かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「綺麗な嘘」を全力で吐くということ--風の帰る場所(宮崎駿)

 

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

 

 

 

 

* ニヒリズムヒューマニズムの再接続

 
「その底知れない悪意とか、どうしようもなさとかっていうのがあるのは十分知ってますが、少なくとも子どもに向けて作品を作りたいっていうふうに思った時から、そういう部分で映画を作るのはやりたくないと思ってます。映画だけじゃないです。他のものでもそうです。それは大人に向けて作るときは、また違うでしょう。大人に向けて作ったら、多分『あなたは生きてる資格がないよ』ってことをね(笑)、力説するような映画を作るかも知れませんけど」
 
(本書より〜Kindle位置:158)

  

本書は宮崎監督が「千と千尋の神隠し」までの作品について語ったインタビュー集です。今年の夏はなんとなくずっと宮崎映画を観返していたりしていたんですがそういう縁から手にとってみました。
 
インタビュアーを務めるのは「rockin'on」や「Cut」の創刊を手掛けた渋谷陽一氏です。渋谷氏はあえて挑発的な質問を投げたりして、ニヒリストとしての宮崎氏の側面を遠慮なく暴き出しています。
 
宮崎駿氏の華々しいフィルモグラフィは氏の中にある「公と私」「政治と文学」の断絶を再接続するための試行錯誤の軌跡としてみることもできるでしょう。
 
すなわち、一方で「もはや世界は何も変わらない」というニヒリズムがあり、他方で「それでも世界を肯定しなければならない」というヒューマニズムがあるということです。
 
 

* 「母性へのロマンティシズム」と「イノセントな少女性」

 
ニヒリズムヒューマニズム。こうした氏の中にある断絶を再接続するための回路として機能しているのが、宮崎映画を根底で駆動させている「母性へのロマンティシズム」「イノセントな少女性」というファンタスムです。
 
まず一方の極である「母性へのロマンティシズム」が前景化された作品としては、スタジオジブリ体制になってからの初作品である「天空の城ラピュタ(1986)」や、宮崎映画の裏の代表作ともいって差し支えない「紅の豚(1992)」などが挙げられます。
 
紅の豚」というのは宮崎氏自身の中では当時の自身の問題意識を整理するために作った作品らしくて、本書でも「豚」についてかなり熱く語っています。こうした「母性へのロマンティシズム」という回路は今の所の最新作である「風立ちぬ(2013)」まで連綿と引き継がれています。
 
そして他方の極をなす「イノセントな少女性」を高度経済成長前の日本の村落共同体と結びつけ「喪われた原風景」として描き出す事に成功したのが「となりのトトロ(1988)」ということになります。
 
いまや不朽の名作としての評価を揺るぎなく確立した本作が当時の興行的には全く振るわなかったという事実は「虚構の時代」と言われる80年代の空気感を裏から照射しておりこれはこれで興味深いものがあります。
 
けれども現代においてサブカルチャーを支配する想像力は、かつてのような現実から虚構への逃走ではなく、むしろ虚構により現実を拡張していきます。こうした「拡張現実」的な想像力から改めて「トトロ」を観返した時、おそらくそこには単なる昭和ノスタルジーを超えた新たな輝きがあると思います。
 
 

* 「ナウシカ」から「もののけ姫」へ

 
本書によれば宮崎氏の中で当初アニメーション作家としてやりたいと思っていた事は「トトロ」まででひとまず大体やり尽くしたそうです。その後は映画制作と並行して氏のもう一つのライフワークともいうべき「風の谷のナウシカ」の漫画版を描き進めていくわけですが、このナウシカ漫画版の最後に辿り着く、全てを引き受けて前に進むといった東アジア的生命観をひとまず映画として形にしたのが「もののけ姫(1997)」です。
 
周知の通り本作は宮崎駿スタジオジブリの名前を不動の国民的スターダムに押し上げた記念碑的作品です。本作のキャッチコピーは同年に公開された劇場版エヴァンゲリオンとわかりやすい対照をなしているわけですが、結局、これが全てを表してると思うんだと思います。
 
ジャパン・アズ・ナンバーワンが失墜し、地下鉄サリン事件などで若者の「生きづらさ」が前景化したあの当時は、大きな物語が失墜するポストモダンが次のフェイズに入った時代であり、生を意味付ける物語無き所で人はいかに生のリアリティを獲得していくかというのは当時の一つの問題意識でもあった。
 
そういう意味からすると、もののけ姫と劇場版エヴァの着地点というのは極めて近い所にあるようにも思われます。
 
 

* 「生まれてきてくれてよかったんだ」

 
こうして「もののけ姫」で形にした新たな価値観は次作「千と千尋の神隠し(2001)」でより純粋化した形で示されます。
 
本作の主人公の少女、荻野千尋はふとしたきっかけで迷い込んだ異界で仲良くなったハクを救うため、それまで自分を邪魔してきたカオナシや坊と一緒に鈍行電車に乗って銭婆の家に向かう。
 
本作では宮崎映画の代名詞である「空を飛ぶ」というモチーフは前景化されません。けれども千尋は幻想と現実の両方を自分のものとして引き受けてきちんと前に進んでいきます。
 
よく知られるように宮崎氏は本作の制作にあたり千尋と同世代の少女に向けて、ナウシカのように空なんか飛べなくても皆そのくらいの力は持っているんだと、その事をきちんと言える映画を作りたかったと言います。
 
あの「電車に乗る」シーンというのはどこまで「空を飛ぶ」ということなく、どれだけ同時代を生きる10歳の子供達にとってリアリティのある転換ができるかという宮崎氏の挑戦でもあり、そこで示されるのはこの閉塞感に満ちた現代において子供達と世界とのつながりを肯定するための「生まれてきてくれてよかったんだ」というメッセージです。
 
 

* 「綺麗な嘘」を全力で吐くということ

 
「子どもたちがどんなに鼻でせせら笑ったり、不信の目で肩をそびやかしても、実は本当はーーーよく言われてた、いまではもうすっかり泥まみれになってしまった、愛とか正義とか友情とか、なんか自分が生きてきたことを肯定してくれるものを本気で喋ってくれないかなあって、みんな待ってるんだと思います。それだけは確かです。」
 
(本書より〜Kindle位置:593)

 

 
やっぱり宮崎さんというのは「綺麗な嘘」を全力で吐く側に賭けている人なんだと思います。押井守氏が自著で宮さんは建前に準じた映画を作り、自分は本質に準じた映画を作っているんだという趣旨の事を書いてますが、この宮崎さんと押井さんの態度の違いはどっちが正しいとかじゃなくて結局は役割分担の違いなんでしょう。
 
最近つくづく人の成熟というのは、まずはまっとうに希望を懐いて次にしっかりと絶望を引き受けて、それでも世界に自分なりのイエスを言う欲望を奪還するっていう、そのプロセスにこそあるんじゃないのか、などと思ったりもするんですが、最近はこの最初の「希望を懐く」という部分がどんどん難しくなっているわけです。
 
そういう世の中だからこそ宮崎さんは多分、世界がくだらない事は百も承知だけど、映画を観に来てくれる子供達にはだから世界はくだらないんだよとは言いたくないんだろうなと、そんな風にも思えるわけです。それはある意味で戦後日本的なアイロニズムなのかも知れませんが、宮崎映画がなんだかんだと言われながら広く愛されるホピュラリティの源泉はまさにこの点にあるのでしょう。