かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「きずな」を紡いでいく、その力--あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

* 「ゼロ年代の想像力」の到達点としての「あのはな」

 
本作のタイトルは通常「あの花」と略されますが、公式には「『あ』の日見た花『の』名前を僕達『は』まだ知ら『な』い」を略して「あのはな」なんですね。最近気づきました。
 
2011年に放映された本作は、気鋭の脚本家、岡田麿里氏の出世作として知られています。そして本作は同時にいわゆる「ゼロ年代の想像力」の到達点をも示しています。
 
現在(2019年9月)放映中のTVアニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」で岡田脚本のえげつない魅力に取り憑かれた方は、氏の原点である本作を観た上で、来月公開の映画「空の青さを知る人よ」を観に劇場に行ってみてはどうでしょうか。
 
 

* あらすじ

 
宿海仁太(じんたん)本間芽衣子めんま安城鳴子(あなる)松雪集(ゆきあつ)鶴見知利子(つるこ)久川鉄道(ぽっぽ)
 
彼ら彼女ら6人は「超平和バスターズ」の名の下で少年少女時代の、何物にも代え難い「あの時」を共にした間柄だった。
 
しかし芽衣子の死をきっかけに、超平和バスターズは決別。それぞれが「芽衣子の呪縛」を抱えつつ、中学卒業後の現在では互いに疎遠な関係となっていた。
 
しかしある日、高校受験に失敗以来引きこもり気味の生活を送っていた宿海の元に、突然、死んだはずの芽衣子が現れる。
 
芽衣子の姿は宿海以外の人間には見えない。そして宿海は彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。
 
これを契機に、それぞれ別の生活を送っていた超平和バスターズの面々は再び集まり始め、皆は「めんまの願い」を叶え、彼女を「成仏」させるために奔走する(以下、ネタバレあり)。
 
 

* 「欲望とは〈他者〉の欲望」である

 
こうして物語終盤、超平和バスターズの面々は様々な障害をどうにか乗り越え「めんまの願い」とされる「花火の打ち上げ」に見事成功する。
 
けれど、芽衣子は「成仏」しなかった。何故なのでしょうか?ここで皆は初めて「めんまの願い」の意味を真剣に考え始める。
 
フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「欲望とは〈他者〉の欲望」であると言います。人の生のリアリティを支える「欲望」の根源には「Che vuoi?--あなたは何を求めているの?」という問いに対する欲望があるという事です。
 
彼らは「めんまの願い=〈他者〉の欲望」と向き合う事で、己の抱えている自らの欲望に向き合う事になる。そして、芽衣子の「本当の願い」とはまさにこの点に関わってくるわけです。
 
 

* 「セカイ系」と「決断主義

 
果たしてその後、神社の境内に皆で集まり話し合いを続けていくうちに、各人は次々に「めんまの成仏」に奔走する裏にあった自らのドロドロとした打算とエゴイズムを吐露し始めます。
 
本作の凄みはまさにこの点にあります。実はここで詳らかにされる構図は何気にゼロ年代における「セカイ系」から「決断主義」に至る総括になっています。
 
これまで社会を支えてきた共通の価値観である「大きな物語」が失墜し、ポストモダン的状況がさらに加速したゼロ年代において、人々は好むとも好まざるとも、それぞれが信じる任意の価値観である「小さな物語」を選択して生きていかざるを得ない。
 
この点、ゼロ年代初期に台頭したポスト・エヴァンゲリオン的「セカイ系」は他者の拒絶と母性的承認による全能感確保という極めて安易な「小さな物語」の中に引きこもる態度です。
 
これに対して、ゼロ年代中期に台頭するデスノート的「決断主義」は任意の「小さな物語」を賭金として正義をでっち上げ、異なる物語を生きる他者との間で欲望のバトルロワイヤルに明け暮れる態度をいいます。
 
こうしてみると、一方で、芽衣子を成仏させず独占し続けたい宿海の欲望はセカイ系主人公のメンタリティそのものであり、他方でそれぞれの打算とエゴイズムからめんまの成仏」を企てる他の超平和バスターズ達の欲望は、いわば決断主義者達のそれに他ならない、ということが解るでしょう。
 
 

* ゼロ年代の想像力の「その先」

 
このように芽衣子亡き後をめぐる各人のスタンスの対立という本作の構図はまさしく「大きな物語」亡き後をめぐる「小さな物語」同士の対立というゼロ年代ポストモダン状況とパラレルな関係で捉えることができるわけです。
 
そして本作は同時にゼロ年代の想像力の「その先」をも示しています。皆が自分の胸のうちを洗い晒しにして、お互いの苦しみを分かち合ったその時、そこにはとぎれとぎれで歪ながらも確かな「きずな」があったことに気づく。
 
ここに来てようやく「この6人で超平和バスターズなんだ」という極めて単純な、けれども何物にも代え難い、たったひとつきりの真実に行き当たり、終わりなき決断主義ゲーム、欲望のバトルロワイヤルに終止符が打たれる事になる。
 
そしてあの日以来、凍り付いていた時が再び動き出した。こうして「きずな」の再生を見届けた芽衣子は皆に見送られ、天に還っていった。
 
 

* 「きずな」を紡いでいく力

 
本作品が放映されたのは奇しくもあの東日本大震災の直後、2011年4月です。未曾有の大災害をきっかけに堰を切ったようにして世に溢れ出した一つのキーワード。それは「きずな」という言葉でした。
 
確かに「震災」という文脈で言えば、あの言葉は問題の本質に蓋をするような胡散臭い側面があるのはもちろんです。ただ「ポスト・ゼロ年代」というパースペクティヴの中でこの「きずな」という言葉を捉えた時、それはおそらく、様々なクラスターや格差などによってズタズタに寸断されてしまった今の日本においてオルタナティブな社会的紐帯と自分の居場所を希求する人々の願いでもあったとも思うんです。
 
寸断されたものをつなぎあわせる「きずな」を紡いでいく力。仮にもし、そんな力があるとすれば、人はそれを「愛」と呼ぶのでしょう。先のラカンは「愛とは常に持っていないものを与えるものである」という有名な言葉を残しています。そういう意味で本作はポスト・ゼロ年代における「愛の物語」だと、そう呼べるのではないでしょうか。