* 動員の革命から相互評価のゲームへ
2000年代後半以降のソーシャルメディアの普及は人々の情報環境に劇的な変化をもたらしました。そして2010年代とはソーシャルメディアを活用した新たなかたちの市民運動が生み出された時代でもありました。当時、一世を風靡した「動員の革命」という言葉には新聞やテレビといったマスメディアを介したトップダウン的動員ではなく、市民一人ひとりが自発的に発信するソーシャルメディアを介したボトムアップ的動員から生まれる新しい民主主義への希望が込められていました。果たして「アラブの春」から東日本大震災の反原発デモまで世界を席巻した「動員の革命」の手法はやがて市民運動だけにとどまらず、政治、経済、文化全般へと波及していきました。
しかしながら今日においてソーシャルメディアはアテンション・エコノミーの加速とポピュリズムの台頭により、一方ではフィルターバブルによって自分たちが見たいものだけを目に入れて聞きたいものだけを耳に入れることで精神を安定させたい人々にフェイクニュースや陰謀論を提供する装置と化し、他方では「正しさ」の名の下で他者に石を投げつける私刑の快楽を手放せなくなった人々の安価で高性能な投石機と化しています。さらにこうしたソーシャルメディアにおいて形成された世論は民主主義のプロセスに希望どころか、むしろ歪みをもたらしているともいえます。
批評家の宇野常寛氏はこうした社会の分断と民主主義の歪みを引き起こすソーシャルメディアの現状を「相互評価のゲーム」と呼びます。そして昨年12月に公刊された氏の新著である本書『庭の話』はこのような「相互評価のゲーム」が前面化した今日の情報環境における問題の所在とその処方箋を「庭」というユニークな切り口から様々な角度から思考する一冊です。
* AnywhereとSomewhereの分断
本書が提示する問題の所在は次のようなものです。今日の人類社会はソーシャルメディア上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力を持っています。それはいわば全てのプレイヤーが参加する「相互評価のゲーム」に他なりません。今日の情報発信においてあらゆるユーザーは受信者であると同時に潜在的な発信者でもあります。そしてこの時ユーザーには自己の発信に他のプレイヤーから反応を得るインセンティヴが多かれ少なかれ発生します。
つまり誰もが他のユーザーからのリアクションを潜在的に期待しているということです。そしてこのような相互評価のゲームによるインスタントな承認中毒という人類が覚えた新しい「麻薬」の効果を用いて政治的、経済的な「動員」が行われた結果、民主主義という制度が迷走をはじめていると本書はいいます。
この30年のあいだに冷戦からパクス・アメリカーナへ、そしてその崩壊へと時代は移ろい、いまや人類社会の最上位レイヤーはローカルな国民国家からグローバルな市場へと変化し、そして世界を変える究極の手段はそのローカルな国民国家の法を選挙や革命で変える政治から、グローバルな市場にイノベイティヴな商品やサービスを投入する経済へと移行しました。このようなローカルな国家からグローバルな市場への移行に対するアレルギー反応として本書は2016年に顕在化したトランプという固有名詞とプレグジットと呼ばれる事件を位置付けます。
ここには一つの大きな分断を見出すことができます。イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは世界はいま「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々に二分されていると述べています。ここでいう「Anywhere」な人々、つまり「どこでも」生きていける人々とは今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、クリエイティヴ・クラスの人々のことです。
彼らは東京でもロンドンでもニューヨークでもシンガポールでも同じように働き、生きていくことができます。彼らに特定の国家に所属する国民であるという意識は相対的に希薄であり、彼らにとって国籍とは自己につけられたタグの一つにすぎません。世界市民的な意識をもつ彼らの考える社会とは全人類が参加するグローバルな市場のことであり、そして自身の仕事を通してこの社会にコミットします。
これに対して「Somewhere」な人々、つまり「どこかで」しか生きられない人々は20世紀以前の製造業を中心とした旧い産業に従事し、ローカルな国民国家の一員としての意識を持つ人々のことです。グッドハートによればプレグジットとトランプは後者の人々の反乱であり、それはグローバル化、情報化によって世界をひとつのゲームボードに統一しようとする今日的趨勢に対するアレルギー反応であるということです。
グローバル化、情報化が進展した今日において「Somewhere」な人々は経済的アプローチによっては世界に関与する手段を持っていません(少なくともそう実感せざるを得ない立場にあります)。それゆえに今日において彼らは主に民主主義に基づいた政治的なアプローチによって「世界に素手で触れる手触り」を得ようとします。具体的には他者からの承認の快楽を得ようとします。そして現代の情報技術の発展はこの承認の快楽を獲得するために必要なコストを飛躍的に下げることになりました。その結果、今日の世界ではこの承認の快楽が民主主義を内側から破壊しつつあると本書はいいます。
*〈グレート・ゲーム〉の二重構造
このように今日の世界は巨大なひとつのゲームとして捉えることができます。そしてこのゲームは二層に分かれた構造を持っています。それは「Anywhere」な人々のプレイするグローバルな金融資本主義というゲームと「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームです。そしてこの相互評価のゲームのなかでもっとも低コストで強い承認を得られる人気のプレイスタイルこそが「民主主義」です。
何より重要なのは「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームが、より上位の「Anywhere」な人々のプレイするグローバルな資本主義というゲームの一部として提供されている点にあると本書はいいます。「Anywhere」な人々は「Somewhere」な人々の承認への欲望を可視化し、彼らのプレイする相互評価のゲームによって収益を上げる構造を作り上げており、その構造こそがソーシャルメディアに代表されるプラットフォームに他なりません。
つまり下位のゲーム(相互評価のゲーム)の設計者を兼ねたメタプレイヤーたち(「Anywhere」な人々)はこのゲームをプレイすることを自己目的化したプレイヤーたち(「Somewhere」な人々)を動員して収益を上げ、上位のゲーム(金融資本主義)をプレイしているということです。これがグローバルなゲームの二重構造です。そして本書はこの構造は21世紀に出現した新たな現象ではなく、ある意味では古くて新しい問題であると述べます。
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントは1951年に公刊した『全体主義の起源』で19世紀後半以降の帝国主義拡大の原動力を〈グレート・ゲーム〉を自己目的化してゲームそれ自体への没入した当時のヨーロッパ人の精神性にあったといいます。そして本書はこのような帝国主義の末期から100年を経た今日のプラットフォーム上の相互評価のゲームをプレイする人々の多くもまた、おそらくアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉に没入した植民地化のヨーロッパ人と同じ状態にあるといいます。
「Somewhere」な人々は現在の承認を求めて相互評価のゲームをプレイし「Anywhere」な人々もまた未来の評価(株価)を求めて金融資本主義のゲームをプレイしています。すなわち、ここでアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉は今日の情報技術と金融資本主義の結びつきの中で二重化されているということです。
アーレントが『全体主義の起源』で示したのはこのようなゲームの自己目的化が人間とその社会を決定的に愚かにするという事実でした。そして今日における相互評価のゲームもまた多くの場合、世界における問題そのものや事物そのものを思考することよりも二項対立に単純化された問題についての賛否をめぐるコミュニケーションが重視され、その結果閉じたネットワークの内部でシェアされる情報は多様性を失っていき、承認だけが延々と交換されていくことになります。
こうした相互評価のゲームに支配されたプラットフォームの時代を内破する方法について考えることが本書の主題となります。そしてその方法は「庭」という比喩によって語られます。
* なぜ「庭」なのか
ではなぜ「庭」なのでしょうか。プラットフォームには人間間のコミュニケーションしか存在しません。しかし「庭」は異なります。「庭」は人間外の事物であふれる場所です。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交います。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成しています。しかし同時に「庭」とはあくまで人間の手によって切り出された場です。完全な人工物であるプラットフォームに対して「庭」という自然の一部を人間が囲い込み、そして手を加えた場は人工物と自然物の中間にあります。
だからこそ人間は生態系に介入し、ある程度まではコントロールできます。しかし完全にコントロールすることはできません。「庭」とはその意味で不完全な場所です。しかし、だからこそプラットフォームを内破する可能性を秘めています。つまり問題そのもの、事物そのものへのコミュニケーションを取り戻すためにはいまプラットフォームを「庭」に変えていくことが必要であると本書はいいます。
「庭(ニハ)」という言葉はかつては現代における「場」と同じ意味で用いられていたそうです。例えば狩りの場は「狩庭」、漁労の場は「網庭」、稲作の場は「稲庭」といった具合にです。共通するのはそこは人間が何かの事物とコミュニケーションを取るための場所であったということです。この性質は今日の主に鑑賞を目的に造られる庭にも引き継がれています。そして庭が「場」を示すものから「観る」ためのものに変化したとき「庭」はそこに暮らす人々の世界観を象徴的に表現するものとして機能するようになります。
本書は世界最古(平安時代末期)の造園指南書ともいわれる『作庭記』に記された造園の基礎となる心得を引き、その内容を本書の文脈に即して次のように述べます。まず「庭」とはその家屋の置かれた地形に基づいて造られた実際の自然のミニチュアであるということ、次にその造形には造園家や家主の世界観が反映された作品であること、そして最大の参照先はさまざまな土地に実在する景勝地であるということです。つまり『作庭記』における「庭」とはまずその土地の個性を引き出し、そこに人間のメッセージを、他の場所に存在する自然の生み出した美を掛け合わせることで表現されるものであるということです。
かつてのバロック庭園が人間理性を体現し、園林が桃源郷を体現したように、人類の歴史のなかで「庭」とはその時代の人間が考える理想の世界象を体現する場として造られてきました。そこで本書はいまこの時代にあるべき「庭」とは何かを問います。
* 庭の条件から人間の条件へ
言うまでもないことかもしれませんが、ここでいう「庭」とは「やっぱり庭のある暮らしはいいね」とか、そういう類の話ではもちろんありません。本書では「庭」という比喩により、人と事物の関係性をいかにデザインし直すかという問題が論じられます(もちろん文字通りの「庭」をつくる上でも本書はかなり参考になるでしょう)。
本書ではジル・クレマンの「動いている庭」、エマ・マリスの「多自然ガーデン」、岸由二氏の「小網代の森」、鞍田愛希子氏の「ムジナの庭」、鞍田嵩氏の民藝論、伊庭崇氏のパターン・ランゲージ論、國分功一郎氏の退屈論/中動態論、そして吉本隆明氏の共同幻想論/自立論といった様々な領域における実践や理論を参照しつつ「庭」の条件が論じられます。その条件とは次のようなものです。
まず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるが、完全に支配することはできない場所である必要があります。
そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」にする場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると本書はいいます。
もちろん「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ「場所」の複合体としての都市があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。
そして、共同体における「である」ことへの承認からも、市場における「する」ことへの評価からも共に切断された「自立」の回路を本書は事物を「制作」することに見出し、ここから「庭の条件」を機能させるための「人間の条件」をアーレントが1958年に公刊した『人間の条件』で示した「労働」「制作」「行為」という人間の活動における三つのカテゴリーのアップデートが「制作」を軸として試みられることになります。
* 庭・宇宙・リトルネロ
本書は宇野氏が2008年に公刊したデビュー作『ゼロ年代の想像力』以降「決断主義」「リトル・ピープル」「母性のディストピア」といった術語によりさまざまな角度から展開してきた情報社会論における現時点での到達点を示したものであるともいえます。本書の議論は実際の作庭から哲学に至るまで様々な文脈に接続しており、それゆえに本書は実に多様な読み方に開かれています。
例えば本書は國分氏が2011年に公刊し、ベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』における議論を更新するものとしても読めます。國分氏は同書においてフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの消費社会論をベースに「退屈」とは消費社会が生み出すニューモデルとかブランドといった観念や記号を際限なく追い求め決して「満足」に至らない「消費」から生じるとして、その解決策として「消費」から「浪費」へ回帰すること、つまり事物についての観念や記号ではなく、事物それ自体を(過剰に)受け取ることで「満足」に至る「贅沢」という戦略を提示しました。
これに対して本書は同書の公刊当時から情報環境が劇的に変化した現在では「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題が生じるとして「消費」から「浪費」への回帰という戦略のさらにその先に「制作」を位置付けます。そしてこのような「制作」の動機は事物の「浪費」に「満足」することなく失敗し続けることで生じるとして、このような「浪費」に失敗し続けるための場として事物とのコミュニケーションを通じて継続的な「変身」が生じる「庭」を位置付けています。
また本書は「ムジナの庭」のパートにおいてフランスの精神科医ジャン・ウリの一連の仕事を紹介していますが、ウリが開設したラボルド病院において精神病(統合失調症)治療に従事していたフェリックス・ガタリはジル・ドゥルーズと共にポスト構造主義を代表する哲学書『アンチ・オイディプス』の著者として知られています。ガタリは様々な事物を「機械」として捉え、このような「機械」の連結によって個人の実存としての「宇宙」が立ち上がるといいます。そして、こうした「宇宙」が立ち上がるプロセスをガタリとドゥルーズは同書の続編である『千のプラトー』において「リトルネロ」という概念によって捉えています。
「リトルネロ」とはもともとイタリア語のritorno、ritornareに由来する音楽用語であり、歌の前奏、間奏、後奏における反復演奏を含意しています。ガタリとドゥルーズによればリトルネロとはカオスの中で一瞬の準安定状態を確保して「生きられる空間」としての「領土」を創り出す契機であり、この領土はまさに事物とのコミュニケーションによってアレンジメントされることになります。すなわち「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げるリトルネロとは世界に散乱するさまざまな事物と直接結びつき、絶えず生成変化していく「領土化」「脱領土化」「再領土化」からなる一連のプロセスに他ならないということです。
ここでガタリのいう「実存の時空間」としての「宇宙」とは本書のいう「自立」に重なり合うものがあります。またリトルネロにおける「領土化」「脱領土化」「再領土化」からなる一連のプロセスは本書のいう継続的な「変身」に相当するものと思われます。そうであれば、このようなリトルネロが生み出されるところには事物の「浪費」に失敗し「制作」に至る回路を開く場としての「庭」があるといえるでしょう。こうした意味で我々は、この日常におけるさまざまな場所や出来事のなかにも相互評価のゲームを内破するための「宇宙」を立ち上げる「庭」を見出していくことができるのではないでしょうか。