かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

世界の謎から日常の問題へ--凪良ゆう『汝、星のごとく』

 

*〈母〉なるものからの超出

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は『母性社会日本の病理』において日本社会における母性原理の優位性を指摘しています。氏は当時、急増しつつあった登校拒否症や我が国に特徴的とも言われる対人恐怖症の背景に日本社会における母性文化の特質が存在してるといいます。ここでいう母性原理は端的にいえば「包含する」という機能によって示されますが、この機能は「生み育てる」という肯定的な側面と「呑み込む」という否定的な側面があります。このような母性原理における二面性は世界各国の神話や昔話の中にも聖母や魔女といった形で現れており、このことに注目したスイスの精神科医カール・グスタフユングは人の心の深層域に〈母〉なるものの元型を仮定し、このような元型を「グレート・マザー」と名付けました。こうした意味で日本人の精神性はその無意識下において〈母〉なるものに極めて強く規定されているということになります。
 
事実、戦後日本文学において、こうした〈母〉なるものの克服は大きなテーマでした。例えば戦後日本を代表する文芸批評家である江藤淳氏は、その主著『成熟と喪失』において当時の文学的潮流のひとつを成していた「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品を題材にして戦後日本における「成熟」の条件を論じています。この点、同書において氏は「第三の新人」を代表する作家の1人である安岡章太郎氏の小説『海辺の光景』から近代社会における〈母〉の動揺と崩壊を読み取り、ここから氏は戦後日本における「成熟」の条件とは〈母〉を見棄てることによる「喪失感の空洞」のなかに湧いて来る「悪」を引き受けることであると主張しています。そして、氏はこうした「悪」を引き受ける「成熟」の主体を「治者」と呼び、やはり「第三の新人」を代表する作家の1人である庄野潤三氏の小説『夕べの雲』を「治者の文学」として読み解いています。
 
もっとも、ここで江藤氏の念頭にある「成熟」とはいわば「母と息子」の関係における男性的な成熟です。しかしながら〈母〉の呪縛はむしろ「母と娘」の関係においてより強力に現れることがあります。こうしたことから近年では「母と娘」の関係における女性的な成熟を描き出した作品が多く世に問われるようになりました。そして今年第20回本屋大賞を受賞した本作『汝、星のごとく』もまた、こうした母娘関係の抱える業を恐ろしく深いレベルで丁寧に描き出した作品であったといえるでしょう。
 
本作の著者である凪良ゆう氏は2006年ごろからBLシーンで作家活動を始め、やがて2010年代後半から一般文芸も手がけるようになり、2020年には『流浪の月』という作品で第17回本屋大賞を受賞しています。本屋大賞とは2004年に設立された比較的新しい文学賞で、その特徴は全国の書店員の投票によりノミネート作品と受賞作が決定される点にあります。こうした意味で今回2度目の受賞となった氏はいわば現代日本においてもっとも「本の売り手」に支持されている作家の一人であるといえるでしょう。
 

* それは小さな島から始まった物語

本作の舞台は風光明媚で知られる瀬戸内海のとある小さな島です。島の高校に通う少年、青埜櫂は一年前に母親と京都からこの島に引っ越してきました。櫂の父親は櫂が産まれて程なく胃がんで死んでおり、櫂の母親は一時たりとも男なしでは生きられない女性で、今回も京都で知り合った男を追って島にやってきて今は島で唯一のスナックのママをやっています。
 
男受けを狙った甘ったるい京都弁を喋る櫂の母親は島では異質の存在で、特に同性からはかなり引かれています。現在の彼氏とは結婚の約束もしているようですが、櫂からみればその先行きはかなり怪しいようです。櫂は自分の母親を「よく言えば素直、悪く言えばひとりよがり。最初はかわいくても最後は男にうっとおしがられる女の典型」と評しています。そしてそのような母親の息子である櫂もまた島では浮いた存在でした。
 
現在、櫂は母親のスナックを手伝いながらプロの漫画原作者を目指しています。相棒である作画担当の久住尚人とは二年前に漫画や小説を投稿するサイトで知り合い、二人の合作を大手出版社の少年誌に投稿したことが縁で同じ出版社の青年誌担当の編集者である植木と知己を得て、いまはこの三人で雑誌連載枠の獲得に向けて奮闘しています。
 
そして櫂と同じ高校に通う少女、井上暁海は自分が生まれ育った島に対して屈折した思いを抱えていました。彼女は一年を通して穏やかでエメラルド色に染まる美しい海に囲まれたこの島を愛してはいましたが、その一方で、男尊女卑の空気が強く残り、些細な出来事でもすぐに皆の噂になるこの島を出て広い世界を見てみたいという思いもありました。
 
現在、暁海の父親は家を出て不倫相手の家に身を寄せており、専業主婦の母親は夫への強い執着から感情が不安定になっています。暁海は高校を卒業したら島を出て、松山か岡山の大学に進学するつもりでいましたが、このまま両親が離婚すればもはや進学どころの話ではなくなってきます。たかが一年先の未来すら見えない中で暁海は鬱屈した日々を過ごしていました。
 
そんなある日、母親から夫の様子を見にいくように半ば強引に頼まれた暁海は島の漁港でばったり会った櫂を道連れにして父に会いにいくことになります。それまで二人はほとんど会話をしたこともない関係でしたが、同じく母親に振り回される境遇が似ていたことから、二人は次第に惹かれあっていきます。
 

*「普通」の恋愛小説なのか--『流浪の月』から考える

 
この点、凪良氏の第17回本屋大賞受賞作である『流浪の月』は色々な意味で「普通」から大きく逸脱した破格の作品です。そのあらすじは次のようなものです。主人公の家内更紗は両親を喪い母方の伯母の家に引き取られた9歳の少女です。両親とは全く教育方針が異なる伯母の家に馴染めない更紗は学校が終わるといつも公園のベンチで本を読んで時間を潰していましたが、その公園にはいつもやはり一人で本を読んでいる青年がいて、更紗の同級生達は彼を「ロリコン」と呼んでいました。そしてある雨の日、その青年はびしょ濡れになっても家に帰ろうとしない更紗に傘を差し出し「うちにくる?」などと声を掛けてきます。
青年の名は佐伯文。文は19歳の大学生で近所のマンションで一人暮らしをしていました。更紗にとって文の家にいることは当初、伯母の家に帰りたくないという消極的な理由でしたが、次第に更紗は文の人柄に惹かれていき、文の家に自分の居場所を見出すようになっていきます。こうして更紗は2か月もの時を文の家で過ごすことになります。
 
しかしその間に更紗は「家内更紗ちゃん誘拐事件」の被害女児として全国に実名報道されており、やがて文は誘拐犯として逮捕され、更紗は「保護」されることになります。そして事件の後、更紗はずっと周囲から「ロリコンに誘拐された可哀想な被害者」として扱われるようになりました。
 
そして事件から15年の月日が流れ、更紗は24歳となり恋人もでき、それなりに幸せな日々を過ごしていました。けれど、そんなある日、更紗は文と偶然再会することになり、ここから二人の物語が再び動き出していきます。
 
いうまでもなく我々の社会における圧倒的常識からすれば小児性愛者は極めて危険な存在と見做されています。そしてこうした「常識」の下で、おそらく多数の読み手はこの作品をその終盤まで小児性愛者の青年と天衣無縫な少女が紡ぎ出すイノセントな交歓の物語として読み解き、そこから例えばある人は「確かにロリコン=危険という決めつけは良くない」とか、あるいはある人は「いや、これは小児性愛を過度に美化している」などといった類の感想を抱いたりするわけです。
 
けれども、そのラストにおいてこうした類の感想はすべて完全にひっくり返されることになり、読み手は自身が依拠する「常識」がいかに危うい先入観で成り立っているかということに気付かされることになるでしょう。
 
これに対して本作は若干不穏な空気は滲ませつつも、大きくいえばいわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」と呼ばれるような高校生男女の「普通」の恋愛小説のようにも見えます。けれども一見「普通」に始まる本作もまた、このまま「普通」に終わることなくむしろ物語はここからこじれにこじれていくことになります。
 

* 自傷的自己愛の問題

 
本作では櫂と暁海が交互に一人称の語り手として登場し、全四章からなる本編では彼らの17歳から32歳までのおよそ15年もの歳月を追っていきます。暁海は雑誌連載が決まった櫂と一緒に東京に出る約束をするものの結局のところやはり母親の問題から島に残ることになり地元の内装資材会社に就職しますが、その手取りは13万円で、しかも男尊女卑の強い社風のため将来の展望もまったく見えません。
 
漫画が大ヒットして東京で華々しく成功していく櫂を横目に暁海はいまの自分に価値を見出すことができず、結局のところは母親と同じく男に依存して生きていきたいと思っている自身の欲望に気づいた彼女はどんどん自己否定的な感情を強めて行きます。
 
この点、精神科医斎藤環氏は思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。斎藤氏は近著『「自傷的自己愛」の精神分析』においてメンタルヘルスに問題を抱えた「自分が嫌い」な人々においてはその「自己愛」が弱いのではなく、むしろ「自己愛」が強いのではないかと述べています。
 
つまり、彼らの自己否定的な発言はその「自己愛」の発露としての自傷行為なのではないかということです。その根拠の一つとして同書は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げています。だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく「自己愛」の一つの形といえます。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」です。こうして見ると本作における暁海の自己否定的な感情もこのような自傷的自己愛の一つのケースとして考えることができるでしょう。
 

* 母娘関係における特殊性

 
ところで斎藤氏は男性に比べて女性の自傷的自己愛は親との関係、とりわけ母親との関係に起因することが多い印象があると述べています。すなわち、男性に比べて女性は月経やジェンダー・バイアスなどから自身の身体性を日常的に意識せざるを得ない機会が多いことから、こうした「女性の身体」を双方が共有する「母と娘」の関係は「父と娘」「母と息子」「父と息子」にはみられない特殊な関係となり、母親による娘へのしつけはほとんど無意識的に娘の身体の支配を通じて始まっている、と氏はいいます。
 
この点、斎藤氏は母親による娘の支配形態として大きく「抑圧」「献身」「同一化」の三つを挙げています。まず最も露骨な支配形態としての「抑圧」は主に母親が娘に投げかける否定的な言葉によってなされ、時としてその言葉は娘にとって生涯にわたる「呪い」となります。また母親の娘に対する支配形態は一見して無償の善意である「献身」によってなされることもあります(こうした「献身」による支配形態を臨床心理士高石浩一氏は「マゾヒスティック・コントロール」と名付けています)。そして母親が娘に「自分の人生の生き直し」を求めるという最も利己的な支配形態が「同一化」であり、その結果として「一卵性母娘」と呼べるような関係が出来上がってしまったりもします。
 
本作において櫂も暁海もその大半を母親に振り回される人生を送っています。もっとも、それでも櫂は自分の母親との関係をどちらかといえば俯瞰的に見ており、何より母親自身が恋人とそれなりに安定した関係を築けたことで息子にそこまで精神的に依存せずに済んでいます。それに比べて暁海にとって母親の存在はまさしく「呪い」といっていいレベルです。こうした母娘関係における「呪い」はやはり上記のような「抑圧」「献身」「同一化」という支配の結果としてもたらされたものといえるでしょう。
 
こうした母親の支配から娘が逃れることは容易ではありません。例えば母親からずっと否定され続け、彼女の負の感情の吐け口にされてきた娘は「自分には価値がないのだからせめて母親をケアしなければいけない」と思い込んでしまい、仮に母親の元を離れた場合でも「自分は母親のケアという責務を放棄した」という罪悪感に苛んだりもするわけです。このように母親の言葉は娘の身体にインストールされてしまい、その結果として娘は表向きはいかに母親を否定しようともすでに母親の言葉を生きるほかはない、と斎藤氏は述べています。本作でも指摘されている「ヤングケアラー」の問題もこうした病理と密接に関連しているように思えます。
 

* 世界の「謎」から日常の「問題」へ

 
そして本作で暁海を導いていくのは「正しくない人たち」です。彼らは世間一般の「正しさ」に照らせばほぼ間違いなく糾弾されるような人生の送り手です。けれども暁海から見た彼らは紛れもなく自分の人生を生きている人たちです。
 
人はおおむね「正しさ/正しくなさ」という二項対立で世の中の物事を判断し、時としてその観点から「正義」の名の下に他者を糾弾したり排除しようとします。『流浪の月』における更紗と文、本作における櫂と尚人もまたこうした「正しさ/正しくなさ」という二項対立で裁かれたのでした。
 
けれどもこうした二項対立的な「正しさ/正しくなさ」も別に絶対普遍ではなく、よくよく見てみればその境界線はかなり揺らぎを持っていたりします。それゆえに人が「真の正しさ」を突き詰めようとしたとしても、その思考は常に既にありもしない「真の正しさ」の周りで否定神学的に空回りしていきます。本作中盤までの暁海はまさにそのような状態に陥っていたといえるでしょう。そして、それは畢竟〈母〉の欲望を捉え損ね続けることで〈母〉の欲望に囚われ続けている状態であるともいえます。
 
これは「真の正しさ」という否定神学Xをめぐる思考の空回り、意味づけの空回りを運命づけられている有限性のもとで無限に反省を強いられる主体のあり方といえるでしょう。ところがその一方で、こうした否定神学的な有限性とは別の、否定神学Xという究極的な世界の「謎」を突き詰めずに、その日常における複数的な「問題」を一つ一つ処理していくという別の仕方での有限性が考えられます。
 
世界は謎の塊ではなく、散在する問題の場であるということ。このような二つの有限性をめぐる考え方は昨年大きな反響を呼んだ千葉雅也氏の新書『現代思想入門』の最後の方で出てくる議論ですが、本作終盤における暁海もまた否定神学的な有限性を(極めてアクロバティックな形で)脱却し、こうした別の仕方での有限性の中で日々を生きているようにも思えます。
 
いわば暁海は〈母〉という底なし沼の「謎」を日々の世俗的な「問題」に解消してしまうことで〈母〉の世界から脱出し、なおかつ〈母〉との和解を果たしえたともいえるでしょう。このように今年の新書大賞を受賞した『現代思想入門』と今年の本屋大賞を受賞した本作はあるレベルで極めて興味深い共鳴を見せています。そして、それはある意味で二項対立的な「正しさ」が支配する現代におけるひとつの希望であるともいえるのではないでしょうか。