かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

実践知としての哲学入門--東浩紀『訂正する力』

 

*「訂正可能性」による日本社会のリノベーション

 
20世紀を代表する哲学者の1人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。そして言語哲学者ソール・クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。
 
例えば「2+2は5」であると主張する人が現れたとします。この「2+2は5」という主張を「間違い=ルール違反」だと断定することは原理的には不可能です。にもかかわらず現実において「2+2は5」という主張は通常「間違い」であると「訂正」されることになります。なぜなら大多数の人々が彼の主張が「間違い」だと見做す共同体に属していると信じているからです。
 
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなります。
 
東浩紀氏が1998年に世に放った『存在論的、郵便的』はこのような「訂正可能性」の理論からフランスの哲学者ジャック・デリダのテクストを読み直し当時の批評シーンに大きなインパクトを与えました。1993年の批評家デビュー以来、東氏の仕事は表面的にみると1990年代のフランス現代思想ゼロ年代のオタク論、2010年代の観(光)客論と様々に変転していますが、これらの議論は一貫して「訂正可能性」の具体的局面を取り扱ったものとして読むことができます。
 
こうした意味で今年公刊された『訂正可能性の哲学』はこれまでの東思想のまさしく「総論」に位置する哲学書であったといえます。そして同書に続いてデビュー30周年を記念して公刊された本書『訂正する力』は「訂正可能性」を使った日本社会のリノベーションを提言する一冊であるといえます。
 

*「じつは・・・だった」という発見

「失われた30年」という言葉に象徴されるようにバブル崩壊以後今日に至るまで長きにわたって停滞を続けた日本社会はいまや政治経済における様々な局面で行き詰まりを見せています。このような惨状を前にしてある言説は「リセット」を叫び、またある言説は「ぶれない」ことにこだわります。
 
こうした中、本書は「リセット」と「ぶれない」のあいだでバランスをとる「訂正する力」が大事であると説きます。本書のいう「訂正する力」とは過去との一貫性を主張しながらも、実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力のことをいいます。そして、その核心には「じつは・・・だった」という発見の感覚があります。
 
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
 
このようにルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象は子どもの遊びのみならず、人間の行うコミュニケーション全般において見られます。そして、このような「訂正する力」こそがいまの日本に必要であると本書はいいます。
 

*「空気」を書き換える力

 
「訂正する力」とは「空気」を書き換える力です。日本社会は「空気」と呼ばれる無意識的なルールに支配されているとよく言われます。この「空気」なるものは皆が他人の目を気にするだけではなく、同時に皆が気にしている当の他人もまた他人の目を気にしているという入れ子構造になっています。
 
だとすれば、こういった「空気」を変えるためには「空気」から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ「空気」の中にいるふりをしてながら、少しずつ違うことをやっているうちにいつのまにか「空気」が変わってしまうというアクロバットをやるしかなく、その「いつのまにか」をどう演出するかという課題に答えるのが「訂正する力」であると本書はいいます。
 
つまり「空気」が支配している国だからこそ、その「空気」が「いつのまにか」変わっているように状況を作っていくことが大事にあるということです。
 
これはデリダのいう「脱構築」に極めて近い発想です。彼は哲学の伝統的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求することによって哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みをまさに哲学の方法として提示しました。
 
すなわち、ルール(空気)を書き換えるためには既存のルールをひそかに訂正しつつ、その新しさを全面に押し出さずに「いやいや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張するような現在と過去を結びつけていくしたたかな両面戦略が必要になるということです。
 

*「正しさ」を更新する力

 
また「訂正する力」とは「正しさ」を更新する力です。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。この人は正しくない発言をしたからみんなで批判しよう、仕事を奪おうという動きは時に「キャンセル・カルチャー」と呼ばれたりもします。
 
ところで「コレクトネス」という言葉は「コレクト」という動詞の名詞形ですが、この「コレクト」は「校閲する」とか「まちがいを正す」などといったまさに「訂正」を意味する言葉です。すなわち、現在の「コレクトネス=正しさ」とは普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。
 
そうであれば今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。「正しさ」に対しては、そのような距離を持って考えることが大事であり、少なくとも現在の価値観だけを振りかざして、過去の発言や複雑な文脈を持った行為を一刀両断していく行為はむしろポリティカル・コレクトネスの精神に反しているといえます。
 
しかしその一方で「訂正する力」は「歴史修正主義」と一線を画しています。ここでいう「歴史修正主義」とは例えば「アウシュビッツガス室はなかった」とか「従軍慰安婦はいなかった」などといった主に保守派による歴史の捏造を意味する言葉として現在用いられています。この文脈での「歴史修正主義」は過去を忘却し、現実から目を逸らす行為です。これに対して「訂正する力」はむしろ過去を記憶し、現実に向き合う行為ともいえます。
 

*「喧騒」を生み出す力と「幻想」を創り出す力

 
哲学とは「時事(時局への対応)」「理論(基本原理の究明)」「実存(生き方の提示)」の3つの領域の連関から成り立っており「訂正する力」もまたこの3つの領域をシームレスにつなげていくと本書はいいます。こうした観点からいえば本書の第1章は「時事編」であり第2章は「理論編」であり第3章は「実存編」となります。そして第4章はここまでの議論の「応用編」であり「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像のアップデートを試みる議論が展開されます。
 
この点「訂正する力」は「喧騒」を生み出す力でもあります。本書の根底には「人は根本的には他者と分かり合えない」という世界観があります。だからこそ人が互いに理解し合う空間ではなく、むしろ互いに「おまえはおれを理解していない」と永遠に言い合う空間をつくることが大事だと本書はいいます。
 
そしてこれは民主主義の問題とも関係しています。『訂正可能性の哲学』でも参照されている19世紀フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルが強靭な民主主義の条件として「喧騒」を挙げたように、民主主義社会とは正解を求める社会ではなく、とにかくさまざまな人々が自分の理屈で好き勝手に「おまえはおれを理解していない」と「喧騒」の中で「訂正」を求めあう社会です。
 
こうした意味で日本社会とは経済(中小企業)から趣味(同人誌サークル)の領域に至るまで、もともと少人数でわちゃわちゃとやることを好む「喧騒」に満たされた文化を持つ社会です。そして、そこに「喧騒」があるということはそこには「平和」があるということです。
 
また「訂正する力」は「幻想」を創り出す力でもあります。ここでいう「幻想」とは現実を覆い隠す思考停止ではなく、むしろ現実に向き合って前に進んでいくための道標です。
 
かつて明治日本は近代化を達成するために天皇親政という幻想を創り出し、戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という幻想を創り出しました。そして今日における日本社会の機能不全はこのような意味での幻想の機能不全に起因しているともいえるでしょう。こうしたことから本書は文化論的な観点から戦後日本における平和主義の「訂正」を提案します。
 

* 実践知としての哲学入門

 
「空気」を書き換え「正しさ」を更新し「喧騒」を生み出し「幻想」を創り出すということ。過去と現在をつなぎ合わせて未来を照らしだすということ。本書はかつて日本に備わっていた「訂正する力」を今こそ取り戻そうと呼びかける書物です。もちろん本書の個別的な提案に対しては様々な異論もあると思います。けれどもそのような様々な異論が異論として色とりどりにばらばらなままでせめぎ合う社会こそがまさしく「訂正する力」に満たされた社会であるといえるでしょう。
 
そして何より本書は哲学とは決して現実から遊離した観念の遊戯ではなく、むしろ現実を変えていくための実践知であることを教えてくれます。こうした意味で本書は東思想の現時点における決定的な入門書であると同時に実践知としての優れた哲学入門であるといえるでしょう。