* 現代アニメーションにおける「風景の発見」
新海映画を特徴付けるもの。それは言うまでもなくあの緻密なまでに構築された美しい「風景」でしょう。
柄谷行人氏が「近代日本文学の起源」で述べるように、明治20年代の言文一致から始まった日本近代文学はごくありふれた無意味な風景を「写生」することで、その中に固有の意味を投射する「内面」を備えた〈わたし〉という鏡像を転倒した形で見い出そうとしました。
* 「不可能性」と「拡張現実」
では、なぜ新海映画の「風景」はこうまで時代を捉えてやまないのでしょうか?その理由の一つは新海映画における「風景」が現代における「反現実」というべき想像力を照応するからなのでしょう。
そしてポストモダン状況が一段階進行したと言われる1995年以降の現代社会における「反現実」について、大澤真幸氏は「現実中の現実というべき虚構」を希求する「不可能性」であるといい、これに対し、宇野常寛氏は「現実の多重化」を希求する「拡張現実」にあるといいます。
「不可能性」と「拡張現実」。この2つはおそらく本質的に対立するものではなく、現代という時代を表裏の関係で言い表しているのでしょう。
この2つの「反現実」を共に照応しているのが新海映画における「風景」です。写真資料をもとにトレースされたその背景美術は正確な空間性と細密なディテール感からなる莫大な情報量を持ちつつも、現実の風景に含まれる余計なノイズを周到にオミットする事で高度な美的緊張と独特の叙情を生み出している。こうして新海映画における「風景」は「現実中の現実というべき虚構」と「現実の多重化」という現代の反現実を照応するものとして我々観客の前に立ち現われるわけです。
* 「横切っていくもの」とストーリーテリングの変化
そして、新海映画における「風景」の最大の特徴が「横切っていくもの」にあることはこれまた論を待たないでしょう。「雲のむこう、約束の場所」における「塔」然り、「秒速5センチメートル」におけるNASDAのロケット然り。キャラクターと背景美術が複雑にレイヤードされたその画面の上を一つの軌跡が突き抜けていくあのダイナミズム感溢れる構図です。
もっとも、初期新海作品おいて「横切っていくもの」は専ら「遥か彼方にある憧憬」を象徴する役割を担っていました。けれども「君の名は。」におけるティアマト彗星は「今、ここにある危機」を象徴するものとして描かれているのが興味深いところです。
* 反復される「少年少女の関係性の断絶」
本作のあらすじはこうです。東京に住む男子高校生の立花瀧と飛騨の山村に住む女子高校生の宮水三葉はある日、お互いの体が入れ替わってしまう。以来、突如始まった週何度か訪れる「入れ替わり生活」を戸惑いつつもそれなりに楽しむ2人。しかしこうした生活に突然終止符が訪れる。
三葉の身を案じた瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチを頼りに飛騨へ向かう。果たして三葉の住む糸守町は3年前にティアマト彗星の破片が直撃し、三葉を含めた住民500人以上が死亡していた。瀧は時空を超えて生前の三葉と入れ替わっていたのである。
「少年少女の関係性の断絶」。初期新海作品で幾度となく反復されたモチーフです。この点、初期の主人公達が取る態度は自己完結的なデタッチメントでした。「ほしのこえ」の昇は美加子との別離を「心を硬く冷たく強くする」ことで耐え「雲のむこう、約束の場所」の浩紀はヴァイオリンに佐由理の面影を求め「秒速5センチメートル」の貴樹は明里を想いながら宛先のないメールを打ち続けることになる。
* コミットメントする主人公とヒロイン
これに対して本作の瀧と三葉は中期新海作品の流れを汲む「コミットメントする主人公とヒロイン」といえます。
糸守の消滅と三葉の死という現実に直面してもなお諦めない瀧はかつて入れ替わり時に「口噛み酒」を奉納した糸守山上にある「あの世」ーーー宮水神社の御神体へ向かい、三葉の遺した「口噛み酒」の力を借り再び三葉と入れ替わりを果たす。そして彗星落下当日の糸守町での奮闘した後に「かたわれどき」において三葉と時空を超えて邂逅する。ここで見せる瀧の執念は「星を追う子ども」において、亡妻リサを蘇らせるため地下世界アガルタの果てを目指す森崎を想起します。
そして瀧と再び入れ替わった三葉は町長である父親を説き伏せ全町民の避難に成功。こうして大惨事は紙一重で回避される。ここでの三葉も泥臭いまでにコミットメントするヒロイン振りを演じる。こうした三葉の姿は「星を追う子ども」でアガルタを駆け回る明日菜や「言の葉の庭」で孝雄に追いすがる百香里に通じるものがあります。
* 「断絶とすれ違い」から「断絶とめぐり合い」へ
ここに我々は新海映画における「デタッチメントからコミットメントへ」という変遷を見る事ができるのではないでしょうか。こうして、かつての秒速5センチメートルにおいて描き出された「断絶とすれ違い」の構図は、本作ラストにおいて「断絶とめぐり合い」の構図として更新されるわけです。
このように本作は、新海作品の原点であるセカイ系構造を基盤としつつも、ストーリーテリングの作用点をデタッチメントからコミットメントへと転回することで、作家性を手放すことなく幅広い共感を紡ぎ出すことに成功した、文字通りの現時点での到達点です。最新作「天気の子」の公開を機にぜひ本作をはじめとした過去の新海映画をおさらいしてみてはどうでしょうか。