞性を暴露する「脱構築」というテクスト読解技法を提唱しました。
 
そしてデリダによれば法は脱構築可能であるが、正義は脱構築不可能であるといいます。
 
すなわち、法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで特定の秩序を構築する。しかし法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり創設した暴力的な営みに他ならない。デリダが言う所の「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」です。
 
つまり法とはいわば「決定不可能なもの」を暴力的に決定した産物に他ならない。そうであるがゆえに法は脱構築可能なものとなります。
 
一方、正義とはデリダによれば「まったき他者」への応答であり、普遍性と特異性の究極的両立の地平にあります。すなわち正義への到達とはもとより不可能な所業です。従って正義は脱構築不可能なアポリアであると言えます。
 
しかしデリダはこのアポリアを引き受ける事こそが正義の条件であるといいます。つまり、脱構築とはアポリアとしての「正義に狂う」という事です。
 
 

* 「ハッピーエンド」という欺瞞

 
まどかの作り出した「円環の理」はまさに「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」によって創設された「法」に他なりません。
 
すなわち「円環の理」とはいわば「希望と絶望の形而上学」であり、ほむらはこれを「愛」の名の下に脱構築したわけです。
 
結果、新たな世界の中で、まどかはもちろん、さやか達も日常へ還り、平凡で幸福な日々が戻ってきた。一方、キュゥべえはほむらの完全な支配下に置かれボロ雑巾のように酷使される。
 
これは物語的には(キュゥべえ以外は)幸せな結末のはずです。こうした光の側面を強調すれば、シナリオをほとんど変えずに本作を「ハッピーエンドの物語」に仕立てあげる事も充分に可能なはずです。
 
しかし本作はそういう安易な選択に逃げなかった。ほむらの「欲望」はまどかの「秩序」にきっぱりと拒絶される。そして、ほむらはまどかと世界を狂わせた責任を引き受けてひとり「魔なる者」として孤独に生きていく。
 
こうして見ると本作の後味の悪さはむしろ「ハッピーエンドの物語」の形而上学的欺瞞を暴露していると言えるでしょう。
 
 

* 「正しくなさ」という正義

 
もはや社会全体を規定する共通の価値観である「大きな物語」が失墜した現代において人は無根拠を承知でそれぞれが任意の「小さな物語」に寄り縋って生きていくしかない。
 
いまや誰かを救うとは誰かを救わないことであり、誰かの希望は誰かの絶望でしかないことは自明の前提となった。
 
こうして何が「正しさ」なのかがわからなくなった時代における正義とは「正しさ」ではなく、むしろ「正しくなさ」を主体的責任の下で引き受ける決断に他ならない。
 
このような時代性の中で本作をパフォーマティヴに読解した時、我々はほむらの末路にひどく気高い正義の在り処を見る事ができるのではないでしょうか。