かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

置かれた場所で咲くための「人格論」講義--「ひと」として大切なこと(渡辺和子)

 

「ひと」として大切なこと PHP文庫

「ひと」として大切なこと PHP文庫

 

 

 

* あの伝説の「人格論」講義を完全収録

 
かの200万部のベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」をお読みになった方であれば、著書の渡辺和子シスターが学長を務めていたノートルダム清心女子大学で毎年行なっていた「人格論」という講義はご存知でしょう。
 
本書はこの「人格論」を完全収録したいわばLIVE実況中継本です。昭和60年頃の講義が当時の語り口などもそのままに収録されています。
 
「人格論」という言葉から何か「正しい生き方」を一方的に押し付ける「お説教」のようなものを想像しがちですが、もちろんそうではなく、講義は主に臨床心理学方面の知見に基づいており、そこで示されるのはむしろ、自由で多様性のある豊かな生を送るための方法論です。
 
本書は「置かれた場所で咲きなさい」で語られた実践を理論的、体系的に補完する隠れた名著といえるでしょう。
 
 

* 「人格」とパーソナリティ

 
講義のはじめの方で「人格(Person)」の定義が2つ挙げられています。
 
まず一つ目は、人格とは「理性的性質の個体的実体」であるという、6世紀にボエチウスというイタリアの哲学者が述べた定義です。
 
そして二つ目は、人格とは「自ら判断し、判断に基づいて決断し、その決断に対してはあくまで責任を取る存在」であるという、20世紀のフランスの哲学者ガブリエル・マルセルの述べる定義です。
 
マルセルの定義はボエチウスの定義を現代的に洗練させたものと言えます。そしてマルセルは「付和雷同するようでは単なる人間であって人格とは言い難い」と付け加えます。ここで「人格」と「人間」が区別されています。
 
このように、人格とは「考える力(理性)」と「選ぶ力(自由意志)」を備え「責任」を引き受ける主体ということになります。
 
もちろん、何かの障害などの事情でこうした能力が十分に備わっていない人を「人格ではない」と蔑んだり、排除して良いという意味ではありません。シスターも厳重に釘を刺しているように、人の尊厳・価値は人格の尊厳とは無関係であることはいうまでもありません。
 
これは別の意味でいうと「人格」として生きることと「人格者かどうか」とは無関係であるということです。
 
この点、人格から生じてくるものを「人格性(Personality)」といいます。心理学者、ゴードン・オルポートの定義によれば人格性とは「個人の内部にあって、その人の特徴的な行動と思考を決定するところの精神、身体的体系の動的組織」をいいます。これはアドラー心理学でいうところの「ライフスタイル」の概念に重なります。
 
「動的」とは「変化する」ということです。我々は生まれてこのかた不断にこの人格性、パーソナリティを形成し続けている。その結果、社会適応的なパーソナリティが形成される事もあるし、不適応なパーソナリティが形成される事もあります。
 
 

* パーソナリティの形成要素

 
こうした、パーソナリティの形成要素は第一に遺伝が関係しており、そして第二に環境が関係すると言われています。
 
この点、心理学者、ウィリアム・シュテルンはパーソナリティ形成において、この遺伝と環境の輻輳説を唱えます。これに対して本書は遺伝や環境を超越するものとして「自己」という第三の要素を強調します。
 
すなわち、人のパーソナリティは必ずしも遺伝や環境の産物に還元されるものではない。人格としてよりよく生きるにはまず「自己」を深く知る「自己理解」が大事になるということです。
 
 

* 二つの「自己」

 
この点、本書がいう「自己」とはおそらく「カウンセリングの神様」と呼ばれる来談者中心療法の創始者、カール・ロジャーズに依拠したものと思われます。
 
ロジャーズによれば「自己」には「理想の自己」と「現実の自己」の二種類があります。
 
まず、我々は「こうありたい自分」「自分から見た自分」という「理想の自己」を持っている。これを「自己概念」と言います。
 
発達論的観点からいうと、こういう「理想の自己」はフランスの精神分析医、ジャック・ラカンのいう「鏡像段階(生後6ヶ月〜18ヶ月)」にて形成されると言われてます(精神分析ではこれを「理想自我」と言います)。
 
そして、こうした「理想の自己」とは別に、我々は「ありのままの自分」「他人からみた自分」という「現実の自己」に直面します。これを「経験的自己」と言います。
 
例えば「自分は知的でクールに振舞っている」という自己概念を持ってる人が他人から「お前は暗くて空気が読めない奴だな」などと言われると深く傷つくでしょう。要するに「理想の自己」と「現実の自己」の間に齟齬があると苦しいわけです。そこで両者を近づけていく営みが重要となります。
 
 

* 「自己一致」と「泥かぶら」

 
つまり「自己理解」の営みにおいては、まずは「理想の自己」を「現実の自己」の方へ引き寄せる努力をする一方で「現実の自己」を「理想の自己」へと引き上げていく努力も重要となるわけです。こうした先にあるものがロジャーズのいう「自己一致」です。
 
ここで引き合いに出されるのが後年もシスターが好んで引用する「泥かぶら」という寓話です。
 
この話は眞山美保さんという劇作家の方が昭和20年代に創作した戯曲で、容姿が醜く「泥かぶら」と呼ばれて村中でつまはじきにされていた女の子が、ある日、通りすがりの旅人から「村一番の美人」になる秘訣を教わり、本当に「村一番の美人」になるという話です。
 
旅人が女の子に教えた秘訣はたった三つです。
 
「いつもにっこり笑うこと」「人の身になって思うこと」「自分の顔を恥じないこと」
 
この三つの教えを真摯に実行することで、彼女は「泥かぶら」と呼ばれる容姿のまま、村中から愛される「美しさ」を手に入れるわけです。
 
もちろん現実はお話のように上手くいかないでしょう。けれどこの寓話は「自己理解」における一つの指針を示しています。
 
すなわち、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの言葉でいう「変えられるものを変える勇気」「変えられないものを受け止める心の静けさ」「その両者を見極める英知」。この3つの要素が揃って初めて人はより良く自らを知る事ができるわけです。
 
 

* 聖所をもって生きるということ

 
「自己」を深化させる上では「自己理解」とともに「他者理解」も重要になります。
 
この点、本書は他者との間に100パーセントの理解は不可能であると言います。自分は自分でしかない。他人は他人でしかない。シスター自身が言うようにこれはある意味で「淋しい考え」なのかもしれません。
 
けれども人格論の根本はまさにこの「淋しさ」からの超越にあります。こうしたあり方をシスターは「聖所をもって生きる」と表現します。
 
人には相互に理解できない部分、すなわち「聖所」がある。自分は他人をわかり尽くせないし、他人は自分をわかり尽くせない。その互いに理解しあえない「淋しさ」を受け止め、味わい、澱まで飲み干していく。
 
「聖所」というのはある意味で「心の闇」を持つという事です。本書は「あかりをつけたら闇がもったいない」と言います。闇には闇の価値がある。
 
こうした闇と向き合う過程がその人に深みを与えていく。孤独を知った人だけが持つことができる優しさ、微笑み、強さ、そういうものが生まれてくるという事です。
 
 

* 「ごたいせつ」としての愛のまなざし

 
このように人と人は完全にはわかりあえない。その現実を引き受けた上で、他者と成熟した関係性を構築していかなければならない。それがほかならない「愛の実践」です。
 
「愛」という言葉がいたるところに溢れかえる世の中ですが「愛」とは一体なんでしょうか?「愛」と「好き」はどのように違うのでしょうか?本書では3つの愛の定義を挙げています。
 
まず極めて一般的な定義によれば、愛とは「ある人とって価値ありとされた対象によってその人が引きつけられた時に起きる精神的過程」である(世界大百科事典)。
 
ここでいう「価値」を何に見出すかは人それぞれです。そして時にとんでもないものに「価値」を見出してしまった人が凄惨な事件やテロを起こすわけです。このように「愛」という感情は人の欲望を駆動させる取り扱いが厄介なものです。
 
一方、本書は2番目に、我が国のハンセン病治療に尽力されたことで知られる神谷恵美子先生の定義を示します。神谷先生によれば愛とは「互いにかけがえのないものとして、相手を愛おしむ心、相手の生命を、その最も本来的使命に向かって、伸ばそうとする心である」ということになります。
 
なかなか美しい定義です。一般的な定義が精神的過程を記述しているのに対して、神谷先生の定義はどちらかといえば人と人の間の関係性に主眼をおいています。
 
そして本書は愛の3番目の定義として愛とは「ごたいせつ」であるといいます。16世紀にキリスト教布教の為来日した宣教師たちは「神の愛」という概念を日本人に説明するため「デウスのごたいせつ」という言葉を使ったと言われています。
 
つまり「ごたいせつ」としての愛は、たとえどんなにどうしようもない人であっても、一人一人が価値のある代え難い存在として慈しんでいく態度です。
 
以上の3つの愛の定義を重ね合わせる事で「愛」を「好き」とは異なる概念として取り出す事が可能となります。
 
すなわち、感情的、生理的な「好き」と、意志的、人格的な「愛」は截然と区別可能であり、ここで我々は「好きでないけども愛する事はできる」という態度を獲得します。
 
このように「愛」を捉える時、人はありもしない桃源郷に囚われる苦しみから自由になり、むしろなんでもない日常のあたり前を輝かせる力を得ることができる。まさしく、エーリッヒ・フロムが言うように「愛すると言うことは、単なる熱情ではない。それは一つの決意であり、判断であり、約束である」という事です。
 
 

* 置かれた場所で咲くということ

 
「置かれた場所で咲きなさい」の大ヒットは渡辺人格論にようやく時代が追いついた証左ではないでしょうか。
 
ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」が凋落した現代においては、もはや人は好むと好まざると何がしかの「小さな物語」を選択して生きていくしかない。
 
すなわち、もはや社会共通の「正しい価値」が失われれた今、我々はそれぞれが信じる価値を決断と責任を持って主体的に引き受けていく、「人格」としての生き方が求められている。これがまさに「置かれた場所で咲く」という事です。
 
いかなる価値を選ぶかは人それぞれです。けれどもその結果、こんなはずじゃなかったと後悔する確率を少しでも下げる為の幅広い視野と見識は持っておかなければならない。こうした意味で本書が示すのは、比較不能な価値が跋扈する現代を生き伸びる為の教養そのものだと言えるでしょう。