かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

これから河合隼雄にざっくり入門するためのおすすめ7冊

* こころの処方箋(1992年)

⑴ 時代を超越した不動のロングセラー
 
日本を代表する臨床心理学者、河合隼雄氏は1965年にスイスのユング研究所で日本人として初めてユング派分析家の資格を取得して、箱庭療法をはじめとした心理療法の導入や臨床心理士の資格整備に尽力したことで知られています。また氏は日本人の精神構造や日本文化を深く洞察し続けた思想家であり、晩年には文化庁長官も務めており、その著作は学術書からエッセイに至るまで実に200冊を超えています。
 
その膨大な著作群の中でもっとも一般的によく知られた一冊として本書『こころの処方箋』が挙げられます。1992年に公刊された本書は当時、折りからの心理学ブームもあって同年のベストセラーランキング10位に入っています。さらにその後30年以上もの間、本書は幅広い層に読み継がれ、時代が平成から令和に移り変わっても、その内容はいまだ全く色褪せることなく公刊から現在に至るまで時代を超越した不動のロングセラーの一角を占めています。
 
⑵ 未知の可能性と二律背反性
 
本書の冒頭に置かれたエッセイ「人の心などわかるはずもない」では一般的に臨床心理学の専門家というと人の心がすぐに「わかる」と思っているようだが、むしろ専門家の特徴とは人の心がいかに「わからない」ものであるかを「確信をもって知っている」ところにあるとして「心の処方箋」とは「体の処方箋」と異なり、未知の可能性に注目してそこから生じてくるものを尊重しているうちに自ずから生まれてくるものであると述べられています。
 
そして次のエッセイ「ふたつよいことさてないものよ」では、人の心の二律背反性が述べられています。ここで氏のいう「ふたつよいことさてないものよ」とはひとつ良いことがあるとひとつ悪いことがあるとも考えられるということで、逆に何か悪いことがあってもよく目を凝らしてみると、それに見合う良いことが存在していることが多いということです。
 
こうした洞察は氏の臨床経験から確信的に導き出されたものでしょう。カウンセリングや心理療法においてはクライエントの置かれた状況からカウンセラーが行うべき援助に至るまで様々な未知の可能性と二律背反性に満ちています。そして人生もまた同じく未知の可能性と二律背反性に満ちています。絶頂は転落の始まりであり、暗闇の中に光明が見出され、絶望と希望は相転移するということです。
 
⑶ 常識なき時代を生きていくための常識
 
こうした未知の可能性と二律背反性を持つ「こころ」なる厄介なものにいかに関わり、その「こころ」と共にいかに生きていくかという観点から本書では様々な「こころの処方箋」が提示されます。
 
「100%正しい忠告はまず役に立たない」「100点以外はダメなときがある」「マジメも休み休み言え」「こころのなかの勝負は51対49のことが多い」「ものごとは努力によって解決しない」「うそは常備薬 真実は劇薬」「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり」等々といった逆説的なタイトルは「こころ」がいかに未知の可能性と二律背反性に満ちたものかを如実に物語っています。
 
本書が提示する「こころの処方箋」はそのいずれも単なる「優しさ」だけではなく確かな「厳しさ」も併せ持っています。そして、このような「優しさ」と「厳しさ」から成り立つ卓越したバランス感覚もまた、長らく心理療法家として「こころの現場」に立ち会い続けてきた河合氏の豊富な経験と深い洞察に裏打ちされているという事はいうまでもないでしょう。
 
河合氏は本書は皆がすでに腹の底では知っているはずの「常識」を売り物にした本であると述べています。しばし「ポストモダン」とも呼ばれる現代はある意味で社会共通の規範というべき「常識」が失効した時代といえます。そこでは誰かにとっての「常識」は時として別の誰かにとっての「非常識」ともなり得るでしょう。こうした意味で本書はいわば「常識」なきポストモダンを生きていくための「常識」を示した一冊であるといえるでしょう。
 

* カウンセリングを語る(上)(1985年)

⑴ カウンセリングを基礎から語る講演集
 
河合氏の最大の功績はまずは何といってもカウンセリングを日本に普及させた点にあります。1965年に河合氏がスイスから帰国した当時の日本ではカウンセリングや心理療法については一般にあまり知られていませんでした。そんな折、四天王寺の人生相談所から招きを受けた氏は四天王寺で年一回開催されるカウンセリング研修講座で講演をするようになります。その講演記録をまとめたものが上下巻からなる『カウンセリングを語る』です。
 
その上巻となる本書ではカウンセリングの基礎中の基礎が極めて分かりやすいことばで、文字通りの初歩の初歩から語られます。この点、本講演の聴衆は主に学校の先生方で当時は校内暴力が社会問題化していたという背景もあり、この講演では主に中高生にどう接していくかという点に主眼が置かれています。
 
ここで河合氏は「教育」とは文字通り「教える」という側面と「育てる」という側面があるとして、学校教育ではもっぱら「教える」ことに重点が置かれるけれど、実際には「教える」ための土台として「育てる」ことが入っており、カウンセリングではどちらかといえばこの「育てる」ということが重視されるといいます。
 
すなわち、カウンセラーはクライエントに対し、河合氏のいうところの「自由にして保護された空間」を提供する役割を担い、カウンセリングとはまず相手のことばを耳を傾けて「聴く」という営為からはじまります。こうしたことから本書においてはカウンセリングにおける「聴く」ことの重要性が繰り返し強調されています。
 
まずは聴く。ひたすら聴く。いろいろな先入観や価値判断はとりあえず脇に置いてとにかくクライエントの語りに耳を傾けていくということ。このようにカウンセラーとはクライエントのどのような話を聴いても、同じ話を何度もなんども繰り返し聴いても、常に生き生きとした共感を持って聴ける人でなければならないということです。
 
⑵ カウンセリングにおける二律背反性
 
しかしながら、ひたすら人の話を聴いてさえいればそれでカウンセリングになるのかというと、もちろんそんなわけはありません。しばしカウンセリングにおいてはあちらに立てばこちらに立たずというような二律背反的な状況に直面することがあります。
 
例えばカウンセラーの基本的態度を明らかにしたものとして大変有名な「ロジャーズ三原則」というものがあります。それは次のようなものです。
 
a 無条件受容(無条件の肯定的関心)・・・クライエントの表現したものがどんな内容であろうとも、それはその人の内的体験に基づいたその人なりの表出であるということを認め、批判や評価などの一切の価値判断をせず、ありのままに受容すること。
 
b 共感的理解・・・クライエントの「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そして「as if」という態度をどこまでも失わないこと。
 
c 自己一致(真実性)・・・自身のなかに流れる感情や思考といった体験に対して、あるがままに驚く時は驚き、悲しむ時は悲しむ、という自身の内的体験と外的表出のとの間に不一致がないこと。
 
来談者中心療法を創始したアメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズは、人は誰しも先天的に「自己を成長させ、実現する力(自己実現傾向)」と「自らの力で心と体を治していく力(自己治癒能力)」を持っており、植物が光・水・養分・空気があれば、生命本来の力でひとりでに育っていくように、人も心に適した環境さえあれば、その人の自己実現傾向・自己治癒能力が発現して症状や悩みが解消に向かうといいます。そして、ここでいう「光・水・養分・空気」に当たるものが、カウンセラーの基本的態度としての「受容・共感・自己一致」ということになります。まさに河合氏のいう「育てる」という態度です。
 
受容・共感・自己一致。これらひとつひとつはそれ自体は疑いもなく正しいと思います。ですが、この三原則を「同時に」実行することがいかに難しいかは少し考えればわかることです。例えば「これから親父をぶん殴ってくる」などという中学生とか、どう考えても怪しげなカルト宗教の素晴らしさを延々と語る人など、どうにも同調できないクライエントの語りをカウンセラーが表面的には「受容しているふり」をして聴きつつも本心では否定している場合、その時点でもう「自己一致」していないことになります。すなわち、無条件受容と自己一致は矛盾する一面を孕んでいるわけです。
 
そのほかにも理論と実際、母性と父性、治療過程の明と暗。このような一見矛盾するかに見える二律背反的な状況がカウンセリングではしばし生じます。そこで大局的見地からその本質を見極め、その矛盾を死に物狂いで統合しようして、初めてカウンセラーの態度は「生きた態度」になるということを、本書において河合氏は手を替え品を替え説いておられます。
 

* カウンセリングを語る(下)(1985年)

⑴ カウンセリングにおける理論と技法
 
上巻が基礎編だとすれば、下巻である本書はいわば応用編です。カウンセリングにおける理論と技法、カウンセリングと日本社会、カウンセリングと宗教、そして「たましい」の問題へとそのテーマは多彩に広がっていきます。
 
周知のようにカウンセリングの理論や技法は様々な学派に分かれていますが、このような学派を一体どのように考えたら良いのかという問題があります。これに対する一番「正しい」答えとはもちろん、いろんな学派があるけれど、そういうものにとらわれず自分の生身を投げ出してクライエントにまっすぐに向き合えばいいんだ、ということになるのでしょう。
 
この答えは決して間違ってはいません。決して間違ってはいませんが悲しいことに人は「とらわれるな」といわれてしまうと、常に既にその「とらわれるな」というテーゼにとらわれてしまうため、その「とらわれるな」という境地に真に達するまでは我々はいろいろな「とらわれ」を経由することになります。そして、その「とらわれ」の「入り口」ないし「引っかかり」として学派というものがあるわけです。そこで本書はこのような各学派の相違について次のような図を示しています。
 
 
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(『カウンセリングを語る(下)』より引用)
 
 
この点、クライエントの外的現実(意識における心的現実)を問題にして、クライエントの行動に「指示」を与えることで治療過程も外的方向(症状の解消)に進むのが行動療法です。そしてクライエントの外的現実を問題にしながらも、クライエントの語りを「受容」することで治療過程の内的方向(心理的問題の解決)を重視するのがロジャーズの来談者中心療法です。
 
これに対して精神分析創始者であるオーストリア精神科医ジークムント・フロイトフロイトから離反し分析心理学を立ち上げたスイスの精神科医カール・グスタフユングはクライエントの内的現実(無意識における心的現実)を問題にします。
 
もっともフロイトの場合、クライエントの内的現実を問題にしつつも、クライエントの語りに「解釈」を投与して治療過程としてはあくまで外的方向に向かっていきます。これに対してユングの場合は他の学派のような「指示」も「受容」も「解釈」もしません。では何をするのかというと「コンステレート」をします。
 
ここでいう「コンステレート」とは日本語でいえば「めぐりあわせを待つ」ということです。すなわち、結局のところクライエントが「治る」というのは様々な「めぐりあわせ」の結果であり、それゆえに良き「めぐりあわせ」がくるまでひたすら「待つ」というのがユング派の、そして河合氏の方法論であるということです。
 
このようにカウンセリングや心理療法の学派は理論上はこのような「指示」「受容」「解釈」「コンステレート」の四象限に峻別されます。けれども実際の臨床において優れたカウンセラーはこの四象限を変幻自在に往還しています。すなわち、その「入り口」ないし「引っかかり」はそれぞれ随分と離れているけれども、その「ゴール」は自ずとみんな似通ってくるということです。
 
⑵ 母性原理と父性原理
 
また本書では日本のカウンセリングにおける「父性原理」の必要性が強調されています。これは西洋に比べ「母性原理」が強い日本社会の構造を鑑みてのことであると思われます。つまり、カウンセリングにおいてはクライエントを包み込む「優しさ」だけではなく時には突き放す「厳しさ」も必要とされるということです。本書のメタファーでいえば、ただ甘いだけのぜんざいよりもほんの少し塩を混ぜたぜんざいの方が美味しいということです。
 
もちろんそれは、あくまで「母性原理」を大前提とした上で、そのうえで「父性原理」をいかに取り入れていくかというバランス感覚の問題であり、河合氏も厳重に釘を刺すように「優しさ」よりも「厳しさ」が大事であるといった単純な話ではありません。なお現代における心理療法の多くはこうした意味での「母性原理」と「父性原理」の両方の統合を志向しています。例えば近年において第3世代の認知行動療法として注目を集めるアクセプタンス&コミットメント・セラピーではクライエントの置かれた「今このとき」を受容する「母性原理(アクセプタンス)」とクライエントが自らが掲げた「価値」へと踏み出していく「父性原理(コミットメント)」から成り立っています。
 
『カウンセリングを語る』は上下巻を通じて「なぜだかわかりますか?」という問いかけが非常に多く、読み手はここで一度立ち止まって考えさせられます。また、一つのことを強調した後には「次にまた反対のことを言いますが」とか「間違わないようにしてくださいね」などと釘を刺し、読み手が「これはこうだ」という「型」には嵌らないように戒めています。穏やかで飄々としていながらも信念をもって熱く語る名調子はカウンセラー志望者や教育関係者から対人援助に従事する方々や日常的なコミュニケーションの在り方に悩む方々に至る幅広い読み手に様々な示唆を与えてくれるようにも思えます。
 

* コンプレックス(1971年)

⑴ 感情に色づけられたコンプレックス
 
先述したようにユング派においてはクライエントの内的現実が、すなわち「無意識」が重視されます。そしてこのような意味での「無意識」を突き動かす大きな力となるものが「コンプレックス」です。
 
人は常に自分の自由意志に基づいて理性的に自律的に主体的に動いている--と思っていたりするわけです。しかし常にそうであるとは限りません。ある種のメンタルヘルスの疾病のように自分の意志とは異なる行動が生じてくるため悩んでいる人も多いでしょう。
 
また「正常」な人でもその日常において自身の理性、自律性、主体性がどこかしら脅かされると感じられる現象にしばし遭遇します。例えば前からよく知っている人なのにその人の前に行くと突然その名前をど忘れてしてしまったり、大事なところで妙な言い間違いをしてしまったり、またある人物や対象に対して感情を過剰に掻き乱されてしまったりもします。この点、ユングは言語連想検査を通じて意識を統合する自我を脅かす何らかの感情に色付けられた無意識の心的作用を発見し、これを「コンプレックス(心的複合体)」と呼びました。
 
こうしたコンプレックスが自我を完全に乗っ取ってしまう劇的な表れとして同一個人に異なった二つの人格が現れる二重人格や自分が複数存在として体験される二重身(分身体験)があります。そこで自我はその安定を図るためコンプレックスに対して様々な自我防衛の機制を用います。その代表格がコンプレックスを完全に抑え込んでしまう「抑圧」です。
 
しかし、コンプレックスというのはなかなか簡単には抑圧できないので自我は次善の策として他の自我防衛の機制を発動させます。それは例えば、コンプレックスを他人に転嫁する「投影」であったり、コンプレックスとは全く逆の行為に走る「反動形成」であったり、コンプレックスとは似て非なる対象を選択する「代償」であったり、コンプレックスを取り込んでしまう「同一化」であったります。
 
⑵ 可能性の在り処としてのコンプレックス
 
また、コンプレックスというのは多層構造を持っており、例えば「料理コンプレックス」を持つ人の話にずっと耳を傾けていると、やがて「カイン・コンプレックス(兄弟姉妹間のコンプレックス)」が明らかになったというように、あるコンプレックスの下に別なコンプレックスが隠れていることが多かったりもします。
 
この点、コンプレックスの多層構造の最深部にある根源的なコンプレックスとしてフロイトは両親に対する愛憎から生じる「エディプス・コンプレックス」を見出しましたが、ユングと同様にフロイトと決別して個人心理学を立ち上げたアルフレッド・アドラーは生来の劣等感に由来する「劣等コンプレックス」を見出しました。
 
確かにアドラーのいう劣等コンプレックスは一般的にも「劣等感=コンプレックス」という理解が成り立っていることから直感的にわかりやすく、実際その理解で概ねのところ不都合はないとも言えますが、その一方で劣等コンプレックスの起源をさらに遡っていくと、やはり幼少期の「家族」をめぐる何らかの心的現実に突き当たるようにも思えます。これに対してフロイトのいうエディプス・コンプレックスは一見すると荒唐無稽ですがある面では幼少期の「家族」をめぐる心的現実を記述した一つの「神話」であるともいえます。
 
ところで、ユングエディプス・コンプレックスと劣等コンプレックスの相違は結局のところは外向的なフロイトと内向的なアドラーという両者の根本的な態度の相違に帰着するものであったとして、コンプレックスは確かに多層構造を有しているけれども、その中のどれか一つのコンプレックスだけを特権化して根源的なコンプレックスとして位置付けることはできないと主張しました。このようなユングの立場は来るべきポストモダン(根源的なコンプレックスの複数化)を先取りした思考であったともいえるでしょう。
 
いずれにせよ人は日常の様々な場面で自身の抱える何かしらのコンプレックスに遭遇します。コンプレックスとは一見すると自我にとって何とも厄介な存在であるといえますが、その一方でコンプレックスは自我の一面性を補償するものとして大きな役割を担うことがあります。いわばコンプレックスにはこれまで生きてこれなかった半面としての可能性の在り処が示されているといえます。こうした意味で本書は自身の抱えるコンプレックスから距離をとるための視点とコンプレックスと共に生きるための指針をもたらしてくれる一冊であるといえるでしょう。
 

* 昔話の深層(1977年)

⑴ 普遍的無意識と元型
 
このようにユング心理学においてコンプレックスは重要な位置を占めています。けれども、ユングは属人的な心的作用であるコンプレックスで構成される「個人的無意識」よりも更なる深層において人類共通の心的作用である「元型 archetype」で構成される「普遍的無意識」があると主張しました。
 
もっとも我々の意識においては「元型」の存在そのものを捉えることはできず、通常、人は「元型」の存在を外界に投影したイメージ(原始心像)によって知ることになります。この点、ユングは典型的な「元型」として次のようなものを挙げています。
 
人の内にある「母なるもの」の元型をユングは「グレート・マザー(大母)」と呼びます。この点、河合氏は「母なるもの」はその本質において「産み育てる」という肯定的側面と「呑み込む」という否定的側面を併せ持っているといい、いわゆる対人恐怖症は日本の母性社会的な特性に根ざしていると指摘しています。また氏はグレート・マザーに取り憑かれた女性の病理として二つの危険な方向性を指摘しています。一つは、肉の世界への下落、土なる母との一体化の方向であり、そしてもう一つは母となることをおそれ、自らの女性性を拒絶する方向です。
 
自我から見て受け入れ難い人格的傾向であり「生きられなかった反面」としての元型をユングは「影」と呼びます。影は自我統制が弱くなった時に表面に浮かび上がってくることが多く、その極端な例として二重人格が挙げられます。また人は自分の影を否定しようとして、誰かに自身の影を投影する傾向があります。例えば自分と真逆の性格の友人がどういうわけかムカムカして仕方がないというのは、その人に自分自身の影を投影しているということです。また影には「個人的影」の他に人類共通の「悪」ともいうべき「普遍的影」が存在すると河合氏は述べています。
 
男は男らしく女は女らしくといったように人は社会から一般的に期待されているペルソナ(仮面)をつけて生活せざるを得ない一方で、そのペルソナ形成の過程で排除された男性の中の女性的な面、女性の中の男性的な面もまた同時に我々の中に存在し続けることになります。ユングは前者を「アニマ」といい、後者を「アニムス」と呼びます。アニマはエロスの原理を、アニムスはロゴスの原理をそれぞれ内在しています。ある異性を見たらどういうわけかドキドキして目も合わせられないというのは、その人に自分の中にあるアニマ(アニムス)を投影しているからです。影がいわば「生きられなかった反面」なのであれば、アニマやアニムスとはいわば「切り捨てられた魂の側面」ともいうべきものです。
 
神話、伝説などに登場する道化的な役回りを担う元型が「トリックスター」です。トリックスターは二つの領域の境界に出没し、旧来の秩序を破壊して、新しい秩序を創造していく役割を担ったりもします。その一方でトリックスター紙一重でかぎりなく「悪」に近い側面と同時に、限りなく「英雄」に近い側面という両義的な性格を持っています。
 
⑵ 元型的体験としての昔話
 
このようなユングのいう普遍的無意識における元型の働きを解明していく上で重要な手がかりとなるものが「昔話」です。一般的に「昔話」というものは非合理で非科学的なくだらない昔の人の戯言としてバカにされがちですが、ユングは各国の「昔話」の共通点に注目し、その中に極めて元型的ともいえる体験を見出していました。
 
こうしたことからスイスのユング研究所では「昔話」の研究が盛んであり、1962年に分析家の資格を取るためにユング研究所に留学した若き日の河合氏もまたユングの愛弟子であるフォン・フランツから「昔話」をめぐるユング派の考え方を学んでいます。
 
ところが河合氏がスイス留学から帰国した1965年当時の日本では「昔話」の研究などというと、特に心理学の領域においては相手にされないどころか下手をすると変人扱いされかねないような状況であったことから、氏は機が熟するまでひとまずは待つことにして徐々に講義の中に入れ込んだりしながら様子を見ていたそうです。
 
そんな折、福音館書店という出版社から「昔話」の心理学的解明をテーマにした連載を依頼された氏がこれは好機とばかりに同社の発行する「子どもの館」という雑誌に1975年から1年間にわたって執筆した論考をまとめたものが本書『昔話の深層』です。
 
本書は「ヘンゼルとグレーテル」や「いばら姫(眠れる森の美女)」といったグリム童話の数々をユング心理学の視点から鮮やかに読み解いていきます。そして何よりも本書の大きな特徴はこうした「昔話」の解釈を心理療法の臨床との連関の中で論じている点にあります。
 
本書で河合氏は現代の心理相談室には白雪姫やヘンゼルとグレーテルばかりか人を食う魔法使いのおばあさんまでも現れるといって過言ではないといいます。実際に心理療法の場においてはしばし、夢や創作といった形でクライエント自身の「昔話」が語られることがあります。
 
すなわち、人は知らず知らず自身の生み出した「昔話」を生きているということです。そして多くの場合、人は自身の現在を規定する過去ともいえる「昔話」を未来に向かって書き換えていかなければならない時期に直面することになります。こうした意味で本書は人が自らの「昔話」に向き合うための知恵に満ちた一冊であるといえるでしょう。
 

* 神話と日本人の心(2003年)

⑴ ライフワークとしての日本神話
 
そして、このような元型的な体験を記述した伝承として「昔話」のほかに「神話」があります。この点、戦中世代である河合氏は軍国主義が利用した日本神話を若い頃は強く嫌悪していました。ところがユング派の分析を体験する中で日本神話が自分にとって深い意味を持っていると思うようになり、1964年にユング派分析家の資格論文として「日本神話における太陽の女神像」をユング研究所に提出しています。
 
その後、日本においてユング派の心理療法を実践していく中で、氏の中で日本神話の重要性はますます増していき、1985年にスイスのエラノス会議において「日本神話における隠された神々」という演題で講演を行なっています。このような氏にとってライフワークでもあった日本神話をめぐる研究の集大成として2003年、75歳の時に書き上げたのが『神話と日本人の心』です。
 
本書で河合氏は『古事記』に登場するアメノミナカヌシ、ツクヨミ、ホスセリという三人の神に注目します。『古事記』の冒頭で天と地がはじめて現れたその時、タカミムスヒとカミムスヒと共に高天原に成り出た三神の1人であるアメノミナカヌシはその後いっさい登場しません。また高天原を治める最高神アマテラスとその弟である荒々しい神として知られるスサノヲと共に三神を成すツクヨミも父イザナギに夜の食国の統治を命じられた後の記述はなく、さらに海幸彦・山幸彦の名で知られるホデリとホヲリの兄弟神であるホスセリもまたその後を語られることはありません。
 
このように『古事記』において重要な位置を占める三組の神々の中心には名ばかりで実体がなくいかなる力も働きも持たない「無為の神」がいることに気づいた河合氏はその一貫した構造を「中空構造」と名づけます。そして氏はこの「中空構造」は日本人の心の構造にも当てはまるのではないかと考えました。
 
⑵ 中空構造
 
ここでいう「中空構造」とは、その中心を「空」することで相対立する二つの力を--神話でいえば三神のうち活躍する二神を、心の構造でいえば意識と無意識や男性性と女性性を--調和的に均衡させて深刻な対立を回避する構造をいいます。
 
確かに河合氏が指摘するように『古事記』では様々な神々がその優劣や善悪を固定することなく絶妙なバランスのもとに共存しています。例えばアマテラスとスサノヲの関係も太陽神で天皇の先祖であるアマテラスの方がスサノヲに対して優位に立っているように見えますが、その一方で天界を追われたスサノヲも出雲国ヤマタノオロチを退治して英雄になったりもしています。
 
その一方でこの構造から排除された神もいます。それがヒルコです。『古事記』によればヒルコはイザナギイザナミが生みなした最初の神です。しかし彼らは不出来な神であったヒルコを葦の船に乗せて島から流してしまいます。
 
この点、女性の太陽神であるアマテラスは別名を「オオヒルメ」といいますが、それと対をなす名を持つヒルコはおそらく男性の太陽神だったと考えられます。けれども日本神話はヒルコを排除してしまいました。このようなヒルコの排除は女性原理が優位な日本神話あるいは日本人の心から排除された男性原理であるとも考えられます。
 
そして本書はこのような男性原理をなんらかの形で取り入れていくことが日本と日本人の将来にとって大事なことではないかという方向性を示唆して幕を閉じています。こうした本書が描き出す構図は「母性原理」を基調としつつも「父性原理」の必要性を語る氏のカウンセリング観とぴたりと一致しているといえるでしょう。
 

* ユング心理学入門(1967年)

⑴ タイプ論から個性化の過程へ
 
河合氏がスイス留学から帰国した2年後の1967年に公刊した本書は当時の日本ではほとんど知られていなかったユングの理論を豊富な症例を交えて紹介するユング心理学の概説書です(文庫版はそのダイジェスト版です)。本書は前年に京都大学で行った講義が骨子となっており、これまで紹介した書籍における様々な議論を体系的に理解するための枠組みを提示する一冊として位置付けることができます。
 
本書の構成は極めて大まかにいうと「タイプ論(第一章)」から始まり「コンプレックス(第二章)」「元型論(第三章〜第六章)」と続き「個性化の過程(第七章)」へと至ります。この点、ユングは人の基本的態度を「外交的」と「内向的」に二分しています。ある人の関心がもっぱら外界の事物あるいは事象に向けられている態度を「外交的態度」といい、逆に、内界のそれに向けられている態度を「内向的態度」といいます。また、ユングは上記の2つの基本的態度とは別に、人は各々得意とする心理機能を持っているといいます。これが「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能です。
 
このうち「思考」と「感情」「感覚」と「直感」はそれぞれが対立関係にあり、ユングは「思考」と「感情」を理性の枠内にある「合理機能」と呼び「感覚」と「直感」は理性の枠外にある「非合理機能」と呼んでいます。そして「合理機能」が強い人は辻褄の合わないことが苦手であったり、あるいは好き嫌いが先に立って現実をありのままに認識することが難しく、逆に「非合理機能」が強い人は「これはこういうものなのだ」とすんなり受け入れてしまう傾向があるとされます。
 
こうして2つの基本的態度と4つの心理機能が掛け合わされ、8つの基本類型が出来上がります。これがユングの「タイプ論」です(もちろんこの8つの基本類型はあくまで理念型であり実際はこれらの中間に位置する人が多いでしょう)。
 
この点、ユングは個人の意識の上に強く表れているものを「主機能」と呼び、その反対に無意識に沈み込んでいるものを「劣等機能」と呼び、残る2つの機能を「補助機能」と呼びます。例えば思考を主機能として持っている人はこれと対立関係にある感情が劣等機能として無意識下に沈み、そこに感覚と直感が補助機能として加わっているということです。
 
ここで重要なのは外向・内向の基本的態度と同様に4つの心理機能にも相補性があるということです。この点、ユングは無意識の中に沈んでいる劣等機能を開発して発展させていく過程を「個性化の過程」と呼びます。こうした「個性化の過程」を歩んでいく中で個人は先に述べた「コンプレックス」や「元型」と対決することになります。
 
 
そしてこうした意識と無意識、主機能と劣等機能、自我とコンプレックス、男性性と女性性などといった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考えました。ここでユングのいう「自己」とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力をいいます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の「自我」が自らの「自己」と対決すべき時期が到来した時、そこで生じている内的現実に呼応するような「めぐりあわせ」というべき外的現実が起きるといいます。それは例えば、ある種の精神の不調かもしれないし、あるいは人生における挫折や喪失といった出来事かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、こうした「めぐりあわせ」の裏には「自我」がいよいよ「自己」との対決を試みている努力の表れがあるということです。そこでユングは、このような内的現実と外的現実を「個性化の過程」に向けた一つの「コンステレーション共時的布置)」として把握することを重視します。こうした意味でユングのいう「個性化の過程」とは「自己実現の過程」であるともいえます。
 
このようにユング心理学においては、心がその全体性の回復へ向け、相補性と共時性の原理により螺旋の円環を描く様相を「個性化の過程(自己実現の過程)」として捉えています。そして、このようなユングの描き出す「個性化の過程(自己実現の過程)」はこれまで目を背けてきた諸々と対決していく荊の道であると同時に、日常において生起する様々な困難の中に「めぐりあわせ」を見出していくための道ともなるでしょう。ここで紹介した7冊がそのような「めぐりあわせ」にいくばくかでもお役に立てることを祈念しています。