かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

資本主義リアリズム・再生産未来主義・それでも〈未来〉を語るということ--木澤佐登志『失われた未来を求めて』

* 資本主義リアリズムという病理

 
今日の現代思想シーンにおいて大きな潮流を形成する「加速主義」の代表的論客の一人としても知られるイギリスの批評家マーク・フィッシャーはその主著『資本主義リアリズム』(2009)において現代を席巻するグローバル資本主義がもたらす病理を「資本主義リアリズム」と名指し、その特徴を次のように述べています。
まず「資本主義リアリズム」の第一の特徴は「再帰的無能感」と呼ばれるものです。それはよく知られた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレドリック・ジェイムソンが述べてスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる古い警句が示すように、資本主義がこの世界において存続可能な唯一無二の政治・経済体制であることをもはや認めるしかなく、今や資本主義に対する代替的選択肢(例えば共産主義)を想像することすら不可能であるという諦念が蔓延した状態を指しています。
 
また「資本主義リアリズム」の第二の特徴は「左翼の病理」と呼ばれるものです。ここでフィッシャーがその典型例として持ち出すのが英国において保守党に代わり政権の座についたトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー(新しい労働党)」の資本主義への譲歩ないし参入です。果たしてブレア政権が明らかにしたものとは資本主義に代わる「実行可能な選択肢」ばかりか「想像可能な選択肢」すらもないという物語を他ならぬ資本主義の対抗勢力としての左翼自身が語らなければならないというという事態でした。
 
そして「資本主義リアリズム」の第三の特徴は「集合的政治に対する信の崩壊」と呼ばれるものです。例えば1990年代後半からゼロ年代初期における「反・資本主義運動」は「その活動形態が政治的組織化よりも抗議運動の演出に向かいがち」であり、そこから「反・資本主義運動」とは「そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものだ」という感覚が生まれることになった、とフィッシャーは述べます。ここには「再帰的無能感」と「左翼の病理」の双方に規定された根深い政治不信を見出すことができます。
 
再帰的無能感。左翼の病理。集合的政治に対する信の崩壊。こうした三つの特徴を備えた「資本主義リアリズム」の下で人々は資本主義を超出する地平としての〈未来〉を想像する能力を喪失することになります。そしてこの「資本主義リアリズム」は同書の公刊以降今日に至るまでますます拡大する一方であり「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」どころか「資本主義こそが世界の終わりである」というべき切迫した危機感が多くの人々の間で共有・増幅されていくことになります。
 
このような「資本主義リアリズム」と呼ばれる病理は具体的にはメンタルヘルス問題の蔓延として現れます。例えば現在、世界的に拡大しているとされるうつ病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられており、ここではうつ病を発症させた状況因や誘因としての労働環境や社会構造は考慮されておらず、そこでの精神の病はどこまでも個人の「自己責任」であるという新自由主義的な倫理に回収されることになります。そしてフィッシャー自身もまたうつ病と格闘しながら2017年に自死するまで「資本主義リアリズム」に裂け目を入れるための可能性の地平を思索し続けていました。
 

* 失われた〈未来〉の痕跡を探して

 
本書『失われた未来を求めて』はフィッシャーの遺稿となった『アシッド・コミュニズム--ポスト資本主義の欲望について』の序文を導きの糸として「ポスト・資本主義」の可能性としての〈未来〉を問い直す一冊です。
まず本書は現代社会を覆い尽くす「〈未来〉は失われている」というべき閉塞感とはとりも直さず「資本主義の〈外部〉を想像することができない」というフィッシャーのいうところの「資本主義リアリズム」がもたらす閉塞感であり、このような〈外部〉への出口の不在、別の世界が可能であるという信念の失効は資本主義が要請する酷薄な現実へのニヒリスティックな適応以外に何ももたらさないと述べ、このような〈未来〉を失った人々が抱く「もはや真に新しいものは到来し得ない」という諦念はサンプリングと再構成/再文脈化によって過去を反復し続け、エンツォ・トラヴェルソがいうところの「左翼のメランコリー」へと帰着するといいます。
 
資本主義への対抗勢力としての「左翼」は20世紀後半における共産主義の崩壊によって文字通り〈未来〉を失いました。フランシス・フクヤマのいうところの「歴史の終焉」です。そして失った対象に対する「喪の作業」に失敗し続ける「メランコリー」には過去の「亡霊」が取り憑き続けることになります。しかし他方で「メランコリー」それ自体は必ずしも行動や思考の放棄をただちに意味せず、むしろ積極的に世界に関わっていく契機を押し開く潜勢力を秘めているともいえます。
 
もっとも現在において「メランコリー」の真の問題とは「何を喪失したのかを思い出せない--喪失したという記憶の喪失」という二重の記憶の喪失にあります。そこで本書は「堆積した歴史と記憶」「夢の残骸の断片」をていねいに拾い上げ、それらを再配置することで記憶の諸断片が新たな星座=布置(コンステレーション)を描き出し、失われた〈未来〉の痕跡を見出そうします。
 

* アシッド・コミュニズムと反脱魔術化

 
ところでフィッシャーは絶筆となった『アシッド・コミュニズム』の序文の中でアシッド・コミュニズムとはある「亡霊」に与えられた名前であると述べています。その亡霊とは70年代以降台頭化した「資本主義的リアリズム」によって祓われた60年代カウンターカルチャーの中心であった「自由」を求める「亡霊」です。
 
この点、ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターは共著『叛逆の神話』において60年代のカウンターカルチャーは70年代以降の消費文化を準備したと主張します。これに対して、フィッシャーもまた60年代のカウンターカルチャーが70年代以降にネオリベラリズムの台頭による「資本主義リアリズム」に回収された消費文化の一形態に堕落したという見方を取りつつ、ヒースらの見立てこそがカウンターカルチャーを祓おうとする試みの一つに他ならないとして、カウンターカルチャーに宿っていた可能性=潜在性を根絶やしにすることがネオリベラリズムに課されたプロジェクトであったと主張します。
 
では70年代以降の消費文化に取り込まれたカウンターカルチャーとは峻別される60年代のカウンターカルチャーに宿る未だに尽くされず現動化されていない純粋な可能性=潜在性とは具体的にどのようなものなのでしょうか。そして、その亡霊性をいかにして現代の後期資本主義社会に取り憑かせ、未来に向かって解き放つことがでしょうか。
 
こうした問いから本書は渡邊拓哉氏による論文「再魔術化の文化研究:20世紀後半期における自己変容の技術と欲望」における「脱魔術化(近代的合理主義)」「反脱魔術化(脱魔術化への反発)」「再魔術化(反脱魔術化の堕落形態)」いう三つ組の概念を参照し、60年代におけるサイケデリック・ムーブメントと70年代のニューエイジをそれぞれ「反脱魔術化」「再魔術化」の運動として捉え直していきます。
 
そして現代における「資本主義リアリズム」を規定するネオリベラリズムの支配的イデオロギーをイギリスの臨床心理学者デイヴィト・スマイルのいうところの「魔術的自立主義(自分の力でなりたい自分になることができるという信念)」であると名指し、その具体的発現として「自己啓発」の氾濫とその表裏を成す「うつ病」の蔓延を指摘します。
 
そして「資本主義リアリズム」における「再魔術化/魔術的自立主義」というイデオロギーを再び「反脱魔術化」へ差し戻すための理路として「スピノザ主義」に注目し、そこで「真の自由というものがもしあり得るとすれば、それは己の不自由さを精査していく中にしか存在しえない」と述べています。どういうことでしょうか?
 

* スピノザ主義における「自由」

 
「汎神論」としても知られる17世紀の哲学者バールーフ・デ・スピノザはその主著『エチカ』において「自由」の意味を精緻に考察しています。通常「自由」というと「外部からの制約がない状態」を想起します。けれども、そもそも外部からの制約がまったくない状態などあり得ないでしょう。つまり完全な「自由」はあり得ません。それゆえにスピノザは「自由」を「あるかないか」ではなく「どのくらいあるか」という「度合い」で捉えています。
 
要するに何が言いたいのかというと、スピノザのいう「自由」とは、いわゆる「自発性」のことではないということです。「自発性」とは外部の何者からの影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことをいいます。このような意味での「自発性」が「自由意志」と呼ばれているものです。
 
スピノザは「自由意志」を否定します。確かに人は自らの中に「意志」らしきものがある事を感じていますし、スピノザもその事実は否定しません。けれどもその「意志」だけで自らの行為を制御しているわけではありません。我々の行為は我々の「意志」が一元的に決定しているわけではなく、身体的なもの、精神的なもの、社会的なものといった様々な要因の絡み合いの中で中で多元的に決定されているわけです。
 
しかしながら、その一方でスピノザは「意志」の存在を「意識」することは否定しません。スピノザは「意識」を「観念の観念」と呼びます。「観念の観念」とはややこしい言い回しですが、要するに「意識=観念の観念」とは精神の中に現れる何らかの「観念」に対して浄化的反省を加えることで生じるいわば「メタレベルの観念」です。
 
先述したように我々の行為は様々な要因によって多元的に決定されます。そして「意識」もまた、その要因の一つになります。人間の精神の特徴は「意識」を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的に捉えるところにあります。それゆえ「意識」は行為の多元的な要因の一つとして行為に影響を与えることができます。
 
このようにスピノザのいう「自由」の「度合い」とは「意識」をいかに上手く使えるかにかかっています。それこそがまさに「己の不自由さを精査」するという営為なのでしょう。
 

*〈未来=子ども〉と再生産未来主義

 
また本書にはクィア理論の立場から〈未来〉を問い直す議論も伏在しています。クィア理論とは近年において「LGBTQ」と呼ばれるようになったセクシュアルマイノリティをはじめとする性の多様性を考察する比較的新しい学問領域です。
 
まず本書は第一章冒頭の「未来の誕生と喪失」において〈未来〉とは近代において発明された概念であり、同じく〈子ども〉という概念もまた近代において発明された概念であることを明らかにします。この点『ノー・フューチャー』(2004)等の著作で知られるクィア理論家リー・エーデルマンは〈未来=子ども〉をめぐる一連の信仰を「再生産未来主義」と名指し、クィア理論の立場から〈未来=子ども〉の名において「(再)生産」に加担するイデオロギーを批判します。
 
ここでエーデルマンの批判の矛先は「生産性のない人間は生きる価値がない」という右派的な優生思想のみならず「望ましい未来のために」とか「未来の子どもたちのための連帯」などといったクリシェの下で現行社会の保全に努めつつ「明るい未来」を志す改良主義的なリベラル左派にも向けられることになります。エーデルマンはこうした〈未来=子ども〉のクリシェにメスを入れ、その内奥に潜む社会秩序の絶えざる再生産と保全を肯定する根源的に「保守的」な身振りを剔抉し、異性愛規範に基づく現行社会秩序が暗黙のうちに強制する「(再)生産」に抗い「死の欲動」を積極的に担う者、それこそがクィアであると主張します。
 
このようにエーデルマンが問い直した〈未来〉とは「再生産未来主義」という〈未来=子ども〉を破棄したいわば〈未来なき未来〉であったといえるでしょう。もっともその一方で本書はその第四章最終節「それでも未来は長く続く」においてエーデルマンの「再生産未来主義(批判)」を中和する立場の議論を紹介しています。
 
例えば近年において障害学とクィア理論の交差点に立ち現れたクリップ・セオリーの代表的論客の一人であるアリソン・ケイファーは〈子ども=未来〉を顕揚するエーデルマンのいうところの「再生産未来主義」はクリップ・セオリーにも見られると慎重に前置きしつつも、ここから彼女はエーデルマンとは袂を分かち〈未来〉を閉ざすのではなく、今とは異なる〈未来〉を、複数の存在、複数の生き方を肯定し受け入れることの可能な〈未来〉を目指す欲望を思弁します。
 
またキューバアメリカ人のクィア理論家、ホセ・エステバン・ムニョスもまたエーデルマンに異を唱え、むしろクィアこそが〈未来〉を押し開く存在であると主張しています。ムニョスは彼の知的源泉の一つであるエルンスト・ブロッホの『希望の原理』に主に依拠しながら、クィアネスとは否定的な現在を超えて未来を共同で想像する営みであるとして、クィア的な未来の「希望」の中に、未知の悦び、異なる存在の仕方、そして新しい世界を見出そうとします。
 

* それでも〈未来〉を語るということ

 
以上、ここではもっぱらフィッシャーとエーデルマンという二つの視座から本書が問い直す〈未来〉を概観しました。やや図式的にいえばフィッシャーが「資本主義リアリズム」の〈未来=外部〉として「アシッド・コミュニズム」を構想したのだとすれば、エーデルマンは「再生産未来主義」という〈未来=子ども〉を内破する「ノー・フューチャー」としてのクィアに賭け金を置いていたといえます。
 
もっとも本書はその前書きで述べられているように単線的な読みに縛られない多様多彩な論点を抱えており、読者は本書からそれぞれ独自の星座=布置(コンステレーション)を読み出していくことができるように思います。
 
そして本書はその後書きで本書の執筆は迂回した自傷行為であると同時に、ひとつの「治癒」でもあったと述べ、できるならば読者のあなたにとっても本書が(どんな形であれ)ひとつの「治癒」となることを願うと結んでいます。
 
それでも〈未来〉を語るということ。本書は現代社会において広く「普通である」と見做されている堅固な常識を「資本主義リアリズム」や「再生産未来主義」といった言葉で名指し、その本質がいかに恣意的で空虚なものであるかを明らかにすることで「普通である/普通ではない」という二項対立を脱構築していく過程を論証する一冊です。こうした意味で本書は「普通である/普通ではない」という二項対立に呪縛された「居づらさ/生きづらさ」に対して確かにある種の「治癒」を齎す一冊と、きっとなり得るでしょう。