かぐらかのん

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再起動するセカイ〜「イリヤの空、UFOの夏」から考える。

 

 

 

* 「セカイ系」なるもの

 
新海誠監督の最新作「天気の子」の公開を機に最近再びそこらかしこで「セカイ系」というワードをよく耳にするようになりました。そこで改めてこの言葉の意味を問い直してみることもそう無益ではないでしょう。言うまでもなく「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。この言葉は当初、インターネット掲示板界隈の議論の中で過剰な自意識語りが激しい作品を揶揄的に指していましたが、のちにセカイ系作品群が文芸批評の分野で取り上げられるようになるにつれて、定義が以下のように構造化されることになります。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」
 
ややこしい定義ですが、これは要するに「ヒロインからの承認(想像的関係)」が「社会的承認(象徴的秩序)」を通り越し「世界からの承認(現実的極限)」まで格上げされている状態を言っているわけです。
 
ゼロ年代サブカルチャー文化圏においては「セカイ系」を巡る華々しい論争が繰り広げられてきたわけですが、この「セカイ系」というのはなかなか不思議な言葉でして、例えば、ある作品が「セカイ系」とも「アンチ・セカイ系」とも評されたり、あるいは「セカイ系」であるがために批判され、また逆に評価されたりするという事態が起こっていたわけです。
 
 

* ポスト・エヴァンゲリオン症候群

 
セカイ系」とは別名「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」などと言われます。周知の通り「新世紀エヴァンゲリオンTVシリーズ最終話では碇シンジが延々と自意識の悩みについての問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に到達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎えます。
 
エヴァTV版が放映された1995年は、現代思想史的には「大きな物語(社会全体が共有する価値観)」が崩壊し、ポストモダン状況がより加速した年として位置づけられます。一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンの神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件が象徴するように若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された。結果、これまで信じられてきた社会的自己実現への信頼低下が起こり、何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けます。
 
この点、エヴァTV版が示したのは「あえて正しいことがあるとすれば、それは何もしないことである」というある種の否定神学であり、これがまた見事に時代の気分とシンクロしてしまう。かくしてエヴァは社会現象となるわけです。
 
こうした状況に対する庵野秀明氏のアンサーが97年に公開された新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」でした。あの有名なシンジがアスカに「キモチワルイ」と拒絶される結末は、庵野氏なりの時代に向けたメッセージなのでしょう。
 
すなわち、確かに不安と閉塞に満ちた世の中かもしれないが、結局のところ人は互いに傷つけ合うことを受け入れて、他者と共存して生きて行くしかないんだということです(付言すれば同年公開された宮崎駿氏の「もののけ姫」も遠回しに同じようなことを言っているように思えます)。
 
このメッセージは確かに疑いなく正しい。けれども疑いなく正しいというのは別言すれば何も言っていないのと同じでしかない。こうしてエヴァ劇場版の示す「厳しい回答」は「エヴァの子供達」から拒絶され、エヴァTV版的想像力を濃厚に引き継ぐ作品群が一世を風靡することになる。
 
これが「セカイ系」と呼ばれる潮流です。いわばセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」ということになります。こうしたセカイ系作品の典型と言われるのが「最終兵器彼女」「ほしのこえ」、そして本作「イリヤの空、UFOの夏」です。
 
 

* 本作のあらすじ

 
本作は第二次世界大戦終了直後に史実から分岐した世界が舞台となっており、冷戦集結後も日米は「北」と呼称される国家との敵対関係が続いている。「北」の脅威に備え、航空自衛軍アメリカ合衆国空軍が常駐する園原空軍基地の近辺ではUFOの目撃談が後を絶たなかった。
 
園原中学校二年生、浅羽直之は非公式のゲリラ新聞部に所属し、部長である水前寺邦博と共に夏休みの間、山にこもってUFOを探す日々を送っていた。しかし夏休み全てを費やしても何の成果も得られなかった。
 
夏休み最後の夜、学校のプールへと忍び込んだ浅羽は伊里野加奈と名乗る謎めいた少女と遭遇する。そして翌日の始業式の日、伊里野は転校生として浅羽のクラスに編入してくる。こうしてあの夏の終わりが始まった。
 
 

* 「セカイ系批評」としてのイリヤ

 
この点、本作は先に述べたように「最終兵器彼女」や「ほしのこえ」と共に「三大セカイ系作品」として位置付けられてはいます。けれども前二者が結果的にセカイ系と呼ばれたのに対して、本作はセカイ系構造自体に相当に自覚的であり、むしろ「セカイ系批評」という側面すら併せ持っています。
 
本作はクライマックスまでは、まさに見事なまでのセカイ系展開となっています。果たしてイリヤの正体は地球侵略を目論むUFOに唯一対抗できる超音速戦闘機ブラックマンタの最後のパイロットであった。しかし浅羽へ恋心を抱いたイリヤの中には、初めて「死にたくない」という感情が芽生えていた。こうして少年少女と世界の命運は直結し「世界か少女か」の二択が示される。
 
ここで浅羽は世界ではなくイリヤを選ぶ。そしてイリヤはそんな浅羽を守るためブラックマンタでUFOへ特攻をかける。こうして世界は救われイリヤは最期を迎えます。
 
しかし話はここで終わりません。本作は最後の最後の「エピローグ」にて大きなどんでん返しを用意していました。それまで描き出してきた浅羽とイリヤの関係性自体が「子犬作戦」なる組織的陰謀であり、結局「浅羽とイリヤの小さな物語」は大人たちによって仕組まれた出来レースにすぎなかったという事実が明らかになります。
 
 

* セカイ系とデータベース消費

 
本作はセカイ系構造を十分に意識して物語を設計しているため、セカイ系の特徴がきれいに描き出されています。
 
まず、セカイ系作品最大の特徴は、組織や敵の設定が極めて希薄な「世界観の排除」にあります。こうした特徴は「データベース消費」と極めて高い親和性を有しています。
 
哲学者の東浩紀氏は「動物化するポストモダン」においてポストエヴァ世代の作品受容態度の変化を指摘します。すなわち「物語消費からデータベース消費」という変化です。
 
エヴァ以前のいわゆるオタク第2世代においては、例えば「機動戦士ガンダム」といった「個々の作品」を通じて、例えば「宇宙世紀」といった「大きな物語(世界観設定)」を消費する「物語消費(世界観消費)」が主流でした。ところがポストエヴァ以降のオタク第3世代においては、作品の背景にある世界観に代わり、例えば「萌え」「燃え」「泣き」などといった情報を消費する「データベース消費」が主流化します。
 
こうした「データベース消費」の時代においては動物的欲求に最適化された形で出力されたシュミラークルが世に氾濫するという「物語回帰(ドラマ消費)」が起きることになります。つまり、セカイ系とは世界観設定という「夾雑物」を排除しひたすら「萌え」「燃え」「泣き」のドラマに特化する事で、データベース消費に(結果として)いち早く対応したジャンルであるとも言えるわけです。
 
 

* 「社会」の欠如というアイロニズム

 
こうした事からしばし、セカイ系作品には「社会」が欠如しており、故に「社会」と向き合う事から逃げる幼稚な想像力だと批判されます。しかし、こうした批判とセカイ系作品はむしろ共依存関係にあります。
 
セカイ系作品群においては何かしらの形で「社会」の欠如が言及されており、ここから「ああ全く同感だ、極めてバカバカしい。だがしかし、そのバカバカしさの中にこそ価値がある」というアイロニズムが生み出されます。こうなると先のような批判はむしろ作品に倫理的強度を与える作用を引き起こしてしまうことになります。
 
本作がセカイ系に批判的視点を持った小説であるにもかかわらず、むしろ典型的セカイ系として位置付けられる理由がまさにここにあります。すなわち、セカイ系というジャンルは作者の自覚無自覚にかかわらず「社会」が欠如しているという批判をすでに織り込み済みのものとして成立しているわけです。
 
 

* 自己反省の欲望

 
このようなセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。
 
90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていました。
 
すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しくなった時代だということです。こうした時代の転換によりアイデンティティ不安に曝されることになった人々は、ひとまずの生存戦略として「母」の承認の下で生き延びようとした。セカイ系が受け入れられた背景にはこうした需要があったわけです。
 
この点、評論家の宇野常寛氏はセカイ系の最大の問題点を「レイプファンタジー」であると指摘します。つまり、セカイ系作品においては「無垢な少女(母)」に守られる「無力な少年(父になれなかった人々=読者/視聴者/観客といった受け手)」が自らの矮小さを「自己反省」するという構図があります。
 
この「自己反省」という「安全に痛いパフォーマンス」を挟み込むことで、受け手側は「無垢な少女を欲望のまま消費する」という家父長的マチズモに反発する「繊細な感性」を持ったまま安全圏から「無垢な少女を欲望のまま消費する」ことが可能となる。
 
こうしたセカイ系受容の中に内在する「自己反省の欲望」を宇野氏は「レイプファンタジー」なるセンセーショナルな言葉で暴きだしたわけです。
 
 

* 再起動するセカイ

 
宇野氏の批判はひどくもっともだと思います。ただ、前島賢氏が的確に指摘するように、こうした「レイプファンタジー」なる構造というのは別にセカイ系特異なものではないでしょう。
 
例えば、ロボットアニメの視聴者というのは、端的にロボットに乗って戦う破壊の快楽を消費しているわけですが、正面からその快楽は肯定できないわけです。そこで作中に「僕は好きで戦っているわけじゃないんだ」的なメッセージを導入し、予め「自己反省」しておくことで、視聴者は安心して破壊の快楽を娯楽的に消費することができるわけです。
 
こうしてみると宇野氏のセカイ系批判というのは単なるジャンル批判を超えた「政治と文学」「世界と個人」「公と私」といった一般性と特異性に関するより広範な射程を持った問題提起とも言えます(実際、氏はこうした問題を近著「母性のディストピア」で正面から論じています)。
 
こうした観点からセカイ系を捉えた場合、それは畢竟、1995年を節目とした時代の変化により生じた「政治と文学」「世界と個人」「公と私」の分裂を「無垢な少女」とか「無力な少年」などという回路を用いて再接続しようとした試みであった事がわかります。
 
もちろんそれは方法論としては極めていびつであったことは否めません。故にこれを引きこもりの想像力だと批判するのはたやすいでしょう。けれどもセカイ系は時代の急性期を乗り切るひとまずの処方箋としての機能を果たし「決断主義」や「日常系」といった次代の想像力を育んだ揺籠ともなったこともまた事実です。
 
この点「天気の子」はこうした「ゼロ年代の想像力」の変遷を踏まえてセカイ系というジャンルを更新し、再起動させる試みともいえます。これを機会に本作を始めとする過去のセカイ系作品群を一つのポストモダン文学として読み返してみる価値はあるのではないでしょうか。