かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「天気の子」が描き出した想像力

 

天気の子

天気の子

 

 

 
 
 
 

* あなたとともに乗り越える

 
「天気」という題材は、繊細な美術や光の表現において他の追随を許さない新海作品にとってはまさに独壇場といえるでしょう。実際に本作における灰色の雨天を切り裂き、突き抜けるような青空が現れるシーンのコントラストは息をのむほど美しい。このシーンだけでも観に行く価値はあると思います。
 
また本作では歓楽街や廃虚といったこれまでの新海作品ではあまり描かれなかった「猥雑な風景」や「退廃的な風景」がクローズアップされているのも特徴です。これは本作の扱うテーマと深く関係しているものと思われます。
 
本作の副題である「Weathering with you」。これは「天気」という意味と何かを「乗り越える」というダブルミーイングになっています。本作の物語に照らし合わせれば「あなたとともに乗り越える」という訳がふさわしいのでしょう。
 
(以下、ネタバレありの文章です。結論として本作は観た方がいいか観なくてもいいかと言うと、もちろん観た方がいいです。少しでも気になると思われたらぜひ劇場へ。)
 
 
 
 
 
 
 
 

* あらすじ

 
令和3年夏、関東地方は降りしきる雨の日々が続いていた。高校1年生の森嶋帆高は離島を飛び出し上京するも、ネットカフェ暮らしの末、経済的に困窮。上京途中のフェリーで偶然知り合った須賀圭介が営む零細編集プロダクションでオカルト雑誌のライターとして雇われる。そこで耳にしたのは「100%の晴れ女」という都市伝説であった。
 
とあるきっかけで帆高が出会った天野陽菜という少女。果たして彼女こそが短時間、局地的にせよ、確実に晴れ間を呼び寄せる「100%の晴れ女」であった。
  
本作の序盤のあらすじはこういう感じです。昔からシナリオの緩さに関しては定評のある新海映画ですが、本作でも、そもそも主人公が家出してきた理由がよくわからなかったり、義務教育の姉弟二人暮らしを児童相談所が長らく放置していたり、終盤で女装した弟君が瞬間移動してきたりなどと、相変わらず色々と炸裂しています。
 
というか、もともと新海さんという人はシナリオがガバガバなのはあまり気にしない人のような気がします。むしろ最近は確信的な炎上マーケティング狙いでやってる節すらあります。ご自身の作品が別にシナリオの整合性によって評価されてるわけではない事は百も承知なんでしょう。
 
 

* 「世界か少女か」

 
既に多くの人が指摘するように本作は「雲のむこう、約束の場所」への再挑戦とも言えます。本作のクライマックスにおいては、あの古典的なセカイ系二択、すなわち「世界か少女か」という問いが更新されることになります。
 
新海作品初の長編映画として2004年に公開された「雲のむこう、約束の場所」はまさにセカイ系の臨界点に位置する作品です。ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義である。ここに「世界か少女か」というセカイ系的二択が示されます。
 
この点、主人公の藤沢浩紀はあくまで二兎を追うわけです。自作飛行機ヴェラシーラを3年越しで完成させ、南北開戦の間隙を縫って佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で見事破壊する。
 
ここでは一見、浩紀は世界も佐由理もどちらも救ったかのように見えます。けれども、佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということです。
 
これに対して今作の帆高には二兎を追う選択など微塵もありません。帆高は迷いなく陽菜のセカイを救い、その代償として世界を狂わせることになります。
 
ただ、ここでのポイントは本作が世界を「完全に」壊したのではなく「部分的に」壊した点にあります。
 
つまり本作が問うているのは「世界か少女か」などという青臭い二択ではないということです。端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いがここにはあるということです。
 
 
 

* 狂った世界でセカイを生きる

 
新海作品の真骨頂はゲーム的リアリズムによって紡ぎ出される「風景の発見」にあります。東浩紀氏が提唱した環境分析的読解ではないですが、仮に本作を「18禁PCゲーム/天気の子・劇場版」として観た場合、シナリオの整合性はもちろん、結末に対する印象もだいぶ変わるのではないでしょうか。
 

togetter.com

 
 
また、本作が示す結末はゼロ年代に台頭した決断主義的系想像力を経由した上でのセカイ系的想像力の側からの回答のようにも感じました。
 
宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」の図式から言えば、社会共通の「大きな物語」が完全に失効したゼロ年代以降、人は誰もが無自覚的に、あるいはあえて特定の価値観を選択し、それぞれの「小さな物語」の中で生きていることになります。
 

 

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

 

 
この点「セカイ系」が、母性的承認という極めて単純な「小さな物語」の中に引きこもるポスト・エヴァンゲリオン的想像力であったとすれば、一方の「決断主義」は、複数の「小さな物語」同士が他者との間で正義の奪い合いに明け暮れるデスノート的想像力です。
 
決断主義」をいかに乗り越えるかというのは2010年代の想像力における一つの論点です。確かに一面において我々は決断主義者として正義なき時代に正義を執行していくことを強いられている。そして、誰かにとっての正義は誰かにとっての悪でしかない。つまり問題は「正しいか正しくないか」という単純な白黒ではなく「正しくなさ」同士の共存の在り方なのです。
 
世界は狂っている。そんなことは今更改めていうまでもない。我々は日々生起する理不尽な現実に直面する。本作の公開直前には本当にとても悲しくて残念で、痛ましい事件がありました。けれどそれでも我々はこの狂った世界の中でそれぞれの信じるセカイを主体的な選択として引き受けて生きて行くしかないんです。
 
新海さん自身が事前に言っている通り、確かに結論につき賛否はあると思う。けれどもむしろ、こうした賛否を巻き起こすこと自体が本作の狙いということなのでしょう。
 
本作は「貧困」「暴力」「正義」といった重いテーマに切り込んでいるにもかかわらず、作品を満たす空気感はどこか瑞々しく爽やかです。「君の名は。」とはまた別の意味で新海映画の到達点を見せてくれたと思います。