かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

人間と動物のあいだで思考するということ--東浩紀『観光客の哲学 増補版』

 

* 本質と非本質をめぐる逆説

 
本書は東浩紀氏が2017年に公刊した『ゲンロン0 観光客の哲学』の増補版です。周知のように『存在論的、郵便的』(1998)で日本の現代思想シーンに大きなインパクトを与え『動物化するポストモダン』(2001)によりゼロ年代批評を切り開いた東氏は「ゲンロン」という会社の創業者としても知られています。
 
そのゲンロン創業10周年を記念して出版された『ゲンロン戦記』(2020)で詳しく語られているように2010年に創業されたゲンロンはもともとは「若手論客が集まる出版社」として構想されていました。ところが創業してから数年の間、同社は内外における様々なトラブルに見舞われ、当初の志であったはずの出版事業は暗礁に乗り上げ、一時は会社自体が倒産の危機にまで追い込まれていたそうです。そんな苦境の中でゲンロンを救ったのがカフェ事業とスクール事業という二つの「誤配」であったと氏は述べています。
 
こうした「誤配」に導かれていく中で東氏が得た洞察と手ごたえをもとに執筆された著作が『ゲンロン0 観光客の哲学』であったといえます。この点、氏はゲンロンという事業を営む上で様々な失敗を繰り返した経験から「なにか新しいことを実現するには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」という逆説があると述べています。そしてこの本質と非本質をめぐる逆説は伝統的な哲学のテーマを「観光客」という世俗的な言葉に結びつけて語る本書の企図にも現れています。
 

* 二次創作と観光

まず、その第1章において本書の企図が明らかにされます。「観光客の哲学」と銘打っているものの本書は現実の観光産業の実態を紹介する本でも観光客の心理を分析する本でもありません。本書は「観光客」をあくまで哲学的な概念として記述していきます。そしてそれは哲学の伝統的なテーマである「他者」の問題を「観光客」という言葉でいわば裏口から更新する試みであり、その狙いは第一にグローバリズムにおける新たな思考の枠組みを作ることにあり、第二に人間や社会について必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示することにあり、第三に「まじめ」と「ふまじめ」の二項対立を超えたところで新たな知的言説を立ち上げることにあるとされています。
 
第2章においては従来の読者向けに本書と東氏の過去の仕事との接続が図られます。先述のように『動物化するポストモダン』の著書として知られる氏は現在でもオタク系サブカルチャーに詳しい批評家というイメージが流通しています。オタクと観光客。両者は一切つながりがないどころかむしろ水と油のようにも見えますが、氏はオタク系サブカルチャーにおける「二次創作」と本書のいう「観光」は原作あるいは観光地から自分達の好むイメージだけを切り出して消費するという点で極めて似ていると指摘します。こうしたことから原作者と二次創作者の関係を住民と観光客の関係とパラレルに考えるのであれば氏のサブカルチャー論は容易に観光客論に接続されることになります。いわば二次創作者はコンテンツの観光客であり、観光客とは現実の二次創作者であるということです。
 

* なぜ観光客なのか

 
第3章からは本格的な哲学の議論が開始されます。本章で氏は社会契約論の思想家として知られるジャン=ジャック・ルソーの再読から抽出した「人間は社会などつくりたくないにもかかわらず、社会を作ってしまうのはなぜか」という問いを解く鍵が「観光客」にあるとして、ルソーと同時代の哲学者であるヴォルテールイマヌエル・カントの著作の読解を通じて「観光客」を「成熟した市民→成熟した国家→成熟した国際秩序」という単線的ないし最善説的な歴史へ抵抗する存在であると位置付けます。
 
次にこのような観光客の前に立ち塞がる「壁」として氏はドイツの法哲学カール・シュミットが提唱した友敵理論とその背後にあるヘーゲル哲学を取り上げ、国家の成立と人間の成熟が不可分の関係にあることを明らかにした上で、シュミットと同時代の思想家であるアレクサンドル・コジューヴとハンナ・アーレントを参照し、彼ら3人を共に「動物化」する社会(大衆消費社会)における「人間」を問い直した思想家として位置付けます。
 
すなわち、ここでいう「人間」とはシュミットによれば政治的な存在であり、コジューヴによれば闘争的な存在であり、アーレントによれば公共的な存在であるとされます。こうした20世紀人文知の人間観からすれば「観光客」など政治の外部で「ふわふわ」している非政治的で動物的な存在ということになります。もっともグローバリズムが加速する今日においてこうした20世紀人文知が想定する人間観は暗礁に乗り上げています。そこで、本書は20世紀人文知の敵とも言える「観光客」について根源的に思考することによってその限界を乗り越えようとします。
 

* 二層構造とマルチチュード

 
第4章ではいよいよ観光客の哲学の輪郭が明らかにされます。まず本章で氏はかつてのようなネーション(国民国家)という単位で政治と経済を統合する近代的なナショナリズムが失墜しグローバリズムが加速する現代をナショナリズムの層(人間の層)とグローバリズムの層(動物の層)に政治と経済がそれぞれ割り振られて併存する「二層構造の時代」であると位置付けた上で、かつての近代的なナショナリズムの思想的表現がリベラリズムだとすれば、現代におけるナショナリズムグローバリズムの思想的表現がそれぞれコミュニタリアニズムリバタリアニズムであるといいます。
 
そして、このような世界観を前提に本書はアントニオ・ネグリマイケル・ハートが『帝国』(2000)において提示した「マルチチュード」の概念を手がかりとして観光客の哲学への理路を開きます。ネグリたちは「国民国家の体制」から「帝国の体制」への移行という世界観を前提に「帝国の体制」から生成されるグローバルな市民運動を「マルチチュード」と呼びます。本書はこの概念をある程度は評価しつつも、ネグリたちによるマルチチュードの規定はあまりにもあいまいで時には神秘主義的であるとして、観光客の哲学はこの弱点を回避しなければならないといいます。
 
第5章では観光客の哲学がひとまず完成します。本書は『存在論的、郵便的』の議論に依拠してネグリたちのいうマルチチュードを「否定神学マルチチュード」と位置付けた上で、観光客とは「郵便的マルチチュード」であるといいます。本書によれば「否定神学」とは存在しえないものとは存在しないことによって存在するという逆説的な修辞を指しており、これに対して「郵便」とは存在し得ないものは端的に存在し得ないが、さまざまな「誤配(コミュニケーションの失敗)」の効果で存在しているかのような効果を及ぼすという現実的な観察を指すといいます。
 
すなわち、ネグリたちのマルチチュード否定神学マルチチュード)の連帯とは連帯が存在しないことで存在するとされていましたが、観光客(郵便的マルチチュード)の連帯とは絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうということです。この両者の性格の相違を本書は端的に前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションすると述べています。
 
ここから本書はネットワーク理論を参照して「国民国家の体制」と「帝国の体制」はそれぞれ「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離)」と「スケールフリー(次数分布の偏り)」に規定された二層構造として併存しており、この二層構造の時代における抵抗の起点としての観光客とは帝国の外部でも内部でもなく、むしろ帝国の外部との「あいだ」に、すなわち、スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する「誤配」の空間そのものの中に位置づけることができるのではないだろうかと述べます。そしてそれは本章の最後で述べられているように「社会」を生み出す「憐れみ」の場所であるともいえるでしょう。
 

* 観光客から近代哲学を問い直す

 
思えば初めて本書旧版を読んだときはもっぱら第4章や第5章(旧版の第3章と第4章)の「ナショナリズムグローバリズムの二層構造」とか「否定神学マルチチュードと郵便的マルチチュード」などといった華々しい議論の方に目がいってしまった記憶があります。念のため本書旧版を読んだ時の感想文を読み返してみましたが、そのタイトルがすでにもう示しているように、やはりいきなり二層構造に飛びついています。
 
けれども、いまこうして改めて読み返すと本書の枢要部はむしろ、そのような議論を展開する手前の第3章にあったように思えます。なぜならばこの章ではなぜ観光客の哲学を立ち上げる必要があるのかという本書の土台となる議論が近代哲学が目指したものとその限界を明らかにする形で展開されているからです。
 
ところで本書のいう「観光客」にとって「壁」と見做されている近代哲学は現代思想シーンにおいては既に乗り越えられていることになっています。もはや乗り越えられたはずのものをなぜまた改めて乗り越えないといけないのでしょうか。本章の終わりで東氏は次のように述べています。
 
ポストモダニストはたしかに、政治とその外部を「脱構築」すると主張していた。そしてそれは学会や一部読者層のあいだで流行はした。しかし、現実の社会においては彼らの主張そのものが、非政治的なもの(戯れ)として政治の外部に排除されたといえる。彼らポストモダニストたちの仕事はときおり「文化左翼」と総称されるが、その命名(文化)そのものが、彼らの仕事が政治的なものだと見做されていないことを証拠だてている。実際に二〇一七年のいま、国内でも国外でも、いわゆる「現代思想」の担い手は、文化左翼に甘んじ大学のなかで文学批評や芸術批評を講義するか、あるいはすべての理論を捨てて(つまりポストモダニストの矜持を捨てモダニストに戻り)、古い「政治」のスタイルを受け入れデモに参加し街頭に出るか、どちらかしかできなくなっている。そこでは政治とその外部の対立がみごとに再生産されている。なにひとつ脱構築されていないし、なにひとつ変わっていない。ぼくはその状況に思想の敗北を見る。だから、ぼくは、もういちど基礎の基礎に戻り、近代思想の人間観と政治観を、過去のテクストの小手先の解釈変更などに頼るのではなく、根本から問いなおすべきだと考えるのだ。
 
(『観光客の哲学 増補版』より)

 

このような問題意識から出発して近代哲学を問いなおす第3章では何人もの哲学者が入れ替わり立ち替わり登場して哲学初心者には耳慣れない概念が次々に飛び交う議論が展開されていますが、東氏の文章はとても平明であり、直感的にわかりやすいイメージも交えて、どの議論も文字通り基礎の基礎から始まります。確かに観光客は東氏がいうような「ふわふわ」した存在なのかもしれませんが、ここでは極めて地に足のついた骨太な議論が展開されています。こうした意味で本書は「観光客」の視点から見た近代哲学の入門書でもあり、あるいは近代哲学の観光ガイドとしても読めるでしょう。
 
以下では本書旧版を読んでから本書を再読するまでのあいだに得た様々な思いつきの断片を哲学(デリダ)、社会学ルーマン)、精神分析ラカン)、そしてサブカルチャー論(AIR)という4つの視点からざっくりと書き出しておきます。これから本書を読まれる方の読解の一助となれば幸いです。
 

* 哲学的--他者としての観光客

 
本書の冒頭で述べられているように「観光客の哲学」とは「他者の哲学」の更新を試みるものです。ここでいう「他者」とは単なる他人という意味ではなく「非本質性」という意味合いを持っています。
 
普段、我々はほとんど無意識的に物事を「良い/悪い」「正しい/間違い」「本物/偽物」「正常/異常」といった二項対立で判断していますが、こうした二項対立的な思考は抽象的には「本質性/非本質性」といった二項対立に還元されます。そしてこの「本質性/非本質性」という二項対立を根本から揺るがしていく知の技法がフランスの哲学者、ジャック・デリダの提唱した「脱構築」です。
 
常識的には「本質性」が「非本質性」よりも重要であるとされています。しかし、この常識に対してデリダは「非本質性にこそ宿る本質性」を徹底的に思考しました。そして冒頭に述べたように本書はこの本質と非本質をめぐるデリダの逆説を「観光客」という言葉によって思考します。
 
通常、人は「私は私でありたい」という自分自身の「本質性」である「同一性」にこだわります。これに対してデリダ脱構築は自分自身にとっての「非本質性」である「他者性」の側に身を開こうとする発想です。これは我々が生きるこの日常を常に「他者性」が泡立つサイダーのようなものとして捉える感覚といえます。このような「他者性」について哲学者の千葉雅也氏は昨年の読書界で幅広い反響を呼んだ『現代思想入門』において「一切の泡立ちのない透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのヴィジョンである」と述べています。
 
すなわち、このように「脱構築的」に物事を観ることにより我々は常に偏った決断をせざるを得ないけれどもそこには「他者性」への未練が伴っているのだということに意識を向けていくことができます。それがまさしくデリダにおける脱構築の倫理であり、そうした意識を持つ人には「優しさ」があると思うと千葉氏は述べています。そしてこのような「優しさ」からまさに「憐れみ=誤配」が生み出されるといえるでしょう。

* 社会学的--社会は誤配によって生まれる

 
本書第3章で提示された「人間は社会などつくりたくないにもかかわらず、社会を作ってしまうのはなぜか」という問いは「社会秩序はいかにして可能か」という社会学の基本問題でもあります。この「社会秩序はいかにして可能か」という問いに対してドイツの社会学ニクラス・ルーマンは社会システム理論の観点から本書の立場に近い解答を導いています。
 
この点、ルーマンの考える社会システムとは、ある社会における「意味」を構成し「コミュニケーション」を要素とするオートポイエーシス・システムであるとされます。
 
まずルーマンによれば「意味」とは可能性の地平の中での否定(=区別)によって定義されます。つまりさまざまな可能性を含む地平の中で他の可能性を否定することでひとつの可能性が浮かび上がることになりますが、ここで重要なのはここでいう「否定」は「排除」ではないということです。つまり様々な可能性がある中である一つの可能性を選択したということは、むしろその他の可能性でもよかった、ということでもあります。
 
次にルーマンによれば「コミュニケーション」とは三つの選択の総合であるとされます。まず送り手には「情報」の選択と「伝達」の選択が帰属し、受け手には「理解」の選択が帰属します。この二つのレベルの送り手の選択を、つまり、ある「情報」とその情報を送り手が受け手に「伝達」しようとしたということそれ自体を、受け手が「理解」した時にコミュニケーションが成立したことになります。
 
そしてルーマンは社会秩序が成り立っている状態とはある社会システムが外部環境に比べて「複雑性」が縮減されている状態であると捉え、この「複雑性」の縮減は社会システムの要素であるコミュニケーションから新たな要素であるコミュニケーションが生産されるオートポイエーシス・システムによって可能となるといいます。
 
ところがいかに複雑性を縮減しようともその状態は決して必然の産物ではなく「他でもありえた可能性」が常に残っています。先述のようにルーマンによれば「意味」を成り立たせている「否定」という操作は実現しなかった可能性を排除しているのではなくむしろ保存しており「コミュニケーション」も送り手と受け手の間で失敗する可能性も常に残っています。すなわち、社会秩序とはこうした「意味」をめぐる「コミュニケーション」の失敗による「他でもありえた可能性」から生み出されているといえるでしょう。
 
このような「他でもありえたのに、たまたまこうだ」というような状態を社会学者の大澤真幸氏は「偶有性」と表現しています。こうした意味での社会の「偶有性」とは意味をめぐるコミュニケーションの失敗としての「憐れみ=誤配」から生じたともいえるのではないでしょうか。

* 精神分析的--マルチチュードとサントーム

 
本書第4章で参照されたマルチチュードの源流にはエルネスト・ラウラクシャンタル・ムフが1980年代に提示した「根源的民主主義」というものがあります。ここでいう「根源的民主主義(ラディカル・デモクラシー)」とは共産主義革命への信頼が失われた世界におけるさまざまな抵抗運動のあいだの新たな連帯の構想を指しています。
 
このような根源的民主主義の条件を理論化する際に彼らが参照したのがフランスの精神分析ジャック・ラカンのいう「クッションの綴じ目 point de capition」という概念です。1950年代のラカン理論によれば言語秩序(ラカンのいう象徴界)は〈父の名〉という特権的なシニフィアンによって他のすべてのシニフィアンシニフィエとの関係の中で安定しており、もしそのような特権的なシニフィアンによって言語秩序が綴られていなかったとしたら、すべてのシニフィアンは孤立してバラバラになってしまい、頭の中で様々な意味不明のシニフィアンが鳴り響く精神自動症が生じてしまうとされています。
 
そしてラウラクとムフはこのラカン的構図を政治理論へと応用しました。すなわち、大文字の「民主主義」とは複数の社会運動が連鎖を形成し、ある一つの特権的シニフィアン--クッションの綴じ目--によってキルティングされることによって実現されるといいます。それゆえに新たな連帯に必要なのは、かつての「共産主義革命」に代わるクッションの綴じ目となるような新しい民主主義のシニフィアンの発明である、ということです。
 
しかしながら彼らの議論はいかなるシニフィアンでもあらゆる社会的要求を束ねる「クッションの綴じ目」へと代入できてしまうという問題点を抱えています。そしてこのような思考は〈父の名〉という特権的なシニフィアンの存在を否定する立場へと転回した1960年代のラカン理論とも一致します。こうしたことから本書は根源的民主主義(および、その後継であるマルチチュード)を「否定神学的」と形容するわけです。
 
もっとも現代ラカン派を代表する論客の一人である精神病理学者の松本卓也氏は『享楽社会論』(2018)において1950年代から1970年代におけるラカン理論の変遷を参照し、ラクラウとムフの議論を「サントーム」という概念から読み直し「来るべき民主主義の条件とはさまざまな社会運動を連鎖させ、そこにクッションの綴じ目となる新しい民主主義のシニフィアンを発明することだけでなく、そのシニフィアンそれ自体に肯定的な享楽の実体としての価値を持たせ、サントーム化することが必要である」と述べています。ここでいう「サントーム」とはいわば弱毒化された〈父の名〉の再利用というべき概念であり、これは本書のいうところの「不能の父」と極めて近接しているように思えます。

* サブカルチャー論的--不能の父としての観光客と美少女ゲームにおける不能

 
本書は第1章から第5章までが本論である第1部「観光客の哲学」であり、続く第6章から第8章までがその補論となる第2部「家族の哲学(導入)」となっています。この第2部において氏は「観光客」のアイデンティティを「家族」に求めた上で『地下室の手記』(1864)『悪霊』(1871)『カラマーゾフの兄弟』(1880)といったドストエフスキー作品の弁証法的読解を通じて、その先に立ち上がる「観光客」の主体を「不能の父」と呼んでいます。
 
そして、この「不能の父」という言葉で思い起こすのが、かつてオタク系文化の批評家として名を馳せていた頃の東氏が2004年のコミックマーケット66で頒布した『美少女ゲームの臨界点』という同人誌における論考「萌えの手前、不能性に止まること--AIRについて」です(この論考は現在『動物化するポストモダン』の姉妹書である『ゲーム的リアリズムの誕生』に収録されています)。
 
ここで論じられているのは2000年にゲームブランドKeyから発売された『AIR』という美少女ゲームです。この点、東氏は『動物化するポストモダン』においてシュミラークルに充足する動物的欲求とデータベースをめぐる人間的欲望が解離的に共存するポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付け、こうしたデータベース的動物の範例として美少女ゲームのユーザーを取り上げています。
 
美少女ゲームなるジャンルの起源は1980年代にまで遡りますが、1990年代後半以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。この種の「泣きゲー」とも呼ばれる美少女ゲームのユーザーは基本的に、一方ではキャラクターである主人公に同一化して個別のシナリオに没入し、他方ではプレイヤーとして複数のシナリオすべての攻略を目指すことになります。
 
ここにはまさしくキャラクターレベルにおける動物的欲求(シュミラークルの水準)とプレイヤーレベルにおける人間的欲望(データベースの水準)の解離的共存を容易に見出すことができます。そして、このような特性を持った美少女ゲームというジャンルの臨界を示すものとして東氏は『AIR』を位置付けています。
 
氏は同論考においてこの『AIR』という作品で真に重要なのは、シナリオのレベルで強調される「父の不在」というテーマがシステムの工夫を利用して「プレイヤーの不在」というもう一つのテーマと重ね合わせられている点にあるといいます。どういうことでしょうか?
 
この点『AIR』というゲームは三部構成をとっており、第一部と第三部はある種のループ構造の関係になっています。まずその第一部において主人公は神尾観鈴というメインヒロインを延命させた代償として物語からの退場を余儀なくされます。ここでプレイヤーはまずキャラクターレベルで物語から疎外されることになります(父の不在)。さらに第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかありません。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルにおいてAIRというゲームそれ自体からも疎外されることになります(プレイヤーの不在)。
 
こうしたAIRにおける「父の不在」「プレイヤーの不在」という異なるレベルにおける二重の疎外は本来的な美少女ゲームのユーザー体験である「全能性」としての「萌え」の手前にある「不能性」をプレイヤーに突き付けることになります。そういった意味から東氏はAIRを、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまう「臨界的=批評的な作品」と呼びます。
 
この点、本作の主人公である国崎往人は人形劇を生業として各地を旅する法術使いという設定です。ここでプレイヤーは「旅人」である往人の視点を借りて「観光客」としてゲームの世界に没入し、その結果、本作はプレイヤーに通常の美少女ゲームではあり得ない「誤配」としての「不能性」をもたらすことになります。こうした意味でAIRもまたプレイヤーを「観光客=不能の父」の位置に立たせる作品であったといえます。
 
そしてもう一つ付け加えるとすれば、こうしたAIRがもたらした「不能性」の感覚はある面でゼロ年代中盤以降のオタク系文化における一大潮流を形成することになる「日常系」と呼ばれる想像力を準備したともいえるでしょう。
 
「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合、4コマ漫画の形式を取り、そこでは主に10代女子の何気ない日常が延々と描かれます。こうした日常系作品を語る上ではよく「尊い」という言葉が使われますが、この「尊い」という感覚はまさしくかつてAIRがプレイヤーに突き付けた「萌え」の手前にある「不能性」が何か崇高な感覚として昇華されたものであるといえます。
 
こうした意味で日常系の本質とはまさしく「父の不在」「プレイヤーの不在」という美少女ゲームにおける非本質にあるといえるでしょう。そうであれば、ここにもまた本書が「観光客」という言葉で思考した本質と非本質をめぐるデリダのあの逆説を見出すことができるのではないでしょうか。