かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

1995年という原風景--千葉雅也『エレクトリック』

 

* 千葉哲学の原風景

 
昨年の読書界で大きな反響を呼んだ『現代思想入門』の著者である哲学者、千葉雅也氏の最新小説『エレクトリック』は、これまで発表された氏の小説『デッドライン』や『オーバーヒート』と共にひとつなぎの物語としても読める作品です。
 
まず千葉氏の小説デビュー作『デッドライン(2019)』ではフランス現代思想を専攻するゲイの大学院生の日常が描かれます。主人公は修士論文のテーマをポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズに決めたもののその執筆過程において「動物への生成変化」という問題に突き当たります。
リゾーム」の概念を提示したことで知られる『千のプラトー(1980)』においてドゥルーズ(&ガタリ)は支配的なマジョリティとしての「男性」からの逃走線として「動物への生成変化」と「女性への生成変化」を言祝いでいましたが、主人公は「動物になること」をむしろ「男になること」へ引きつけて考えようとしていました。けれども『千のプラトー』の枠内では支配的存在である「男性への生成変化」は想定されていないわけです。このような「テクストの現実」で主人公が立ち止まっているうちにみるみると修論の締切--デッドラインが迫ってきます。
 
この点、千葉氏は博士論文を改稿したドゥルーズ論『動きすぎてはいけない(2013)』においてドゥルーズ&ガタリにおける生成変化とは「同一性」から逃走し匿名化(脱規定化)された〈知覚しえぬもの〉への生成変化であり、さらにここでいう〈知覚しえぬもの〉とは単一の「万物斉同」への匿名化ではなく「女性」「犬」「ネズミ」といった具体的な名辞によって示される複数的な匿名化を意味しているという解釈を提起していますが、こうした生成変化の複数性を言祝いでいくような解釈の背景にはもしかして上記のような問題意識があったのかもしれません。こうした意味で『デッドライン』という小説は『動きすぎてはいけない』の事実上の序説としても読めるでしょう。
 
次にこの『デッドライン』の事実上の続編が『オーバーヒート(2021)』です。紆余曲折を経て博士論文を書き上げ東京での学生生活を終えた主人公は京都の私立大学に准教授として着任し現在(2018年)に至っています。主人公はドゥルーズを論じた最初の著作『犠牲なしで節約すること』を公刊した後、どこか研究に行き詰まりを感じてしまっている一方でツイッター上で気鋭の論客として注目された事がきっかけであちこちにエッセイを書くようになり、今ではむしろそっちの方が本業になりかけています。もちろん主人公は学者としてのキャリアを軽んじてはおらず、今月頭から『現代思想入門』という往年のフランス現代思想を解説する入門書の執筆に取り組んでいますが、やはり原稿はあまり捗らず、今日も彼はiPhoneからツイッターを開くのでした。

 

 

この時、ツイッターでは数日前から自民党女性議員の「LGBTといった人々はやはり普通ではない」という発言が炎上し「#LGBTは普通」というハッシュタグが出回っていました。これに対して主人公は「同性愛はやはり「倒錯」である。異常と言ってもいい」などとツイートします。ゲイである主人公は数年前にツイッターでカミングアウトをしていますが、それは一般社会の関心となり始めていた同性愛の「社会的包摂」を当事者の立場からさらに押し進めるためとかではなく、むしろその「逆をいくため」であったといいます。彼はいまやリベラルで先進的だと見られたければLGBTを支持「しさえすればよい」という世間の空気に苛立っていました。
 
このように同作は一見して反ポリティカル・コレクトネス的な立場を打ち出しているようにも思えます。けれども千葉氏は『欲望会議「超」ポリコレ宣言(2018)』においてポリティカル・コレクトネスの理念は重要だが今日のポリコレ的な要求は必ずしもその理念に適うものではなく、むしろ反ポリコレ的とさえ言えるところがあるとして、ポリティカル・コレクトネスの再発明としての「超ポリコレ」を提唱しています。そして『現代思想入門(2022)』においても氏は秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で思考することを勧めています。こうした意味で同作は「超ポリコレ」を「ダブルシステム」で思考するとは如何なることかを問い直した作品であったように思えます。
 
そして、こうした一連の千葉氏の哲学ないし思想のいわば原風景のようなものを描き出した作品が本作『エレクトリック』であったといえるでしょう。
 

* 時に、西暦1995年

 

 

本作のあらすじはこうです。主人公の高校2年生、志賀達也は栃木県宇都宮市で祖父母、両親、妹と暮らしています。達也は進学校に通う生徒で文系科目は優秀ですがスポーツと理系科目が苦手であり、それはつまり「男らしいもの」が苦手なのだと彼は認識していました。その一方で達也は美術に高い関心を抱いていますが、その将来性の乏しい関心をどうしたらいいのかわからないままでいました。
 
また同様に、同性に対する関心もわからないままです。達也が「男らしいもの」への嫌悪を募らせていくと、あるところでそれは強烈な欲望に裏返ります。彼は若い男への興味が持ち上がるたびに、それを半分認めつつも、もう半分は押し返そうとしていました。
 
時に、西暦1995年--阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は戦後日本社会が大きな曲がり角を迎えた年でした。この点、国内批評の主要な言説はこの1995年を日本社会においてポストモダン状況がより加速した年として位置付けています。ここでいうポストモダン状況とは社会全体をまとめ上げる「大きな物語」が失効して個々の「小さな物語」が乱立する時代状況をいいます。
 
例えば、哲学者/批評家の東浩紀氏は『動物化するポストモダン(2001)』において1995年以降を「大きな物語」ではなく「データベース(非物語的な情報集積体)」から出力される無数の「シュミラークル」としての「小さな物語」に個人が動物的に充足する「動物の時代」として規定しています。
 
また、社会学者の大澤真幸氏は『不可能性の時代(2008)』において1995年以降を「大きな物語」を担保する「第三者の審級(超越的他者)」の撤退(とその裏口からの回帰)の結果出現する「リスク社会(完全自己責任社会)」における「小さな物語」として究極的な現実=虚構(他者性なき他者)の不可能性を希求する「不可能性の時代」として規定しています。
 
そして、批評家の宇野常寛氏は『リトル・ピープルの時代(2011)』において1995年以降をこれまでの「大きな物語」を語る擬似人格体としての「ビッグ・ブラザー」が解体し尽くしされる一方で無数の「小さな物語」の無限連鎖によって形成される非人格的システムとして「リトル・ピープル」が浮上する「リトル・ピープルの時代」として規定しています。
 
こうしてみると日本の現代思想にとって1995年はある種のトラウマとも言えそうです。もっとも、こうした分析は後の時代から1995年を捉え返した結果であり、当時の人々のほとんどはまさか今そのような大きな時代の変わり目に立ち会っているとは思いもよらなかったに違いありません。
 
もちろん本作の達也もその1人であり彼はこの1995年を「異常な年」だと直感はしているものの、年明けに起きた神戸の震災も目下テレビを賑わしているオウム真理教関連のニュースもやはりどこか遠い非日常の出来事でしかありませんでした。しかし達也の日常にも「1995年」という「出来事」は身近な形で確実に侵食を始めていました。
 

* エヴァとインターネット

 
例えば達也が学校の同級生から勧められてなんとなしに観始めたアニメがあります。その筋書きは14歳の少年がある時無理やり突然ロボットのパイロットにさせられて「使徒」と呼ばれる正体不明の存在と戦うというものです。そして、そのアニメの世界では四季が消失し、ずっと夏が続いています。
 
これはいうまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』です。周知のように同作では主人公の碇シンジが父親との関係に葛藤を抱えながら「エヴァに乗るか乗らないか」という問いを幾度も反復した挙句、最後には物語それ自体が放棄され「僕はここにいてもいいんだ」という結論に到達したシンジが「おめでとう」と皆に祝福されるという謎の結末を迎えますが、この結末は激しい賛否を呼び起こし、結果としてエヴァは社会現象となり現代サブカルチャーに巨大なインパクトを与えることになりました。本作ではその要所要所で達也の心象を代弁するかのようにエヴァのシークエンスが繰り返し現れてきます。
 
またその頃からパソコン雑誌ではインターネットの特集が組まれるようになり、Windows95のリリースによりインターネットの普及が加速すると言われていました。Macintoshユーザーの達也は自分は無関係な話だと思っていましたが、ふとした経緯から夏休みの直前に達也のMacはインターネットに接続されることになります。
 
それ以降、ダイヤルアップ接続でそのもうひとつの世界に入ることが新たな夜の習慣となった達也は程なくして生きた同性愛の世界を見つけることになります。達也はゲイサイトのチャットルームで同じ高校生だという人物とやり取りするようになり、その名前が今夜もあるだろうかと毎晩期待するようになります。またサイトの掲示板は待ち合わせに使われており「〇〇トイレ何時」などといった募集があります。ここで達也はゲイの「ハッテン場」というものを知り、普通の人が知らない東京の「影の地図」を知ることになります。しかし自分がそちら側の人間なのか普通の人なのかまだ彼はよくわかっていませんでした。
 
1995年におけるエヴァのヒットとインターネットの普及は現代から捉え返すと極めてポストモダン的な「出来事」であったといえるでしょう。いわばエヴァが「大きな物語」の代替的倫理として「小さな物語」同士の承認依存(おめでとう)を提示した作品であったとすれば、インターネットとはまさに「小さな物語」同士の接続過剰(影の地図)を加速させる装置に他なりません。このように本作は地方都市に住むいち高校生からみた「1995年」という「出来事」を極めて高い解像度で描き出していきます。
 

* 二つの異なる位相におけるエレクトリックと欲望

 
その一方で「エレクトリック」というタイトルが示すように、本作の「影の主役」ともいえる存在がウェスタン・エレクトリックのオーディオです。
 
作中の説明によればウェスタン・エレクトリックは最初シカゴで設立された後、1881年グラハム・ベルの特許を継ぐ電話会社AT &Tの製造部門に吸収され同社がリースする電話機を作るようになり、長らく全米のいたるところにウェスタンの電話機があったそうです。
 
またウェスタンはトーキーの技術革新にも貢献しており1930年代には「300b」と呼ばれる真空管と共に劇場用のアンプとスピーカーが開発されました。かつてのハリウッドの栄光はウェスタンの音と共に鳴り響き、いまもその銘機はマニアの手から手へと渡り続けています。
 
そしてこのウェスタン・エレクトリックについて語る本作は〈父〉を語る物語でもあります。一代で立ち上げた広告代理店を経営する達也の父は極めて多趣味な人物で「スタジオ」と呼ばれる自宅の離れにはラジコン、プラモデル、釣り具、アウトドア用品といった要するに「男子が欲しがりそうな物」が溢れかえっており、その最大の趣味であるオーディオにおいてはウェスタン・エレクトリックのサウンドを過剰なまでに偏愛していました。
 
達也にとって父は尊敬すべき「英雄」であり、彼は「常識の逆を行く」という父の哲学の継承者であろうとしています。もっとも実際のところ志賀家の事実上の権力者は母であり父の最大の関心事は母の機嫌にあるわけですが、それでも達也はそれはあくまで「ふり」であり、父こそが「影の力」を持った真の権力者であることを望んでいます。けれどもその一方で達也は妹の涼子が撮った写真をめぐり広告的な観点から批評する父に対して「そういうことじゃない」と真っ向から対立したりもします。
 
ところで本作においてウェスタン・エレクトリックが古い時代(近代)の遺産たる「エレクトリック」だとすれば、エヴァやインターネットは新しい時代(ポストモダン)を告げる「エレクトリック」であったといえそうです。
 
そしてこの二つの時代をそれぞれ体現する「エレクトリック」の並立は達也の〈父〉を継承しようとする欲望と〈父〉から離反していく欲望という二つの欲望の並立と重なり合っているかのように見えてきます。言い換えるとそれは「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」の並立です。
 

* 神経症的な欲望と別のしかたでの欲望

 
このような「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」という二つの欲望の関係性について千葉氏は『意味がない無意味(2018)』所収の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考において以下のように論じています。
 
まず「神経症的な欲望」とはフランスの精神分析ジャック・ラカンによる「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼで示されるような間主観的ネットワークに理由づけられた欲望であり、その究極的な理由は千葉氏のいうところの〈性別化のリアル(事実上刻まれた性差のあり方)〉に帰着します。
 
これに対して「別のしかたでの欲望」とはドゥルーズ&ガタリがラディカルな精神分析批判を展開したことで知られる『アンチ・オイディプス(1972)』において言祝いだ理由なく多方向にどうでもよく発散する複数的な欲望に由来しています。
 
ところでAOにおける議論は一般的に「神経症の精神病化」として理解されていますが、千葉氏はAOの背景にはドゥルーズがかつて『ザッヘル=マゾッホ紹介(1967)』で論じたマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでおり「別のしかたでの欲望」とはいわば「精神病と倒錯のオーバーダブ」を示唆しているといいます。つまりAOにおける分裂病論はそれ自体が精神病的というわけではなく、彼らの理想化する「分裂病者」とは〈性別化のリアル〉を排除している「かのように」逃げ続けている主体であり、この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈するのであれば、AOの分裂病論とはいわば〈否認的な排除〉であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになります。
 
そして、このような〈否認的な排除〉を仮に強く誇張するならば、倒錯は神経症(および精神病)をベースとした精神分析の有効性を「無効化せずに否認する立場」として再定義されることになります。このような精神分析それ自体に対する倒錯としての「メタ倒錯」を氏は〈倒錯の強い定義〉と呼び、こうした〈倒錯の強い定義〉から批評的言説それ自体のレベルと分析対象の双方において神経症(および精神病)の欲望/倒錯(的精神病)の欲望が互いに分離したまま無関係で並立する状況を思考することができるといいます。
 
例えば『動物化するポストモダン』における「動物化」とは氏によれば精神分析に対するメタ倒錯の立場を取っており、ここで精神分析の有効性は「否認的に排除」されていることになります。ここから氏は同書が念頭に置いている〈異性愛-生殖規範的な動物化〉としてのオタクとは別に異性愛-生殖規範性と同時に〈生殖の脱-規範化〉が解離的に並立するような〈クィア動物化〉の可能性を取り出し、その範例として「(ある意味で「女性による女装」としての)ギャル」および「(その更なる「後追い」としての)ギャル男」を位置付けています。
 
こうした〈クィア動物化〉としての「ギャル(男)」は一方で神経症圏における異性愛規範性に支配されつつも他方で〈性別化のリアル〉を「否認的に排除」してどうでもよくなっていく分身性のレイヤーが並立するという存在です。すなわち、ここで「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」は互いが分離したまま無関係に並立している関係にあります。
 
ここから氏はクィア理論の先駆者であるレオ・ベルサーニの議論に依拠して自分を「以下」にする「社交性」のゼロ地点としての「ハッテン場」の存在論を思弁しています(脚注にあるようにこれは現代実在論におけるグレアム・ハーマンの提唱する「オブジェクト指向存在論」と親和的な立場といえます)。
 

* ポスト神経症の時代におけるひとつなぎの物語

 
ポストモダンとは換言すれば「ポスト神経症」の時代でもあります。一種の社会的な他者である「大きな物語」の失墜は他者の欲望である神経症的な欲望の弱体化を招くことになるからです。それゆえに本作の舞台となる1995年とは日本社会において「ポスト神経症」の時代が本格的に幕を開けた年であったともいえます。こうした意味で本作は「ポスト神経症」の時代に直面した思春期の少年が〈父〉を継承しようとする欲望(神経症的な欲望)と〈父〉から離反していく欲望(別のしかたでの欲望)という二つの欲望を並立させていくという生成変化を描き出した物語であったといえるでしょう。
 
ところで『デッドライン』において主人公は「テクストの現実」の逆を行き「動物になること」をむしろ「男になること」へ引きつけて考えようとしていました(〈クィア動物化〉とはおそらくその一つの解ともいえます)。また『オーバーヒート』において主人公は「#LGBTは普通」の逆を行き「同性愛はやはり「倒錯」である。異常と言ってもいい」とツイートしています(これはクィア理論のアンチ・ソーシャル的転回からの立論であると同時に〈倒錯の強い定義〉からの立論ともいえるでしょう)。
 
こうした態度は本作において達也が父から継承した哲学である常識の逆をいく態度であると同時に「男らしいもの」に対する嫌悪が裏返った「ハッテン場」への強烈な欲望という(メタ)倒錯的な態度でもあり、ここにもやはり〈父〉を継承しようとする欲望(神経症的な欲望)と〈父〉から離反していく欲望(別のしかたでの欲望)の並立を見ることができるでしょう。こうしてみると本作『エレクトリック』は先行作である『デッドライン』『オーバーヒート』と共にひとつなぎの物語を成す作品であると同時に、そのひとつなぎの物語における扇の要となる作品であるようにも思えます。