かぐらかのん

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【感想】「Fate/stay night [Heaven’ s Feel] II. lost butterfly」--幸福と正義の間

 

 

 

* Fate/stay nightの裏街道にして到達点

 
2004年にTYPE-MOONより発売された「Fate/stay night」はゼロ年代を代表するPCゲームの一つとして、これまでも様々なメディアミックスが展開され、その度に幅広い支持層を開拓してきました。
 
映像化に関しても第1のセイバールート(Fate)が早くも2006年にTVアニメ化され、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、さらに2014〜2015年にTVアニメ化されています。
 
こうした中、最後まで残されていたのが第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)でした。桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道にして到達点と言えます。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。
 
こうした事情もあり桜ルートの映像化は相当な困難が予想されていましたが、ついに満を持して2017年より劇場3部作として広く世に問われることになります。本作はその3部作中の第2章になります。
 
 
(以下、ネタバレあり)
 
 
 
 

* あらすじ

 
とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨む。聖杯を手にできるのはただ一組。ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。
 
10年前の第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた衛宮切嗣への憧憬からいつか切嗣のような「正義の味方」となり、誰もが幸せな世界を作るという理想を追いかけていた。
 
そんなある日、士郎は偶然にサーヴァント同士の対決を目撃してしまったことから聖杯戦争に巻き込まれてしまう。士郎が呼び出したサーヴァントは「セイバー」と呼ばれる見目麗しい少女であった。
 
聖杯戦争の説明を受けるため、遠坂凛に連れられて監督役である言峰綺礼の教会を訪れる士郎。長々とした説明の後、最後に神父はこう告げる。
 
「喜べ少年、君の願いはようやく叶う」
 
「正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ」
 
 

* 不人気ヒロインから銀幕の大女優へ

 
以上が原作序盤の展開となります。しかし映画ではなんとこの肝心な部分の大半がばっさり省略されており、その代わりに原作にはない士郎と桜の馴れ初めを描く前日譚が追加されるという大胆な構成となっています。
 
おそらく初見の方はあらかじめ何らかの形でFateの世界観を予習しておかないと何が何だかサッパリわからないでしょう。そしてこの映画が凄まじいのは、こうしたリスクを取ってまで生み出した余剰リソースほとんど全てを、間桐桜という業の深い少女のヒロイン性を深化させるというそのただ一点に投入してしまっているところです。
 
何というか、桜ちゃんという子は諸般の事情もあり長らく、どちらかといえば不人気ヒロインの不遇を託っていたわけですが、この映画においては桜びいきで知られる須藤友徳監督の狂気的ともいえる愛情により、圧倒的な儚さと昏さと妖艶さを持つ銀幕の大女優に生まれ変わっています。
 
そういうわけで本作第1章は劇場映画の設計としては完全に狂っていると言うしかないわけですが、映画全体を駆動させる莫大なその熱量はまさにこの歪みによって生み出されているわけです。
 
 

* 脱構築される正義

 
こうした第1章の続編である本作は士郎がセイバーを喪ったところから始まります。そしてその序盤、はたして桜はサーヴァント「ライダー」のマスターであり、さらに凛の妹であったと言う事実が判明します。
 
この点、凛は冬木を管理する魔術師としての体面を優先し、暴走する可能性のある桜を処分すると言う。これに対して士郎は「桜だけの正義の味方になる」と言う。しかし士郎はこの時点ではまだ、それはどういうことかを本当の意味で理解してはいない。
 
桜ルートが示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他なりません。セイバールートでひとまず示された「正義」の形は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいて脱構築されます。そしてそれは衛宮士郎が「衛宮切嗣の呪い」を解毒していく過程でもあります。
 
 

* 決断主義

 
Fate/stay nightという作品はゼロ年代初頭におけるポスト・セカイ系の潮流、宇野常寛氏の言うところの「決断主義」の系譜に属しています。
 
社会共通の価値観である「大きな物語」が喪われもはや何が正しいのかわからなくなった時代、最もわかりやすい選択肢としては「君と僕の優しいセカイ」に縋りつく態度です。このような想像力が色濃く現れている「セカイ系」と呼ばれる作品群が2000年前後に一世を風靡しました。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。ゼロ年代に入り、米同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくる。もはや何が正しいのかわからないのであれば自分の信じられるものを正義とみなすしかない。こうしてセカイとセカイが正義を奪い合う「決断主義」の時代が幕を開ける。
 
この作品がセカイ系を退けて支持を集めた背景にはこうした時代情勢の変化があることは疑いないでしょう。先程の言峰綺礼の台詞はまさに決断主義の本質を端的に言い表しています。
 
 

* 幸福と正義の間

 
こうしたFate/stay nightの持つ決断主義傾向が最も先鋭に現れるのがまさにこの桜ルートです。本作終盤で黒幕の間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かしこう告げる。「万人のために悪を討つ。お主が衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそお主の敵だ」と。
 
桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。
 
ここで第1章冒頭の前日譚がじわじわと効いてきます。あのエピソードを通じて観客である我々は、士郎にとって桜との絆が何者にも代え難いものであることを単なる「ゲームの設定」ではなく「感情を伴う体験」として知ってしまっている。
 
ゆえに我々はここでの士郎の決断に「変節」とか「挫折」などとという言葉で軽々しく非難できない重さがある事を痛いほど理解できるし、むしろその決断の尊さに心からの共感を寄せる事さえもできるわけです。
 
こうして「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答える士郎の姿に我々は借り物でも偽善でもない、まさしく決断主義者の正義をはっきりと見て取ることができるでしょう。
 
そして周知の通り、ここから物語はさらに救いようの無い方向へ転がり落ちていき、最後に示されるのは二つの結末です。果たして映画はどのような結末にたどり着くのか。ここで2020年代Fate/stay nightの新たな世界観を示してくれるのでしょうか。来年の春に公開される最終章が待ち遠しいところです。