かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

解離の時代における自傷と救済--西尾維新『愚物語』『業物語』『撫物語』『結物語』

* ライトノベルと解離の時代

 
かつてライトノベルは「キャラクター小説」とも呼ばれていました。この「キャラクター小説」という言葉は例えばあるアニメを起点としてお菓子や文房具といった様々な「キャラクター商品」を商業的に展開していく中で「ノベライズ」や「外伝」という形で企画される「キャラクター商品としての小説」に由来します。それゆえに業界内ではアニメ調のイラストをつけてあたかも「キャラクター商品」のように売り出す小説を自嘲的なニュアンスを込めて「キャラクター小説」と呼ぶようになったそうです。
 
もっとも、こうした中で「キャラクター小説」を文学的な観点から積極的に再定義する議論も現れました。例えば大塚英志氏は『キャラクター小説の作り方』(2003)において「私」という自然主義的現実を写生するのが近代文学における「私小説」だとすれば「キャラクター」というまんが・アニメ的虚構を写生するのが現代の「キャラクター小説」であると位置付けた上で、日本における私小説の起源とされる田山花袋の『蒲団』を題材に「私小説」も実は「仮構の私」なるキャラクターを写生する「キャラクター小説」であったという議論を展開しました。
 
また東浩紀氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において大塚氏の議論をさらに展開させてライトノベルとはキャラクターのデータベースを人工環境として書かれるという意味ですぐれてポストモダン的な文学の形式であり、前近代の語りが「不透明な言葉」であり、近代の自然主義文学が「透明な言葉」であるとすれば、現代(ポストモダン)のライトノベルはいわば「半透明な言葉」で記述されているとして、ライトノベルの文学的な可能性を「透明な言葉」では消えてしまうような現実を「半透明な言葉」を利用して非日常的な想像力の上に散乱させる屈折した過程を経た「現実の乱反射」に見出しています。
 
そして、このような「透明な言葉」では捉えられない現実を「半透明な言葉」を駆使して見事に描き出したライトノベル作品として西尾維新氏の〈物語シリーズ〉を挙げることができます。本シリーズ全体の大まかなあらすじは主人公である私立直江津高校3年生、阿良ヶ木暦が春休みに瀕死の吸血鬼、キスショットを助けたことで「吸血鬼もどきの人間」となって様々な怪異絡みの事件と遭遇する中で人間的に成長していくというものです。
 
本シリーズが描く「怪異」という現象は「解離」という現代的な病理のメタファーとしても読むことができます。現代は広い意味で「解離」の時代であるといえます。ここでいう「解離」とは知覚や記憶や身体感覚の断片化を指しており、その根底には世界に対する空疎な感覚と不信の念があるとされます。
 
例えば精神病理学者の野間俊一氏は2000年型抑うつ解離性障害、広汎性発達障害摂食障害自傷行為といった様々な現代的な精神疾患の根底には広い意味での「解離」が認められるとして、ここから時代精神としての「解離」を論じています。また引きこもりの専門家として知られる精神科医斉藤環氏も現代の若年層に蔓延する「自傷的自己愛(自己愛の否定的な形での発露)」を「解離」との関連から論じています。斎藤氏が指摘するように承認依存とコミュニケーション偏重による個人の「キャラ化」が進んだ結果、現代において人々は程度の差はあれ「解離」を生きているともいえるでしょう。
 
本シリーズに登場するヒロイン達は戦場ヶ原ひたぎ(現実感喪失)、羽川翼(多重人格)、千石撫子離人)、神原駿河(健忘)、八九寺真宵(遁走)といったように何かしらの「解離」を抱えていました。こうした「解離」という「透明な言葉」では捉えられない現実を本シリーズでは「半透明な言葉」を駆使して「怪異」という非日常的な想像力の上に描き出していきます。
 
本シリーズは『化物語』『傷物語』『偽物語』『猫物語(黒)』からなる「ファーストシーズン(2006〜2010)」と『猫物語(白)』『傾物語』『花物語』『囮物語』『鬼物語』『恋物語』からなる「セカンドシーズン(2010〜2011)」を経て『憑物語』『暦物語』『終物語』『続・終物語』からなる「ファイナルシーズン(2012〜2014)」において、ひとまずの区切りを迎えることになりますが、その後『愚物語』『業物語』『撫物語」『結物語』からなる「オフシーズン(2015〜2017)」が公刊されました。
 
 
 
 

* 再びの老倉育--愚物語

阿良ヶ木暦を嫌っている。どれくらい嫌いかと言うと、それはそれは、もう気が遠くなるくらいに嫌いなのだ。あいつのことを考えただけで、私は胸が締め付けられるほど苦しい。他のことは何も考えられなくなる。この世の嫌いを全部集めて花束のようにしても、私の阿良ヶ木に対する、たったひとつの嫌いには及ばない。私の嫌いは、太陽にだって匹敵する--この嫌悪感を失えば、私は私でいられなくなるだろう。私の阿良ヶ木に対する、猖獗を極める憎しみは、もう私個人のアイデンティティであって、私自身の主軸であって、私そのものの真芯なのだ。あいつを嫌いでいなければ、私は私でありえない。どんな酷いものを見ても、どんな惨劇や災害に直面しても、それでも『あの男に較べれば』と思うことで、私は逆境を凌いできたのだから。
 
(『愚物語』より)

 

本作は本編の後日談にあたる「そだちフィアスコ」「するがボーンヘッド」「つきひアンドゥ」という3つのエピソードが収録されています。そして本作の冒頭に置かれ全体の分量の半分以上を占める中編「そだちフィアスコ」では『終物語』で初登場ながらも強烈な存在感を放った老倉育が語り手を務めます。
 
終物語』における老倉のエピソードは次のようなものです。阿良ヶ木が直江津高校1年生だった時の学級委員長であった老倉は病的な数学マニアであり、本人は世界史上最も美しいといわれる数式に倣い自身を「オイラー」と呼ばれたがっていましたが、彼女の意に反してクラスでのあだ名は「ハウマッチ(おいくら)」でした。そして老倉は自分が「オイラー」と呼ばれないのは阿良ヶ木が自分より数学の出来が良いせいだと思い込み、彼を蛇蝎のごとく嫌っていました。
 
そんな折、老倉は数学の試験で起きたカンニング疑惑の犯人を探す秘密学級会を強行し、阿良ヶ木を議長に指名します。果たして議論は紛糾し最終的に多数決(!)で犯人は老倉であるとされてしまい彼女は不登校になってしまいます。
 
そして月日が流れ、3年生になった阿良ヶ木はおよそ2年ぶりに登校してきた老倉との再会をきっかけに、これまで完全に忘却していた自らの過去と向き合うことになった結果、驚愕の事実が判明します。
 
その後日談となるのがこの「そだちフィアスコ」です。結局、直江津高校を転校することになった老倉は転入先での高校では心機一転して友達を作ろうとしますが、その難のありすぎる性格が災いして彼女の痛々しい言動はことごとく空回りしてしまいます。老倉の自傷的な語りで覆い尽くされた本エピソードは極めて純度の高い「キャラクター小説=私小説」といえます。
 

*「食べる」という「業」--業物語

本作は「あせろらボナペティ」「かれんオウガ」「つばさスリーピング」という3つのエピソードから構成されています。本作では「食べる」という人の基本的な営みである「業」が問われることになります。
 
「あせろらボナペティ」では心の美しいお姫様が人間を「食べる」という「業」を引き受けて食物連鎖の頂点に位置する吸血鬼となります。「かれんオウガ」では「食べる」とは「殺す」という「業」を引き受けることであり、自然の中ではまた人間も「食べられる=殺される」という食物繊維の円環の中にあるという摂理が描かれます。そして「つばさスリーピング」ではこうした食物連鎖の逸脱としての「遊び=文化」としての「食べる」の「業」が問われることになります。
 
それぞのエピソードはいずれも欲求のレベルでの「食べる」は可能だけれど欲望のレベルでの「食べる」を断念しているという点で共通しています。またシリーズの時系列として最も過去(約600年前)になる「あせろらボナペティ」は文字通りの「第零話」であり、このエピソードの登場により、これまでの〈物語シリーズ〉をまったく異なった視点から読み直すことが可能となったといえます。
 

* 夢見る現実主義者--撫物語

愚物語』『業物語』同様に本作も当初は「なでこドロー」「まよいイーブン」「よつぎノーサイド」という3つのエピソードで構成される予定だったようですが、その執筆過程で「なでこドロー」の分量が当初の予定よりも肥大化してしまい、結局本作には「なでこドロー」のみが収録されたという経緯があるようです。
 
かつて『化物語』『囮物語』で蛇の怪異に取り憑かれ『恋物語』では蛇神にまでなった女子中学生、千石撫子は現在は新たに見出した漫画家という夢に向かって邁進していました。ところが以前、怪異騒動の最中に学校で引き起こしたトラブルが原因で目下、不登校中の撫子は両親から中学校を卒業したら就職するよう言い渡されてしまいます。
 
両親を説得するため漫画で何かしらの成果を挙げようとする撫子は式神である斧乃木余接の力を借りて過去の自分をモデルにした「おと撫子」「媚び撫子」「逆撫子」「神撫子」と呼ばれる4体の式神を作りますが上手く制御できずに4体全員に逃げられてしまいます。こうして撫子は余接と共に式神たちを追う中で、これまで抑圧してきた自分自身の無意識の声と対話することになります。
 
かつて過剰なまで「かわいい」という呪いに囚われていた撫子は「絶対的な片思い」や「絶対的な被害者」に甘んじることで他者と向き合おうとせずに自己完結的な世界に閉じこもっていました。けれども自身の夢を見出した現在の彼女は「かわいい」という呪いを断ち切った良い意味で打算的で生き汚い「夢見る現実主義者」として目の前の試練に立ち向かいます。
 

* 解離の時代における自傷と救済--結物語

オフシーズンの完結編にして本シーズンで唯一、阿良ヶ木が語り手を務める本作は「ぜんかマーメイド」「のぞみゴーレム」「みとめウルフ」「つづらヒューマン」という4つのエピソードで構成されています。
 
本作では時系列は一気に5年後に飛び、私立直江津高校を卒業後、無事に大学に進学し、国家総合職試験に合格して警察官僚になった阿良ヶ木は研修のため直江津署の「風説課」に配属されることになります。怪異譚の前駆体ともいえる「風説」を取り締まる「風説課」は怪異の専門家である臥煙伊豆湖の肝入りで新設された部署であり、課員は課長の甲賀葛を除いて全員が怪異です。
 
久しぶりに地元に戻った阿良ヶ木は周防全歌(半魚人)、兆間臨(ゴーレム)、再碕みとめ(人狼)といった同僚たちと共に怪しい風説調査に乗り出していきます。そしてその過程で阿良ヶ木は老倉と意外な場所で再会することになります。
 
この「オフシーズン」というのは基本的には〈物語シリーズ〉の後日談や前日譚に位置付けられる断片的なエピソードの集積体ですが、あえて本シーズンの「主人公」をあげるとすれば、それはやはり本シーズンの幕開けとなる「そだちフィアスコ」で語り手を務めた老倉育だったように思えます。
 
本シーズンで老倉が登場するのは「そだちフィアスコ」の他は「なでこドロー」と「つづらヒューマン」という2つのエピソードだけですが「なでこドロー」では大学生になった老倉が両親との関係に悩む撫子に寄り添い「つづらヒューマン」では社会人になった老倉が人生の岐路に立たされた阿良ヶ木の背中を押します。いずれもかつての老倉からは到底考えられない姿です。
 
「私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。自分がどうして幸せなのか、考えようとしない奴」
 
「自力で沸騰したと思っている水が嫌い、自然に巡ってくると思っている季節が嫌い。自ら昇ってきたと思っている太陽が嫌い--嫌い、嫌い、き、き、嫌い--嫌いだ。お前が嫌いだ」
 
「わかっているわよ。お前のせいじゃない、私が悪いってことは--親のせいでもない。お母さんの言ったことが正しいんだ、生まれたのが私じゃなきゃあ、もっとまっとうな人生だった。私が悪い。私が悪い。私が悪い」
 
「だけどさあ、お前のせいにでもしなきゃ、やってられないんだ、阿良ヶ木。申し訳ないけど、私の悪者になってよ。もう駄目なんだよ、追いつかないんだよ、親を悪者にしているだけじゃあ」
 
「どうしてうまくいかないんだろう。私、ちゃんとやっているのに、努力しているし、頑張っているし……そりゃ性格とか頭とか、色々おかしいところはあるけど……。ここまでの罰を受けるような悪いこと、何もしてないじゃん。教えてよ、阿良ヶ木。お前、今幸せなんでしょう?それに少しでも私が貢献しているって言うなら、そう思ってくれるなら、教えてよ。どうして私は幸せになれないの」
 
「だってさあ、私の脆さで幸せになんかなったら、ぐしゃって潰れちゃうわよ。目も身も、潰れちゃうよ。幸せの重みに耐えられない。今更幸せになるより、ぬるーい不幸に足首まで浸かって、適当に凌いでいきたい。靴をずぶ濡れにして生きていきたい。実際にそうしてきたし……うん。今更幸せになんてなりたくない。手遅れなんだよ」
 
(『終物語(上)』より)
 

 

 
いわゆる「親ガチャ」に恵まれなかった人生の歩み手であった老倉はかつて中学生だった頃、やっとの思いで発したSOSに当時の阿良ヶ木が全く気付かなかったことから「阿良ヶ木のせいで私の人生はめちゃくちゃになった」という論理を創り上げることで自分の心を辛うじて守っていました。
 
終物語』における老倉の自己否定的な言動は斉藤氏のいうところの「自傷的自己愛」のイメージとぴったりと重なり合います。この点「解離」の根本には世界に対する空疎な感覚と不信の念があるとされていますが、かつての老倉は世界に向かって自傷的な言葉を並べ立て「幸せ」を拒絶することでその空疎な感覚と不信の念をどうにかして埋めようとしていたともいえるでしょう。こうした意味でこの「オフシーズン」は本編では不遇な立ち位置にいた老倉育というキャラクターを救済するための物語であったようにも思えました。
 
と、そこで老倉は、不意に思いついたみたいに言った。
 
不意打ちみたいに言った。
 
「もしも、三十路を過ぎてもお互い独身だったら……」
 
「だったら?」
 
「お互いに絞め殺し合いましょう」
 
素敵な提案だった。三十までこいつといがみ合えるというのなら。
 
(『結物語』より)