かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「現実」の時代における「批評」の位置--宇野常寛『2020年代の想像力』

*「事物を通じたコミュニケーション」としての「批評」

 
2020年代という時代は新型コロナ・ウィルス(COVID-19)の出現とともに幕を開けました。このコロナ・パンデミックは図らずとも世界的危機が「危機そのもの(COVID-19による生命と健康への危機)」よりも、その「危機についてのコミュニケーション(COVID-19をめぐる情報がもたらす社会的な混乱)」として出現するということを明らかにしました。こうした状況をWHO(世界保健機関)は「Information(情報)」と「Epidemic(疫病の流行)」とを合わせて「Infodemic(インフォデミック)」と名付けて各国に警戒を促しました。
 
もっとも、このような「infodemic(インフォデミック)」と名指されるような傾向はコロナ・パンデミック以前の2010年代から既に始まっていました。ソーシャルメディアの普及によるアテンション・エコノミーの加速とポピュリズムの台頭は様々な局面における社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こし、いまやSNSは一方ではフェイクニュース陰謀論の温床となり、もう一方では正義の名のもとに他人に石を投げつける安価で高性能な投石機と化してしまいました。
 
このような今日における情報環境を宇野常寛氏は昨年上梓した『砂漠と異人たち』において「相互評価のゲーム」と名指しています。同書はSNSの普及により「他人の物語」に感情移入することよりも「自分の物語」を発信して他者に承認されることに快楽を見出した人々は閉じたネットワークの中での「相互評価のゲーム」に夢中になり、その結果、このような情報環境においては常に「問題そのもの」ではなく「問題についてのコミュニケーション」の方がクローズアップされてしまい「問題そのもの」を議論することが難しくなっているといいます。
そして同書はこのような「相互評価のゲーム」の外側に脱出するには、その「時間的な外部」に立ち、情報に対する「速度」の決定権を取り戻す必要があるといい、そのための実践として「事物を通じたコミュニケーション」を提案しています。
 
その第一の実践は人間以外の事物に触れることです。すなわち、相互評価のゲームがもたらす承認への中毒を解毒するためにはまず事物と「虫の眼」でコミュニケーションすることで孤独に世界に接する時間を回復する必要があるということです。そして、ここで大事なのは事物の「消費(事物を単に受け取り用いること)」ではなく「愛好(事物に対して独自の問題を設定し探求すること)」であるといいます。
 
続く第二の実践は人間以外の事物を「制作」することです。人は「虫の眼」をとりわけ事物を「制作」するときに発揮することができます。そして第三の実践は「制作」を通じて他者と接することです。すなわち、人間そのものではなくその人が制作した事物とのコミュニケーションに注力することで「相互評価のゲーム」とは異なるチャンネルでの対話が可能になるということです。そして、このような「事物を通じたコミュニケーション」の一つのあり方として「批評」があります。
 

*「現実」の時代における「批評」の位置

本書『2020年代の想像力』は主に2021年から2023年にかけて宇野氏が執筆した作品評を収録した評論集です。その「序にかえて--「虚構の敗北」について」において本書全体を貫く問題意識が概ね次のように述べられています。
 
まず本書は今日は「現実」が「虚構」に対して優位な時代であるといいます。かつて20世紀は映像技術(劇映画)と放送技術(テレビ)の飛躍的な発展により人々がこれまでにないレベルで「他人の物語」に感情移入できるようになった時代でした。これに対して21世紀の今日は情報環境(インターネット)の劇的な変化により人々がやはりこれまでにないレベルで「自分の物語」を発信できるようになった時代であるといえます。
 
人間とは本質的にそれがどれほど希少でも「他人の物語」を観るよりも、それがどれほど凡庸でも「自分の物語」を語る方が好きな生き物です。今日の情報環境がもたらす「他人の物語」から「自分の物語」への不可逆的なパラダイムシフトは「虚構」の「現実」に対する相対的な敗北を意味しています。いまや人々は「虚構」における「他人の物語」に没入する快楽から「現実」における「自分の物語」に承認を与えられる快楽にその関心を移し始めるようになりました。
 
このように「虚構」と「現実」のパワーバランスはいま確実に後者に傾いています。こうした今日的な傾向は小説や映画やアニメといったコンテンツを消費する態度にも現れています。すなわち「作品そのもの(虚構)」以上に「作品についてのコミュニケーション(現実)」に関心を置き、例えばある作品を皆で支持したり、あるいはある作品を皆で批判したりすることで自身の承認欲求を安易に満たすような態度です。換言すれば現代とは「作品を鑑賞する行為(受信)」が「作品を使って承認を獲得する行為(発信)」に圧倒されつつある時代であるといえます。
 
こうした「現実」が優位する時代において本書はいまや世界から次第に忘れられつつある「虚構」だけが表現できる価値に注目します。「虚構」だからこそ描き出せるものに触れることではじめて「現実」に対して適切に対抗(対応)し得るのであると本書はいいます。
 
本書のいう「作品についてのコミュニケーション(現実)」の「作品そのもの(虚構)」に対する優位は『砂漠と異人たち』において提示された「問題についてのコミュニケーション」の「問題そのもの」に対する優位という問題意識とまっすぐにつながっています。こうした意味で本書は「作品についてのコミュニケーション(現実)」ではなく「作品そのもの(虚構)」と向き合う「批評」というかたちで「相互評価のゲーム」とは異なるチャンネルを開く「事物を通じたコミュニケーション」のあり方を示す一冊であるといえるでしょう。
 

* 村上春樹『街とその不確かな壁』をどう読むか

 
本書の作品評価基準はその冒頭に置かれた「『街とその不確かな壁』と「老い」の問題」に端的に現れています。ここで取り上げられている『街とその不確かな壁』は今年春に公刊された村上春樹氏の6年ぶり15作目の長編小説です。同作は村上氏が1980年に発表した「街と、その不確かな壁」というほぼ同名の中編小説を下敷きに書かれたものです。周知の通りかつて村上氏はこの作品を書き直し1985年に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という名で世に送り出しました。
 
しかし、さらに歳月が経過して作家としての経験を積み年齢を重ねるにつれ、村上氏は「街と、その不確かな壁」という作品には『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とは異なる形の対応があってもいいのではないかと考えるようになり、最初の中編小説が発表されてから40年の歳月が流れた2020年から執筆を開始して、およそ3年近くかけて完成させた作品が本作『街とその不確かな壁』です。
本書はまずこの小説において村上氏が従来掲げていた「デタッチメントからコミットメントへ」という主題がほぼ完全に消滅しているといいます。
 
団塊世代の村上氏は1960年代末の「政治の季節」の終焉をその創作の出発点にしています。その初期作品において氏がまず打ち出したのがマルクス主義のようなイデオロギーから「やれやれ」と距離をとる「デタッチメント」という態度でした。それは単なるニヒリズムではなくあくまで倫理的であるためのデタッチメントです。ところが阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年前後において村上氏は「コミットメント」へとその倫理的作用点を転換させることになります。ここで提示されたコミットメントのモデルとは歴史を「物語(イデオロギー)」ではなく「情報(データベース)」として捉え直すことで普遍的な「悪」に対峙するというアプローチです。
 
しかし、このようなコミットメントのモデルはこのままでは一つの問題を抱え込むことになります。それはイデオロギー抜きに歴史にアクセスした時に歴史の意味が都合よく改編されてしまい現代でいうところの陰謀論歴史修正主義に陥る危険があるということです。そこで村上氏はコミットメントの強度を従来から反復してきた男性的ナルシシズム(主人公に無条件の承認を与えるヒロインの存在)に求めました。その結果、主人公のコミットメントのリスク、コスト、責任が全てヒロインに転嫁されるという構造が、本書のいうところの「性搾取的なモチーフ」が生じることになります。
 
もっとも近年においてはこのような「性搾取的なモチーフ」は作品を重ねるごとにずいぶんと穏やかなものになる一方で、その縮退に比例してコミットメントもまた縮退してしまうという別の問題が発生することになります。こうして『街と不確かな壁』に至ってはコミットメントがほぼ消失し、そこではあまりにも凡庸でありきたりな男性的ナルシシズムの軟着陸がまるで何か偉大な達成を成し遂げたかの如くロマンチックに提示されているに過ぎないと本書はいいます。
 

* リトル・ピープルと母性のディストピア

 
このような辛辣な評価はおそらく宇野氏がこれまでの著作で提示した「リトル・ピープル」という時代観と「母性のディストピア」という成熟観に関係しているように思われます。
 
まず氏は『リトル・ピープルの時代』(2011)において見田宗介氏と大澤真幸氏の議論を批判的に継承して戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(〜1968)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968〜1995)」「リトル・ピープルの時代(1995〜)」という3つの時期に区分しています。
 
このような「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変遷とは、言うなれば単一的な「大きな物語」を唱導する「偉大な父性」が君臨する時代が終わり、複数的な「小さな物語」を扇動する「矮小な父性」が乱立する時代への変遷を意味しています。
また氏は『母性のディストピア』(2017)において江藤淳氏の議論を参照しつつ戦後日本的な成熟像を「母性のディストピア」と呼んでいます。ここでいう「母性のディストピア」とは「政治」の不可能性を「文学」における自己完結運動で補償する「矮小な父性」とかかる不毛な演技を承認する「肥大化した母性」の結託構造をいいます。
 
このような「母性のディストピア」は二者関係で生じる幻想に由来します。戦後日本を代表する思想家の1人である吉本隆明氏はかつて人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(二者関係)」「共同幻想(共同体)」という三つの幻想から形成されるとして、各幻想は原理的には「逆立(反発しつつも独立している状態)」するものと考えました。
 
そこで吉本氏は「共同幻想」に対する「自立」の起点として核家族的な「対幻想」に着目しました。しかしながらその後の消費化情報化社会の進展は三つの幻想が実際のところ「逆立」などでなく単に独立しているに過ぎず、このような対幻想への依存はむしろ共同幻想への埋没や自己幻想の肥大化を招くことを明らかにしていきました。
以上のような観点から(あえて図式的に)述べるとすれば、1995年前後における村上氏の「デタッチメントからコミットメントへ」という転換はいわば「リトル・ピープルへのコミットメント」として位置付けられますが、そこで提示される「対幻想(ヒロイン)」に依存した「コミットメント」では「共同幻想(悪)」に対応できず、近年の作品においてはむしろ「自己幻想(男性的ナルシシズム)」を支援する傾向が強まっているということになります。すなわち『街とその不確かな壁』という作品にはこうした近年の傾向がより顕著な形で引き継がれてしまっているということです。
 

*「時代の象徴」ゆえの評価か?

 
もっとも本書は単に批判するだけではなく現在の状況は村上氏が作家として進化して、かつて志した「総合小説」に挑戦する契機になるように思えるとも述べており、そのモチーフの例として村上氏が短編集『女のいない男たち』(2014)で描き出したような同性間の友情を挙げています。
本書で述べられているように宇野氏にとって村上春樹とは「時代の象徴」として位置付けられる作家であり、その分、要求する水準が他のクリエイターよりも数段高いのかもしれません。もちろんこれは批評家として時代のポピュラリティを明らかにする誠実な態度だと思います。ただその一方で村上氏も自身の女性依存的な作風にまったく無自覚ではないはずです。
 
実際に村上氏は対談集『みみずくは黄昏に飛び立つ』(2017)において対談相手である川上未映子氏から直接、その女性観を鋭く批判されています。また現時点での最新短編集『一人称単数』(2020)に収録された書き下ろしの同名小説では戯画化された村上春樹が突如あらわれた女性から猛烈に罵倒されるという展開が描かれています。
 
そもそも今回の『街とその不確かな壁』という作品はかつての幻想を浄化するという自己治療的な意味合いを持つ創作でもあったと思います。そうであれば次回作ではもしかしてこれまでにない村上春樹の新境地を見せてくれるかもしれません。そして何よりも70代半ばになってなお、これからの「進化」を期待される作家であり続けることは本当に凄いことだと思います。
 

* 2020年代の想像力たちのコミットメント

 
では、その他の2020年代の想像力たちは世界に対していかにコミットメントしたのでしょうか。ここでは本書が取り上げる作品のいくつかのうち、そのさわりだけを見ておきたいと思います。
 
「 『すずめの戸締まり』と「震災」の問題」について。昨年公開された新海誠氏の最新作『すずめの戸締まり』は村上氏が阪神淡路大震災にインスパイアされて執筆した「かえるくん、東京を救う」という短編小説を下敷きとしていると言われています。
 
この点「かえるくん、東京を救う」における「地震」とはリトル・ピープル的な「悪」の象徴でした。これに対して『すずめの戸締まり』ではこのような「悪」という主題が捨象され、東日本大震災を何かの比喩ではなく「震災そのもの」として描き出していきます。そして、そこにはただただ、被災を乗り越えた人々の人生を「損なわれたもの」として位置付けることなく、無条件に肯定することこそがいま必要なことであるという意志だけがあります。
 
村上春樹の後継者的存在ともいうべき新海誠という作家はかつて『秒速5センチメートル』(2007)や『言の葉の庭』(2013)などといった作品では村上春樹的な男性的ナルシシズムをある種のマゾヒズム的な表現へと昇華して描き出すことに成功しましたが、メジャー路線を志向した『君の名は。』(2016)以降の作品からはこのような類の表現が後退していきます。
 
そして本作『すずめの戸締まり』では少年ではなく少女が主役となり、新海氏は震災後の日本を覆う「貧しさ」を「国民的作家」として正面から引き受けることになりました。本書はこの映画を創作物としては恐ろしいほどに「空っぽ」だといいつつも、いまこの国で「国民的作家」であろうとするのであれば、ほとんど「空っぽ」にしかなり得ないということかもしれないと述べています。
 
「『リコリス・リコイル』と「日常系」の問題」について。昨年の「覇権アニメ」との呼び声も高い『リコリス・リコイル』は近未来日本を舞台に社会秩序を守るエージェントである「リコリス」たちの活躍を描いた作品です。本作のヒロイン錦木千束は普段は「喫茶リコリコ」の看板娘を務めながら歴代最強のリコリスとして社会の裏側で暗躍するテロリストたちと対峙しています。
 
千束が体現するものはいわば「日常系」の思想です。ゼロ年代のオタク系文化は村上春樹の強い影響下にあった「セカイ系」と呼ばれる想像力から出発しましたが、ゼロ年代中盤以降はこの「セカイ系」を乗り越えるようなかたちで「日常系」と呼ばれる想像力が台頭してきます。このような「日常系」においてはもっぱら部活動でのおしゃべりや放課後の寄り道などといった10代女子の日常における他愛もない交歓がもたらすささやかな幸福感が描き出されました。
 
しかしながら2010年代以降のオタク系文化のトレンドはさらに「日常系」から「なろう系」に変遷していきます。ここでは既に現実の人生を半ば諦めた人々の自虐的な感性にアプローチして、もはや何もかも分かってやっているのだというメタメッセージを伴いながら願望充足的なサプリメントとしての物語が提供されることになります。これは「虚構」としての「日常系」が「現実」の日常に敗北したことをも意味しています。
 
この点、本作における「悪」を体現するテロリスト真島は千束が守ろうとする「日常系」の思想の欺瞞を暴き出すことを目的としています。しかし本書は千束が守ろうとしているものの本質を真島は正確に暴き出していないといいます。もとより千束は自身の「日常系」の思想が最初からそれが嘘っぱちで薄っぺらくて射程の短いものだと自覚しつつも、それでもなお、その「嘘」を守ることにこそ価値を見出しています。
 
つまり、真島は「嘘が必要だ」という千束に対して「それは嘘だ」と反論してしまっているわけです。こうしたことから、もし真島が本当に千束に対抗したいのならば、単に「それは嘘だ」と言い募るのではなく、それはもうすでに「力を失った嘘でしかない」ことを突きつけるべきだったのではないかと本書はいいます。
 
「『スーパーカブ』と「中距離の豊かさ」の問題」について。トネ・コーケン氏のライトノベルスーパーカブ』はとある地方都市に暮らす「親もない友達もいない趣味もない」女子高校生小熊が通学用に原チャリ「スーパーカブ」を手に入れたことで成長していく物語です。カブを得ることで行動範囲が広がった小熊の生活はそれまでとは比べものにならないくらい色鮮やかで豊かなものになっていきます。このような「モノ(事物)」とのちょっとした出会いで世界がみるみる拡張されていく体験を詳細に描いているところが本作の特徴といえます。
 
しかしながら本作はヒロインが高校を卒業して都内の大学に進学したところで唐突に完結します。結局のところカブが広げてくれる行動範囲とは、高校生にとっては決定的ですが大学生にとってはそうでもなかったということです。本作の最終巻において小熊はカブを使ったバイトを本格化させ「大人」になる道を歩んでいきます。しかし本書は小熊に「大人」になってほしくないといいます。
 
かつて20世紀のサブカルチャーにおいて車やバイクといった「乗り物」はもっぱら男子の身体を拡張し、その男性的ナルシシズムを記述するための道具として用いられてきました。けれども本作で小熊がカブという「乗り物」で拡張しようとしたのはその身体ではなくむしろ世界の方です。ここでは20世紀の男子たちが見落としていた「乗り物」の本来的な可能性が見直されているように思えると本書はいいます。
 
すなわち、カブという「乗り物」は身体ではなく世界を拡張し、遠くでも近くでもない「中距離の豊かさ」を深めていくための「モノ(事物)」ともなり得るということです。そして、おそらくここには2020年代という時代を席巻する「相互評価のゲーム」から離脱するための「事物を通じたコミュニケーション」の一つの可能性を見出すことができるのではないでしょうか。