新世紀エヴァンゲリオン Blu-ray BOX STANDARD EDITION
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2019/07/24
- メディア: Blu-ray
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* 戦後ロボットアニメの総決算
戦後日本において奇形的とも言える「発展」を遂げたロボットアニメというジャンルはある意味で戦後日本の精神史と表裏の関係にあります。
かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは、占領当時の日本を「12歳の少年」だと評しました。これは要するに、この国は民主的成熟度においては到底近代国家とは言えないという意味です。
その後、日本は経済的には肥大化していくわけですが、肝心の民主的成熟度に関しては相変わらず「12歳の少年」のままであった。
つまりここでいう「正義(成熟)」とは「経済的に豊かになること=社会的自己実現」に他ならないわけです。こうしていわゆる「戦後ロボットアニメの文法」というべきものが一旦確立する。
ところが消費社会が爛熟する80年代に入ると、ロボットアニメにもリアリズムが導入される事になります。いわゆる「リアルロボット」です。
こうして「機動戦士ガンダム」では「宇宙世紀」と「モビルスーツ」という概念が導入され、ロボットは量産型の工業製品へと格下げされ、代わりにアムロやシャアといったキャラクターの自意識の問題がフォーカスされることになる。
更にその続編である「機動戦士Ζガンダム」では主人公のカミーユが最後に発狂し「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」ではアラサーになったアムロとシャアがお互い責任を虚しくなすりつけ合う姿が延々と描かれることになる。
* エヴァの提示したもの
では、このあまりにも偉大な作品が「戦後ロボットアニメの文法」のオルタナティブとして提示したものは一体なんだったのでしょうか?これが本稿のひとまずの主題となります。
そうはいっても以下に述べるエヴァの理解は、おそらく深夜アニメなどにある程度詳しい方であれば、程度の差はあれ普通に感じている常識的な感覚だと思います。
ただ、そういった常識的な感覚を現代思想のタームなどで基礎付けていけば、深夜アニメ等のサブカルチャー作品に触れたり、解釈したりする上でのある種の「ものさし(理論装置)」を作り出す事も出来るのではないでしょうか。本稿はそういう一つの整理と思って頂ければ幸いです。
*「逃げちゃダメだ」から「僕はここにいてもいいんだ」へ
周知の通り、本作は1995年10月から全26話がテレビ東京系列で放送されました。原作はガイナックス。総監督は庵野秀明。舞台は「セカンド・インパクト」と呼ばれる大災害から15年後の西暦2015年。中学2年生の少年、碇シンジは、長年別居していた父、碇ゲンドウから突然、秘密組織NERVに呼び出され、巨大ロボット、エヴァンゲリオンに乗って「使徒」と呼称される謎の敵を倒すよう命じられる。葛藤の末、シンジは「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせてエヴァに乗る。
エヴァは当初「究極のオタクアニメ」として始まった。細かいカット割りや晦渋な言い回しの台詞。随所に垣間見える、宗教、神話、小説、映画からの膨大な引用。こうした要素が渾然一体となり形成されたカルト的世界観はオタク層の快楽原則を最大限に刺激した。
ところが後半、制作スケジュールの逼迫からエヴァの物語は破綻をきたして行く。映像の質は回を追うごとに落ちて行き、それまで散々ばら撒き散らした伏線は一切回収されることはなく、最後に物語は唐突に放棄される。
こうして最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」においては、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し続け、他のキャラクターとの問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいてもいいんだ」という結論(?)に達し、皆から「おめでとう」と祝福されるあの伝説的な結末を迎えることになる。
いわばエヴァは土壇場で「究極のオタクアニメ」から「究極のオタク文学」に唐突に転向したわけです。ここで展開される会話ゲーム的なダイアローグは、確かに大塚英志氏のあの有名な批判にあるように「自己啓発セミナー」のプログラムそのものです。
こうした幕切れは、当然のことながら多くの顰蹙を買う事になる。しかし一方で、もはや制作スケジュールは完全に破綻し、最終回を物語としてまとめることは現実的に不可能であった。
この点、放送直後の庵野氏のインタビューや関係者座談会などにおいては、庵野氏の根本には「変わりたくないんだ」という自己愛があり、その補償作用としてあの「逃げちゃダメだ」という強迫観念があるのではないかという議論が見られます。
そうだとすればシンジの「僕はここにいてもいいんだ」という宣明は「変わりたくないんだ」という庵野監督の咆哮そのものでもあったと言えるでしょう。
*「おめでとう」という承認
しかし、こうした「エヴァの破綻」は図らずも時代との過剰なまでのシンクロを果たしてしまう。
エヴァTV版が放映された1995年は国内思想史における特異点に位置付けられています。この年、一方で平成不況の長期化による社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化する。
こうしてこの年を境にポストモダンの思想家として有名なフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールのいう「大きな物語」が失墜したポストモダン状況がさらに加速。何が「正しい生き方」なのかわからなくなる時代が幕を開ける。
この点、エヴァTV版が示したのが「おめでとう」という承認です。
けれど、シンジが「逃げちゃダメだ」といって葛藤しながらもエヴァに乗る結果、アスカは心を壊し、トウジは片足を失い、カヲルは惨殺される。
要するにここで詳らかにされるのは「社会」へコミットすることで、不可避的に他者を傷つけてしまうという構図です。
こうして最終的にシンジは戦後ロボットアニメの文法を放り出し「僕はここにいていい」と宣明し、皆から「おめでとう」と承認される。
ここで示されるのは「何もしないことこそが正しいことである」という否定神学です。そしてこの結末は幸か不幸か、当時のアイデンティティ不安に陥った若年層への自己肯定のメッセージとして作用した。こうしてエヴァは「承認の物語」として大きな共感を産み出した。
* 第三者の審級の撤退
つまり「大きな物語」を体現する「第三者の審級」という父権的存在が信用されなくなった結果、人々はアイデンティティの拠り所を「他者性なき他者」という母権的存在による無条件承認に求めだすという一種の母胎回帰が起きるという事です。
もとよりここで人は「他者性なき他者」などという不可能なものを求めている事になります。こうして大澤氏は1995年以降の時代を「不可能性の時代」と名付けます。
*「キモチワルイ」という拒絶
もちろんTV版の示す「おめでとう」という承認は所詮空虚な現実逃避でしかない。あたり前の話ですが、我々は「他者性なき他者」に満たされた虚構ではなく「異質な他者」と関わり合う現実を生きていかなければならないわけです。
劇場版においても、シンジは相変わらず心を閉ざし他者の恐怖を語り続けますが、土壇場において人類補完計画を拒絶する。
つまり、ここでのシンジは完全な単体生命(「他者性なき他者」による優しいセカイ)への進化ではなく、バラバラの群体(「異質な他者」と傷つけあって生きていく世界)に留まることを選択したわけです。こうしてシンジは、アスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストを迎えるわけです。
このように劇場版においては、TV版とは真逆のモデルが示されます。すなわち、何が「正しい生き方」なのか分からない時代だからこそ、人は他者と互いに傷つけあいながらも、自分なりの生き方を試行錯誤していくしかないという事です。
* 終わりなき日常を生きろ
宮台氏によれば、90年代における「ブルセラ」と「サリン」の対立は80年代サブカルチャーを規定していた「終わりなき日常」と「核戦争後の共同性」という2つの終末観の対立の現実化であり、オウムの病理とは「終わりなき日常」に耐えかねて「ハルマゲドンという非日常」を夢想し、その夢想を現実化しようとした点にあると分析する。
従って氏はいま必要なのは「終わりなき日常を生きる知恵」であると言い、こうした「終わりなき日常」に最適化したモデルとして「ブルセラ女子高生」を挙げ、彼女達のような生き方を「まったり革命」と名付けました。
* けれど人はそんなに強くない
「異質な他者」との間で「終わりなき日常」を生きていくしかないという、エヴァ劇場版や宮台氏の示す倫理は確かにメッセージとしては疑いなく正しいでしょう。けれども一方、人は実際問題、そんなに強くも軽やかにも出来ていない。
こうして、エヴァ劇場版はエヴァTV版に共感した「エヴァの子供達」に拒絶され、TV版的想像力を色濃く引き継ぐ「セカイ系」と呼ばれる作品群が一世を風靡することになる。別言すれば「セカイ系」とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」です。
同様に、宮台氏のいう「終わりなき日常を生きる知恵」を体現していたはずの「ブルセラ女子高生」もやはり皆、大なり小なり心を病んでおり、後年、宮台氏が自ら認めるように決して「まったり」と生きていたわけではないことが明らかになる。
これらの事象に通じるのは「大きな物語」なきところで生じる「小さな物語」への回帰です。結局のところ、我々は「物語」から自由ではありえないということです。
たとえ「物語を選択しない」という立場をとったとしても、それは結局「『物語を選択しない』という物語の選択」でしかない。つまり問われるべきは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」にあるということなんでしょう。
*「おめでとう」と「キモチワルイ」--他者の両義性
つまり、ここで明らかにされるのは「おめでとう=他者性なき他者(不可能性)」と「キモチワルイ=異質な他者(終わりなき日常)」という「他者の両義性」に他ならない。
そしてこうした「他者性なき他者」と「異質な他者」は実際のところ同一の他者の中に同居する。すなわち、我々は同じこの「他者の両義性」を前提として他者との間との関係性を構築していかなければならないということです。
ここで「他者性なき他者」を純粋に希求する想像力が「セカイ系」であり、これに対して「異質な他者」と真正面から対決する想像力が「サヴァイブ系」であり、さらにこの両者を止揚する形で「異質な他者」の中に「他者性なき他者」を発見する想像力が「日常系」や「なろう系」であると、やや図式的ですがひとまずはこのように言えるでしょう。
* 交響圏とルール圏
氏によれば、社会の理想的なあり方を構想するには「他者の両義性」に対応した原的に異なった二つの発想様式があるという。
すなわち「歓びと感動の源泉としての他者(=他者性なき他者)」に対応する「交響圏」の創出と「不幸と制約の源泉としての他者(=異質な他者)」に対応する「ルール圏」の設定です。
氏はこの二つの社会構想の発想様式を対立的にではなく相補的に捉えた〈交響するコミューン・の・自由な連合〉という社会構想を提出し、この理念は「交響圏」と「ルール圏」が入り混じる現実社会においても「〈交響性〉と〈ルール性〉のドミナンス(相対的優位)」という理念的基軸として機能するというわけです。
* エヴァの命題
この点、戦後サブカルチャー文化圏を規定する有名な命題として、大塚英志氏のいう「記号によって成熟を如何に描くか」という「アトムの命題」や、宇野常寛氏のいう「虚構によって現実を如何に描くか」という「ゴジラの命題」があります。
こうした観点から言えば、エヴァが示す「物語によって他者を如何に描くか」という命題は「アトムの命題」「ゴジラの命題」に続く第三の命題として、文字通り「エヴァの命題」と呼ぶこともできるのではないでしょうか。
最後になってやや風呂敷を広げすぎた感はありますが、要するにエヴァという作品は現在に至っても有効な「ものさし」として機能しているという事です。せっかく毎期毎期夥しい数の深夜アニメが放映されているわけです。より深く作品に触れる上でも、何かひとつはこういう「ものさし」を持っておきたいものです。そういうわけで以上、長々と私なりの「ものさし」について書かせて頂きました。ここまでお読み下さって有難うございます。