*「逆張り」の諸相
もともと「逆張り」とは株式相場の流れに逆らって売買する投資手法を指す言葉でした。例えば「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェットは逆張り(コントラリアン)で知られています。彼は2009年のリーマンショックでは経営危機に陥った資産運用会社ゴールドマン・サックスに巨額の投資をして莫大な利益をあげました。
かつて「逆張り」はどちらかといえば肯定的な意味で用いられる言葉でした。しかし現在のインターネット上において「逆張り」という言葉はもっぱら気に入らない相手や言説を罵倒するためのレッテルとして使われたり、あるいは自分をネタにするときの自虐的なパフォーマンスとして使われたりと、いずれにせよ負のイメージを持った言葉として流通しています。
本書『「逆張り」の研究』の著者である綿野恵太氏はかつて10年前に太田出版の編集者として働き始めた頃に同社の元社長である高瀬幸途氏から「逆張りくん」と呼ばれた記憶を思い出したことが本書執筆のきっかけになったそうです。その頃「逆張り」のイメージは特段悪いものではありませんでした。2014年に刊行された三省堂国語辞典(第7版)で「逆張り」は「だれも価値をみとめないことを、(いい機会だと思って)あえてすること」と説明されています。
つまりこの10年間で「逆張り」という言葉の持つイメージはずいぶんと悪化したことになります。この点、本書は「逆張り」について考えることはその反対に「逆張り」を嫌う人たちの大切な価値観を考えることでもあり「逆張り」が急速に嫌われていった時代の変化も振り返ることができるといいます。いわば本書は「逆張り」という言葉を切り口にして2010年代以降のインターネット空間をマルチラテラルに捉え直す一冊といえます。
* 投資家=逆張り的な生き方
2012年のビジネス書大賞を受賞してベストセラーになった滝本哲史氏の著書『僕は君たちに武器を配りたい』は「投資家=逆張り的な生き方」を勧めています。同書では「投資家=逆張り的な生き方」こそが過酷な市場競争を生き残るための「武器」であるといい、例えば就職活動でも人気企業ではなく人気はないけれどこれからの成長に期待できる企業に就職すべきであると説きます。人気企業は競争が激しく代わりの人材がいくらでもいるため、どれほど優秀であっても安く買い叩かれてしまうからです。つまり「投資家=逆張り的な生き方」とは多くの人が行く道とは逆に進んでその道に自分の才能や努力を投資することをいいます。
また世界最大のオンライン決済サービスPayPalの創業者であるピーター・ティールも著書『ゼロ・トゥ・ワン』において「投資家=逆張り的な生き方」を勧めています。ティールは社員の採用面接で「賛成する人がほとんどいない、大切な真実は何だろう?」と問いかけるそうです。すなわち、多くの人が信じる「常識」の裏に隠された「逆説な真実」を少数精鋭の仲間たちともにテクノロジーを通じて実現していく「逆張り」がビジネスを成功させる秘訣だということです。
実際に巷に出回るビジネス書の多くでは「逆張りの経営術」「逆張りの企業戦略」「逆張り人生」「成功したければ、逆張りしろ」等々「逆張り」という言葉を肯定的な意味で用いています。ビジネスにおける「逆張り」は市場における最も効果的な差異化の方法に他なりません。
この点、滝本氏は資本主義には「自分の少数意見が将来、多数意見になれば報酬を得られる」という仕組みがあるといいます。すなわち「投資家=逆張り的な生き方」においては未来の多数派が支持する「逆説的な真実」をいち早く発見することが重要となります。
* アテンション・エコノミーと多数派同調バイアス
このようにかつての逆張りは「未来において多数意見になるかもしれない少数意見」でした。何かを聞いた時にすぐにその逆のことを考える「逆張りの思考法」は世間の常識に反する「逆説的な真実」を発見するためのものでした。少なくとも社会の多数派とは逆のことをすればいいという単純な話ではありませんでした。しかし、いまや「逆張り」とは社会の良識や常識を嘲笑して人々の怒りを掻き立てるような言説を指すようになりました。
目下、インターネット上ではますます加速するアテンション・エコノミー(注意経済/関心経済)により人々の注意をひきやすい情報ばかりが氾濫し、人々の注意を奪い合う熾烈な競争が行われています。そこで「逆張り」は注意を惹きつけるための安易な手法となってしまいました。「逆張り商売」や「逆張り炎上屋」と言われるように「逆張り」は「炎上商法」と結びつけられるようになりました。
そもそも「逆張り」は「空気」が読めない態度として一般的に嫌われる傾向があります。ここでいう「空気」とはその場を支配する雰囲気のことです。この点、日本人は「空気」を大事して「空気」が読めない人は嫌われるなどとよく言われますが、これは日本人に限った特徴ではないようでして、ある心理学の実験によればアメリカ人もまた日本人も同じくらい周囲の行動(空気)に影響されていることが示されているそうです。
この点、進化心理学によれば人間の脳には所属集団に同調する多数派同調バイアスと呼ばれるものがもともと備わっているそうです。狩猟採集時代において人類は各地で小さな共同体で暮らしていました。このような小さな共同体ではひとたび悪い評判が立つと共同体から疎外され、最悪の場合は殺されてしまうため、自ずから共同体の決定や行動に同調する傾向が生まれることになります。つまり裏を返せば人間の脳は共同体の規則を守らない「空気」が読めない他者を本能的に嫌うように出来ているということです。
もっとも「逆張り」は厳密にいうと「空気」が読めないのではなく、その「空気」を読んだ上であえて逆張りをしているわけです。それゆえに「逆張り」は単純に空気が読めない以上に嫌われることになります。しかもアテンション・エコノミーにおいてはこのような注意=怒りを集めようとする炎上狙いの「逆張り」が蔓延しているので、ますます「逆張り嫌い」が増えることになります。
* ただただ「いま」しかない
「逆張り」からは「未来」が消えて「いま」しかなくなった。この10年の変化をひとことでまとめるとこうなる、と本書はいいます。投資家的な「逆張り」は「未来」の多数派に認められて初めてリターンが返ってきました。しかし昨今のアテンション・エコノミーにおける炎上狙いの「逆張り」は「いま」の注意=怒りを集めればそれなりのリターンが戻ってきます。
そして炎上狙いの「逆張り」は「いま」の注意=怒りを集めるだけなので議論の蓄積がされません。だからしばらくすると似たような話題で再び炎上が起きることになります。その度に「車輪の再発明(すでに確立された技術や考え方を再び一から作ろうとする無駄な行為)」のように議論は一からスタートしてしまいます。
またインターネットにおける各種プラットフォームでは過去の履歴からアルゴリズムによって推測された「いま」の自分自身にピッタリの商品や人間がおすすめされてきます。そういう「いま」の自分自身に最適化された空間は快適だし安心できます。畢竟、そこには自分自身しかいないからです。
こうなるとあたかも自分の考えが世の中の多数派や主流派のように思えてきます。だから自分と異なる考えを持った他者がたまたま目に入るとどうしようもなく不快な気分になります。そこで気に入らない他者には「逆張り」というレッテルを貼って「いま」の自分にとって快適で安心な空間を取り戻そうとします。要するに「逆張り」にとっても「逆張り嫌い」にとっても目の前にはただただ「いま」しかないわけです。
*「いま」から逃れる「もの」との時間
そこで本書はこのような「いま」に対抗するための拠点として「もの」から生じる「固有の時間」を挙げています。これはより抽象化していえば「時間的外部」の確立ということになるでしょう。例えば宇野常寛氏は『砂漠と異人たち』(2022)においてインターネット上で繰り広げられる「相互評価のゲーム」から逃れるための「時間的外部」を確立するための実践として「事物とのコミュニケーション」を提案しています。
その第一の実践は人間以外の事物に触れることです。すなわち、相互評価のゲームがもたらす承認への中毒を解毒するためにはまず事物と「虫の眼」でコミュニケーションすることで孤独に世界に接する時間を回復する必要があるということです。そして、ここで大事なのは事物の「消費(事物を単に受け取り用いること)」ではなく「愛好(事物に対して独自の問題を設定し探求すること)」であるといいます。
続く第二の実践は人間以外の事物を「制作」することです。人は「虫の眼」をとりわけ事物を「制作」するときに発揮することができます。そして第三の実践は「制作」を通じて他者と接することです。すなわち、人間そのものではなくその人が制作した「事物=もの」とのコミュニケーションに注力することで「相互評価のゲーム=いま」とは異なるチャンネルでの対話が可能になるということです。
* 運動の時代とポピュリズム
また逆張りが嫌われた背景にはやはり「時代」があると本書は指摘します。「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもありました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動もSNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出しました。
こうした「運動」の時代を牽引した力が「ポピュリズム」です。SNSでは地域や職場のしがらみを離れて同じ主義主張を持つ「類友」を簡単に見つけられます。自然に保守は保守で集まってリベラルはリベラルで集まることになります。
しかし「類友」ばかりが集まると、あたかも自分の声が反響するかの如く自分と同じ考えの意見ばかりが聞こえてくる「エコーチェンバー」に陥ります。また自分の好みに合わせた情報の「泡」に囲まれる「フィルターバブル」が形成されます。加えて同じ考えを持つもの同士が話し合えば主義主張はどんどん先鋭化していき「フェイクニュース」や「陰謀論」の温床となります。
けれども、このような類友化によって「ポピュリズム」は活気付きました。そしてインターネットでは「類」ではない人間は「友」とする必要はなく、むしろ「敵」となります。すなわち、ポピュリズムは人の部族主義的な本能を利用して世界を「われわれ(友)」と「あいつら(敵)」という二項対立で単純化してしまうわけです。
* ポストモダン思想=相対主義?
こうした「ポピュリズム」にとっての「逆張り」が「ポストモダン思想」です。しばし「ポピュリズム」は「ポストモダン思想」を「どっちもどっち論」とか「相対主義」などと批判します。ここでいう「ポストモダン思想」とはもっぱらフランス現代思想における「ポスト構造主義」を指しています。そしてこの「ポスト構造主義」は様々な二項対立を無効化していく「脱構築」の思想として一般的に理解されています。
こうしたことからポストモダン思想とは「絶対的な真実など何処にもなく相対的な解釈があるに過ぎない」という相対主義であり、こうした相対主義が広まった結果として歴史修正主義やポスト・トゥルースが世に蔓延したのだと批判されたりもするわけです。
しかしこのような批判はやや一面的すぎるきらいがあります。千葉雅也氏が『現代思想入門』(2022)で述べているように現代思想(ポスト構造主義)は確かに相対主義的な側面がありますが、別に相対主義的な世界を手放しで肯定しているわけではなく、むしろ相対主義的な思考を一旦経由することで他者性に開かれた「共」の可能性をラディカルかつ不断に問い直していくという側面も確実に持っています。
* 逆張りは脱構築の夢を見るか
現在のインターネットで「逆張り」が嫌われるのは「お気持ち」とか「ブーメランで草」などといったネットスラングが示すようにもっぱら相手の主義主張を相対化したり揚げ足を取ったりして嘲笑するような論法ばかりが目立つからでしょう。
あたりまえですが「逆張り」それ自体は単なる技法でしかなく、そこに良いも悪いもありません。結局のところ、例えば包丁という道具が使う人間次第で料理の道具にも犯罪の道具にもなるように「逆張り」もまた、使う人間次第で創造の技法にも炎上の技法にもなります。そもそも「逆張り」は単に多数派の「逆」を行くだけではなく、さらにそこから「逆説的な真実」をいち早く発見するための技法です。そうであれば、そこには「われわれ(友)」と「あいつら(敵)」という二項対立を脱構築する「共」の可能性を見出すこともできるはずです。