かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自然主義的リアリズムの脱構築--今村夏子『とんこつQ&A』

* 今村作品における「文体」について

 
今村夏子氏は大学卒業後、清掃関係のアルバイトなどを転々として、29歳の時にバイト先から「明日休んでください」といわれたのがきっかけで、どういうわけか「小説を書こう!」と思い至ったそうです。
 
こうして書き上げられたデビュー作『あたらしい娘』は2010年に第26回太宰治賞を受賞し、その後、同作は『こちらあみ子』と改題されて単行本化され、2011年には第24回三島由紀夫を受賞します。
 
思いがけず鮮烈なデビューを果たしてしまった今村氏の当時の心境は「どうしよう。もう書くこともないのにほめられて」だったそうです。そして三島賞受賞決定後の電話インタビューでは「今後書く予定はない」というような趣旨のことを述べており、それから5年近くもの間、2014年の文庫版「こちらあみ子」に併録された短編を除き、作品の発表は途絶えていました。
 
ところが2016年、福岡で創刊された『たべるのがおそい』という名の地方文芸誌で唐突に新作が発表されます。この『あひる』という作品は第155回芥川賞候補作に挙がり、惜しくも受賞は逃すも同作を収録した短篇集は第5回河合隼雄物語賞を受賞します。
 
そして2017年に公刊された『星の子』は再び第157回芥川賞候補作に挙がり、第39回野間文芸新人賞を受賞します。その後、2019年に公刊された『むらさきのスカートの女』でついに第161回芥川賞を射止めることになりました。また2020年には『星の子』が大森立嗣監督、芦田愛菜主演で映画化され、2022年にはデビュー作である『こちらあみ子』が森井勇佑監督、大沢一菜主演で映画化されています。
 
時に「世界文学」とさえ評される高い文学性と幅広い支持を集めるポピュラリティを併せ持つ今村作品の特色はその極めて特異的な「文体」にあります。一見、さらさらと読めてしまう平明さを持ちながらも、どこかある種の「不穏さ」を孕んだその「文体」こそが今村作品の世界観を創り上げています。
 
かつて村上春樹氏は小説とは作家と読者との「信用取引」で成立しており、その「信用維持」においてもっとも重視すべきものが「文体」であるとして、夏目漱石以来の日本文学が軽視してきたものの一つがまさにこの「文体」であったと述べています。
 
「文体」とはいわば小説世界の「空気」のようなものです。たとえ小説の「主題」とか「構造」などがいかに高尚で深淵だとしても、肝心の「文体」が魅力的でなければ読者がついてきてくれません。事実、ゼロ年代以降の文芸市場を席巻するライトノベルと呼ばれる作品群は近代文学とは全く異なる「文体」で記述されています。
 
こうした状況を東浩紀氏は近代文学が「自然主義的リアリズム(現実の写生)」にもとづく「透明な言葉」で記述されているとすれば、ライトノベルは「まんが・アニメ的リアリズム(虚構の写生)」と「ゲーム的リアリズム(環境の写生)」にもとづく「半透明の言葉」で記述されていると整理しました。
 
こうした意味で今村作品の紡ぎ出す「文体」もまた、これまでの近代文学を規定していた「自然主義的リアリズム」の境界線の揺らぎに対する純文学からの優れた回答であるともいえるでしょう。昨年7月に公刊された今村氏の最新刊である『とんこつQ&A』はこのような特異的な「文体」にさらに磨きがかかった珠玉の短編集です。
 

*「とんこつQ&A」をめぐる狂騒

表題作「とんこつQ&A」のあらすじは次のようなものです。2014年の春、主人公である「わたし(今川)」は「とんこつ」という名前の中華料理店で働き出します。現在、店主である「大将」とその息子の「ぼっちゃん」が切り盛りするこの「とんこつ」という店はもともとは「敦煌」という名前のはずでしたが、そのオープン直前に届いた看板がなぜか手違いで「とんこう」と平仮名になっており、さらにその看板が大型台風の直撃で「う」の字の点が飛ばされてしまい、現在の「とんこつ」になったという経緯があります(なお「とんこつ」のメニューには調理に手間のかかる「とんこつラーメン」はありません)。
 
3分の面接を経て晴れて「とんこつ」の店員に採用された今川は最初は緊張のあまり「いらっしゃいませ」すら言えませんでしたが、やがて「喋る」ことはできなくても書かれた文字を「読む」ことならできることがわかり、客との想定問答を予め書いたメモを用意することでどうにか業務をこなせるようになります。そんな今川を大将とぼっちゃんは特に責めもせず、むしろ歓迎しているようでもあり、そのうち今川は2人から時折、今は亡き「おかみさん(大将の妻/ぼっちゃんの母親)」のように扱われるようになります。
 
やがて今川はそれまで書きためてきたメモを「とんこつQ &A」という自作ノートにまとめますが、いざ「とんこつQ &A」を携えて店に出ようとするとB6サイズのノートがポケットに収まらないことが判明します。ところがその時、今川はメモがなくても「自分の言葉」で「喋る」ことができるようになっていることに気が付きます。こうしてメモを必要としなくなった今川は以前にも増して積極的に仕事に取り組むようになりますが、そんな今川の振る舞いをぼっちゃんはどこか寂しそうな様子で眺めています。
 
そんな折に「とんこつ」へ「丘崎」という女性が採用されます。指示されたこと以外は全く仕事をしない丘崎に苛立ちを隠せない今川でしたが、大将とぼっちゃんは「おかみさん」と同じ大阪出身の丘崎をいたく気に入り、大将に懇願されて今川が作成した「とんこつQ&A〜大阪ver.〜」によって丘崎はいつしか「とんこつ」の「おかみさん」のような存在になっていきます。
 

* 発達障害的モチーフの孕む危うさ

 
本作と同様の「コミュニケーションの苦手な人間がマニュアルのおかげで救われる」という発達障害的モチーフを持つ作品として2016年に第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の『コンビニ人間』が挙げられます。同作の主人公である古倉恵子は幼少時から周囲の空気が全く読めず対人関係に著しい困難を抱えていましたが、大学生の時にたまたま始めたコンビニエンス・ストアのアルバイトで初めて「世界の正常な部品」になれた感覚を得ることができます。
すなわち、古倉はコンビニの業務マニュアルに自分自身を完全に同期させることで「普通の人間」らしく振る舞うことができるようになったということです。同様に本作の今川も「とんこつQ&A」というマニュアルを創り上げることで「自分の言葉」を話せるようになりました。
 
しかし本作はここからさらにねじれた展開を見せていきます。『コンビニ人間』において古倉はマニュアルのおかげで救われているように見えましたが、本作における丘崎もまた、古倉と同じ位置に立っています。では果たして丘崎も古倉のように救われているのでしょうか?
 
いみじくも古倉はコンビニで働く自分自身を「部品」と呼んでいましたが、丘崎もまた「とんこつ」で文字通り単なる「部品」と化しています。こうした意味で本作は『コンビニ人間』において既に伏在していた「それって要するに資本主義システムにとって都合の良い部品が一つ出来上がりましたというお話ですよね」という批評性を極めて狂気的なかたちで前景化させた作品であるともいえるでしょう。
 

* 乾き切った「いま」を描く

 
本書には表題作の他、3つの短編が収録されています。そのあらすじは以下のようなものです。
 
「嘘の道」。「僕」が子供の頃、町内に「与田正」という嘘つきの少年が住んでいました。与田正は学校でいじめられていましたが、全校朝礼で『いじめをなくそう!』が今月の全体目標になったため、その目標達成のためクラスの皆は与田正に急に親切にしだします。そんな、ある日「僕」は姉と敬老祭りに行く途中で道に迷ったおばあさんに近道を案内しましたが、その道中でおばあさんは転んで骨折してしまいます。その後、噂が膨れ上がるにつれて、いつの間にかその出来事は「強盗傷害事件」として語られるようになり、おばあさんに「嘘の道」を教えた犯人として与田正が名指されます。
 
「良夫婦」。かつて勤務していた訪問介護事業所の副所長と結婚後、現在は菓子工場でパートをしている「友加里」はいつ見てもお腹を空かせている近所の少年「タム」のことがどういうわけか気になり、しばし彼に勤務先の工場から持ち出したお菓子を与えたりする一方で、彼の腕にできたあざから虐待を疑い、児童相談所に通報したり特別養子縁組について調べたりしていました。そんなある日、友香里は飼い犬のアンコが死んだことを知ったタムが庭のサクランボの木にこっそり登ってくるのを偶然見かけます。
 
「冷たい大根の煮物」。高校卒業後にプラスチック部品工場で働き始めた「わたし(木野)」は、ある日同僚の「芝山さん」という中年女性から話しかけられます。工場内で芝山さんはいろんな人からお金を借りているという噂がありました。当初は芝山さんを警戒する木野でしたが、その後、芝山さんはしばし買い物帰りに木野の自宅に立ち寄りいろいろな料理を作ってくれるようになります。木野は芝山さんに感謝しますが、その一方で家の電気代とガス代が一気に跳ね上がることになります。
 
表題作を含む本書に収録された4つの短編の共通点はただただ乾き切った「いま」という「時間」を淡々と描き出していく点にあります。それは換言すれば「生の現実」としての世界から断絶した解離的な時間であるといえそうです。
 

* コントラフェストゥム

 
このような解離的な時間を精神病理学では「コントラフェストゥム」と呼びます。この点、日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は様々な精神病理を「ポスト・フェストゥム(あとの祭り)」「アンテ・フェストゥム(祭りのまえ)」「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」という時間構造から切り分けた「祝祭論」で知られています。こうした木村氏の「祝祭論」の現代的展開として、木村門下の精神病理学者である野間俊一氏は「コントラフェストゥム(祭りのかなた)」という第4の時間構造を提唱しています。
 
ここでいう「コントラフェストゥム」とは時間体制としては木村氏のいうところの「イントラ・フェストゥム」と同じく「いま」の枠内にあるものの、本来のイントラ・フェストゥムが生き生きとした「いま」に満ちた「永遠の現在」であるのに対して、コントラフェストゥムはただただ空虚な「いま」が流れては消えていくような単なる「瞬間の継起」として捉えられます。
 
すなわち、本来のイントラ・フェストゥムはまさに我を忘れて「祭り」の中で皆が入り乱れて踊り狂っているようなイメージですが、コントラフェストゥムは決して「祭り」の中に身を投じない、あるいは体は「祭り」の狂乱と喧騒の中にあったとしても心は「祭り」から切り離されて、ひとり遠く異次元に取り残されているというようなイメージです。
 
野間氏によればこの両者を隔てているのはその身体性(身体感覚の総体)に対応する空間性(身体が働きかける諸事物の総体)であり、本来のイントラ・フェストゥムが「飛翔」する身体性に対応する「充溢」した空間性が想定されているのに対して、コントラフェストゥムは「浮遊」する身体性に対応する「空疎」な空間性の中に位置しているといいます。
 

* 自然主義的リアリズムの脱構築

 
このようなコントラフェストゥムとは「ポストモダン」と呼ばれる現代を規定する「時間」であるともいえそうです。いわゆる「大きな物語」が失効したポストモダンにおいて任意に選択した「小さな物語」を生きる人々はその生の実存を他者からの承認によって確保しようとしました。そしてこのような承認をめぐるゲーム(=祭り)から疎外されたところ(=かなた)で生じる「時間」がコントラフェストゥムです。こうした意味で現代を生きる人々は多かれ少なかれコントラフェストゥム的な時間を生きているといえるでしょう。
 
本書を含む今村作品に見られる自然主義的リアリズムを脱構築した「不自然さ=不穏さ」とはおそらく、こうしたコントラフェストゥムと呼ばれる「時間」を極めて高い解像度で描いた結果として生じたものであるとも思われます。そして本書の最後に位置する短編「冷たい大根の煮物」はコントラフェストゥムを生きる中でなお世界を空疎なものから豊かなものへと拡張していくためのささやかな処方箋を描き出した寓話のようにも思えました。