かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

これからラカン派精神分析にざっくり入門するためのおすすめ5冊

 

* 疾風怒濤精神分析入門(片岡一竹)

⑴ 精神分析とは何か
 
精神分析とは19世紀末、オーストリア精神科医ジークムント・フロイトが当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法を試行錯誤する中で産み出された理論と実践です。そしてフロイト以後の精神分析が米国自我心理学や英国対象関係論を始めとした様々な学派に分かれていく中で、構造主義の見地からフロイト理論を深く読み直すことで独創的な精神分析理論を生み出した人物がフランスの精神分析ジャック・ラカンです。
 
現代においてラカン精神分析は精神医療や臨床心理における臨床実践のみならず、文学、哲学、社会学といった人文科学諸領域にも大きな影響を及ぼしています。その一方、難解極まりないことで知られているラカンの理論ですが、その高すぎる入門のハードルを決定的に押し下げた一冊が2018年に出版された本書『疾風怒濤精神分析入門』です。
 
その第一章「それでも、精神分析が必要な人のために--精神分析は何のためにあるのか」では臨床実践としての精神分析の独自性が論じられます。この点、精神分析同様に「こころ」を取り扱う学問領域として精神医学(精神医療)と臨床心理学(心理臨床)がありますが、いずれも「健康」な精神/心理状態を回復するための治療/援助を目的とするものです。これに対して(少なくともラカン派における)精神分析ではそもそも「健康」という概念が存在しません。
 
これはもしかして、かなり奇異な考えのように思うかもしれませんが、よくよく考えると「健康」などというものはかなり揺らぎを持った概念です。例えばある観点では健康そのものに見える人も別の観点では不健康でしかなかったり、あるいはある時代において健康だとされていた人が現代においては狂人にしか見えないということもあるでしょう。つまり「健康」とは常に到達できない〈理想〉でしかないということです。こうした意味で精神分析とは「健康」というありもしない〈理想〉を追い求めるのではなく、その人が「納得」できるような〈倫理=生き方〉へと踏み出していけることを目的とした営みといえます。
 
続く第二章「自分を救えるのは自分しかいない--精神分析が目指すもの」では精神分析の大まかなプロセスが素描されます。ラカン精神分析においては分析家が分析主体(患者)の語りを理解するのではなく、むしろその発話の「意味を切ること」で自我(対象化された自己イメージ)をはみ出すような「無意識の主体」を生じさせます。そしてこの「無意識の主体」とはその人だけが持つ「特異性」が一般性の世界から排除された結果として現れるものです。
 
ここでいう「特異性」とはいわゆる「個性」とは異なるものです。すなわち「個性」とは一般性の世界に適合する限りで承認される個人の属性でしかありませんが「特異性」とは逆に一般性の世界には決して受け入れられることのない「過剰な何か」を指しています。すなわち精神分析とはこのような「特異性」を析出し、これを自らのものとして引き受けていくためのプロセスに他ならない、ということです。
 
 
そして第三章「国境を越えると世界が変わってしまうのはなぜか?--想像界象徴界現実界」ではラカン精神分析の理論的基礎が概説されます。この点、ラカンは人の心的次元を「想像界(I'imaginaire)」「象徴界(le symbolique)」「現実界(le réel)」という三つの位相によって把握しています。それぞれ「界」という名前がついてはいますが別にそういった場所がどこかに存在するわけではありません。そもそも「界」という字は日本語訳の際に付与したものであり、原語を直訳すればそれぞれは「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という言葉となります。つまり、人の精神とは「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という三つの領域が重なりあって形作られているということです。
 
想像界」とはイメージの領域です。ここでいうイメージの最たるものとして人の「身体」が挙げられます。この点、精神分析的知見によれば「身体」とは神経系の発達に先立ち視覚的な客体化によって得られるものです。そして、このような「身体」の客体化を担う典型的な装置が「鏡」です。すなわち「身体」を起動させるためには自分の姿を「鏡」に映し、統一的なものとして把握する契機が必要となります。このような契機こそが世に名高い「鏡像段階」です。
 
象徴界」とは言語の領域です。ここでいう言語は「シニフィアン」によって構成されています。この点「シニフィアン」は「記号」とは異なり、それ自体では意味を持たず、意味作用が生じるには他のシニフィアンと連接させることが必要となります。例えば突然「ハシ」と言われてもそれだけでは何のことか意味がわかりませんが「ヲワタル」とか「デタベル」といった他のシニフィアンに接続されることで初めて「ハシ」というシニフィアンの意味が遡及的に明らかにされることになります。このようなシニフィアンで構成される象徴界は人の秩序である〈法〉を形成し、イメージの世界である想像界を統御します。
 
現実界」とは言語やイメージをはみ出すような領域です。当初、ラカン現実界を単なる物理的な世界として位置付け、人間の心的現実を考える上では物理的な世界としての現実界ではなく言語的な世界としての象徴界に注目しければならないと考えていました。ところが後にラカンはむしろ象徴界では語り得ない「不可能性」を指し示す領域を現実界と呼ぶようになりました。そして、こうした「不可能性」という意味での現実界こそが先に述べた「過剰な何か」としての「特異性」の問題に関わってくることになります。
 
ここから本書は第四章以下で「想像界」「象徴界」「現実界」におけるラカンの理論展開を極めて明快な記述で描き出していきます。本書を最初に読んだとき、その見事な手際と圧倒的な筆力にページをめくるたびに戦慄したことを今でも鮮明に覚えています。しかも本書の著書である片岡一竹氏は本書出版当時、恐るべきことに未だ現役の大学院生(早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース修士課程1年)であり、本書の内容は氏が実際に精神分析を受けた分析主体としての経験にも裏打ちされています。ラカン精神分析のエッセンスをあたかもビジネス書か自己啓発本のごとき軽やかな手つきで「ジャック・ラカン的生き方のススメ」として提示した本書の登場は日本のラカン理解における革命的出来事であったといっても決して言い過ぎではないでしょう。
 

* ラカン入門(向井雅明)

 
本書は1988年に『ラカンラカン』というタイトルで上梓された書籍の改訂増補版として2016年に再出版された本格的なラカン概説書です。本書の著者である向井雅明氏は日本有数のラカン派分析家として知られています。本書のまえがきによれば『ラカンラカン』という、いささか奇妙な本書旧版のタイトルには次のような理由があります。
 
ラカンの理論はおよそ30年にわたって行われた彼のセミネールを中心に発展してきたものであり、その間の紆余曲折が孕む矛盾を原動力として新しい展開を切り開いていった彼の理論を一つのスタティックな理論体系として捉えることは、ある種の困難を抱え込むことになります。またラカンはある概念の中に後の理論的更新に伴う新しい機能を(何の説明もなく!)組み込んでしまう傾向があり、その結果としてある概念が時期によっては全く逆の意味をもたらしたりもします(先述した「現実界」の概念の変容がそのわかりやすい例です)。
 
このような常にダイナミックな変動を繰り返していく彼の理論を把握するには概念のつながりだけで説明しようとする構造論的方法では不十分であり、それを補うためには歴史的方法が補足されなければなりません。つまりラカンの理論的変遷を段階的に取り上げ、ある時期のラカンを別の時期のラカンに対立させるという比較的方法が要求される事になります。このようなラカン理解における方法論をそのまま表したものが『ラカンラカン』という本書旧版のタイトルです。
 
こうしたことから本書は大きく分けて二つの部分から構成されています。まず第Ⅰ部では象徴界の解明を中心課題とする1950年代の前期ラカン理論が取り上げられ、続く第Ⅱ部では現実界への対応を重視する1960年代の中期ラカン理論が取り上げられることになります(さらに2016年の再版においては1970年代の後期ラカン理論の概略が追加されました)。
 
 
そして、このような前期ラカン理論の到達点であると同時に中期ラカン理論の出発点となるものが1958年からラカンが使い始めた「欲望のグラフ」と呼ばれる次のような図式です。
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(『ラカン入門』より)
 
これだけ見るとかなり厄介そうな図式ですが、本書はこのグラフを段階を追ってかなりていねいに解説しており、基本的な事項を説明した後も読者の理解をより正確なものとするためにさまざまな角度からの補足説明が加えられています。さしあたり大まかにいえば、このグラフは主体の「欲求」と「要請」のズレから生じる弁証法的運動により「欲望」が生じる構造を示しています。そして精神分析の臨床とはこの「欲望」の領野を切り開くための営みであるとひとまずいえるでしょう。
 
また、このグラフは「エディプス・コンプレックス」を構造的に説明するためのものでもあります。周知の通りフロイト神経症の治療法を試行錯誤する中で人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見し、このような心的葛藤をギリシアオイディプス悲劇に準えて「エディプス・コンプレックス」と名づけました。
 
この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。そしてフロイトによれば、男児と女児では去勢不安への反応は異なるものとされており、男児はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在を目指すようになり、女児はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在を目指すようになるとされます。
 
ラカンの功績の一つはこのエディプス・コンプレックスなる一見すると荒唐無稽でしかないフロイトの神話を「構造」として解明したことにあります。この欲望のグラフもまたその一つの成果です。そして、このグラフではラカンの用いるマテームと呼ばれる独自の略号が一通り出揃っており、ラカンの用いる概念相互の関係を把握する上でこのグラフは一つの大まかな見取り図として用いることができます。
 

* 人はみな妄想する(松本卓也

⑴ 神経症と精神病の鑑別診断
 
時は1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターンの反復的作動に過ぎないという事でした。このような「実存主義」から「構造主義」へという時代における思潮の趨勢の中で構造主義の騎手としてラカンの名も華々しく世に知れ渡ることになりました。
 
ところが1970年代になると、こうした構造主義ないしラカンの理論を乗り越えようとする動きが台頭化することになります。その急先鋒となったジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはその共著『アンチ・オイディプス--資本主義と分裂症(1972)』において本来的には多様多彩であるはずの人の欲望を「エディプス・コンプレックス」なる家父長的規範へと回収する精神分析をラディカルに批判して大陸哲学における大きなムーブメントを引き起こしました。こうして1970年代におけるフランス現代思想のトレンドは「構造主義」から「ポスト構造主義」へと遷移することになります。
 
以上のような経緯からすれば今日において「構造主義ラカン」は「ポスト構造主義」により乗り越えられたものとみなすことが妥当な理解ともいえそうです。けれども果たして本当にラカンは既に過去の遺物に過ぎないのでしょうか?
 
この点、本書の著者である精神病理学者の松本卓也氏はラカンの理論と実践において、あるいはドゥルーズ&ガタリとの対立において、これまで見逃されていたある「核心点」があるといいます。そしてこの「核心点」の理解無くして、いわゆるフランス現代思想におけるラカンの位置付けを理解することもラカンに向けられた批判を理解することも不可能であるとまで断じています。そして本書のいう「核心点」こそが「神経症と精神病の鑑別診断」です。
 
本書はラカン理論の変遷を神経症と精神病の鑑別診断という精神病理学的観点から読み解く一冊です。ここでいう「神経症」とは生理学的には説明ができない様々な神経系の疾患を幅広く指し「精神病」とは幻覚や妄想や精神機能の衰退といった重篤な障害を指しています。この点、ラカン派における神経症の下位分類は「ヒステリー」「強迫神経症」「恐怖症」から構成されており精神病の下位分類は「パラノイア」「スキゾフレニー」「メランコリー」「躁病」から構成されています。
 
精神分析の臨床においてはある分析主体の心的構造が神経症構造なのか精神病構造なのかが極めて重要な問題となります。両者においては分析の導入から介入の仕方まで、全てのやり方が異なってくるからです。そして本書はラカンの生み出した様々な概念とは突き詰めればこのような「神経症と精神病の鑑別診断」という臨床的な要請によるものであり、ドゥルーズ&ガタリにおける批判もまさにこの「神経症と精神病の鑑別診断」に向けられていたといいます。
 
⑵ 否定神学ラカンを相対化するラカン
 
こうした本書が提示する「神経症と精神病の鑑別診断」という視点によるラカン理論の変遷は以下の通りです。
 
まず象徴界の解明を中心課題とした1950年代の前期ラカン理論において打ち出されたのがエディプス・コンプレックスを構造化した「父性隠喩」というモデルです。このモデルからは母親の現前不在の運動を隠喩化した〈父の名(le Nom-du-Père)〉というシニフィアンの導入に成功していれば神経症であり、失敗していれば精神病という鑑別診断が帰結されることになります。
 
次に象徴界に還元不能なものとして現実界への対応を重視する1960年代の中期ラカン理論において導入されるのが「疎外と分離」というモデルです。このモデルからは「欲望」の原因としての「対象 a 」を切り出す「分離」に成功していれば神経症であり、失敗していれば精神病という鑑別診断が帰結されることになります。
 
そして現実界の更なる探求に向かった1970年代の後期ラカン理論が提示したのは「R(現実界)」「S(象徴界)」「I(想像界)」という三つの位相からなる「ボロメオの環」というモデルです。そして1974年以後はこのボロメオの環に「サントーム」と呼ばれる第四の環が導入されることになります。このモデルからすれば〈父の名〉とは、もはやサントームの一種に過ぎず、ここで神経症と精神病は一元的に把握されることになります。
 
こうした「神経症と精神病の鑑別診断」を軸とした松本氏の読解において示されるのは従来の「いわゆるラカン」のイメージを超えた全く新たなラカンです。この点「いわゆるラカン」のイメージとはいうなれば現実界という「不可能性」の周囲を欲望が延々と空回りしていく否定神学的なラカンです。これに対して本書が読み出す新たなラカンはこうした否定神学的なラカンを相対化していくラカンであり、さらにはドゥルーズ&ガタリとも強く共鳴するラカンです。こうした意味において本書は精神病理学のみならず現代思想シーンにおけるラカンの立ち位置を正確に見定める上で極めて重要な一冊であるといえるでしょう。
 

* 享楽社会論(松本卓也

⑴ 享楽の変質
 
周知の通りフロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そしてラカンフロイトのいう「欲動」が満足した状態を「享楽」と名指しました。この点、先述のように前期ラカン理論における鍵概念は「欲望」でした。ところが中期ラカン理論以降においては「欲動」の満足としての「享楽」が徐々に前景化してくることになります。
 
この点「欲望」は象徴界の〈法〉に従う運動ですが「欲動」はこの〈法〉を逸脱する現実界の存在であり「欲望」の目標とは「欲動」の満足、すなわち「享楽」にあります。この意味で「欲望」よりも「欲動」の方がより根源的な存在であり「欲望」は「欲動」の中で作動する二次的な派生物ということになります。
 
もっともラカンによれば欲動の本質とはフロイトのいう「死の欲動」であり、その性質上、完全な欲動の満足ということはあり得ません。それゆえにラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。そして欲望やセクシュアリティ、あるいは神経症の諸症状、さらには様々な芸術的創作やイノベーションもこうした欲動の断念による享楽の「不可能」がもたらす「欠如」の関数として産み出されることになるわけです。
 
ところが1970年代になるとラカンは「享楽」を到達不可能なジュイッサンスとしてではなく資本主義システムによって大量生産されるエンジョイメントとして捉え直すようになります。そして、このようなエンジョイメントとしての「享楽」が氾濫する社会を本書は「享楽社会(society of enjoyment)」と呼びます。
 
⑵ 象徴界の機能不全と統計学超自我
 
『人はみな妄想する』と同じく松本氏の手による本書はラカン派における「享楽」という概念から現代社会の病理を読み解く一冊です。そのまえがきにおいて本書はこのような「享楽社会」の出現をまずは哲学者/批評家の東浩紀氏が提起した「象徴界の機能不全(大きな物語の失墜)」と関連づけて論じています。そして「象徴界の機能不全」の時代のその先にある享楽のありようとして本書は現代ラカン派の論客である立木康介氏の提示した議論を参照し「象徴界の機能不全」により「欲望」を動員するための「欠如」の論理が無効化された現代においては、まさに「欠如」により規定されるセクシュアリティの代わりに享楽の「露出」が現れ「何がなんでも享楽する」という主体のあり方が目立つようになったといいます。
 
ここでいう享楽とは無論のこと、到達不可能なジュイッサンスではなく資本主義システムによって大量生産されるエンジョイメントとしての享楽です。その一方でかつてのような象徴界の〈法〉としての〈父の名〉が無効化された代わりに現れる秩序維持装置として本書は精神分析家マリー=エレーヌ・ブルースのいう「統計学超自我(sumoi statistique)」を挙げており、現代とは〈父〉への信頼を前提とした包摂のシステムをご破算にして、全員を日常的な排除のシステムに位置付ける時代に他ならないと述べています。要するに現代において人々は統計学的管理の制御のもとで獰猛な超自我から「享楽せよ!」と命じられるままに市場に氾濫するエンジョイメントの享楽の洪水の中でただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。
 
こうした「享楽社会」における現代ラカン派の展開を本書は「理論」「臨床」「政治」という三つの水準で論じています。そして本書はその随所において享楽社会を内破する鍵として「分析家のディスクール」に注目しています。そして、この「分析家のディスクール」が析出するものこそが片岡氏のいう「過剰な何か」としての「特異性」であり、松本氏のいう「特異的=単独的なシニフィアン」であるということになります。
 

* 発達障害の時代とラカン精神分析 

 
「自閉(Autism)」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは、外界との接触が減少して内面生活が病的なほど優位になり現実からの遊離が生じることを指しています。
 
それからおよそ30年後の1943年にアメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。もっとも当時は自閉症は幼児期に発症した統合失調症と考える見解が依然として多数を占めていました。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになります。
 
その一方でカナー論文の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによる「小児期の自閉的精神病質」という論文が発表されています。このアスペルガー論文は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代になってイギリスの精神科医ローナ・ウィングにより再発見されることになります。そしてウィングは成人の症例にもアスペルガー論文の症例と同様の特徴が見られることを発見し、その一群をアスペルガー症候群と名付けました。アスペルガー症候群はカナー型自閉症の診断基準を部分的に満たす症例であり、とりわけ非言語的コミュニケーションに難がある点に特徴があります。
 
ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されることになります。これが世に知られる「ウィングの三つ組」です。こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-Ⅴ)」においてカナー型自閉症アスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」という名のもとに統合されることになりました。そして現代におけるラカン精神分析のフロンティアもまたこの自閉症と呼ばれる境域において切り開かれていくことになります。
 
⑵ 統合失調症モデルから自閉症モデルへ
 
この点、従来のラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきました。しかし近年のラカン派では自閉症の研究が進展し、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」やエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって自閉症は精神病から決定的に切り離されることになり、ここから更にジャン=クロード・マルヴァルによる現代ラカン派の自閉症論が体系化されることになります。
 
本書の第Ⅰ部では導入として精神医療思想史的な観点から自閉症をめぐる現代的な諸論点の特定が試みられます。続く第Ⅱ部ではラカン派による自閉症への精神分析的介入の意義が論じられます。そして第Ⅲ部では現代ラカン派の理論家たちを参照しつつ自閉症に対する新たな治療パラダイムの展開が検討されることになります。さらに第Ⅳ部では精神分析の外部にも視野を拡大して自閉症臨床における空間性の問題が考察されることになります。
 
この点、先述した「いわゆるラカン否定神学ラカン)」は「不可能性」をめぐる「統合失調症(精神病)モデル」に依拠した思考といえますが、このような「否定神学ラカン」を相対化するラカンと、その継承者である現代ラカン派は「特異性(特異的=単独的なシニフィアン)」を扱う「自閉症モデル」に依拠した思考であるといえます。こうした意味で本書は現代ラカン派の理論と実践に入門するためのまたとない一冊ともいえるでしょう。