あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 Blu-ray BOX(通常版)
- 出版社/メーカー: アニプレックス
- 発売日: 2013/08/21
- メディア: Blu-ray
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* 「ゼロ年代の想像力」の到達点としての「あのはな」
本作のタイトルは通常「あの花」と略されますが、公式には「『あ』の日見た花『の』名前を僕達『は』まだ知ら『な』い」を略して「あのはな」なんですね。最近気づきました。
現在(2019年9月)放映中のTVアニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」で岡田脚本のえげつない魅力に取り憑かれた方は、氏の原点である本作を観た上で、来月公開の映画「空の青さを知る人よ」を観に劇場に行ってみてはどうでしょうか。
* あらすじ
彼ら彼女ら6人は「超平和バスターズ」の名の下で少年少女時代の、何物にも代え難い「あの時」を共にした間柄だった。
しかしある日、高校受験に失敗以来引きこもり気味の生活を送っていた宿海の元に、突然、死んだはずの芽衣子が現れる。
芽衣子の姿は宿海以外の人間には見えない。そして宿海は彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。
* 「欲望とは〈他者〉の欲望」である
フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「欲望とは〈他者〉の欲望」であると言います。人の生のリアリティを支える「欲望」の根源には「Che vuoi?--あなたは何を求めているの?」という問いに対する欲望があるという事です。
* 「セカイ系」と「決断主義」
果たしてその後、神社の境内に皆で集まり話し合いを続けていくうちに、各人は次々に「めんまの成仏」に奔走する裏にあった自らのドロドロとした打算とエゴイズムを吐露し始めます。
これまで社会を支えてきた共通の価値観である「大きな物語」が失墜し、ポストモダン的状況がさらに加速したゼロ年代において、人々は好むとも好まざるとも、それぞれが信じる任意の価値観である「小さな物語」を選択して生きていかざるを得ない。
こうしてみると、一方で、芽衣子を成仏させず独占し続けたい宿海の欲望はセカイ系主人公のメンタリティそのものであり、他方でそれぞれの打算とエゴイズムから「めんまの成仏」を企てる他の超平和バスターズ達の欲望は、いわば決断主義者達のそれに他ならない、ということが解るでしょう。
* ゼロ年代の想像力の「その先」
このように芽衣子亡き後をめぐる各人のスタンスの対立という本作の構図はまさしく「大きな物語」亡き後をめぐる「小さな物語」同士の対立というゼロ年代的ポストモダン状況とパラレルな関係で捉えることができるわけです。
そして本作は同時にゼロ年代の想像力の「その先」をも示しています。皆が自分の胸のうちを洗い晒しにして、お互いの苦しみを分かち合ったその時、そこにはとぎれとぎれで歪ながらも確かな「きずな」があったことに気づく。
ここに来てようやく「この6人で超平和バスターズなんだ」という極めて単純な、けれども何物にも代え難い、たったひとつきりの真実に行き当たり、終わりなき決断主義ゲーム、欲望のバトルロワイヤルに終止符が打たれる事になる。
そしてあの日以来、凍り付いていた時が再び動き出した。こうして「きずな」の再生を見届けた芽衣子は皆に見送られ、天に還っていった。
* 「きずな」を紡いでいく力
本作品が放映されたのは奇しくもあの東日本大震災の直後、2011年4月です。未曾有の大災害をきっかけに堰を切ったようにして世に溢れ出した一つのキーワード。それは「きずな」という言葉でした。
確かに「震災」という文脈で言えば、あの言葉は問題の本質に蓋をするような胡散臭い側面があるのはもちろんです。ただ「ポスト・ゼロ年代」というパースペクティヴの中でこの「きずな」という言葉を捉えた時、それはおそらく、様々なクラスターや格差などによってズタズタに寸断されてしまった今の日本においてオルタナティブな社会的紐帯と自分の居場所を希求する人々の願いでもあったとも思うんです。
寸断されたものをつなぎあわせる「きずな」を紡いでいく力。仮にもし、そんな力があるとすれば、人はそれを「愛」と呼ぶのでしょう。先のラカンは「愛とは常に持っていないものを与えるものである」という有名な言葉を残しています。そういう意味で本作はポスト・ゼロ年代における「愛の物語」だと、そう呼べるのではないでしょうか。