かぐらかのん

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コミットメントのコストをいかに処理するか--「1Q84(村上春樹)」

 

 

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 
1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

 

 

 
 

* はじめに

 
村上春樹作品というのは、少なくとも長編作品に関しては基本的に決して読みやすい小説ではないでしょう。あの圧倒的な飛距離を持つメタファー、随所に仕込まれた複雑怪奇な文学的実験。こういった諸々の要素が渾然一体となった「村上ワールド」を前に、我々読み手は至る所で困惑し狼狽させられ、自らの想像力の限界を思い知らされることになります。
 
ところが本作「1Q84」は従来の村上作品とは決定的に違っています。徹底的に平易で洗練されたリーダビリティ、読み手の快楽原則を重視したストーリーテリングゼロ年代サブカルチャーにおける「萌え」と「燃え」を体現するキャラクター。ここにイラストが付けばもはやライトノベルと言っても過言ではない恐るべき突き抜け方です。
 
このなりふり構わなさは一体なんでしょうか?もちろんこれは単純な市場への迎合ではありません。言うまでもなく村上春樹という作家が何かを書けば、黙っていてもそれなりに勝手に売れる。それはもとより疑いない。
 
けれど本作は「それなりに」ではなく「それ以上に」多くの人たちに届ける必要があった。なぜならば、本作は村上氏が「今、一番恐ろしいと思う」という存在に対抗する為の「ワクチン」だからです。
 
 

* あらすじ

 
舞台は1984年の日本。物語は青豆と天吾という2人の男女を軸に展開する。
 
主人公の一人である青豆はスポーツインストラクターの仕事の傍らでDV加害者の暗殺に従事する。ある日、青豆は空に月が二つ浮かぶパラレルワールドに迷い込んでいることに気づく。彼女はその世界を「1Q84年」と名付ける。
 
そして、もう一人の主人公である天吾は予備校で数学を教える傍らで小説家を目指している。知己の編集者、小松から与えられた新人賞応募作の下読みの最中、天吾は「ふかえり」こと深田絵里子という少女の書いた「空気さなぎ」という小説に強い印象を受ける。
 
小松の企みにより天吾によってリライトされた「空気さなぎ」は新人賞を得て空前の大ヒットとなる。そんな中で天吾は青豆と同じパラレルワールドに迷い込む。果たしてその世界は「空気さなぎ」の世界そっくりであった。
 
こうして2人は迷い込んだ世界の中で、それぞれの立場で「さきがけ」なるカルト教団に関わる事件に巻き込まれていく。
 
 

* ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ

 
村上氏は本作に執筆動機について次のように述べています。
 
僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻(おり)というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる
 
(僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉/毎日新聞2008年5月12日)

 

 
ここでいう「枠組み」というのは端的にいうと、ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」のことを言っているわけです。
 
すなわち、ポストモダン的状況においては、社会共通のイデオロギーや価値観といった「大きな物語」の解体が加速する。こうした状況を本作では「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という比喩によって示します。
 
「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オーウェルの風刺小説「1984年」に登場するカリスマ独裁者の事です。いわば「国民国家」の比喩となります。
 
かたや「リトル・ピープル」とは本作中の鍵となるふかえりの小説「空気さなぎ」に登場する超自然的な力を発揮する一種の幽体のことです。いわば「グローバル資本主義」の比喩となります。
 
本作の章題にあるように「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」。つまり現代社会を規定するのは「国民国家」というイデオロギーではなく「グローバル資本主義」というシステムに他ならない。こうした時代認識はミシェル・フーコーでいう「コンテンポラリー」、ジル・ドゥルーズでいう「制御社会」に相当します。
 
 

* 「ワクチン」としての物語

 
そして村上氏によれば、現代において「一番恐ろしいと思う」のは、こうした「リトル・ピープル」から不可避的に生まれる欲望と暴力、すなわち「いろんな檻(おり)というか囲い込み」に他ならない。
 
この点、本作に登場するカルト教団「さきがけ」のモチーフとなっているのは連合赤軍オウム真理教です。どうやら村上氏の中では、物語なきアイデンティティ不安の受け皿として機能していた点で、両者は同じ系譜に連なっているようです。
 
すなわち、リオタールのいう「大きな物語」なき社会において、人々は、それぞれ任意の「小さな物語」に依拠して自らの生を意味付けていくしかない。村上氏が「一番恐ろしいと思う」のは、ここでとんでもないカルト的物語に魅入られてしまうことにあるわけです。
 
そうした意味で本作は表題通りオーウェルの小説「1984」を更新する試みとなります。現代のシステムが生み出す欲望と暴力に抗うための主体的倫理をいかに確立するか。これが本作の主題となります。
 
これはおそらく氏が懇意にしていた臨床心理学者、河合隼雄氏の影響が大きいと思われます。氏曰く、人はそれぞれその人なりの「生の物語=おはなし」を生きている、「おはなし」は人を救う事もあれば殺す事もある、従って現代人に必要なのはカルト的な「おはなし」に自己を乗っ取られない為の「おはなしに対する免疫」である、と。
 
ゆえに本作はまさに「空気さなぎ」のように「ワクチン」の如く広く世間にばら撒かれなければならない。本作が「わかりやすさ」に徹したのはそういう事情に由来しているわけです。
 
 

* デタッチメントとポストモダニズム 

 
では、この「リトル・ピープルの時代」における主体的倫理とは何でしょうか?この点、村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から「1973年のピンボール(1980)」「羊をめぐる冒険(1982)」に至るいわゆる「鼠三部作」と呼ばれる初期作品において鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理でした。
 
「デタッチメント」というのは、言ってみれば「公と私」「政治と文学」「システムと個人」の関係性の問題を一旦切断した上で、後者の問題に特化する態度です。
 
これは当時流行した「ポストモダニズム」とは一線を画するものです。当時の「ポストモダニズム」が標榜したのは「大きな物語」を解体して別の物語に読み替えてしまう「闘争」ならぬ「逃走」でして、こうしたアイロニズム的な態度を「物語批判」といいます。
 
こうした「洗練」された観点すれば個人の内面にこだわる村上作品は野暮ったいアナクロニズムでしかない。こうして両者は緊張関係に立つ。
 
ところが「大きな物語」の衰退はポストモダニズムが標榜する「物語批判」も道連れに無効化してしまいます。なにせ批判すべき物語それ自体がなくなるわけですから、そのアイロニズムはもはや空転するしかないわけです。
 
そして同時に人々の中で「大きな物語」なき後で生じる根源的なアイデンティティ不安を埋めるべく「大きな物語」に代わる物語への希求が強くなる。いわゆる「物語回帰」という現象です。
 
結果的に言えば村上氏はこのような時代の変化にいち早く対応した事になります。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」でさらに徹底されたデタッチメントの美学は、1000万部のベストセラー「ノルウェイの森(1987)」において「ナルシシズムの記述法」としてさらなる深化を遂げる。こうして国民的作家、村上春樹は誕生したわけです。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
しかし一方、ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへと遷移していく時代の変化は村上氏に新たなる課題を突きつけます。すなわち、新しい時代の変化を作家としていかに記述するのかということです。
 
ビッグ・ブラザーという終わりゆくものには「やれやれ」とデタッチメントしておけば良かったわけですが、リトル・ピープルという新たな変化に対してはそうはいかない。ここで氏は倫理的作用点の転換を迫られます。これがあの有名な「デタッチメントからコミットメントへ」です。
 
こうした問題意識から執筆されたのが「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」です。これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったように思えます。ところが「ねじまき鳥クロニクル」には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」と言えます。
 
ただ同作においては、肝心のコミットメントすべき対象、すなわちリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」を的確に捉えきれていないきらいがあるでしょう。同作において「悪」として設定されたワタヤ・ノボルはどう見ても80年代的ニューアカ系文化人とか当時台頭しつつあった新保守系の政治家のイメージでしかなく、新しい「悪」のイメージとしては今ひとつ迫力に欠けています。
 
ところが奇しくも同作の刊行中、新しい「悪」は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現する。あのオウム真理教による地下鉄サリン事件です。ここで氏は一旦は時代に追い抜かれていることになります。
 
その後、村上氏は事件関係者への綿密な取材をまとめた「アンダーグラウンド(1997)」「約束された場所で(1998)」を公刊する。そして本作「1Q84」において再びリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙することになります。
 
 

* 戦闘美少女スタイル

 
では本作において、リトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙する「正義」はいかなる形で示されるのか。
 
この点「ねじまき鳥クロニクル」においては、主人公オカダ・トオルが夢の世界でワタヤ・ノボルを「完璧なスイング」で撲殺し、その同時刻、失踪中の妻クミコがオカダに成り代わり入院中のワタヤを現実世界で殺害します。
 
つまり、同作で示された「コミットメント」のモデルとは、氏がこれまで洗練させてきた「ナルシシズムの記述法」を「正義の記述法」へ応用したものと言えます。
 
すなわち「他者性なき他者としての女性性」あるいは「母性的存在」を体現するヒロインが現実的なコミットメントを代行し、これにより主人公の「ナルシシズム」と「正義」が同時に記述されるという構造です。
 
これは端的に言えば「戦闘美少女スタイル」です。換言すれば村上氏が同作で示したコミットメントのモデルはゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏の中で広く引き継がれているということです。
 
そして「1Q84」もある面でまた、こうしたコミットメントの図式を踏襲していると言えます。物語中盤の雷雨の夜、天吾はふかえりから「ヒツヨウなこと」であると告げられ、彼女との性行為に及ぶ。そして行為の後、ふかえりは「わたしはニンシンしない。わたしにはセイリがないから」という。
 
一方で同夜、青豆はふかえりの実父でもあるカルト教団「さきがけ」のリーダー深田保を暗殺する。そしてその後、彼女は教団から追われる中で、天吾の子供を性行為抜きで妊娠する。
 
要するに、ここでも「ねじまき鳥」の構図が(よりあからさまな形で)反復されているわけです。これに対しては当然、コミットメントから発生するコストをヒロインに押し付けているという批判が生じます。本作については宇野常寛氏が「レイプ・ファンタジー」という言葉で批判するように、確かにここには母性的承認の下で「政治と文学」の問題を接続する父権主義的な構造があることは否めないでしょう。
 
 

* コミットメントのコストを払ったのは誰か

 
ただ、本作はもう一つの側面があると思うんです。牛河の存在です。それまで「さきがけ」のエージェントとして青豆や天吾の周辺を嗅ぎ回っていた牛河という人物が〈BOOK3〉において突如、第3の主人公に昇格する。
 
ここまでの牛河は醜い外見と卓越した知性を持つ不気味な存在でしかなかった。ところが牛河パートにおいては牛河の内面描写に重点がおかれることになる。
 
その外見故に全く愛されずに育った少年時代や短かった家庭生活といった過去。嫉妬、憧れ、哀しみといった複雑な感情。ここで描き出される牛河はもはや不気味なエージェントではなくただの孤独な中年男性です。
 
そして、その存在を青豆サイドに覚知された牛河は最終的には青豆の同僚タマルによって惨殺されることになる。一方、牛河の介入をきっかけに青豆と天吾は再会を果たし、2人はパラレル・ワールドからの脱出に成功。この新しい世界で自分たちの子供を育てていくことを誓い合います。
 
牛河はその能力以外はいわゆる「キモくて金のないおっさん」そのものです。要するに、主人公の「ナルシシズム」と「正義」を実現するためのコミットメントのコストは最終的にはヒロインではなく「キモくて金のないおっさん」が支払っているということになります。牛河の唐突な主人公昇格と惨めな最期の描写はおそらくこの構図をはっきりと示すためのものだったのでしょう。
 
 

* リトル・ピープルの時代における想像力

 
本作が突きつけるのはコミットメントのコストは常に他者に転化され続けられるという端的な現実です。
 
これはゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏においても共通する問題意識でしょう。それは例えば、誰かを助けるという事は誰かを助けない事を意味する「正義の在り処(Fate/Zero)」として、あるいは人が希望を願えばその等価の絶望が世界に回帰する「希望と絶望の相転移まどか☆マギカ)」として、描き出されることになります。
 
この点、本作終盤にて牛河の死体からリトル・ピープルたちが出現したのは示唆的といえます。コミットメントのコストを押し付けられた他者から新たなリトル・ピープルの暴力が生じてくることになるわけです。
 
本作においてリトル・ピープルの暴力には連合赤軍オウム真理教のイメージが重ねられていますが、2019年のいま、リトル・ピープルはさらに恐ろしい暴力を生み出しています。
 
それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としてのテロリズム、日本国内レベルで言えば格差社会の反作用としての「無敵の人」による無差別殺人事件という形で噴出する。
 
こうした現代の暴力は「大きな物語」無きところで生じるアイデンティティ不安というより、むしろ「小さな物語」同士の衝突として捉えるべきなのでしょう。
 
もはや「大きな物語」の失墜は自明となり、グローバリズムとネットワークが極まった世界から「外部」は消失し、この閉ざされた世界の中で人は好むと好まざるとそれぞれが信じる「小さな物語」を生きていくしかない。
 
もはや人々は強制的にコミットメントさせられている。ゆえにいまや問題はデタッチメントかコミットメントではなく、リトル・ピープルから不可避的に生じる「コミットメントのコスト」を収束させることなく如何に緩やかに処理できるかという点にある。おそらくそれこそが現代の「政治と文学」に求められる想像力なのでしょう。