かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

乱反射する過剰な何か--最果タヒ『コンプレックス・プリズム』

 

* 感情に色づけられたコンプレックス

 
劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか?劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てた方がありのままだったかもしれない。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、今、ここに、書いていきたい。
 
(本書より)

 

人は常に自分の自由意志に基づいて理性的に自律的に主体的に動いている--と思っていたりするわけです。しかし常にそうであるとは限りません。ある種のメンタルヘルスの疾病のように自分の意志とは異なる行動が生じてくるため悩んでいる人も多いでしょう。また「正常」な人でもその日常において自身の理性、自律性、主体性がどこかしら脅かされると感じられる現象にしばし遭遇します。
 
例えば前からよく知っている人なのにその人の前に行くと突然その名前をど忘れてしてしまったり、大事なところで妙な言い間違いをしてしまったり、また「なぜかわからないけどイライラする」とか「あいつはどうも虫が好かない」などと意味不明に感情を乱されてしまったりもします。  
 
この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは言語連想検査を通じて意識を統合する自我を脅かす何らかの感情に色付けられた無意識の心的作用を発見し、これを「コンプレックス(心的複合体)」と呼びました。こうしたコンプレックスが自我を完全に乗っ取ってしまう劇的な表れとして同一個人に異なった二つの人格が現れる二重人格や自分が複数存在として体験される二重身(分身体験)があります。
 
そして自我はその安定を図るためコンプレックスに対して様々な自我防衛の機制を用います。その代表格がコンプレックスを完全に抑え込んでしまう「抑圧」です。しかし、コンプレックスというのはなかなか簡単には抑圧できないので自我は次善の策として他の自我防衛の機制を発動させます。それは例えば、コンプレックスを他人に転嫁する「投影」であったり、コンプレックスとは全く逆の行為に走る「反動形成」であったり、コンプレックスとは似て非なる対象を選択する「代償」であったり、コンプレックスを取り込んでしまう「同一化」であったります。
 
本書『コンプレックス・プリズム』はこのような複雑で厄介な存在であるコンプレックスに現代詩人、最果タヒ氏がさまざまな角度から光を当てていくエッセイ集です。その詩、小説、エッセイ全般における最果作品の特徴とは一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めるような独特の文体にありますが、こうした「過剰な何か」の最たるものこそがまさにコンプレックスと呼ばれるものです。そうであれば本書はまさに書かれるべくして書かれた一冊といえるかもしれません(以下、引用は全て本書より)。
 

* 自我とコンプレックスのあいだ

本書の冒頭に置かれた「天才だと思っていた」というエッセイは「13歳。一体なんの天才なのかわからないけど、でも自分は確実に、何かの天才なのだと思っていた」という一文から始まり、なぜ「天才」だと思い込まないといけなかったのかというとそれは「どうしても必要な『言い訳』だったと今は思う」と述べられます。すなわち、ここには「天才」という言葉に結びついたコンプレックスがあるわけです。
 
何を作ってみても、それが世界を変えるすばらしい出来、と盲目的に信じることはできなくて、ただただたくさんの傑作がある世界の中で、私は一人もぞもぞと何をしているんだろうなあ、と思った。それでも作るのをやめない、残そうとするのをやめない、そのために私は言い訳をしていかなくてはいけなくて、そこに必要な言葉が私にとっては「天才」だった。自信でもないし、傲慢でもなかった。自信過剰で恥ずかしいなんて、コンプレックスに思っていた当時の私に、違うよ、と言いたい。そんな強い言葉でしかもうはげますことができないぐらい、私は特別というものを失いかけて、崖の上にいる気がしていた、はやく、何者かにならなくちゃと雲の向こうを見つめていた。

 

ここでは「天才」という言葉の裏側に子どもの頃に持っていた「特別」を「大人」になることで失いかけていた13歳の焦燥を見出すことができるでしょう。すなわち、ここで「天才」という言葉は「特別」を喪失することに対する代償として機能しているわけです。
 
またその次の「わたしのセンスを試さないでください。」というエッセイでは他人の服のセンスを「ダサい」と断じる感覚への違和感が表明されています。
 
ひとが、ダサいと平気で言うのは何なのだろう。本人はそれを選んできたのに、どうして他人がそれを否定できるのだろう。そりゃ、自分はそれを着ないなあ、とかあるのかもしれないけど、誰も着ろと言ってない。
 
ところがその後の「生きるには、若すぎる」というエッセイでは10代の頃から自身の抱える「ダサい」という感覚について述べられています。
 
若いからなんだというのだろう、若さが終わったところで、わたしはなんにも真実を見つけ出していない。わたしにはまだ「ダサい」ぐらいの価値基準しかないだろう。そうして今はそれを、恥じているのかいないのか。変わったと言えばそこぐらいだ。わたしは恥じているのかいないのか。
 
こうして並べてみると前のエッセイで述べられている他人が断じる「ダサい」への違和感は後のエッセイで述べられている自身が抱え込む「ダサい」という基準に結びついたコンプレックスの投影であるともいえそうです。このように本書は時には表面的な矛盾を厭わずにコンプレックスと自我のあいだから生じる複雑な機制を丁寧に拾い出していきます。
 

* コンプレックスの多層構造

 
ところでコンプレックスというのは多層構造を持っており、あるコンプレックスの下に別なコンプレックスが隠れていることが多かったりもします。この点、河合隼雄氏は名著『コンプレックス』(1971)で次のような事例を取り上げています。
ある中年の女性が職場が面白くなくて体の調子まで悪くなったということで来談し、色々話し合っているうちに最近職場に移ってきた同僚に対して強い嫌悪感を抱いていることが明らかになりました。
 
そこで、その同僚のどのようなところが嫌いなのかを話しているうちに、その同僚が料理が得意で料理をつくって友人を招待するのが好きだという話になったところで、この人は料理をつくるような面倒なことは男女平等にすべきであって結局は男性に対抗するだけの能力が他にないのでそんなことをするのだろうなどと猛然と論じ始めます。
 
つまり、ここでこの女性はさしあたり「料理コンプレックス」に突き動かされているといえます。ところがさらに彼女の話に耳を傾けていくと、実母が早く死に継母に育てられた彼女は「女の子らしさ」を押しつける継母に反抗し、継母のいう「女の子らしさ」を体現する義妹に対しても親しめず、一時は妹のような「女の子らしさ」を身につけたいと思ったこともあったけれど、結局は妹のような生き方を否定して「女でも一人立ちできることを示すため」に高校卒業と同時に家出をしたことが明らかになったそうです。
 
50年以上前の事例なのでジェンダー観がやや時代がかっていますが、要するにここで彼女の「料理コンプレックス」の下には一般的に「カイン・コンプレックス(兄弟姉妹間におけるコンプレックス)」と呼ばれるものが存在していたということです。
 

* エディプス・コンプレックスと劣等コンプレックス

 
本書でも例えば「拝啓、私は音痴です。」というエッセイでは「音痴だよね」と他人に指摘された時の「血液が逆流するような、これまでの自信がすべて覆るような、自分のプライドだけが浮き彫りになる恥ずかしさ、自尊心」と言うようなコンプレックスの経験が述べられていますが、その後には「歌が下手であることなんて大した問題ではない」と述べられる一方で「歌が上手いと親に褒められた記憶があり、それがまだ残っていた」という幼少期の記憶が語られ「家族に、あんなに、褒めてもらったのにね」と言う一文で結ばれており、ここでは「音痴に対するコンプレックス」のさらに深部に位置する幼少期の「家族をめぐるコンプレックス」の存在が示唆されています。
 
この点、コンプレックスの多層構造の最深部にある根源的なコンプレックスとして、精神分析創始者であるジークムント・フロイトは両親に対する愛憎から生じる「エディプス・コンプレックス」を見出しましたが、フロイトと決別して個人心理学を立ち上げたアルフレッド・アドラーは生来の劣等感に由来する「劣等コンプレックス」を見出しました。
 
確かにアドラーのいう劣等コンプレックスは直感的にわかりやすく一般的にも「劣等感=コンプレックス」というような理解が成り立っています。実際その理解で概ねのところ不都合はないとも言えますが、その一方で劣等コンプレックスの起源をさらに遡っていくと、やはり幼少期の「家族」をめぐる何らかの心的現実に突き当たるようにも思えます。
 
これに対してフロイトのいうエディプス・コンプレックスは一見すると荒唐無稽ですがある面では幼少期の「家族」をめぐる心的現実を記述した一つの「神話」であるともいえます。こうして見ると本書における音痴のエピソードは劣等コンプレックス(音痴に対するコンプレックス)とエディプス・コンプレックス(家族をめぐるコンプレックス)の関係をよく表しているといえるでしょう。
 

* 特異的なコンプレックス

 
「恋愛」というのも結局のところは一つのコンプレックスに帰着します。誰々さんが好きという感情とはその対象であるところの「誰々さんコンプレックス」であり、恋愛それ自体に対する憧憬や呪詛というのはまさしく「恋愛コンプレックス」です。この点、本書では「恋愛って気持ちわるわる症候群」というエッセイにおいて恋愛に対する屈折した距離感が述べられています。
 
恋愛に関しての言葉はあまりにも多く、キャッチコピーも多数登場し、もはや商品を売りつけるには色恋を語ればOKとか思われてんじゃないの、なんて思う日もあります。実際、「あ、これは恋!」と思った暁にはちょっと高い化粧品もちょっと高い服も抵抗なく買ってしまうのだろうか。だとしら恋って商業的ですね、社会システムの潤滑油みたいな存在ですね。と、今でも斜に構えたようなことを書いてしまいそうになるけれど、恋はそれぐらい第三者からすると理不尽な、無根拠な、理解不能な存在であるため、だからこそ当人も自分を理性で説得できなくなるのだと思います。斜に構えてこその恋。ではないのか。などと、いうことが、当時わからなかったんですね。ただ本当に腹が立ち、信じられなくて気持ち悪かった。
 
恋愛はなんにも悪いことではなくて、しかしなんにもいいことでもなくて、神聖でもなくてロマンチックでもなくて、ただ二人の人間がこの人を大事にしようと決めただけの話であり、私が私の大事なぬいぐるみについて「これを大事に思っている」と説明したところで他人は「ふーん」ってなるんだから、愛もその程度の価値に落ち着いてほしいなと昔は思っていた。しかしそうなると、今度は愛に振り回されることが、美徳にもなんにもなくなるから、社会としては都合が悪いことであるのかもしれない。生きる上では仕方がないのかも。きもいのも過剰なのも絶対、否定はせんけど、必要悪みたいなもんなんですかねえ。そんな世界が一番きもい。
 
ここで述べられている社会システム的な恋愛観に基づく「きもい」という感覚は、どうにもエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスからは説明が難しい非定型的なコンプレックスのざわめきを示しているともいえそうです。
 
この点、ユングエディプス・コンプレックスと劣等コンプレックスの相違は結局のところは外向的なフロイトと内向的なアドラーという両者の根本的な態度の相違に帰着するものであったとして、コンプレックスは確かに多層構造を有しているけれども、その中のどれか一つのコンプレックスだけを特権化して根源的なコンプレックスとして位置付けることはできないと主張しました。
 
そうであれば本書のいう「きもい」という感覚もまたエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスには回収されない特異的なコンプレックスによって支えられているのかもしれません。そしてこれはいわゆる「ポスト・神経症の時代」と呼ばれる今日的な感覚とも合致しているように思えます。
 

* 心の相補性とコンプレックス

 
以上、ここまで見てきたように本書は様々なコンプレックスを深く繊細に、そして時に色どり豊かな筆致で記述していきます。人は日常の様々な場面で自身の抱えるコンプレックスに遭遇します。コンプレックスとは一見すると自我にとって何とも厄介な存在であるといえますが、その一方でコンプレックスは自我の一面性を補償するものとして大きな役割を担うことがあります。ユングはこのような「心の相補性」に注目してコンプレックスの中に自我をより高みへと導く「個性化/自己実現」の過程を見出しています。
 
いわばコンプレックスにはこれまで生きてこれなかった半面としての可能性の在り処が示されているといえます。そして自身の抱えるコンプレックスに向き合う上で文学の言葉は大きな助けとなるはずです。こうした意味で本書は最果タヒの詩的世界への入門書となり得る一冊であると同時に、自身が抱えるコンプレックスへと入門するための一冊ともなるでしょう。