かぐらかのん

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「居場所」を見出すということ--「この世界の片隅に(こうの史代)」

 

この世界の片隅に

この世界の片隅に

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

* 綿密に描き出される戦時下の日常

 
こうの史代さんという人は元々はかわいい女の子のゆるい日常を描く「萌えショートストーリー」のようなものが描きたくて漫画家なったらしく、本作も形式こそ4コマでは無いものの、そのテンポ感はいわゆるまんがタイムきらら的な「日常系」に極めて近いものを感じます。
 
本作は戦時下の日常を細やかに描きだし、その隙間に脱力した笑いを配置していきます。本作の数々の日常描写は当時の配給事情や食料事情の綿密な調査に基づいており「楠公飯」をはじめとした「戦時レシピ」はこうの氏自身が実際に作ったみたという徹底ぶりです。
 
本作の描く「日常」がどこまで当時の一般的な日常だったのかはわかりません。けれどもこうした描写のひとつひとつが「あの戦争」と今の時代は地続きの日常であるという当たり前の事実を我々に再認識させるわけです。
 

* あらすじ

 
昭和18年12月、18歳の浦野すずは草津の祖母の家で海苔すきの手伝いをしている時、突然縁談の知らせを受ける。
 
急ぎ帰宅したすずが窓際から覗き見た相手は、呉から来た北條周作という青年だった。翌年2月、呉の北條家に嫁いだすずの新しい生活がはじまる。
 
いつもぼんやりしていて危なっかしいすずは、北條家で失敗を繰り広げながらも、次第に周囲の人々に受け入れられていく。
 

* 居場所のなさ

 
原作中盤ですずは遊郭で生きる女性、リンと知り合い交流を深めます。リンはかつて幼き日のすずが祖母の家で遭遇した「ザシキワラシ」です。
 
栄養不足と過労による戦時下無月経症と診断され「ヨメのギム」を果たせるか悩むすずにリンは「誰でも何かが足りんでもこの世界にそうそう居場所は無うなりゃせんよ」と言う。
 
リンのこれまでの艱難辛苦の経験がそう言わせるのでしょう。そして、ここでリンが言う「居場所」という言葉は本作においては極めて重い意味を持ちます。
 
本作が前半で細やかに描き出した日常は、後半で容赦なく破壊されていく。すずは時限爆弾の爆発に巻き込まれ義理の姪である晴美を死なせてしまい、自身も右手を失ってしまいます。
 
異郷の嫁ぎ先ですずを慕ってくれる妹のようでも娘のようでもある晴美はすずに間違いなく「居場所」を差し出していた存在でした。また、すずは右手を失うことで絵が描けなくなり、世界の中に自らの「居場所」を描き出す手段を失ってしまったわけです。
 
よく知られているように、すずが右手を失って以降の本作の背景はほとんどが左手で描かれています。こうした左手で描き出された歪んだ世界の中で、すずが直面しているのはまさしく「居場所のなさ」です。
 
「居場所のなさ」。あの戦争が多くの人から奪ったのはまさしく「居場所」という人の生を規定する物語だったのではないかと。そう本作は問うているように思えるんです。
 
そして、こうした「居場所のなさ」から生じる感情が「生きづらさ」です。これは現代を生きる我々にもある程度、理解可能な感情ではないでしょうか。すなわち、本作は「生きづらさ」という比較的身近な感情を媒介項として「あの戦争」に思いを至らせることができるわけです。
 
 

* 「記憶の器」として在り続けるということ

 
故郷である広島への原爆投下。終戦を告げる玉音放送。破壊された日常、出会い損なった記憶、飛び去った正義。
 
様々な喪失をすずは「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事で乗り越える。忌まわしい記憶から目を背けず思い出を手放さないという選択です。
 
そして広島で偶然出会った原爆孤児を引き取ろうと決めた時、すずの世界は再び色彩を取り戻す。
 
このような本作の結末は戦後の一時期盛んだった原爆孤児国内精神養子運動とも大きく共鳴しています。すずと孤児を繋げたのは互いの境遇に想いを至らせる想像力でした。こうしてすずは新たなめぐりあわせを得ることで再び「居場所」を見出す事ができたわけです。
 

* 自然主義的リアリズムが生み出す共感

 
周知の通り、本作は2016年にクラウドファンディングという当時としては斬新な資金調達により映画化され、累計動員数は210万人、興行収入は27億円を突破。ミニシアター系作品としては異例の大ヒットを記録しました。
 
監督を務めた片渕須直氏は原作を読むや否や「これをアニメーションにしない手はないし、他のひとに委ねたくない、絶対に自分でやらなければいけない」と確信したらしく、映画の製作にあたっては徹底的な調査が行われ、当時の広島や呉の風景が恐るべき精密さでシュミレートされます。
 
このような「風景のリアリティ」を追求する手法は「アルプスの少女ハイジ(1974)」で高畑勲氏が確立した日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」に由来します。
 
自然主義的リアリズム」に基づく空間演出は写実的な背景と記号的なキャラクターの間にインタラクションを生み出すことで、キャラクターに「まさにそこに立っている」という確かな存在感、実在性を与えると言われます。そういった意味で本作映画は戦後の日本アニメーションが築き上げてきた伝統の到達点に位置しています。
 
こうして徹底的に再現された当時の風景は映画と現実の壁を融解させていく。いわば半ば戦時日常ドキュメンタリーというべき本作は、次第に遠ざかりつつある「あの戦争」とこの現代を歴史的記述でもイデオロギーでもない「共感」という名の想像力によって接続していると言えるでしょう。