かぐらかのん

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言語における身体性--今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』

 

* 記号接地問題--AIに言語は「理解」できるのか

 
時に1990年前後、当時の人工知能(AI)研究に対して「記号接地問題」と呼ばれる批判が提起されました。この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドはAIがある記号(例:りんご)を別の記号(例:赤くて丸い甘酸っぱい果物)へと送り返しているだけの状態を「記号から記号へのメリーゴーランド」と呼びました。
 
ある記号を別の記号で表現するだけではいつまで経ってもその記号の本当の意味を「理解」したことにはなりません。記号の意味を本当に「理解」したといえるには、その記号が示す対象について身体的な経験が必要となります。
 
このようなハルナッドが提起した「記号接地問題」はAIの問題であると同時に人間と言語と身体の関わりの問題でもあります。言うまでもなく人間は言語を用いる動物です。しかし、よくよく考えてみるとこの言語という記号の体系は様々な謎に満ちた存在であるといえます。果たして言語とはその発生当時から今日のような複雑で巨大なシステムだったのでしょうか?あるいは言語を子どもはどのように習得していくのでしょうか?
 
本書『言語の本質』は言語学認知科学発達心理学といった諸科学を往還しながら「記号接地問題」を切り口として「言語の進化」や「言語の習得」といった言語をめぐる「謎」を考察し、さらに「言語の本質」という哲学的な大問題に挑む一冊です。
 

* オノマトペから考える

まず本書は「記号接地問題」を考える上で重要な鍵として「オノマトペ」に注目します。ここでいうオノマトペとは「にゃあにゃあ」とか「きらきら」とか「わくわく」などといった日常生活で頻出する一連のあの他愛のない言葉たち--すなわち、声や音を模した擬音語、様子や動作を模した擬態語、感覚や感情を模した擬情語を指しています。
 
従来の言語学においてオノマトペはどちらかといえば周辺的なテーマとして扱われてきましたが、現在では言語の本質に迫る上で重要な手がかりを秘めた言葉として世界的な注目を集めています。
 
本書の第一章ではオノマトペとは何かを概観します。現在オノマトペをおおまかに捉える定義としてはオランダの言語学者マーク・ディンゲマンセによる「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」という定義が受容されています。
 
ここで鍵となるのが「感覚イメージを写し取る」という点です。この点、オノマトペは「表すものと表されるものの間に類似性がある記号」という点で「アイコン性」があります。けれども絵文字のような視覚的アイコンが一度に複数の要素を写し取ることができるのに対して、オノマトペのような聴覚的アイコンは基本的に物事の一部分しか写し取ることができず、残りの部分は「連想」で補うことになります。このようなある概念をそれに近い関係にある別の概念で捉える連想を「換喩」と呼びます。すなわち、こうした換喩的思考がオノマトペの根源にあります。
 

* 言語の十大原則

 
次に第二章ではオノマトペの「アイコン性」をより客観的かつ詳細に読み解いていき、第三章では「オノマトペは言語か」という問いが考察されることになります。
 
この点、言語の十大原則として「⑴特定性(コミュニケーションに特化した機能を持つこと)」「⑵意味性(特定の音形が特定の意味に結びつくということ)」「⑶超越性(その場にないものや過去、未来の出来事に言及できること)」「⑷継承性(特定文化圏における母語として継承されていること)」「⑸習得可能性(母語以外でも習得が可能であること)」「⑹生産性(新たな発話が無限に可能であること)」「⑺経済性(単純な形式で多くの内容を伝達できること)」「⑻離散性(表現方法が連続的ではないこと)「⑼恣意性(言語の形式と意味の間に必然性がないこと)」「⑽二重性(言語を構成する音の一つ一つは意味を持たないがその連なりは意味を持つこと)」が広く知られています。
 
そして、こうした指標に照らして本書はオノマトペは多くの言語的特徴を満たしているといえるとして、言語進化や言語習得においてオノマトペは抽象的な記号の体系へと発展するするつなぎの役割を果たすのではないかといいます。もちろんオノマトペさえあればそこから自動的に抽象的で恣意的な言語体系が立ち上がるというものでもありません。ここから先へ進んでいくためにはオノマトペを離れて抽象的で恣意的な言語体系という堅固な岩盤を乗り超えていく必要があります。では、それを可能にするものは何なのでしょうか?そして、それはヒトという種の持つ固有の能力なのでしょうか?
 
こうした問いに導かれて本書は第4章から第6章においてヒトの言語進化・言語習得の過程を考察していきます。ここで鍵となるのが「ブートストラッピング・サイクル」と「アブダクション推論」です。
 

* ブートストラッピング・サイクル

 
ハルナッドが指摘したように身体に全くつながらない記号をいくら集めても言語を習得することはできません。しかし感覚・知覚につながったオノマトペを闇雲にたくさん覚えても、やはり複雑な構造を持つ言語の体系には到達できないわけです。
 
このジレンマを解決するため本書は「ブートストラッピング・サイクル」という言語習得のプロセスを想定します。「ブーツ(靴)」を上手く履くための「ストラップ(靴の履き口にあるつまみ)」に由来するこの言葉は「自らの力で、自身をより良くする」という意味合いを持っています。
 
この「ブートストラッピング・サイクル」によって全ての単語、すべての概念が直接に身体に接地していなくても、最初の端緒となる知識が接地されていれば、その知識は雪だるま式に増えていくことになります。ここでは単に知識の「量」が増えるだけではなく、新しく加わる知識が既存の知識に関係づけられることで知識の「質」自体が変容します。こうして知識の「質」の変容は重要な洞察を生み出し、この洞察に基づく「推論」が言語習得のプロセスをさらに加速させることになります。
 

* アブダクション推論

 
ところで論理学でいう「推論」といえば、まずは「演繹推論」と「帰納推論」という二つの推論形式が思い浮かぶでしょう。この点「演繹推論」は正しいと仮定された命題と事例を前提にある結論を導出する推論形式です(例:⑴全ての人間は死ぬ⑵ソクラテスは人間である⑶ゆえにソクラテスは死ぬ)。これに対して「帰納推論」は同じ事象の観察が積み重なったとき、その観察から一般的な命題を導出する推論形式です(例:⑴りんごは支えがないと落下する⑵人間も支えがないと落下する⑶全ての物体は支えがないと落下する)。
 
そして、このような演繹推論と帰納推論に加えて、先述した「アイコン性」の提唱者でもある哲学者チャールズ・サンダース・パースは「アブダクション推論」という推論形式を提唱しました。ここでパースのいう「アブダクション推論」とは観察データに基づいた「仮説」を形成する推論形式です。例えば「全ての物体は支えがないと落下する」という結論は帰納推論から導出できますが、ここからは「重力」という概念は決して生まれてきません。これに対して「アブダクション推論」は「全ての物体は支えがないと落下する」という現象を論理的に説明するための「仮説」を生み出します。
 
そして言語習得における「ブートストラッピング・サイクル」を押し進める鍵となるのが、まさにこの「アブダクション推論」であるということです(もっとも実際問題としては帰納推論とアブダクション推論の区別は相対的なものともいえます)。こうして本書の第7章では「アブダクション推論」の起源に迫り、終章ではこれまでの考察を踏まえた「言語の本質」が示されることになります。
 

* 言語における身体性--精神分析的見地から

 
現代言語学の父として知られるスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは言語とはシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)から成る抽象的で恣意的な記号の体系であることを明らかにしました。このようなソシュールの提唱した恣意性の原則はその後、約100年間において言語学の大原則として君臨し続け、いわゆる「構造主義」以降の人文諸科学にも多大な影響力を行使しました。そして20世紀後半に本格化した人工知能の研究もこうしたソシュールの言語観を前提としていました。
 
こうした中でハルナッドの提起した「記号接地問題」は言語と身体の関わりを根源的に問い直すものであったといえます。そして21世紀に入ると「言語は身体的である」という実証データが多数提出され始め、いまやソシュールの恣意性の原則は大きく揺らいでいます。
 
もちろんソシュールが言うように言語が抽象的で恣意的な記号の体系であることは疑いないでしょう。しかしその一方で言語が何かしらの形で身体と深く結びついていることも確かであるといえそうです。
 
例えばフランスの精神分析ジャック・ラカンソシュール言語学を援用して「無意識は言語によって構造化されている」という有名なテーゼを提示しました。こうしたことからラカン派において長らく「無意識」とはもっぱらシニフィアンによって構造化された「言語的無意識」として捉えられていました。ところがその後、ラカンは「無意識」における理論を大幅に更新しています。
 
晩年のラカンシニフィアンによって構造化された「言語的無意識」以前の言語として、未だに構造化されていない「ひとつきりのシニフィアン」を重視するようになります。この点、子どもが最初に出会うトラウマ的なシニフィアンラカンは「ララング(lalangue)」と呼びます。ここでいう「ララング」とはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)における冠詞と名詞を一語に融合させたものです。
 
子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」としてその身体に刻み込まれトラウマ的な享楽がもたらされることになります。子どもにとってララングとは情報の伝達手段ではなく、このトラウマ的な享楽を反復するための私的言語に他ならなりません。
 
しかしある時から大多数の子どもはララングのみに頼ることを諦めて、情報の伝達手段としてのラング(langage)の世界である「象徴界」へ参入します。こうして子供は次第にララングと折り合いをつけ、その結果、シニフィアンによって構造化された言語的無意識が形成されることになります。
 
こうしてみるとラカン派における言語的無意識の成立過程と本書が「ブートストラッピング」と「アブダクション推論」によって想定する言語の習得過程は相当に重なっており、ララングとオノマトペは身体に根差した言語という点で極めて近いところに位置しているようにも思えます(なお、社会学者の大澤真幸氏は精神分析における「エディプス・コンプレックス」を「記号接地問題」を解決するための一つの論理的条件として読み直す解釈を提示しています)。
 
本書は「言語の本質」を「オノマトペ」というかつては言語学において周辺的な領域として見做されていた、いわば「言語の非本質」から問い直す一冊です。そして本書が問い直す「言語の本質」とは同時に人間における「知性の本質」であるともいえるでしょう。