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「観光客の哲学(東浩紀)」〜「二層構造の時代」を生きるということ

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 

* 「観光客」とは何か

 
かつての「オタクの批評家・東浩紀」というイメージからはなんとも程遠いタイトルですが、別に本書は観光学の教本でもないし観光客の心理分析の本ではありません。ましていわんや、いろんな観光名所に出かけていってたくさんの知らない人とお友達になりましょうとか、そういう「リア充の勧め」でももちろんない。本書はあくまで哲学書であり、ここで論じられる「観光客」とは人の在り方、世界との向き合い方を示すひとつの概念です。
 
 

* 二層構造の時代

 
まず本書は現代を「二層構造の時代」と位置づけます。現代社会では政治の領域においてはナショナリズム、経済の領域においてはグローバリズムという二つの秩序原理が駆動しています。
 
ナショナリズムは共同体の善を追求するコミュニタリアニズムを思想的基盤とします。これに対してグローバリズムは自由と快楽を追求するリバタリアニズムを思想的基盤とします。つまりこの二つの層は「人間の層」と「動物の層」とも言い換えることができます。
 
現代におけるグローバリズムの進行は従来の国家間の合従連衡とは全く別の秩序を生み出します。アントニオ・ネグリマイケル・ハートゼロ年代初頭、その共著「〈帝国〉」において、従来の「国民国家の体制」とは別にグローバル経済圏をスムーズに機能させるため生み出された新たな秩序を「帝国の体制」と名付けました。ここでいう「国民国家の体制」はナショナリズムの秩序に「帝国の体制」はグローバリズムの秩序に相当します。
 
重要なのは「国民国家の体制」と「帝国の体制」では作動する権力の質が異なるという事です。ミシェル・フーコーの分類で言えば、前者では権力者が命令、懲罰を与える事で対象者を望ましい態度へ矯正する「規律訓練」が優位となり、後者では対象者の自由意志を尊重しつつその生活環境に介入する事で結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす「生権力」が優位となります。
 
こうして世界は二つの異なった原理と秩序を持つ階層に切り分けられる。政治と経済、ナショナリズムグローバリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズム、人間と動物、国民国家と帝国、規律訓練と生権力。
 
このような「二層構造の時代」において人を人たらしめる為の抵抗の基点は何処にあるのか。これが本書の問題設定となります。
 
 

* ヘーゲル的人間観とマルチチュード

 
この点、ヘーゲル的人間観を基礎とする近代哲学はグローバリズムを基本的に「望ましくないもの」として位置づけます。
 
すなわちヘーゲルによれば、人はまず家族の中に特異的存在(即自)として生まれ、次に市民社会に普遍的存在(対自)として参入し、最後に国民として国家なるものを内面化することで特異性と普遍性を統合した存在(即自かつ対自)になる事ができるとされます。
 
こうした立場からすれば、国家という存在は人を人たらしめる絶対条件であり、当然、グローバリズムなど国家を侵食するものとして排撃すべきであるということになります。こうした論理を徹底したのが、かつてナチスドイツのイデオローグとして機能したカール・シュミットが唱える「友敵理論」です。もちろんこれは本書のとる立場ではありません。
 
他方で、先述した「〈帝国〉」の著者であるネグリ達は「帝国の体制」への反作用として「マルチチュード」なる概念を提唱します。「マルチチュード」とは従来「衆愚」といった消極的ニュアンスで用いられていましたが、ネグリ達はスピノザドゥルーズの哲学を参照しつつ、こうした「マルチチュード」をグローバリズム内部から生まれる市民運動として積極的にとらえ直します。
 
本書は「マルチチュード」を哲学的概念として肯定的に評価しつつも同時にその理論的難点をも指摘しています。つまり、ネグリ的なマルチチュードとは本質的には「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学」であり、その運動論の内実は「愛」「素朴」「無垢」「快活」「歓び」などというよくわからないものを恃む感動的だが無意味な信仰告白でしかないという事です。
 
本書は「否定神学マルチチュード」とは別の可能性を提示します。これが「観光客」という名の「郵便的マルチチュード」です。
 
 

* 「観光客=郵便的マルチチュード」が引き起こす「誤配の再上演」

 
否定神学マルチチュード」がデモに行くとすれば「観光客」は物見湯山に出かける。否定神学マルチチュード」がコミュニケーションなく連帯するとすれば「観光客」は連帯なくコミュニケーションする。
 
出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考える。ここで「観光客」は「誤配」を生じさせる「郵便的マルチチュード」の役割を演じることになります。
 
「郵便」とは「誤配(コミュニケーションの失敗)の可能性を多く含む状態」をいい、超越論的なものについて語る際に「否定神学」と対置される概念です。
 
「郵便的マルチチュード」は「連帯は端的に言えば存在しない。しかし連帯の失敗=誤配により、事後的に連帯が存在するかのように見える」という錯覚を引き起こします。
 
これはあくまでも錯覚にすぎません。しかし、そのような錯覚の集積こそが次の連帯の試みを後押しすると本書は言います。
 
この点、本書は現代ネットワーク理論の知見を導入し「観光客=郵便的マルチチュード」の発生機序と戦略を論じます。
 
すなわち、人間社会というネットワークは「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」という特徴を持っています。「スモールワールド」は「国民国家」に「スケールフリー」は「帝国」に相当します。そしてこれらの特徴はネットワークの頂点に接続する辺の「つなぎかえ=誤配」によって生じています。
 
つまり「国民国家」も「帝国」も共にネットワークの「つなぎかえ=誤配」から生じたものである以上、人が人であるための抵抗の起点もまさにこの誤配の空間にあるのではないか。すなわち「国民国家」と「帝国」の間で誤配を演じ直すということ。こうした「誤配の再上演」こそが本書の説く観光客の哲学です。
 
 

* おわりに

 
言うまでもなく世界は不平等です。我々の日常でも理不尽な格差がそこらかしこに満ち溢れている。けれども現代ネットワーク理論の知見が明らかにしたのはこうした格差は構造的搾取ではなく偶然的誤配の結果として生じるというものでした。つまりすべては確率論の問題であり、再誤配を引き起こす可能性はあらゆる人に開かれているということです。
 
本書はそれなりに高度な議論を扱っているにも関わらず文章はとても読みやすく、哲学にあまり縁のない読者にもきちんと噛み砕いて説明しようとする叙述には東さんの誠実さを感じました。
 
また本書で展開される議論は「原作=住民」「二次創作=観光客」「ゲーム的リアリズム=ダークツーリズム」といった風に東さんの過去の議論ともきちんと接続されてます。むしろこれまでなされた議論を集大成したのが本書であると言えるでしょう。