かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自然主義的リアリズムの脱構築--今村夏子『とんこつQ&A』

* 今村作品における「文体」について

 
今村夏子氏は大学卒業後、清掃関係のアルバイトなどを転々として、29歳の時にバイト先から「明日休んでください」といわれたのがきっかけで、どういうわけか「小説を書こう!」と思い至ったそうです。
 
こうして書き上げられたデビュー作『あたらしい娘』は2010年に第26回太宰治賞を受賞し、その後、同作は『こちらあみ子』と改題されて単行本化され、2011年には第24回三島由紀夫を受賞します。
 
思いがけず鮮烈なデビューを果たしてしまった今村氏の当時の心境は「どうしよう。もう書くこともないのにほめられて」だったそうです。そして三島賞受賞決定後の電話インタビューでは「今後書く予定はない」というような趣旨のことを述べており、それから5年近くもの間、2014年の文庫版「こちらあみ子」に併録された短編を除き、作品の発表は途絶えていました。
 
ところが2016年、福岡で創刊された『たべるのがおそい』という名の地方文芸誌で唐突に新作が発表されます。この『あひる』という作品は第155回芥川賞候補作に挙がり、惜しくも受賞は逃すも同作を収録した短篇集は第5回河合隼雄物語賞を受賞します。
 
そして2017年に公刊された『星の子』は再び第157回芥川賞候補作に挙がり、第39回野間文芸新人賞を受賞します。その後、2019年に公刊された『むらさきのスカートの女』でついに第161回芥川賞を射止めることになりました。また2020年には『星の子』が大森立嗣監督、芦田愛菜主演で映画化され、2022年にはデビュー作である『こちらあみ子』が森井勇佑監督、大沢一菜主演で映画化されています。
 
時に「世界文学」とさえ評される高い文学性と幅広い支持を集めるポピュラリティを併せ持つ今村作品の特色はその極めて特異的な「文体」にあります。一見、さらさらと読めてしまう平明さを持ちながらも、どこかある種の「不穏さ」を孕んだその「文体」こそが今村作品の世界観を創り上げています。
 
かつて村上春樹氏は小説とは作家と読者との「信用取引」で成立しており、その「信用維持」においてもっとも重視すべきものが「文体」であるとして、夏目漱石以来の日本文学が軽視してきたものの一つがまさにこの「文体」であったと述べています。
 
「文体」とはいわば小説世界の「空気」のようなものです。たとえ小説の「主題」とか「構造」などがいかに高尚で深淵だとしても、肝心の「文体」が魅力的でなければ読者がついてきてくれません。事実、ゼロ年代以降の文芸市場を席巻するライトノベルと呼ばれる作品群は近代文学とは全く異なる「文体」で記述されています。
 
こうした状況を東浩紀氏は近代文学が「自然主義的リアリズム(現実の写生)」にもとづく「透明な言葉」で記述されているとすれば、ライトノベルは「まんが・アニメ的リアリズム(虚構の写生)」と「ゲーム的リアリズム(環境の写生)」にもとづく「半透明の言葉」で記述されていると整理しました。
 
こうした意味で今村作品の紡ぎ出す「文体」もまた、これまでの近代文学を規定していた「自然主義的リアリズム」の境界線の揺らぎに対する純文学からの優れた回答であるともいえるでしょう。昨年7月に公刊された今村氏の最新刊である『とんこつQ&A』はこのような特異的な「文体」にさらに磨きがかかった珠玉の短編集です。
 

*「とんこつQ&A」をめぐる狂騒

表題作「とんこつQ&A」のあらすじは次のようなものです。2014年の春、主人公である「わたし(今川)」は「とんこつ」という名前の中華料理店で働き出します。現在、店主である「大将」とその息子の「ぼっちゃん」が切り盛りするこの「とんこつ」という店はもともとは「敦煌」という名前のはずでしたが、そのオープン直前に届いた看板がなぜか手違いで「とんこう」と平仮名になっており、さらにその看板が大型台風の直撃で「う」の字の点が飛ばされてしまい、現在の「とんこつ」になったという経緯があります(なお「とんこつ」のメニューには調理に手間のかかる「とんこつラーメン」はありません)。
 
3分の面接を経て晴れて「とんこつ」の店員に採用された今川は最初は緊張のあまり「いらっしゃいませ」すら言えませんでしたが、やがて「喋る」ことはできなくても書かれた文字を「読む」ことならできることがわかり、客との想定問答を予め書いたメモを用意することでどうにか業務をこなせるようになります。そんな今川を大将とぼっちゃんは特に責めもせず、むしろ歓迎しているようでもあり、そのうち今川は2人から時折、今は亡き「おかみさん(大将の妻/ぼっちゃんの母親)」のように扱われるようになります。
 
やがて今川はそれまで書きためてきたメモを「とんこつQ &A」という自作ノートにまとめますが、いざ「とんこつQ &A」を携えて店に出ようとするとB6サイズのノートがポケットに収まらないことが判明します。ところがその時、今川はメモがなくても「自分の言葉」で「喋る」ことができるようになっていることに気が付きます。こうしてメモを必要としなくなった今川は以前にも増して積極的に仕事に取り組むようになりますが、そんな今川の振る舞いをぼっちゃんはどこか寂しそうな様子で眺めています。
 
そんな折に「とんこつ」へ「丘崎」という女性が採用されます。指示されたこと以外は全く仕事をしない丘崎に苛立ちを隠せない今川でしたが、大将とぼっちゃんは「おかみさん」と同じ大阪出身の丘崎をいたく気に入り、大将に懇願されて今川が作成した「とんこつQ&A〜大阪ver.〜」によって丘崎はいつしか「とんこつ」の「おかみさん」のような存在になっていきます。
 

* 発達障害的モチーフの孕む危うさ

 
本作と同様の「コミュニケーションの苦手な人間がマニュアルのおかげで救われる」という発達障害的モチーフを持つ作品として2016年に第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の『コンビニ人間』が挙げられます。同作の主人公である古倉恵子は幼少時から周囲の空気が全く読めず対人関係に著しい困難を抱えていましたが、大学生の時にたまたま始めたコンビニエンス・ストアのアルバイトで初めて「世界の正常な部品」になれた感覚を得ることができます。
すなわち、古倉はコンビニの業務マニュアルに自分自身を完全に同期させることで「普通の人間」らしく振る舞うことができるようになったということです。同様に本作の今川も「とんこつQ&A」というマニュアルを創り上げることで「自分の言葉」を話せるようになりました。
 
しかし本作はここからさらにねじれた展開を見せていきます。『コンビニ人間』において古倉はマニュアルのおかげで救われているように見えましたが、本作における丘崎もまた、古倉と同じ位置に立っています。では果たして丘崎も古倉のように救われているのでしょうか?
 
いみじくも古倉はコンビニで働く自分自身を「部品」と呼んでいましたが、丘崎もまた「とんこつ」で文字通り単なる「部品」と化しています。こうした意味で本作は『コンビニ人間』において既に伏在していた「それって要するに資本主義システムにとって都合の良い部品が一つ出来上がりましたというお話ですよね」という批評性を極めて狂気的なかたちで前景化させた作品であるともいえるでしょう。
 

* 乾き切った「いま」を描く

 
本書には表題作の他、3つの短編が収録されています。そのあらすじは以下のようなものです。
 
「嘘の道」。「僕」が子供の頃、町内に「与田正」という嘘つきの少年が住んでいました。与田正は学校でいじめられていましたが、全校朝礼で『いじめをなくそう!』が今月の全体目標になったため、その目標達成のためクラスの皆は与田正に急に親切にしだします。そんな、ある日「僕」は姉と敬老祭りに行く途中で道に迷ったおばあさんに近道を案内しましたが、その道中でおばあさんは転んで骨折してしまいます。その後、噂が膨れ上がるにつれて、いつの間にかその出来事は「強盗傷害事件」として語られるようになり、おばあさんに「嘘の道」を教えた犯人として与田正が名指されます。
 
「良夫婦」。かつて勤務していた訪問介護事業所の副所長と結婚後、現在は菓子工場でパートをしている「友加里」はいつ見てもお腹を空かせている近所の少年「タム」のことがどういうわけか気になり、しばし彼に勤務先の工場から持ち出したお菓子を与えたりする一方で、彼の腕にできたあざから虐待を疑い、児童相談所に通報したり特別養子縁組について調べたりしていました。そんなある日、友香里は飼い犬のアンコが死んだことを知ったタムが庭のサクランボの木にこっそり登ってくるのを偶然見かけます。
 
「冷たい大根の煮物」。高校卒業後にプラスチック部品工場で働き始めた「わたし(木野)」は、ある日同僚の「芝山さん」という中年女性から話しかけられます。工場内で芝山さんはいろんな人からお金を借りているという噂がありました。当初は芝山さんを警戒する木野でしたが、その後、芝山さんはしばし買い物帰りに木野の自宅に立ち寄りいろいろな料理を作ってくれるようになります。木野は芝山さんに感謝しますが、その一方で家の電気代とガス代が一気に跳ね上がることになります。
 
表題作を含む本書に収録された4つの短編の共通点はただただ乾き切った「いま」という「時間」を淡々と描き出していく点にあります。それは換言すれば「生の現実」としての世界から断絶した解離的な時間であるといえそうです。
 

* コントラフェストゥム

 
このような解離的な時間を精神病理学では「コントラフェストゥム」と呼びます。この点、日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は様々な精神病理を「ポスト・フェストゥム(あとの祭り)」「アンテ・フェストゥム(祭りのまえ)」「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」という時間構造から切り分けた「祝祭論」で知られています。こうした木村氏の「祝祭論」の現代的展開として、木村門下の精神病理学者である野間俊一氏は「コントラフェストゥム(祭りのかなた)」という第4の時間構造を提唱しています。
 
ここでいう「コントラフェストゥム」とは時間体制としては木村氏のいうところの「イントラ・フェストゥム」と同じく「いま」の枠内にあるものの、本来のイントラ・フェストゥムが生き生きとした「いま」に満ちた「永遠の現在」であるのに対して、コントラフェストゥムはただただ空虚な「いま」が流れては消えていくような単なる「瞬間の継起」として捉えられます。
 
すなわち、本来のイントラ・フェストゥムはまさに我を忘れて「祭り」の中で皆が入り乱れて踊り狂っているようなイメージですが、コントラフェストゥムは決して「祭り」の中に身を投じない、あるいは体は「祭り」の狂乱と喧騒の中にあったとしても心は「祭り」から切り離されて、ひとり遠く異次元に取り残されているというようなイメージです。
 
野間氏によればこの両者を隔てているのはその身体性(身体感覚の総体)に対応する空間性(身体が働きかける諸事物の総体)であり、本来のイントラ・フェストゥムが「飛翔」する身体性に対応する「充溢」した空間性が想定されているのに対して、コントラフェストゥムは「浮遊」する身体性に対応する「空疎」な空間性の中に位置しているといいます。
 

* 自然主義的リアリズムの脱構築

 
このようなコントラフェストゥムとは「ポストモダン」と呼ばれる現代を規定する「時間」であるともいえそうです。いわゆる「大きな物語」が失効したポストモダンにおいて任意に選択した「小さな物語」を生きる人々はその生の実存を他者からの承認によって確保しようとしました。そしてこのような承認をめぐるゲーム(=祭り)から疎外されたところ(=かなた)で生じる「時間」がコントラフェストゥムです。こうした意味で現代を生きる人々は多かれ少なかれコントラフェストゥム的な時間を生きているといえるでしょう。
 
本書を含む今村作品に見られる自然主義的リアリズムを脱構築した「不自然さ=不穏さ」とはおそらく、こうしたコントラフェストゥムと呼ばれる「時間」を極めて高い解像度で描いた結果として生じたものであるとも思われます。そして本書の最後に位置する短編「冷たい大根の煮物」はコントラフェストゥムを生きる中でなお世界を空疎なものから豊かなものへと拡張していくためのささやかな処方箋を描き出した寓話のようにも思えました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「現実」の時代における「批評」の位置--宇野常寛『2020年代の想像力』

*「事物を通じたコミュニケーション」としての「批評」

 
2020年代という時代は新型コロナ・ウィルス(COVID-19)の出現とともに幕を開けました。このコロナ・パンデミックは図らずとも世界的危機が「危機そのもの(COVID-19による生命と健康への危機)」よりも、その「危機についてのコミュニケーション(COVID-19をめぐる情報がもたらす社会的な混乱)」として出現するということを明らかにしました。こうした状況をWHO(世界保健機関)は「Information(情報)」と「Epidemic(疫病の流行)」とを合わせて「Infodemic(インフォデミック)」と名付けて各国に警戒を促しました。
 
もっとも、このような「infodemic(インフォデミック)」と名指されるような傾向はコロナ・パンデミック以前の2010年代から既に始まっていました。ソーシャルメディアの普及によるアテンション・エコノミーの加速とポピュリズムの台頭は様々な局面における社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こし、いまやSNSは一方ではフェイクニュース陰謀論の温床となり、もう一方では正義の名のもとに他人に石を投げつける安価で高性能な投石機と化してしまいました。
 
このような今日における情報環境を宇野常寛氏は昨年上梓した『砂漠と異人たち』において「相互評価のゲーム」と名指しています。同書はSNSの普及により「他人の物語」に感情移入することよりも「自分の物語」を発信して他者に承認されることに快楽を見出した人々は閉じたネットワークの中での「相互評価のゲーム」に夢中になり、その結果、このような情報環境においては常に「問題そのもの」ではなく「問題についてのコミュニケーション」の方がクローズアップされてしまい「問題そのもの」を議論することが難しくなっているといいます。
そして同書はこのような「相互評価のゲーム」の外側に脱出するには、その「時間的な外部」に立ち、情報に対する「速度」の決定権を取り戻す必要があるといい、そのための実践として「事物を通じたコミュニケーション」を提案しています。
 
その第一の実践は人間以外の事物に触れることです。すなわち、相互評価のゲームがもたらす承認への中毒を解毒するためにはまず事物と「虫の眼」でコミュニケーションすることで孤独に世界に接する時間を回復する必要があるということです。そして、ここで大事なのは事物の「消費(事物を単に受け取り用いること)」ではなく「愛好(事物に対して独自の問題を設定し探求すること)」であるといいます。
 
続く第二の実践は人間以外の事物を「制作」することです。人は「虫の眼」をとりわけ事物を「制作」するときに発揮することができます。そして第三の実践は「制作」を通じて他者と接することです。すなわち、人間そのものではなくその人が制作した事物とのコミュニケーションに注力することで「相互評価のゲーム」とは異なるチャンネルでの対話が可能になるということです。そして、このような「事物を通じたコミュニケーション」の一つのあり方として「批評」があります。
 

*「現実」の時代における「批評」の位置

本書『2020年代の想像力』は主に2021年から2023年にかけて宇野氏が執筆した作品評を収録した評論集です。その「序にかえて--「虚構の敗北」について」において本書全体を貫く問題意識が概ね次のように述べられています。
 
まず本書は今日は「現実」が「虚構」に対して優位な時代であるといいます。かつて20世紀は映像技術(劇映画)と放送技術(テレビ)の飛躍的な発展により人々がこれまでにないレベルで「他人の物語」に感情移入できるようになった時代でした。これに対して21世紀の今日は情報環境(インターネット)の劇的な変化により人々がやはりこれまでにないレベルで「自分の物語」を発信できるようになった時代であるといえます。
 
人間とは本質的にそれがどれほど希少でも「他人の物語」を観るよりも、それがどれほど凡庸でも「自分の物語」を語る方が好きな生き物です。今日の情報環境がもたらす「他人の物語」から「自分の物語」への不可逆的なパラダイムシフトは「虚構」の「現実」に対する相対的な敗北を意味しています。いまや人々は「虚構」における「他人の物語」に没入する快楽から「現実」における「自分の物語」に承認を与えられる快楽にその関心を移し始めるようになりました。
 
このように「虚構」と「現実」のパワーバランスはいま確実に後者に傾いています。こうした今日的な傾向は小説や映画やアニメといったコンテンツを消費する態度にも現れています。すなわち「作品そのもの(虚構)」以上に「作品についてのコミュニケーション(現実)」に関心を置き、例えばある作品を皆で支持したり、あるいはある作品を皆で批判したりすることで自身の承認欲求を安易に満たすような態度です。換言すれば現代とは「作品を鑑賞する行為(受信)」が「作品を使って承認を獲得する行為(発信)」に圧倒されつつある時代であるといえます。
 
こうした「現実」が優位する時代において本書はいまや世界から次第に忘れられつつある「虚構」だけが表現できる価値に注目します。「虚構」だからこそ描き出せるものに触れることではじめて「現実」に対して適切に対抗(対応)し得るのであると本書はいいます。
 
本書のいう「作品についてのコミュニケーション(現実)」の「作品そのもの(虚構)」に対する優位は『砂漠と異人たち』において提示された「問題についてのコミュニケーション」の「問題そのもの」に対する優位という問題意識とまっすぐにつながっています。こうした意味で本書は「作品についてのコミュニケーション(現実)」ではなく「作品そのもの(虚構)」と向き合う「批評」というかたちで「相互評価のゲーム」とは異なるチャンネルを開く「事物を通じたコミュニケーション」のあり方を示す一冊であるといえるでしょう。
 

* 村上春樹『街とその不確かな壁』をどう読むか

 
本書の作品評価基準はその冒頭に置かれた「『街とその不確かな壁』と「老い」の問題」に端的に現れています。ここで取り上げられている『街とその不確かな壁』は今年春に公刊された村上春樹氏の6年ぶり15作目の長編小説です。同作は村上氏が1980年に発表した「街と、その不確かな壁」というほぼ同名の中編小説を下敷きに書かれたものです。周知の通りかつて村上氏はこの作品を書き直し1985年に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という名で世に送り出しました。
 
しかし、さらに歳月が経過して作家としての経験を積み年齢を重ねるにつれ、村上氏は「街と、その不確かな壁」という作品には『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とは異なる形の対応があってもいいのではないかと考えるようになり、最初の中編小説が発表されてから40年の歳月が流れた2020年から執筆を開始して、およそ3年近くかけて完成させた作品が本作『街とその不確かな壁』です。
本書はまずこの小説において村上氏が従来掲げていた「デタッチメントからコミットメントへ」という主題がほぼ完全に消滅しているといいます。
 
団塊世代の村上氏は1960年代末の「政治の季節」の終焉をその創作の出発点にしています。その初期作品において氏がまず打ち出したのがマルクス主義のようなイデオロギーから「やれやれ」と距離をとる「デタッチメント」という態度でした。それは単なるニヒリズムではなくあくまで倫理的であるためのデタッチメントです。ところが阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年前後において村上氏は「コミットメント」へとその倫理的作用点を転換させることになります。ここで提示されたコミットメントのモデルとは歴史を「物語(イデオロギー)」ではなく「情報(データベース)」として捉え直すことで普遍的な「悪」に対峙するというアプローチです。
 
しかし、このようなコミットメントのモデルはこのままでは一つの問題を抱え込むことになります。それはイデオロギー抜きに歴史にアクセスした時に歴史の意味が都合よく改編されてしまい現代でいうところの陰謀論歴史修正主義に陥る危険があるということです。そこで村上氏はコミットメントの強度を従来から反復してきた男性的ナルシシズム(主人公に無条件の承認を与えるヒロインの存在)に求めました。その結果、主人公のコミットメントのリスク、コスト、責任が全てヒロインに転嫁されるという構造が、本書のいうところの「性搾取的なモチーフ」が生じることになります。
 
もっとも近年においてはこのような「性搾取的なモチーフ」は作品を重ねるごとにずいぶんと穏やかなものになる一方で、その縮退に比例してコミットメントもまた縮退してしまうという別の問題が発生することになります。こうして『街と不確かな壁』に至ってはコミットメントがほぼ消失し、そこではあまりにも凡庸でありきたりな男性的ナルシシズムの軟着陸がまるで何か偉大な達成を成し遂げたかの如くロマンチックに提示されているに過ぎないと本書はいいます。
 

* リトル・ピープルと母性のディストピア

 
このような辛辣な評価はおそらく宇野氏がこれまでの著作で提示した「リトル・ピープル」という時代観と「母性のディストピア」という成熟観に関係しているように思われます。
 
まず氏は『リトル・ピープルの時代』(2011)において見田宗介氏と大澤真幸氏の議論を批判的に継承して戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(〜1968)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968〜1995)」「リトル・ピープルの時代(1995〜)」という3つの時期に区分しています。
 
このような「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変遷とは、言うなれば単一的な「大きな物語」を唱導する「偉大な父性」が君臨する時代が終わり、複数的な「小さな物語」を扇動する「矮小な父性」が乱立する時代への変遷を意味しています。
また氏は『母性のディストピア』(2017)において江藤淳氏の議論を参照しつつ戦後日本的な成熟像を「母性のディストピア」と呼んでいます。ここでいう「母性のディストピア」とは「政治」の不可能性を「文学」における自己完結運動で補償する「矮小な父性」とかかる不毛な演技を承認する「肥大化した母性」の結託構造をいいます。
 
このような「母性のディストピア」は二者関係で生じる幻想に由来します。戦後日本を代表する思想家の1人である吉本隆明氏はかつて人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(二者関係)」「共同幻想(共同体)」という三つの幻想から形成されるとして、各幻想は原理的には「逆立(反発しつつも独立している状態)」するものと考えました。
 
そこで吉本氏は「共同幻想」に対する「自立」の起点として核家族的な「対幻想」に着目しました。しかしながらその後の消費化情報化社会の進展は三つの幻想が実際のところ「逆立」などでなく単に独立しているに過ぎず、このような対幻想への依存はむしろ共同幻想への埋没や自己幻想の肥大化を招くことを明らかにしていきました。
以上のような観点から(あえて図式的に)述べるとすれば、1995年前後における村上氏の「デタッチメントからコミットメントへ」という転換はいわば「リトル・ピープルへのコミットメント」として位置付けられますが、そこで提示される「対幻想(ヒロイン)」に依存した「コミットメント」では「共同幻想(悪)」に対応できず、近年の作品においてはむしろ「自己幻想(男性的ナルシシズム)」を支援する傾向が強まっているということになります。すなわち『街とその不確かな壁』という作品にはこうした近年の傾向がより顕著な形で引き継がれてしまっているということです。
 

*「時代の象徴」ゆえの評価か?

 
もっとも本書は単に批判するだけではなく現在の状況は村上氏が作家として進化して、かつて志した「総合小説」に挑戦する契機になるように思えるとも述べており、そのモチーフの例として村上氏が短編集『女のいない男たち』(2014)で描き出したような同性間の友情を挙げています。
本書で述べられているように宇野氏にとって村上春樹とは「時代の象徴」として位置付けられる作家であり、その分、要求する水準が他のクリエイターよりも数段高いのかもしれません。もちろんこれは批評家として時代のポピュラリティを明らかにする誠実な態度だと思います。ただその一方で村上氏も自身の女性依存的な作風にまったく無自覚ではないはずです。
 
実際に村上氏は対談集『みみずくは黄昏に飛び立つ』(2017)において対談相手である川上未映子氏から直接、その女性観を鋭く批判されています。また現時点での最新短編集『一人称単数』(2020)に収録された書き下ろしの同名小説では戯画化された村上春樹が突如あらわれた女性から猛烈に罵倒されるという展開が描かれています。
 
そもそも今回の『街とその不確かな壁』という作品はかつての幻想を浄化するという自己治療的な意味合いを持つ創作でもあったと思います。そうであれば次回作ではもしかしてこれまでにない村上春樹の新境地を見せてくれるかもしれません。そして何よりも70代半ばになってなお、これからの「進化」を期待される作家であり続けることは本当に凄いことだと思います。
 

* 2020年代の想像力たちのコミットメント

 
では、その他の2020年代の想像力たちは世界に対していかにコミットメントしたのでしょうか。ここでは本書が取り上げる作品のいくつかのうち、そのさわりだけを見ておきたいと思います。
 
「 『すずめの戸締まり』と「震災」の問題」について。昨年公開された新海誠氏の最新作『すずめの戸締まり』は村上氏が阪神淡路大震災にインスパイアされて執筆した「かえるくん、東京を救う」という短編小説を下敷きとしていると言われています。
 
この点「かえるくん、東京を救う」における「地震」とはリトル・ピープル的な「悪」の象徴でした。これに対して『すずめの戸締まり』ではこのような「悪」という主題が捨象され、東日本大震災を何かの比喩ではなく「震災そのもの」として描き出していきます。そして、そこにはただただ、被災を乗り越えた人々の人生を「損なわれたもの」として位置付けることなく、無条件に肯定することこそがいま必要なことであるという意志だけがあります。
 
村上春樹の後継者的存在ともいうべき新海誠という作家はかつて『秒速5センチメートル』(2007)や『言の葉の庭』(2013)などといった作品では村上春樹的な男性的ナルシシズムをある種のマゾヒズム的な表現へと昇華して描き出すことに成功しましたが、メジャー路線を志向した『君の名は。』(2016)以降の作品からはこのような類の表現が後退していきます。
 
そして本作『すずめの戸締まり』では少年ではなく少女が主役となり、新海氏は震災後の日本を覆う「貧しさ」を「国民的作家」として正面から引き受けることになりました。本書はこの映画を創作物としては恐ろしいほどに「空っぽ」だといいつつも、いまこの国で「国民的作家」であろうとするのであれば、ほとんど「空っぽ」にしかなり得ないということかもしれないと述べています。
 
「『リコリス・リコイル』と「日常系」の問題」について。昨年の「覇権アニメ」との呼び声も高い『リコリス・リコイル』は近未来日本を舞台に社会秩序を守るエージェントである「リコリス」たちの活躍を描いた作品です。本作のヒロイン錦木千束は普段は「喫茶リコリコ」の看板娘を務めながら歴代最強のリコリスとして社会の裏側で暗躍するテロリストたちと対峙しています。
 
千束が体現するものはいわば「日常系」の思想です。ゼロ年代のオタク系文化は村上春樹の強い影響下にあった「セカイ系」と呼ばれる想像力から出発しましたが、ゼロ年代中盤以降はこの「セカイ系」を乗り越えるようなかたちで「日常系」と呼ばれる想像力が台頭してきます。このような「日常系」においてはもっぱら部活動でのおしゃべりや放課後の寄り道などといった10代女子の日常における他愛もない交歓がもたらすささやかな幸福感が描き出されました。
 
しかしながら2010年代以降のオタク系文化のトレンドはさらに「日常系」から「なろう系」に変遷していきます。ここでは既に現実の人生を半ば諦めた人々の自虐的な感性にアプローチして、もはや何もかも分かってやっているのだというメタメッセージを伴いながら願望充足的なサプリメントとしての物語が提供されることになります。これは「虚構」としての「日常系」が「現実」の日常に敗北したことをも意味しています。
 
この点、本作における「悪」を体現するテロリスト真島は千束が守ろうとする「日常系」の思想の欺瞞を暴き出すことを目的としています。しかし本書は千束が守ろうとしているものの本質を真島は正確に暴き出していないといいます。もとより千束は自身の「日常系」の思想が最初からそれが嘘っぱちで薄っぺらくて射程の短いものだと自覚しつつも、それでもなお、その「嘘」を守ることにこそ価値を見出しています。
 
つまり、真島は「嘘が必要だ」という千束に対して「それは嘘だ」と反論してしまっているわけです。こうしたことから、もし真島が本当に千束に対抗したいのならば、単に「それは嘘だ」と言い募るのではなく、それはもうすでに「力を失った嘘でしかない」ことを突きつけるべきだったのではないかと本書はいいます。
 
「『スーパーカブ』と「中距離の豊かさ」の問題」について。トネ・コーケン氏のライトノベルスーパーカブ』はとある地方都市に暮らす「親もない友達もいない趣味もない」女子高校生小熊が通学用に原チャリ「スーパーカブ」を手に入れたことで成長していく物語です。カブを得ることで行動範囲が広がった小熊の生活はそれまでとは比べものにならないくらい色鮮やかで豊かなものになっていきます。このような「モノ(事物)」とのちょっとした出会いで世界がみるみる拡張されていく体験を詳細に描いているところが本作の特徴といえます。
 
しかしながら本作はヒロインが高校を卒業して都内の大学に進学したところで唐突に完結します。結局のところカブが広げてくれる行動範囲とは、高校生にとっては決定的ですが大学生にとってはそうでもなかったということです。本作の最終巻において小熊はカブを使ったバイトを本格化させ「大人」になる道を歩んでいきます。しかし本書は小熊に「大人」になってほしくないといいます。
 
かつて20世紀のサブカルチャーにおいて車やバイクといった「乗り物」はもっぱら男子の身体を拡張し、その男性的ナルシシズムを記述するための道具として用いられてきました。けれども本作で小熊がカブという「乗り物」で拡張しようとしたのはその身体ではなくむしろ世界の方です。ここでは20世紀の男子たちが見落としていた「乗り物」の本来的な可能性が見直されているように思えると本書はいいます。
 
すなわち、カブという「乗り物」は身体ではなく世界を拡張し、遠くでも近くでもない「中距離の豊かさ」を深めていくための「モノ(事物)」ともなり得るということです。そして、おそらくここには2020年代という時代を席巻する「相互評価のゲーム」から離脱するための「事物を通じたコミュニケーション」の一つの可能性を見出すことができるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

実践知としての哲学入門--東浩紀『訂正する力』

 

*「訂正可能性」による日本社会のリノベーション

 
20世紀を代表する哲学者の1人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。そして言語哲学者ソール・クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。
 
例えば「2+2は5」であると主張する人が現れたとします。この「2+2は5」という主張を「間違い=ルール違反」だと断定することは原理的には不可能です。にもかかわらず現実において「2+2は5」という主張は通常「間違い」であると「訂正」されることになります。なぜなら大多数の人々が彼の主張が「間違い」だと見做す共同体に属していると信じているからです。
 
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなります。
 
東浩紀氏が1998年に世に放った『存在論的、郵便的』はこのような「訂正可能性」の理論からフランスの哲学者ジャック・デリダのテクストを読み直し当時の批評シーンに大きなインパクトを与えました。1993年の批評家デビュー以来、東氏の仕事は表面的にみると1990年代のフランス現代思想ゼロ年代のオタク論、2010年代の観(光)客論と様々に変転していますが、これらの議論は一貫して「訂正可能性」の具体的局面を取り扱ったものとして読むことができます。
 
こうした意味で今年公刊された『訂正可能性の哲学』はこれまでの東思想のまさしく「総論」に位置する哲学書であったといえます。そして同書に続いてデビュー30周年を記念して公刊された本書『訂正する力』は「訂正可能性」を使った日本社会のリノベーションを提言する一冊であるといえます。
 

*「じつは・・・だった」という発見

「失われた30年」という言葉に象徴されるようにバブル崩壊以後今日に至るまで長きにわたって停滞を続けた日本社会はいまや政治経済における様々な局面で行き詰まりを見せています。このような惨状を前にしてある言説は「リセット」を叫び、またある言説は「ぶれない」ことにこだわります。
 
こうした中、本書は「リセット」と「ぶれない」のあいだでバランスをとる「訂正する力」が大事であると説きます。本書のいう「訂正する力」とは過去との一貫性を主張しながらも、実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力のことをいいます。そして、その核心には「じつは・・・だった」という発見の感覚があります。
 
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
 
このようにルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象は子どもの遊びのみならず、人間の行うコミュニケーション全般において見られます。そして、このような「訂正する力」こそがいまの日本に必要であると本書はいいます。
 

*「空気」を書き換える力

 
「訂正する力」とは「空気」を書き換える力です。日本社会は「空気」と呼ばれる無意識的なルールに支配されているとよく言われます。この「空気」なるものは皆が他人の目を気にするだけではなく、同時に皆が気にしている当の他人もまた他人の目を気にしているという入れ子構造になっています。
 
だとすれば、こういった「空気」を変えるためには「空気」から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ「空気」の中にいるふりをしてながら、少しずつ違うことをやっているうちにいつのまにか「空気」が変わってしまうというアクロバットをやるしかなく、その「いつのまにか」をどう演出するかという課題に答えるのが「訂正する力」であると本書はいいます。
 
つまり「空気」が支配している国だからこそ、その「空気」が「いつのまにか」変わっているように状況を作っていくことが大事にあるということです。
 
これはデリダのいう「脱構築」に極めて近い発想です。彼は哲学の伝統的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求することによって哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みをまさに哲学の方法として提示しました。
 
すなわち、ルール(空気)を書き換えるためには既存のルールをひそかに訂正しつつ、その新しさを全面に押し出さずに「いやいや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張するような現在と過去を結びつけていくしたたかな両面戦略が必要になるということです。
 

*「正しさ」を更新する力

 
また「訂正する力」とは「正しさ」を更新する力です。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。この人は正しくない発言をしたからみんなで批判しよう、仕事を奪おうという動きは時に「キャンセル・カルチャー」と呼ばれたりもします。
 
ところで「コレクトネス」という言葉は「コレクト」という動詞の名詞形ですが、この「コレクト」は「校閲する」とか「まちがいを正す」などといったまさに「訂正」を意味する言葉です。すなわち、現在の「コレクトネス=正しさ」とは普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。
 
そうであれば今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。「正しさ」に対しては、そのような距離を持って考えることが大事であり、少なくとも現在の価値観だけを振りかざして、過去の発言や複雑な文脈を持った行為を一刀両断していく行為はむしろポリティカル・コレクトネスの精神に反しているといえます。
 
しかしその一方で「訂正する力」は「歴史修正主義」と一線を画しています。ここでいう「歴史修正主義」とは例えば「アウシュビッツガス室はなかった」とか「従軍慰安婦はいなかった」などといった主に保守派による歴史の捏造を意味する言葉として現在用いられています。この文脈での「歴史修正主義」は過去を忘却し、現実から目を逸らす行為です。これに対して「訂正する力」はむしろ過去を記憶し、現実に向き合う行為ともいえます。
 

*「喧騒」を生み出す力と「幻想」を創り出す力

 
哲学とは「時事(時局への対応)」「理論(基本原理の究明)」「実存(生き方の提示)」の3つの領域の連関から成り立っており「訂正する力」もまたこの3つの領域をシームレスにつなげていくと本書はいいます。こうした観点からいえば本書の第1章は「時事編」であり第2章は「理論編」であり第3章は「実存編」となります。そして第4章はここまでの議論の「応用編」であり「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像のアップデートを試みる議論が展開されます。
 
この点「訂正する力」は「喧騒」を生み出す力でもあります。本書の根底には「人は根本的には他者と分かり合えない」という世界観があります。だからこそ人が互いに理解し合う空間ではなく、むしろ互いに「おまえはおれを理解していない」と永遠に言い合う空間をつくることが大事だと本書はいいます。
 
そしてこれは民主主義の問題とも関係しています。『訂正可能性の哲学』でも参照されている19世紀フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルが強靭な民主主義の条件として「喧騒」を挙げたように、民主主義社会とは正解を求める社会ではなく、とにかくさまざまな人々が自分の理屈で好き勝手に「おまえはおれを理解していない」と「喧騒」の中で「訂正」を求めあう社会です。
 
こうした意味で日本社会とは経済(中小企業)から趣味(同人誌サークル)の領域に至るまで、もともと少人数でわちゃわちゃとやることを好む「喧騒」に満たされた文化を持つ社会です。そして、そこに「喧騒」があるということはそこには「平和」があるということです。
 
また「訂正する力」は「幻想」を創り出す力でもあります。ここでいう「幻想」とは現実を覆い隠す思考停止ではなく、むしろ現実に向き合って前に進んでいくための道標です。
 
かつて明治日本は近代化を達成するために天皇親政という幻想を創り出し、戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という幻想を創り出しました。そして今日における日本社会の機能不全はこのような意味での幻想の機能不全に起因しているともいえるでしょう。こうしたことから本書は文化論的な観点から戦後日本における平和主義の「訂正」を提案します。
 

* 実践知としての哲学入門

 
「空気」を書き換え「正しさ」を更新し「喧騒」を生み出し「幻想」を創り出すということ。過去と現在をつなぎ合わせて未来を照らしだすということ。本書はかつて日本に備わっていた「訂正する力」を今こそ取り戻そうと呼びかける書物です。もちろん本書の個別的な提案に対しては様々な異論もあると思います。けれどもそのような様々な異論が異論として色とりどりにばらばらなままでせめぎ合う社会こそがまさしく「訂正する力」に満たされた社会であるといえるでしょう。
 
そして何より本書は哲学とは決して現実から遊離した観念の遊戯ではなく、むしろ現実を変えていくための実践知であることを教えてくれます。こうした意味で本書は東思想の現時点における決定的な入門書であると同時に実践知としての優れた哲学入門であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

解離の時代における自傷と救済--西尾維新『愚物語』『業物語』『撫物語』『結物語』

* ライトノベルと解離の時代

 
かつてライトノベルは「キャラクター小説」とも呼ばれていました。この「キャラクター小説」という言葉は例えばあるアニメを起点としてお菓子や文房具といった様々な「キャラクター商品」を商業的に展開していく中で「ノベライズ」や「外伝」という形で企画される「キャラクター商品としての小説」に由来します。それゆえに業界内ではアニメ調のイラストをつけてあたかも「キャラクター商品」のように売り出す小説を自嘲的なニュアンスを込めて「キャラクター小説」と呼ぶようになったそうです。
 
もっとも、こうした中で「キャラクター小説」を文学的な観点から積極的に再定義する議論も現れました。例えば大塚英志氏は『キャラクター小説の作り方』(2003)において「私」という自然主義的現実を写生するのが近代文学における「私小説」だとすれば「キャラクター」というまんが・アニメ的虚構を写生するのが現代の「キャラクター小説」であると位置付けた上で、日本における私小説の起源とされる田山花袋の『蒲団』を題材に「私小説」も実は「仮構の私」なるキャラクターを写生する「キャラクター小説」であったという議論を展開しました。
 
また東浩紀氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において大塚氏の議論をさらに展開させてライトノベルとはキャラクターのデータベースを人工環境として書かれるという意味ですぐれてポストモダン的な文学の形式であり、前近代の語りが「不透明な言葉」であり、近代の自然主義文学が「透明な言葉」であるとすれば、現代(ポストモダン)のライトノベルはいわば「半透明な言葉」で記述されているとして、ライトノベルの文学的な可能性を「透明な言葉」では消えてしまうような現実を「半透明な言葉」を利用して非日常的な想像力の上に散乱させる屈折した過程を経た「現実の乱反射」に見出しています。
 
そして、このような「透明な言葉」では捉えられない現実を「半透明な言葉」を駆使して見事に描き出したライトノベル作品として西尾維新氏の〈物語シリーズ〉を挙げることができます。本シリーズ全体の大まかなあらすじは主人公である私立直江津高校3年生、阿良ヶ木暦が春休みに瀕死の吸血鬼、キスショットを助けたことで「吸血鬼もどきの人間」となって様々な怪異絡みの事件と遭遇する中で人間的に成長していくというものです。
 
本シリーズが描く「怪異」という現象は「解離」という現代的な病理のメタファーとしても読むことができます。現代は広い意味で「解離」の時代であるといえます。ここでいう「解離」とは知覚や記憶や身体感覚の断片化を指しており、その根底には世界に対する空疎な感覚と不信の念があるとされます。
 
例えば精神病理学者の野間俊一氏は2000年型抑うつ解離性障害、広汎性発達障害摂食障害自傷行為といった様々な現代的な精神疾患の根底には広い意味での「解離」が認められるとして、ここから時代精神としての「解離」を論じています。また引きこもりの専門家として知られる精神科医斉藤環氏も現代の若年層に蔓延する「自傷的自己愛(自己愛の否定的な形での発露)」を「解離」との関連から論じています。斎藤氏が指摘するように承認依存とコミュニケーション偏重による個人の「キャラ化」が進んだ結果、現代において人々は程度の差はあれ「解離」を生きているともいえるでしょう。
 
本シリーズに登場するヒロイン達は戦場ヶ原ひたぎ(現実感喪失)、羽川翼(多重人格)、千石撫子離人)、神原駿河(健忘)、八九寺真宵(遁走)といったように何かしらの「解離」を抱えていました。こうした「解離」という「透明な言葉」では捉えられない現実を本シリーズでは「半透明な言葉」を駆使して「怪異」という非日常的な想像力の上に描き出していきます。
 
本シリーズは『化物語』『傷物語』『偽物語』『猫物語(黒)』からなる「ファーストシーズン(2006〜2010)」と『猫物語(白)』『傾物語』『花物語』『囮物語』『鬼物語』『恋物語』からなる「セカンドシーズン(2010〜2011)」を経て『憑物語』『暦物語』『終物語』『続・終物語』からなる「ファイナルシーズン(2012〜2014)」において、ひとまずの区切りを迎えることになりますが、その後『愚物語』『業物語』『撫物語」『結物語』からなる「オフシーズン(2015〜2017)」が公刊されました。
 
 
 
 

* 再びの老倉育--愚物語

阿良ヶ木暦を嫌っている。どれくらい嫌いかと言うと、それはそれは、もう気が遠くなるくらいに嫌いなのだ。あいつのことを考えただけで、私は胸が締め付けられるほど苦しい。他のことは何も考えられなくなる。この世の嫌いを全部集めて花束のようにしても、私の阿良ヶ木に対する、たったひとつの嫌いには及ばない。私の嫌いは、太陽にだって匹敵する--この嫌悪感を失えば、私は私でいられなくなるだろう。私の阿良ヶ木に対する、猖獗を極める憎しみは、もう私個人のアイデンティティであって、私自身の主軸であって、私そのものの真芯なのだ。あいつを嫌いでいなければ、私は私でありえない。どんな酷いものを見ても、どんな惨劇や災害に直面しても、それでも『あの男に較べれば』と思うことで、私は逆境を凌いできたのだから。
 
(『愚物語』より)

 

本作は本編の後日談にあたる「そだちフィアスコ」「するがボーンヘッド」「つきひアンドゥ」という3つのエピソードが収録されています。そして本作の冒頭に置かれ全体の分量の半分以上を占める中編「そだちフィアスコ」では『終物語』で初登場ながらも強烈な存在感を放った老倉育が語り手を務めます。
 
終物語』における老倉のエピソードは次のようなものです。阿良ヶ木が直江津高校1年生だった時の学級委員長であった老倉は病的な数学マニアであり、本人は世界史上最も美しいといわれる数式に倣い自身を「オイラー」と呼ばれたがっていましたが、彼女の意に反してクラスでのあだ名は「ハウマッチ(おいくら)」でした。そして老倉は自分が「オイラー」と呼ばれないのは阿良ヶ木が自分より数学の出来が良いせいだと思い込み、彼を蛇蝎のごとく嫌っていました。
 
そんな折、老倉は数学の試験で起きたカンニング疑惑の犯人を探す秘密学級会を強行し、阿良ヶ木を議長に指名します。果たして議論は紛糾し最終的に多数決(!)で犯人は老倉であるとされてしまい彼女は不登校になってしまいます。
 
そして月日が流れ、3年生になった阿良ヶ木はおよそ2年ぶりに登校してきた老倉との再会をきっかけに、これまで完全に忘却していた自らの過去と向き合うことになった結果、驚愕の事実が判明します。
 
その後日談となるのがこの「そだちフィアスコ」です。結局、直江津高校を転校することになった老倉は転入先での高校では心機一転して友達を作ろうとしますが、その難のありすぎる性格が災いして彼女の痛々しい言動はことごとく空回りしてしまいます。老倉の自傷的な語りで覆い尽くされた本エピソードは極めて純度の高い「キャラクター小説=私小説」といえます。
 

*「食べる」という「業」--業物語

本作は「あせろらボナペティ」「かれんオウガ」「つばさスリーピング」という3つのエピソードから構成されています。本作では「食べる」という人の基本的な営みである「業」が問われることになります。
 
「あせろらボナペティ」では心の美しいお姫様が人間を「食べる」という「業」を引き受けて食物連鎖の頂点に位置する吸血鬼となります。「かれんオウガ」では「食べる」とは「殺す」という「業」を引き受けることであり、自然の中ではまた人間も「食べられる=殺される」という食物繊維の円環の中にあるという摂理が描かれます。そして「つばさスリーピング」ではこうした食物連鎖の逸脱としての「遊び=文化」としての「食べる」の「業」が問われることになります。
 
それぞのエピソードはいずれも欲求のレベルでの「食べる」は可能だけれど欲望のレベルでの「食べる」を断念しているという点で共通しています。またシリーズの時系列として最も過去(約600年前)になる「あせろらボナペティ」は文字通りの「第零話」であり、このエピソードの登場により、これまでの〈物語シリーズ〉をまったく異なった視点から読み直すことが可能となったといえます。
 

* 夢見る現実主義者--撫物語

愚物語』『業物語』同様に本作も当初は「なでこドロー」「まよいイーブン」「よつぎノーサイド」という3つのエピソードで構成される予定だったようですが、その執筆過程で「なでこドロー」の分量が当初の予定よりも肥大化してしまい、結局本作には「なでこドロー」のみが収録されたという経緯があるようです。
 
かつて『化物語』『囮物語』で蛇の怪異に取り憑かれ『恋物語』では蛇神にまでなった女子中学生、千石撫子は現在は新たに見出した漫画家という夢に向かって邁進していました。ところが以前、怪異騒動の最中に学校で引き起こしたトラブルが原因で目下、不登校中の撫子は両親から中学校を卒業したら就職するよう言い渡されてしまいます。
 
両親を説得するため漫画で何かしらの成果を挙げようとする撫子は式神である斧乃木余接の力を借りて過去の自分をモデルにした「おと撫子」「媚び撫子」「逆撫子」「神撫子」と呼ばれる4体の式神を作りますが上手く制御できずに4体全員に逃げられてしまいます。こうして撫子は余接と共に式神たちを追う中で、これまで抑圧してきた自分自身の無意識の声と対話することになります。
 
かつて過剰なまで「かわいい」という呪いに囚われていた撫子は「絶対的な片思い」や「絶対的な被害者」に甘んじることで他者と向き合おうとせずに自己完結的な世界に閉じこもっていました。けれども自身の夢を見出した現在の彼女は「かわいい」という呪いを断ち切った良い意味で打算的で生き汚い「夢見る現実主義者」として目の前の試練に立ち向かいます。
 

* 解離の時代における自傷と救済--結物語

オフシーズンの完結編にして本シーズンで唯一、阿良ヶ木が語り手を務める本作は「ぜんかマーメイド」「のぞみゴーレム」「みとめウルフ」「つづらヒューマン」という4つのエピソードで構成されています。
 
本作では時系列は一気に5年後に飛び、私立直江津高校を卒業後、無事に大学に進学し、国家総合職試験に合格して警察官僚になった阿良ヶ木は研修のため直江津署の「風説課」に配属されることになります。怪異譚の前駆体ともいえる「風説」を取り締まる「風説課」は怪異の専門家である臥煙伊豆湖の肝入りで新設された部署であり、課員は課長の甲賀葛を除いて全員が怪異です。
 
久しぶりに地元に戻った阿良ヶ木は周防全歌(半魚人)、兆間臨(ゴーレム)、再碕みとめ(人狼)といった同僚たちと共に怪しい風説調査に乗り出していきます。そしてその過程で阿良ヶ木は老倉と意外な場所で再会することになります。
 
この「オフシーズン」というのは基本的には〈物語シリーズ〉の後日談や前日譚に位置付けられる断片的なエピソードの集積体ですが、あえて本シーズンの「主人公」をあげるとすれば、それはやはり本シーズンの幕開けとなる「そだちフィアスコ」で語り手を務めた老倉育だったように思えます。
 
本シーズンで老倉が登場するのは「そだちフィアスコ」の他は「なでこドロー」と「つづらヒューマン」という2つのエピソードだけですが「なでこドロー」では大学生になった老倉が両親との関係に悩む撫子に寄り添い「つづらヒューマン」では社会人になった老倉が人生の岐路に立たされた阿良ヶ木の背中を押します。いずれもかつての老倉からは到底考えられない姿です。
 
「私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。自分がどうして幸せなのか、考えようとしない奴」
 
「自力で沸騰したと思っている水が嫌い、自然に巡ってくると思っている季節が嫌い。自ら昇ってきたと思っている太陽が嫌い--嫌い、嫌い、き、き、嫌い--嫌いだ。お前が嫌いだ」
 
「わかっているわよ。お前のせいじゃない、私が悪いってことは--親のせいでもない。お母さんの言ったことが正しいんだ、生まれたのが私じゃなきゃあ、もっとまっとうな人生だった。私が悪い。私が悪い。私が悪い」
 
「だけどさあ、お前のせいにでもしなきゃ、やってられないんだ、阿良ヶ木。申し訳ないけど、私の悪者になってよ。もう駄目なんだよ、追いつかないんだよ、親を悪者にしているだけじゃあ」
 
「どうしてうまくいかないんだろう。私、ちゃんとやっているのに、努力しているし、頑張っているし……そりゃ性格とか頭とか、色々おかしいところはあるけど……。ここまでの罰を受けるような悪いこと、何もしてないじゃん。教えてよ、阿良ヶ木。お前、今幸せなんでしょう?それに少しでも私が貢献しているって言うなら、そう思ってくれるなら、教えてよ。どうして私は幸せになれないの」
 
「だってさあ、私の脆さで幸せになんかなったら、ぐしゃって潰れちゃうわよ。目も身も、潰れちゃうよ。幸せの重みに耐えられない。今更幸せになるより、ぬるーい不幸に足首まで浸かって、適当に凌いでいきたい。靴をずぶ濡れにして生きていきたい。実際にそうしてきたし……うん。今更幸せになんてなりたくない。手遅れなんだよ」
 
(『終物語(上)』より)
 

 

 
いわゆる「親ガチャ」に恵まれなかった人生の歩み手であった老倉はかつて中学生だった頃、やっとの思いで発したSOSに当時の阿良ヶ木が全く気付かなかったことから「阿良ヶ木のせいで私の人生はめちゃくちゃになった」という論理を創り上げることで自分の心を辛うじて守っていました。
 
終物語』における老倉の自己否定的な言動は斉藤氏のいうところの「自傷的自己愛」のイメージとぴったりと重なり合います。この点「解離」の根本には世界に対する空疎な感覚と不信の念があるとされていますが、かつての老倉は世界に向かって自傷的な言葉を並べ立て「幸せ」を拒絶することでその空疎な感覚と不信の念をどうにかして埋めようとしていたともいえるでしょう。こうした意味でこの「オフシーズン」は本編では不遇な立ち位置にいた老倉育というキャラクターを救済するための物語であったようにも思えました。
 
と、そこで老倉は、不意に思いついたみたいに言った。
 
不意打ちみたいに言った。
 
「もしも、三十路を過ぎてもお互い独身だったら……」
 
「だったら?」
 
「お互いに絞め殺し合いましょう」
 
素敵な提案だった。三十までこいつといがみ合えるというのなら。
 
(『結物語』より)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「逆張り」は脱構築の夢を見るか--綿野恵太『「逆張り」の研究』

*「逆張り」の諸相

 
もともと「逆張り」とは株式相場の流れに逆らって売買する投資手法を指す言葉でした。例えば「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェット逆張りコントラリアン)で知られています。彼は2009年のリーマンショックでは経営危機に陥った資産運用会社ゴールドマン・サックスに巨額の投資をして莫大な利益をあげました。
 
かつて「逆張り」はどちらかといえば肯定的な意味で用いられる言葉でした。しかし現在のインターネット上において「逆張り」という言葉はもっぱら気に入らない相手や言説を罵倒するためのレッテルとして使われたり、あるいは自分をネタにするときの自虐的なパフォーマンスとして使われたりと、いずれにせよ負のイメージを持った言葉として流通しています。
 
本書『「逆張り」の研究』の著者である綿野恵太氏はかつて10年前に太田出版の編集者として働き始めた頃に同社の元社長である高瀬幸途氏から「逆張りくん」と呼ばれた記憶を思い出したことが本書執筆のきっかけになったそうです。その頃「逆張り」のイメージは特段悪いものではありませんでした。2014年に刊行された三省堂国語辞典(第7版)で「逆張り」は「だれも価値をみとめないことを、(いい機会だと思って)あえてすること」と説明されています。
 
つまりこの10年間で「逆張り」という言葉の持つイメージはずいぶんと悪化したことになります。この点、本書は「逆張り」について考えることはその反対に「逆張り」を嫌う人たちの大切な価値観を考えることでもあり「逆張り」が急速に嫌われていった時代の変化も振り返ることができるといいます。いわば本書は「逆張り」という言葉を切り口にして2010年代以降のインターネット空間をマルチラテラルに捉え直す一冊といえます。
 
 

* 投資家=逆張り的な生き方

 
2012年のビジネス書大賞を受賞してベストセラーになった滝本哲史氏の著書『僕は君たちに武器を配りたい』は「投資家=逆張り的な生き方」を勧めています。同書では「投資家=逆張り的な生き方」こそが過酷な市場競争を生き残るための「武器」であるといい、例えば就職活動でも人気企業ではなく人気はないけれどこれからの成長に期待できる企業に就職すべきであると説きます。人気企業は競争が激しく代わりの人材がいくらでもいるため、どれほど優秀であっても安く買い叩かれてしまうからです。つまり「投資家=逆張り的な生き方」とは多くの人が行く道とは逆に進んでその道に自分の才能や努力を投資することをいいます。
 
また世界最大のオンライン決済サービスPayPalの創業者であるピーター・ティールも著書『ゼロ・トゥ・ワン』において「投資家=逆張り的な生き方」を勧めています。ティールは社員の採用面接で「賛成する人がほとんどいない、大切な真実は何だろう?」と問いかけるそうです。すなわち、多くの人が信じる「常識」の裏に隠された「逆説な真実」を少数精鋭の仲間たちともにテクノロジーを通じて実現していく「逆張り」がビジネスを成功させる秘訣だということです。
 
実際に巷に出回るビジネス書の多くでは「逆張りの経営術」「逆張りの企業戦略」「逆張り人生」「成功したければ、逆張りしろ」等々「逆張り」という言葉を肯定的な意味で用いています。ビジネスにおける「逆張り」は市場における最も効果的な差異化の方法に他なりません。
 
この点、滝本氏は資本主義には「自分の少数意見が将来、多数意見になれば報酬を得られる」という仕組みがあるといいます。すなわち「投資家=逆張り的な生き方」においては未来の多数派が支持する「逆説的な真実」をいち早く発見することが重要となります。
 

* アテンション・エコノミー多数派同調バイアス

 
このようにかつての逆張りは「未来において多数意見になるかもしれない少数意見」でした。何かを聞いた時にすぐにその逆のことを考える「逆張りの思考法」は世間の常識に反する「逆説的な真実」を発見するためのものでした。少なくとも社会の多数派とは逆のことをすればいいという単純な話ではありませんでした。しかし、いまや「逆張り」とは社会の良識や常識を嘲笑して人々の怒りを掻き立てるような言説を指すようになりました。
 
目下、インターネット上ではますます加速するアテンション・エコノミー(注意経済/関心経済)により人々の注意をひきやすい情報ばかりが氾濫し、人々の注意を奪い合う熾烈な競争が行われています。そこで「逆張り」は注意を惹きつけるための安易な手法となってしまいました。「逆張り商売」や「逆張り炎上屋」と言われるように「逆張り」は「炎上商法」と結びつけられるようになりました。
 
そもそも「逆張り」は「空気」が読めない態度として一般的に嫌われる傾向があります。ここでいう「空気」とはその場を支配する雰囲気のことです。この点、日本人は「空気」を大事して「空気」が読めない人は嫌われるなどとよく言われますが、これは日本人に限った特徴ではないようでして、ある心理学の実験によればアメリカ人もまた日本人も同じくらい周囲の行動(空気)に影響されていることが示されているそうです。
 
この点、進化心理学によれば人間の脳には所属集団に同調する多数派同調バイアスと呼ばれるものがもともと備わっているそうです。狩猟採集時代において人類は各地で小さな共同体で暮らしていました。このような小さな共同体ではひとたび悪い評判が立つと共同体から疎外され、最悪の場合は殺されてしまうため、自ずから共同体の決定や行動に同調する傾向が生まれることになります。つまり裏を返せば人間の脳は共同体の規則を守らない「空気」が読めない他者を本能的に嫌うように出来ているということです。
 
もっとも「逆張り」は厳密にいうと「空気」が読めないのではなく、その「空気」を読んだ上であえて逆張りをしているわけです。それゆえに「逆張り」は単純に空気が読めない以上に嫌われることになります。しかもアテンション・エコノミーにおいてはこのような注意=怒りを集めようとする炎上狙いの「逆張り」が蔓延しているので、ますます「逆張り嫌い」が増えることになります。
 

* ただただ「いま」しかない

 
逆張り」からは「未来」が消えて「いま」しかなくなった。この10年の変化をひとことでまとめるとこうなる、と本書はいいます。投資家的な「逆張り」は「未来」の多数派に認められて初めてリターンが返ってきました。しかし昨今のアテンション・エコノミーにおける炎上狙いの「逆張り」は「いま」の注意=怒りを集めればそれなりのリターンが戻ってきます。
 
そして炎上狙いの「逆張り」は「いま」の注意=怒りを集めるだけなので議論の蓄積がされません。だからしばらくすると似たような話題で再び炎上が起きることになります。その度に「車輪の再発明(すでに確立された技術や考え方を再び一から作ろうとする無駄な行為)」のように議論は一からスタートしてしまいます。
 
またインターネットにおける各種プラットフォームでは過去の履歴からアルゴリズムによって推測された「いま」の自分自身にピッタリの商品や人間がおすすめされてきます。そういう「いま」の自分自身に最適化された空間は快適だし安心できます。畢竟、そこには自分自身しかいないからです。
 
こうなるとあたかも自分の考えが世の中の多数派や主流派のように思えてきます。だから自分と異なる考えを持った他者がたまたま目に入るとどうしようもなく不快な気分になります。そこで気に入らない他者には「逆張り」というレッテルを貼って「いま」の自分にとって快適で安心な空間を取り戻そうとします。要するに「逆張り」にとっても「逆張り嫌い」にとっても目の前にはただただ「いま」しかないわけです。
 

*「いま」から逃れる「もの」との時間

 
そこで本書はこのような「いま」に対抗するための拠点として「もの」から生じる「固有の時間」を挙げています。これはより抽象化していえば「時間的外部」の確立ということになるでしょう。例えば宇野常寛氏は『砂漠と異人たち』(2022)においてインターネット上で繰り広げられる「相互評価のゲーム」から逃れるための「時間的外部」を確立するための実践として「事物とのコミュニケーション」を提案しています。
 
その第一の実践は人間以外の事物に触れることです。すなわち、相互評価のゲームがもたらす承認への中毒を解毒するためにはまず事物と「虫の眼」でコミュニケーションすることで孤独に世界に接する時間を回復する必要があるということです。そして、ここで大事なのは事物の「消費(事物を単に受け取り用いること)」ではなく「愛好(事物に対して独自の問題を設定し探求すること)」であるといいます。
 
続く第二の実践は人間以外の事物を「制作」することです。人は「虫の眼」をとりわけ事物を「制作」するときに発揮することができます。そして第三の実践は「制作」を通じて他者と接することです。すなわち、人間そのものではなくその人が制作した「事物=もの」とのコミュニケーションに注力することで「相互評価のゲーム=いま」とは異なるチャンネルでの対話が可能になるということです。

* 運動の時代とポピュリズム

 
また逆張りが嫌われた背景にはやはり「時代」があると本書は指摘します。「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもありました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動SNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出しました。
 
こうした「運動」の時代を牽引した力が「ポピュリズム」です。SNSでは地域や職場のしがらみを離れて同じ主義主張を持つ「類友」を簡単に見つけられます。自然に保守は保守で集まってリベラルはリベラルで集まることになります。
 
しかし「類友」ばかりが集まると、あたかも自分の声が反響するかの如く自分と同じ考えの意見ばかりが聞こえてくる「エコーチェンバー」に陥ります。また自分の好みに合わせた情報の「泡」に囲まれる「フィルターバブル」が形成されます。加えて同じ考えを持つもの同士が話し合えば主義主張はどんどん先鋭化していき「フェイクニュース」や「陰謀論」の温床となります。
 
けれども、このような類友化によって「ポピュリズム」は活気付きました。そしてインターネットでは「類」ではない人間は「友」とする必要はなく、むしろ「敵」となります。すなわち、ポピュリズムは人の部族主義的な本能を利用して世界を「われわれ(友)」と「あいつら(敵)」という二項対立で単純化してしまうわけです。
 

* ポストモダン思想=相対主義

 
こうした「ポピュリズム」にとっての「逆張り」が「ポストモダン思想」です。しばし「ポピュリズム」は「ポストモダン思想」を「どっちもどっち論」とか「相対主義」などと批判します。ここでいう「ポストモダン思想」とはもっぱらフランス現代思想における「ポスト構造主義」を指しています。そしてこの「ポスト構造主義」は様々な二項対立を無効化していく「脱構築」の思想として一般的に理解されています。
 
こうしたことからポストモダン思想とは「絶対的な真実など何処にもなく相対的な解釈があるに過ぎない」という相対主義であり、こうした相対主義が広まった結果として歴史修正主義ポスト・トゥルースが世に蔓延したのだと批判されたりもするわけです。
 
しかしこのような批判はやや一面的すぎるきらいがあります。千葉雅也氏が『現代思想入門』(2022)で述べているように現代思想ポスト構造主義)は確かに相対主義的な側面がありますが、別に相対主義的な世界を手放しで肯定しているわけではなく、むしろ相対主義的な思考を一旦経由することで他者性に開かれた「共」の可能性をラディカルかつ不断に問い直していくという側面も確実に持っています。

* 逆張り脱構築の夢を見るか

 
現在のインターネットで「逆張り」が嫌われるのは「お気持ち」とか「ブーメランで草」などといったネットスラングが示すようにもっぱら相手の主義主張を相対化したり揚げ足を取ったりして嘲笑するような論法ばかりが目立つからでしょう。
 
けれども果たして「逆張り」が一切ない「順張り」だけの社会とは素晴らしい理想社会なのでしょうか。もちろんそんなわけがありません。そういう社会を人は普通「全体主義」と呼ぶはずです。
 
あたりまえですが「逆張り」それ自体は単なる技法でしかなく、そこに良いも悪いもありません。結局のところ、例えば包丁という道具が使う人間次第で料理の道具にも犯罪の道具にもなるように「逆張り」もまた、使う人間次第で創造の技法にも炎上の技法にもなります。そもそも「逆張り」は単に多数派の「逆」を行くだけではなく、さらにそこから「逆説的な真実」をいち早く発見するための技法です。そうであれば、そこには「われわれ(友)」と「あいつら(敵)」という二項対立を脱構築する「共」の可能性を見出すこともできるはずです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脱構築と公共性--東浩紀『訂正可能性の哲学』

* 訂正可能性--『存在論的、郵便的』の核心部

 
現代を代表する批評家/哲学者である東浩紀氏が1998年に世に放ったデビュー作『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。同書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって駆動する「郵便空間」として理論化したことで当時の現代思想シーンに鮮烈なインパクトを与えました。そして同書で東氏が打ち出した「郵便空間」を支える基盤が「固有名」をめぐる「訂正可能性」の理論です。
この点「固有名」を縮約された確定記述の束とみなす立場がゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルが提唱した記述理論です。例えば「アリストテレス」という固有名は通常「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。こうした立場を「記述主義」といいます。
 
しかしアメリカの分析哲学者ソール・クリプキは1970年に行われた『名指しと必然性』という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。この時、記述理論に従えば「アレクサンダー大王を教えた人はアレクサンダー大王を教えていなかった」というおかしな命題が成立しているはずですが、実際には「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という命題はまったく問題なく通用します。これは〈アリストテレス〉なる固有名に確定記述の束に還元できない「剰余」が常に宿っていることを意味しています。こうした立場を「反記述主義」といいます。
 
そして、このような「剰余」の起源をクリプキは最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されるといいます。
 
もちろんこれは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の剰余について語るために「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。
 
ところがその一方でクリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。仮に「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、そこで「一角獣は実は存在した」という命題が成立するわけではありません。なぜなら「一角獣」という固有名はそもそも通常は「いつの日かそれが発見されるかもしれない」という想定の下で使用されていないからです。
 
つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかというコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその「訂正可能性」がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろ「訂正可能性」というコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。
 

* 社会と家族のあいだ

 
このような東氏の原点ともいうべき「訂正可能性」という理論から現代社会における公共性の在り処を真正面から問い直す一冊が『存在論的、郵便的』の公刊から25年目にあたる今年2023年に公刊された本書『訂正可能性の哲学』です。本書は2部構成となっています。その第1部「家族と訂正可能性」では「訂正可能性」の基礎理論とその応用可能性が論じられます。次に第2部「一般意志再考」では現代社会が直面する民主主義の危機を「訂正可能性」によりいかに克服できるかが論じられます。

 

 

本書はまず第1章「家族的なものとその敵」で「家族」と「社会」という二項対立を問いに付します。この点、従来の哲学は「家族」を否定し続けてきました。それこそプラトン以降の哲学史においては「閉じられた家族」という私的な領域の外部に「開かれた社会」という公的な領域があると信じられてきました。
 
けれども「閉じられた家族」と「開かれた社会」という区別はそれほど明瞭なものではありません。例えば人類学者エマニュエル・トッドがいみじくも明らかにしたように、共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく、自由主義もまた絶対核家族イデオロギーでしかなかったのだとすれば、20世紀における冷戦構造とは所詮のところ、形態を異にする「家族」の間の争いでしかなかったということになります。
 
閉じられた家族から開かれた社会へ。このような発想は確かに直感的でわかりやすいものがあります。けれども人はその社会なるものについて結局のところ特定の家族形態に頼ることなく想像したり議論したりすることができないのかもしれない、と本書はいいます。いわば人はどこまでも「家族」から逃れられることができないということです。
 

* 愛のゲームからハラスメントのゲームへ

 
こうして第2章「訂正可能性の共同体」においては「家族」の哲学的な再定義が行われます。本章ではまずルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが提唱した「家族的類似性」という概念が参照されます。周知の通りウィトゲンシュタインの哲学は『論理哲学論考』(1922)に代表される前期と『哲学探究』(1953)に代表される後期に大別されます。前期の彼は言葉は世界を記述するためにあると考え、だから全ての文=命題はその構造を分析して世界との対応関係を定めればその真偽が定まるはずだと主張しました。
 
ところが後期になると彼は人は言葉を使ってゲームをしているだけに過ぎないと考えるようになりました。『哲学探究』はそのような状況を「言語ゲーム」と呼びます。そして彼はこの「言語ゲーム」においてプレイヤーは自分がいったい何のゲームをプレイしているか理解しないままにゲームをプレイしていると主張しました。
 
このようなウィトゲンシュタインの主張は一見すると恐ろしくラディカルに聞こえますが、日常的にはありふれた話ともいえます。本書は次のような例を持ち出します。ある人が恋人に向かって愛の言葉を囁いている時、その人はいま「愛のゲーム」のただ中にいると思い込んでいるはずです。けれども、そこには常に第三者が現れて、実はおまえは今までずっと別のゲームをプレイしており、相手は本当は恋人でもなんでもなく、おまえの愛の言葉は機能せず、おまえはずっと他人にハラスメントをしていたのだと非難される可能性が付きまとっているわけです。
 
愛のゲームからハラスメントのゲームへ。人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしています。そこでは複数のゲームが重なり合っています。そのためあるゲームをプレイしていたつもりがいつの間にか別のゲームの中に入り込んでしまうこともあります。これがヴィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」です。そして彼はこの複数の言語ゲームの間に共通の本質はなく、むしろその本質の欠如こそが重要だと主張しました。
 
そしてここで持ち出されるのが「家族的類似性」という概念です。ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似性」とは例えば父と母と息子と娘からなる4人の家族がいたとして、父と息子は背格好が似ていて、父と娘は目元が似ていて、母と息子は口元が似ていて、母と娘は話し方が似ているため、4人が同じ家族であることは明らかだけれども、その全員に共通する特徴を取り出すことはできないという家族の性質を指しています。
 
このような「家族的類似性」は『哲学探究』において「言語ゲーム」が孕む厄介な性質を包括的に記述するためのほとんど唯一の比喩として登場します。人はみな言葉を使ってゲームをしている。そこでは複数のゲームが重なり合っている。そしてその複数のゲームは「家族」を形成している。だからこそ時に発話者は愛のゲームからハラスメントのゲームに自分でも気がつかないまま移動してしまうことがあるわけです。
 

* クワス算の逆説

 
そしてこのウィトゲンシュタインの直感的な洞察を緻密に理論化した人物がクリプキです。クリプキは『ウィゲンシュタインのパラドックス』(1982)において以下のような思考実験を行いました。あなたは「+」という記号を加算の記号として用いており、そこで「68+57」という数式に初めて出会ったとします。当然のことながら、あなたは加算の法則に従い「125」と答えを返すでしょう。
 
ところがここでクリプキは1人の懐疑論者を連れてきます。この懐疑論者の中で「+」という記号は加算を意味する記号ではなく実は「クワス」というまったく別の演算を意味しており、クワス算はあるところまでは加算と同じだけれども、その解が125以上の場合は総じて5になるため、あなたは「125」ではなく「5」と答えるべきだったと主張します。
 
この懐疑論者の主張を反駁することは原理的には不可能です。ここではウィトゲンシュタインが発見した「自分が何のゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」という言語ゲームの性格が自然言語のあいまいさに起因するものではなく科学的な知一般の条件であることが示されています。
 
しかしながら現実問題としてクワスを主張する懐疑論者が仮に現れたとしてもその主張は訂正されることになり、仮に訂正不可能であれば彼は排除されます。なぜならば大多数の人が「68+57」は「125」になるという規則を信じる「加算の共同体」に属しているからです。裏返せば、あらゆるゲームはそのプレイの成否を判定するためプレイヤーと観客から構成される共同体を必要とするということです。
 
先に規則があり、その規則を理解するプレイヤーが共同体を形成するのではなく、むしろ先に共同体があり、その共同体がプレイヤーを選別することで規則が確定するということ。クリプキヴィトゲンシュタインが提示した逆説をこのような裏返った共同体論によって解決しました。
 
もっともクリプキのいう「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけでなく、逆にプレイヤーから共同体に向けられる可能性も考えられるはずです。すなわち、本来は排除されるはずのプレイが時代の移り変わりに従ってプレイヤーの共同体に認められ正規のプレイに代わることがありうるということです。すなわち、ここで「訂正」と呼ばれている作用は共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する契機としても捉えられています。
 

* 訂正可能性と家族

 
そこで本書は共同体の規則は静的に確定したものではなく、プレイヤーたちが繰り出すプレイについての成否判断に付随する「訂正」の作業こそが規則と共同体を共に生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうかと言います。
 
全てが訂正されうるにもかかわらずなお「同じもの」が残り続けるという逆説。その構造はまさに冒頭で述べた固有名と確定記述の関係性に他なりません。
 
クリプキが『名指しと必然性』で明らかにしたように固有名は確定記述の束に還元できない剰余が宿ります。そして、このような固有名論は後に彼が『ウィトゲンシュタインパラドックス』で展開する共同体論とも不可分につながっています。なぜならば両者は共に「○○とはじつは××だった」という記号の遡行的な訂正可能性をめぐる議論だからです。つまりクリプキは同じ問題を二つの理論で検討していたことになります。
 
そして、このようにあらゆる確定記述は訂正可能であり、規則が変わりプレイヤーが変わり何もかもが変わったとしても、それでもなおそこに「同じもの」があると皆が信じているという逆説にはウィトゲンシュタインの提示した言語ゲームにおける「家族的類似性」というイメージがぴたりと重なり合います。
 
こうしたことから本書は「家族」の概念を特定の固有名の再定義を不断に繰り返すことで持続する一種の解釈共同体だと定義します。すなわち「家族」とはある面では終始一貫して「同じもの」に閉じられた共同体ではあるけれども、ある面ではあらゆる「訂正可能性」に開かれている共同体であるということです。
 

* 人工知能はシンギュラリティの夢を見る

 
続いて第3章「家族と観光客」では2017年に公刊された『観光客の哲学』との連携が図られます。同書においては一方で「観光客」を「友」と「敵」という対立に「誤配=つなぎかえ」をもたらす主体として概念化すると同時に、他方で「家族」を「強制性」「偶然性」「拡張性」という3つの特性を備える共同体として素描しています。そして本書はこのような「観光客」という主体と「家族」という共同体を「訂正可能性」の論理から統一的に把握していきます。さらに第4章「持続する公共性へ」ではここまで展開された家族論に基づく政治思想がリチャード・ローティハンナ・アーレントを参照枠として論じられることになります。
 
 
そして、ここから第2部となる第5章「人工知能民主主義の誕生」では情報技術の進展との関連で現代における民主主義が抱える関係の所在が明らかにされます。まず本章で東氏は2010年代とは「大きな物語」が復活した時代であったと述べています。ここでいう「大きな物語」とは平たくいえば人類はある特定の終極=目的に向かってまっすぐに進歩しているという思想をいいます。こうした意味で20世紀中盤までは例えば「共産主義」という名のイデオロギーが「大きな物語」として曲がりなりに機能していた時代でした。けれども、そのような思想は1970年代あたりから批判され始め、冷戦構造が終焉した20世紀の終わり頃にはもはや「大きな物語の失墜」が語られるようになりました。
 
ところが21世紀に入ると、そのような「大きな物語」は新たな装いのもとで復活し始めることになります。ただし今度の「大きな物語」の母体は共産主義のような社会科学ではなく情報産業論や技術論です。要するに、文系の「大きな物語」が消えたと思ったら、理工系から新たな「大きな物語」が出現したわけです。
 
例えば2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉があります。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指しています。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられます。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言しています。こうして2010年代になるとカーツワイルの議論に触発される形で人工知能が創り出すバラ色の未来を語る議論が多数現れるようになりました。今や我々は共産主義という第一の大きな物語の代わりにシンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席巻する時代を生きている、と東氏はいいます。
 
その一方で2010年代はスマートフォンソーシャルメディアの普及によるポピュリズムが台頭し、社会があらゆるところで分断され民主主義の危機が全面化した時代でもありました。そしてこのような民主主義の危機こそがシンギュラリティへの夢をさらに強化することになります。すなわち、いくら優れた通信環境を与えていくら良質の情報を提供しても結局のところ人間とはフェイクニュース陰謀論に踊らされる愚昧な生き物でしかないのであれば、むしろ重要な意志決定は人間ではなく人工知能に委ねるべきであり、少なくともその支援を受けるべきではないかという発想が出てくるということです。
 
このような人間による意思決定への失望を前提とした民主主義を本書は「人工知能民主主義」と名指し、その起源を社会契約の始祖の1人として知られる18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーが唱えた「一般意志」に見出します。こうして本書は第6章「一般意志という謎」以下ではルソーの思想を参照点として「人工知能民主主義=一般意志」の暴走を抑えるための「訂正可能性」の枠組みが提示されます。ここで展開される議論は東氏が2011年に公刊したルソー論『一般意志2.0』の事実上のアップデート版でもあります。
 

* 正しさと誤りのあいだ

 
そしてこのような民主主義をめぐる問いはより直截には「正しさ」をめぐる問いでもあります。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「政治的な正しさ」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。
 
ところで「政治的な正しさ」とは英語ではポリティカル・コレクトネスと呼ばれていますが、本書は「コレクト」という単語が「正しい」という形容詞の他に「訂正する」という動詞の意味を持っていることに注目します。すなわち、現在の「正しさ=コレクトネス」とは普遍的な規範などではなく、常に「誤り」を「訂正する=コレクト」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。
 
このように本書は第1部において「社会」と「家族」という二項対立の脱構築から出発して、第2部では「正しさ」と「誤り」という二項対立の脱構築へと至ります。結局のところ人はいくら「社会」において「正しさ」を追求しようとしても、どこまでいっても「家族」から逃れることはできないし、いつまでたっても「誤り」を繰り返し続けているわけです。けれどもだからこそ、人は互いに「家族」として「誤り」を訂正し合って生きていくことができるともいえるでしょう。こうした意味で本書が掲げる訂正可能性の論理とは現代における持続可能な公共性の条件である同時にそれは持続可能な優しさの条件でもあるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

乱反射する過剰な何か--最果タヒ『コンプレックス・プリズム』

 

* 感情に色づけられたコンプレックス

 
劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか?劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てた方がありのままだったかもしれない。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、今、ここに、書いていきたい。
 
(本書より)

 

人は常に自分の自由意志に基づいて理性的に自律的に主体的に動いている--と思っていたりするわけです。しかし常にそうであるとは限りません。ある種のメンタルヘルスの疾病のように自分の意志とは異なる行動が生じてくるため悩んでいる人も多いでしょう。また「正常」な人でもその日常において自身の理性、自律性、主体性がどこかしら脅かされると感じられる現象にしばし遭遇します。
 
例えば前からよく知っている人なのにその人の前に行くと突然その名前をど忘れてしてしまったり、大事なところで妙な言い間違いをしてしまったり、また「なぜかわからないけどイライラする」とか「あいつはどうも虫が好かない」などと意味不明に感情を乱されてしまったりもします。  
 
この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは言語連想検査を通じて意識を統合する自我を脅かす何らかの感情に色付けられた無意識の心的作用を発見し、これを「コンプレックス(心的複合体)」と呼びました。こうしたコンプレックスが自我を完全に乗っ取ってしまう劇的な表れとして同一個人に異なった二つの人格が現れる二重人格や自分が複数存在として体験される二重身(分身体験)があります。
 
そして自我はその安定を図るためコンプレックスに対して様々な自我防衛の機制を用います。その代表格がコンプレックスを完全に抑え込んでしまう「抑圧」です。しかし、コンプレックスというのはなかなか簡単には抑圧できないので自我は次善の策として他の自我防衛の機制を発動させます。それは例えば、コンプレックスを他人に転嫁する「投影」であったり、コンプレックスとは全く逆の行為に走る「反動形成」であったり、コンプレックスとは似て非なる対象を選択する「代償」であったり、コンプレックスを取り込んでしまう「同一化」であったります。
 
本書『コンプレックス・プリズム』はこのような複雑で厄介な存在であるコンプレックスに現代詩人、最果タヒ氏がさまざまな角度から光を当てていくエッセイ集です。その詩、小説、エッセイ全般における最果作品の特徴とは一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めるような独特の文体にありますが、こうした「過剰な何か」の最たるものこそがまさにコンプレックスと呼ばれるものです。そうであれば本書はまさに書かれるべくして書かれた一冊といえるかもしれません(以下、引用は全て本書より)。
 

* 自我とコンプレックスのあいだ

本書の冒頭に置かれた「天才だと思っていた」というエッセイは「13歳。一体なんの天才なのかわからないけど、でも自分は確実に、何かの天才なのだと思っていた」という一文から始まり、なぜ「天才」だと思い込まないといけなかったのかというとそれは「どうしても必要な『言い訳』だったと今は思う」と述べられます。すなわち、ここには「天才」という言葉に結びついたコンプレックスがあるわけです。
 
何を作ってみても、それが世界を変えるすばらしい出来、と盲目的に信じることはできなくて、ただただたくさんの傑作がある世界の中で、私は一人もぞもぞと何をしているんだろうなあ、と思った。それでも作るのをやめない、残そうとするのをやめない、そのために私は言い訳をしていかなくてはいけなくて、そこに必要な言葉が私にとっては「天才」だった。自信でもないし、傲慢でもなかった。自信過剰で恥ずかしいなんて、コンプレックスに思っていた当時の私に、違うよ、と言いたい。そんな強い言葉でしかもうはげますことができないぐらい、私は特別というものを失いかけて、崖の上にいる気がしていた、はやく、何者かにならなくちゃと雲の向こうを見つめていた。

 

ここでは「天才」という言葉の裏側に子どもの頃に持っていた「特別」を「大人」になることで失いかけていた13歳の焦燥を見出すことができるでしょう。すなわち、ここで「天才」という言葉は「特別」を喪失することに対する代償として機能しているわけです。
 
またその次の「わたしのセンスを試さないでください。」というエッセイでは他人の服のセンスを「ダサい」と断じる感覚への違和感が表明されています。
 
ひとが、ダサいと平気で言うのは何なのだろう。本人はそれを選んできたのに、どうして他人がそれを否定できるのだろう。そりゃ、自分はそれを着ないなあ、とかあるのかもしれないけど、誰も着ろと言ってない。
 
ところがその後の「生きるには、若すぎる」というエッセイでは10代の頃から自身の抱える「ダサい」という感覚について述べられています。
 
若いからなんだというのだろう、若さが終わったところで、わたしはなんにも真実を見つけ出していない。わたしにはまだ「ダサい」ぐらいの価値基準しかないだろう。そうして今はそれを、恥じているのかいないのか。変わったと言えばそこぐらいだ。わたしは恥じているのかいないのか。
 
こうして並べてみると前のエッセイで述べられている他人が断じる「ダサい」への違和感は後のエッセイで述べられている自身が抱え込む「ダサい」という基準に結びついたコンプレックスの投影であるともいえそうです。このように本書は時には表面的な矛盾を厭わずにコンプレックスと自我のあいだから生じる複雑な機制を丁寧に拾い出していきます。
 

* コンプレックスの多層構造

 
ところでコンプレックスというのは多層構造を持っており、あるコンプレックスの下に別なコンプレックスが隠れていることが多かったりもします。この点、河合隼雄氏は名著『コンプレックス』(1971)で次のような事例を取り上げています。
ある中年の女性が職場が面白くなくて体の調子まで悪くなったということで来談し、色々話し合っているうちに最近職場に移ってきた同僚に対して強い嫌悪感を抱いていることが明らかになりました。
 
そこで、その同僚のどのようなところが嫌いなのかを話しているうちに、その同僚が料理が得意で料理をつくって友人を招待するのが好きだという話になったところで、この人は料理をつくるような面倒なことは男女平等にすべきであって結局は男性に対抗するだけの能力が他にないのでそんなことをするのだろうなどと猛然と論じ始めます。
 
つまり、ここでこの女性はさしあたり「料理コンプレックス」に突き動かされているといえます。ところがさらに彼女の話に耳を傾けていくと、実母が早く死に継母に育てられた彼女は「女の子らしさ」を押しつける継母に反抗し、継母のいう「女の子らしさ」を体現する義妹に対しても親しめず、一時は妹のような「女の子らしさ」を身につけたいと思ったこともあったけれど、結局は妹のような生き方を否定して「女でも一人立ちできることを示すため」に高校卒業と同時に家出をしたことが明らかになったそうです。
 
50年以上前の事例なのでジェンダー観がやや時代がかっていますが、要するにここで彼女の「料理コンプレックス」の下には一般的に「カイン・コンプレックス(兄弟姉妹間におけるコンプレックス)」と呼ばれるものが存在していたということです。
 

* エディプス・コンプレックスと劣等コンプレックス

 
本書でも例えば「拝啓、私は音痴です。」というエッセイでは「音痴だよね」と他人に指摘された時の「血液が逆流するような、これまでの自信がすべて覆るような、自分のプライドだけが浮き彫りになる恥ずかしさ、自尊心」と言うようなコンプレックスの経験が述べられていますが、その後には「歌が下手であることなんて大した問題ではない」と述べられる一方で「歌が上手いと親に褒められた記憶があり、それがまだ残っていた」という幼少期の記憶が語られ「家族に、あんなに、褒めてもらったのにね」と言う一文で結ばれており、ここでは「音痴に対するコンプレックス」のさらに深部に位置する幼少期の「家族をめぐるコンプレックス」の存在が示唆されています。
 
この点、コンプレックスの多層構造の最深部にある根源的なコンプレックスとして、精神分析創始者であるジークムント・フロイトは両親に対する愛憎から生じる「エディプス・コンプレックス」を見出しましたが、フロイトと決別して個人心理学を立ち上げたアルフレッド・アドラーは生来の劣等感に由来する「劣等コンプレックス」を見出しました。
 
確かにアドラーのいう劣等コンプレックスは直感的にわかりやすく一般的にも「劣等感=コンプレックス」というような理解が成り立っています。実際その理解で概ねのところ不都合はないとも言えますが、その一方で劣等コンプレックスの起源をさらに遡っていくと、やはり幼少期の「家族」をめぐる何らかの心的現実に突き当たるようにも思えます。
 
これに対してフロイトのいうエディプス・コンプレックスは一見すると荒唐無稽ですがある面では幼少期の「家族」をめぐる心的現実を記述した一つの「神話」であるともいえます。こうして見ると本書における音痴のエピソードは劣等コンプレックス(音痴に対するコンプレックス)とエディプス・コンプレックス(家族をめぐるコンプレックス)の関係をよく表しているといえるでしょう。
 

* 特異的なコンプレックス

 
「恋愛」というのも結局のところは一つのコンプレックスに帰着します。誰々さんが好きという感情とはその対象であるところの「誰々さんコンプレックス」であり、恋愛それ自体に対する憧憬や呪詛というのはまさしく「恋愛コンプレックス」です。この点、本書では「恋愛って気持ちわるわる症候群」というエッセイにおいて恋愛に対する屈折した距離感が述べられています。
 
恋愛に関しての言葉はあまりにも多く、キャッチコピーも多数登場し、もはや商品を売りつけるには色恋を語ればOKとか思われてんじゃないの、なんて思う日もあります。実際、「あ、これは恋!」と思った暁にはちょっと高い化粧品もちょっと高い服も抵抗なく買ってしまうのだろうか。だとしら恋って商業的ですね、社会システムの潤滑油みたいな存在ですね。と、今でも斜に構えたようなことを書いてしまいそうになるけれど、恋はそれぐらい第三者からすると理不尽な、無根拠な、理解不能な存在であるため、だからこそ当人も自分を理性で説得できなくなるのだと思います。斜に構えてこその恋。ではないのか。などと、いうことが、当時わからなかったんですね。ただ本当に腹が立ち、信じられなくて気持ち悪かった。
 
恋愛はなんにも悪いことではなくて、しかしなんにもいいことでもなくて、神聖でもなくてロマンチックでもなくて、ただ二人の人間がこの人を大事にしようと決めただけの話であり、私が私の大事なぬいぐるみについて「これを大事に思っている」と説明したところで他人は「ふーん」ってなるんだから、愛もその程度の価値に落ち着いてほしいなと昔は思っていた。しかしそうなると、今度は愛に振り回されることが、美徳にもなんにもなくなるから、社会としては都合が悪いことであるのかもしれない。生きる上では仕方がないのかも。きもいのも過剰なのも絶対、否定はせんけど、必要悪みたいなもんなんですかねえ。そんな世界が一番きもい。
 
ここで述べられている社会システム的な恋愛観に基づく「きもい」という感覚は、どうにもエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスからは説明が難しい非定型的なコンプレックスのざわめきを示しているともいえそうです。
 
この点、ユングエディプス・コンプレックスと劣等コンプレックスの相違は結局のところは外向的なフロイトと内向的なアドラーという両者の根本的な態度の相違に帰着するものであったとして、コンプレックスは確かに多層構造を有しているけれども、その中のどれか一つのコンプレックスだけを特権化して根源的なコンプレックスとして位置付けることはできないと主張しました。
 
そうであれば本書のいう「きもい」という感覚もまたエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスには回収されない特異的なコンプレックスによって支えられているのかもしれません。そしてこれはいわゆる「ポスト・神経症の時代」と呼ばれる今日的な感覚とも合致しているように思えます。
 

* 心の相補性とコンプレックス

 
以上、ここまで見てきたように本書は様々なコンプレックスを深く繊細に、そして時に色どり豊かな筆致で記述していきます。人は日常の様々な場面で自身の抱えるコンプレックスに遭遇します。コンプレックスとは一見すると自我にとって何とも厄介な存在であるといえますが、その一方でコンプレックスは自我の一面性を補償するものとして大きな役割を担うことがあります。ユングはこのような「心の相補性」に注目してコンプレックスの中に自我をより高みへと導く「個性化/自己実現」の過程を見出しています。
 
いわばコンプレックスにはこれまで生きてこれなかった半面としての可能性の在り処が示されているといえます。そして自身の抱えるコンプレックスに向き合う上で文学の言葉は大きな助けとなるはずです。こうした意味で本書は最果タヒの詩的世界への入門書となり得る一冊であると同時に、自身が抱えるコンプレックスへと入門するための一冊ともなるでしょう。